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幼馴染を寝取られ、学園に殺された無能力の俺は最強になって帰ってくる  作者: ワールド


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第37話 束の間の幸せ

 翌朝。


 柔らかな朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋を優しく照らしていた。


 ハルはゆっくりと目を開ける。


「……朝か。」


 静かな部屋の中で小さく呟き、ベッドから身体を起こした。


 昨日は地下施設の仲間たちと焼肉を食べ、久しぶりに笑い合った。


 地下施設では考えられなかった、何気ない一日。


 その余韻がまだ胸に残っている。


 窓を開けると、爽やかな風が部屋へ吹き込んできた。


 街を走る車の音。


 遠くから聞こえる子どもたちの笑い声。


 小鳥のさえずり。


 どれも当たり前の音なのに、ハルにはどこか新鮮に感じられた。


「今日もいい天気だな。」


 そう呟くと、制服ではなく私服へと着替える。


 政府から与えられた自由時間。


 今日は特に予定もない。


 街でも散歩しようか。


 そんなことを考えながら部屋を出た。


 宿舎の廊下は静かだった。


 レンたちはまだ寝ているのだろう。


 昨日あれだけ騒いでいたカエデも珍しく姿が見えない。


「みんな疲れてるのかな。」


 苦笑しながらエレベーターへ乗り、一階へ降りる。


 自動ドアが開き、外へ出たその時だった。


「……あ。」


 思わず足が止まる。


 宿舎の入口。


 朝日に照らされながら、一人の少女が静かに立っていた。


 白鳥澪だった。


 地下施設ではいつも隊服か制服姿だった彼女は、今日は淡い白色のワンピースに薄いカーディガンを羽織っている。


 白く長い髪が朝風に優しく揺れ、その姿はどこか儚く、それでいて街の景色によく溶け込んでいた。


 その姿を見た瞬間、ハルは思わず見惚れてしまう。


「……白鳥?」


 名前を呼ばれると、澪は少し驚いたように振り返った。


 そして目が合った瞬間、小さく笑顔を浮かべる。


「お、おはよう。」


「おはよう。」


 ハルも笑顔で返事をする。


「こんな朝早くどうしたんだ?」


 その質問に、澪は少しだけ視線を逸らした。


 両手を胸の前で重ね、どこか落ち着かない様子で指先をもじもじと動かしている。


「えっと……。」


「昨日、その……。」


 言葉が続かない。


 ハルは首を傾げた。


「昨日?」


「う、うん。」


 澪は一度だけ深呼吸をすると、小さな声で言った。


「昨日……また一緒に出掛けようって約束したから。」


「あ。」


 その一言でハルも思い出した。


 昨日別れ際。


 また一緒に街を歩こう。


 そう約束したことを。


「ごめん。」


「待たせたか?」


 澪は慌てて首を横へ振る。


「ううん!」


「私が少し早く来ただけだから。」


「本当に今来たところ。」


 そう言いながら笑う。


 しかし、その笑顔は少しだけぎこちなかった。


 きっと緊張しているのだろう。


 ハルはそんな澪を見て、小さく笑った。


「じゃあ、一緒に行こうか。」


「……うん。」


 嬉しそうに頷く澪。


 二人はゆっくりと歩き始める。


 その時だった。


「……あの。」


 澪が恐る恐る声を掛ける。


「どうした?」


 ハルが振り返ると、澪は恥ずかしそうにワンピースの裾を軽く摘まんだ。


「この服……。」


「変じゃ、ないかな?」


 その問い掛けには、不安が滲んでいた。


 地下施設ではおしゃれをする機会など一度もなかった。


 服を選ぶことも。


 誰かに見てもらうことも。


 だからこそ、自分がこの格好で外を歩いていいのか分からない。


 そんな戸惑いが表情に浮かんでいた。


 ハルは改めて澪を見る。


 朝日に照らされた白いワンピース。


 風に揺れる長い白髪。


 少し照れたように俯く仕草。


 どれもよく似合っていた。


 だからハルは迷わず答える。


「いや。」


「すごく似合ってる。」


 その一言だった。


 澪は目を丸くする。


「……ほんと?」


「ああ。」


「白鳥らしい服だと思う。」


 その瞬間。


 澪の頬がみるみる赤く染まっていく。


「そ、そう……。」


 照れ隠しのように前髪へ触れながら、小さく微笑んだ。


「……ありがとう。」


 その笑顔は、地下施設で見せていたどんな笑顔よりも自然だった。


 ハルもつられて笑う。


「じゃあ行こう。」


「今日は、どこから回る?」


 澪は少しだけ考え、嬉しそうに答えた。


「今日は……。」


「天城くんが連れて行ってくれる場所なら、どこでも。」


 そう言って笑う彼女の横顔には、昨日よりも少しだけ柔らかな表情が浮かんでいた。


 眩しい朝日を背に受けながら、二人は並んで街へと歩き出す。


 それは、地下施設では決して手に入らなかった、ごく普通の休日の始まりだった。


 宿舎を出た二人は、ゆっくりと街へ向かって歩いていた。


 朝の街は穏やかな空気に包まれている。


 駅へ向かう会社員。


 犬を散歩させる老人。


 買い物袋を提げた主婦。


 制服姿で笑い合いながら歩く高校生たち。


 地下施設では決して見ることのできなかった、ごく当たり前の日常だった。


「……。」


 澪は歩くたびに周囲を見回していた。


 右を見て。


 左を見て。


 時々立ち止まりそうになる。


 まるで初めて見る景色を、一つも見逃すまいとしているようだった。


「どうした?」


 ハルが声を掛ける。


 澪は少し恥ずかしそうに笑った。


「なんだか……全部珍しくて。」


「こんなに人が笑って歩いてるの、初めて見た。」


 ハルは周囲を見渡した。


 確かに誰もが当たり前のように笑い、話し、休日を楽しんでいる。


「地下施設じゃ、こんな景色見られなかったもんな。」


「うん。」


 澪は静かに頷く。


「みんな、楽しそう。」


 その言葉には羨ましさが滲んでいた。


 しばらく歩くと、焼きたてのパンの香りが風に乗って流れてきた。


「わぁ……。」


 澪が思わず足を止める。


 小さなパン屋だった。


 店先には色とりどりのパンが並び、店員が笑顔で客へ袋を渡している。


「いい匂い……。」


 澪は店をじっと見つめる。


「パン好きなのか?」


「ううん。」


 澪は首を横に振った。


「こんな匂い、初めて。」


 ハルは少し驚いた。


「初めて?」


「地下施設のパンって、固くて味もしなかったから。」


「焼きたてなんて食べたことない。」


 ハルは少し考えたあと、笑顔で言った。


「じゃあ入ろう。」


「え?」


「せっかくだし。」


「朝ご飯には少し遅いけど、おやつにはちょうどいい。」


「でも……。」


 澪は遠慮するように首を振る。


「悪いよ。」


「気にするな。」


「今日は遊ぶ日なんだから。」


 そう言って店の扉を開ける。


 カラン、と可愛らしいベルが鳴った。


 店内いっぱいに広がる焼きたての香り。


「すごい……。」


 澪の瞳が輝く。


 棚にはメロンパン。


 クロワッサン。


 クリームパン。


 カレーパン。


 色鮮やかなパンが並んでいる。


「どれでも好きなの選んでいいぞ。」


 そう言われても、澪は困ったように笑う。


「選べない……。」


「全部おいしそう。」


 その反応があまりにも素直で、ハルは思わず笑ってしまった。


「じゃあ、一番人気聞いてみるか。」


「うん。」


 店員へ尋ねると、おすすめは焼きたてのメロンパンだった。


 二人は店の外にあるベンチへ腰を掛ける。


「いただきます。」


 澪は恐る恐る一口かじった。


 サクッ。


 甘い香りが口いっぱいに広がる。


 中は驚くほど柔らかい。


 澪は目を丸くした。


「……おいしい。」


 もう一口。


 さらにもう一口。


 夢中で食べる。


「こんなに、おいしいパンがあるんだ。」


 その笑顔を見て、ハルも自然と笑みがこぼれた。


「気に入ったみたいだな。」


「うん。」


 澪は嬉しそうに頷く。


「今まで食べた中で、一番おいしい。」


 その言葉に、ハルの胸は少しだけ締め付けられた。


 地下施設で奪われていたものは、自由だけじゃない。


 こんな何気ない幸せさえ、澪は知らずに生きてきたのだ。


 その時だった。


「わん!」


 元気な鳴き声が聞こえる。


 一匹の柴犬が飼い主に引かれながら二人の前を通り過ぎた。


 尻尾をぶんぶん振りながら歩く姿を見て、澪はまた足を止める。


「かわいい……。」


 犬も澪へ興味を持ったのか、小さく近付いてくる。


 澪は戸惑いながらハルを見る。


「さ、触ってもいいのかな。」


 ハルが飼い主へ声を掛けると、女性は優しく笑った。


「もちろんですよ。」


「この子、人懐っこいので。」


 澪は恐る恐る手を伸ばす。


 柴犬は嬉しそうに鼻先を近付け、そのまま手のひらをぺろりと舐めた。


「きゃっ。」


 一瞬驚いた澪だったが、すぐに笑顔になる。


「ふふっ……。」


 頭を優しく撫でる。


 柴犬は気持ちよさそうに目を細めた。


「温かい……。」


 その小さな呟きを聞きながら、ハルは静かに空を見上げる。


 普通の休日。


 普通の街。


 普通の幸せ。


 そんな当たり前を、澪にはこれからもっとたくさん知ってほしい。


 そう心から思いながら、ハルは再び歩き出した。


「次はどこへ行こうか。」


 澪は犬へ手を振ると、嬉しそうにハルの隣へ並んだ。


「今日は、いっぱい初めてがあるね。」


 その笑顔は、朝よりもずっと自然で、ずっと輝いて見えた。


 パン屋を後にした二人は、そのまま駅前の商業施設へ足を運んだ。


 休日ということもあり、多くの人で賑わっている。


 買い物を楽しむ家族。


 腕を組んで歩く恋人たち。


 制服姿で笑い合う学生たち。


 どこを見ても笑顔ばかりだった。


「人、多いね。」


 澪は少しだけハルとの距離を縮める。


「迷子になりそう。」


「大丈夫。」


 ハルは苦笑する。


「俺もそんなに詳しいわけじゃないけど。」


「はぐれたらちゃんと探すから。」


 その一言に、澪は安心したように微笑んだ。


「……うん。」


 しばらく歩いていると、賑やかな音楽が聞こえてくる。


 電子音。


 歓声。


 コインが落ちる音。


 視線を向けると、大きなゲームセンターがあった。


「ゲームセンター……。」


 澪は入口の前で立ち止まる。


「入ってみる?」


 そう尋ねると、澪は少しだけ首を傾げた。


「ゲームセンターって……何するところなの?」


「え?」


 思わず聞き返してしまう。


「来たことないの。」


 その言葉でハルは察した。


 地下施設にゲームセンターなどあるはずがない。


「ゲームで遊ぶ場所かな。」


「ゲーム?」


「うん。」


「ちょっと見てみよう。」


 二人は店内へ足を踏み入れた。


 色とりどりの照明。


 大きなモニター。


 太鼓を叩く音。


 レーシングゲーム。


 格闘ゲーム。


 クレーンゲーム。


 店内は多くの若者たちで賑わっていた。


「すごい……。」


 澪はきょろきょろと辺りを見回す。


 まるで子どものように目を輝かせていた。


「あ。」


 その時だった。


 澪が一台のクレーンゲームの前で足を止める。


 ガラスケースの中には、小さな白い白鳥のぬいぐるみが並んでいた。


「かわいい……。」


 思わず漏れたその声に、ハルも足を止める。


「欲しいの?」


 澪は少し照れながら頷いた。


「うん……。」


「でも。」


「難しそう。」


 ケースの中を見ると、ぬいぐるみは景品口から少し離れた場所に置かれている。


 簡単には取れそうにない。


 それでも澪は財布から百円玉を取り出した。


「一回だけ。」


 コインを入れる。


 震える手でレバーを動かし、ボタンを押す。


 アームがゆっくりと降りていく。


「お願い……。」


 しかし。


 ふわりと掴んだだけで、そのまま落ちてしまった。


「あ……。」


 澪は少しだけ肩を落とす。


「難しいね。」


「もう一回。」


 二回目。


 三回目。


 四回目。


 結果は同じだった。


 少し動くだけで、ぬいぐるみは景品口まで届かない。


「やっぱり無理かな。」


 残念そうに笑う澪。


 その姿を見ていたハルは、小さく笑った。


「ちょっと貸して。」


「え?」


 ハルが百円玉を入れる。


 じっと景品の位置を確認する。


「一回じゃ取れないな。」


「押して寄せた方がいい。」


 独り言のように呟きながらボタンを押す。


 一回目。


 ぬいぐるみが少しだけ前へ動く。


 二回目。


 さらに景品口へ近付く。


 三回目。


 アームが白鳥を押し出す。


 コトン。


 景品口へ落ちた。


「取れた。」


「えっ!」


 澪は目を丸くする。


 本当に取れるとは思っていなかったらしい。


 ハルは景品を取り出すと、そのまま澪へ差し出した。


「はい。」


「私に?」


「欲しかったんだろ?」


 澪は両手でそっと受け取る。


 ふわふわとした白い白鳥。


 胸へ抱き寄せる。


「……ありがとう。」


 その笑顔は、今まで見た中で一番嬉しそうだった。


「大事にする。」


「そんなに喜んでもらえるなら取った甲斐があった。」


 ハルも自然と笑う。


 その時だった。


「ねぇ。」


 澪がおずおずと口を開く。


「せっかくだから……。」


「写真、撮らない?」


「写真?」


 澪は少し離れた場所を指差す。


 そこには「プリクラ」と書かれた機械が並んでいた。


「みんな並んでる。」


「きっと思い出になるんだよね?」


 ハルは少し苦笑する。


「俺もやったことないけど。」


「じゃあ、一緒に初めてだ。」


 そう言うと、澪は嬉しそうに笑った。


「うん。」


 二人は並んでプリクラ機へ向かって歩き出す。


 それは地下施設では決して味わうことのできなかった、ごく普通の高校生の休日だった。


 ゲームセンターを出る頃には、空は少しずつ夕焼け色へ染まり始めていた。


 街を歩く人々もどこか穏やかで、休日のゆっくりとした時間が流れている。


 澪は腕の中に白鳥のぬいぐるみを抱えたまま、嬉しそうに歩いていた。


「ふふっ。」


「そんなに嬉しいのか?」


 ハルが苦笑すると、澪は照れくさそうに笑う。


「うん。」


「初めてもらったから。」


「ぬいぐるみ?」


「ううん。」


 澪は首を横に振った。


「誰かからプレゼントをもらうこと。」


 その一言に、ハルは少しだけ言葉を失う。


 研究所。


 地下施設。


 澪の人生には、誰かが誕生日を祝ってくれることも、何かを贈ってくれることもなかったのだろう。


「……そっか。」


「だから、一生大事にする。」


 そう言って白鳥を優しく抱き締める姿は、どこか幼い少女のようだった。


 ハルは小さく笑う。


「壊れたらまた取ればいい。」


「だめ。」


 澪は少しだけ頬を膨らませる。


「これは今日もらったから大切なの。」


「同じ物でも違うの。」


「……そういうものか。」


「そういうもの。」


 二人は笑い合いながら歩き続けた。


 やがて、大きな公園へ辿り着く。


 中央には噴水。


 周囲には色とりどりの花壇。


 ベンチでは夫婦や学生たちが思い思いの時間を過ごしていた。


「少し休もうか。」


「うん。」


 二人は木陰のベンチへ腰を下ろす。


 夏とはいえ、夕方の風は心地良かった。


 噴水の水音が静かに響いている。


 しばらく何も話さず、その景色を眺めていた。


 すると、近くから元気な笑い声が聞こえてくる。


「待てー!」


「捕まえてみろー!」


 小さな男の子と女の子が、公園中を走り回っていた。


 転んでは笑い、また立ち上がって走る。


 その後ろを母親が困ったように追い掛けている。


 何気ない光景。


 どこの公園にもある、ごく普通の日常。


「……いいな。」


 澪がぽつりと呟いた。


 ハルは隣を見る。


 澪は子どもたちから目を離さなかった。


「楽しそう。」


「ああ。」


「私ね。」


 少しだけ笑う。


「こういう公園で遊んだこと、一度もないの。」


 その声は静かだった。


 悲しそうでもない。


 恨んでいるわけでもない。


 ただ、事実を話しているだけだった。


「気が付いたら研究所にいて。」


「気が付いたら地下施設へ送られて。」


「遊具で遊んだ記憶も。」


「友達と鬼ごっこした記憶も。」


「お祭りへ行った記憶もない。」


 澪は苦笑する。


「だからね。」


「今日一日で、初めてがいっぱいだった。」


 パン屋。


 ゲームセンター。


 犬。


 プレゼント。


 プリクラ。


 全部初めてだった。


「もっと早く知りたかったな。」


 その一言だけが、ハルの胸へ重く残る。


 もし。


 澪が普通に生まれていたら。


 きっとあの子どもたちのように笑っていたはずだ。


 そう考えると、胸が締め付けられた。


「でも。」


 澪はすぐに笑顔を作る。


「もう過ぎたことだから。」


「これから覚えていけばいいよね。」


 ハルも静かに頷く。


「ああ。」


「まだ遅くない。」


「これから、いくらでもできる。」


「公園も。」


「お祭りも。」


「花火も。」


「海も。」


「旅行だって。」


「全部。」


 澪は少し驚いたようにハルを見た。


「全部……?」


「ああ。」


「俺たちは地上へ戻ってきたんだ。」


「代表戦が終わっても、きっとまた外へ出られる。」


「だから、その時に全部やればいい。」


 澪は嬉しそうに微笑んだ。


「そっか。」


「まだ、これからなんだ。」


 その笑顔には希望があった。


 過去ではなく、未来を見ている笑顔だった。


 風が二人の間を優しく吹き抜ける。


 木々が静かに揺れ、葉擦れの音が響く。


 しばらく沈黙が続いたあと、澪がおずおずと口を開いた。


「ねぇ、天城くん。」


「ん?」


「もし……。」


 少しだけ照れながら言う。


「代表戦が全部終わって。」


「本当に自由になれたら。」


 澪はぬいぐるみを抱き締め、小さく笑った。


「その時も、一緒に遊んでくれる?」


 真っ直ぐな瞳だった。


 ハルは迷わず答える。


「ああ。」


「約束だ。」


 その一言だけで十分だった。


 澪は心から安心したように笑う。


「ありがとう。」


 夕日が二人を優しく照らしていた。


 その光景は、まるで失われた青春を少しずつ取り戻しているようだった。


 しかし二人はまだ知らない。


 この穏やかな時間が終われば、避けては通れない"過去"との再会が待っていることを。


 公園を後にした頃には、空はすっかり茜色へ染まっていた。


 西の空へ沈みゆく夕日が街並みを赤く照らし、一日の終わりを告げている。


 帰宅する家族連れ。


 手を繋いで歩く恋人たち。


 部活動を終えた学生たち。


 昼間とは違う、どこか穏やかな時間が街を包み込んでいた。


「もう夕方なんだね。」


 澪が空を見上げながら呟く。


「時間が経つの、早かった。」


「そうだな。」


 ハルも苦笑する。


「気付いたら一日歩き回ってた。」


 澪は胸に抱えた白鳥のぬいぐるみを優しく撫でた。


「こんなに歩いたのも初めてかも。」


「疲れた?」


「ううん。」


 首を横に振る。


「全然。」


「むしろ……。」


 少しだけ照れたように笑う。


「帰りたくない。」


 その言葉にハルは思わず笑ってしまう。


「そんなに楽しかったか。」


「うん。」


 即答だった。


 迷いのない返事。


「今日ね。」


「人生で一番楽しかった。」


 ハルは少し驚いたように澪を見る。


 人生で一番。


 その言葉がどれほど重いものか、澪自身は分かっているのだろうか。


「パンも。」


「ゲームセンターも。」


「犬も。」


「プリクラも。」


「全部初めてだった。」


「全部楽しかった。」


 澪は少し立ち止まり、夕焼けに染まる街を見渡した。


「こんな普通の一日が、こんなに幸せだなんて思わなかった。」


 その横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


 地下施設で見せていた作り笑いではない。


 心の底から溢れた笑顔だった。


 ハルもその笑顔を見て、小さく息を吐く。


「よかった。」


「え?」


「白鳥が笑ってくれて。」


「俺も嬉しい。」


 澪は目を丸くする。


「……そんなこと言われたの、初めて。」


「そうか?」


「うん。」


 少しだけ照れながら俯く。


「地下施設では、生きることに必死だったから。」


「誰かが笑ってるとか。」


「誰かを笑わせたいとか。」


「そんなこと考える余裕なんてなかった。」


 歩きながら、澪は静かに続ける。


「でも今日は違った。」


「今日だけは。」


「私、普通の女の子になれた気がした。」


 その一言に、ハルは思わず足を止める。


 普通。


 その当たり前の言葉が、澪にとってはどれほど遠いものだったのか。


 改めて実感する。


「白鳥。」


「ん?」


「普通の女の子になれたんじゃない。」


「最初から普通の女の子だったんだよ。」


 澪はきょとんとした表情でハルを見る。


「研究所にいたことも。」


「地下施設へ送られたことも。」


「白鳥が悪かったわけじゃない。」


「だから、自分だけ特別だなんて思うな。」


「これからは、もっと普通に笑えばいい。」


「もっと普通に遊べばいい。」


「そのくらいの幸せは、誰にだってあっていい。」


 澪は何も言えなかった。


 ただ、じっとハルの顔を見つめる。


 やがて、その瞳が少し潤んだ。


「……ありがとう。」


 小さく呟く。


「天城くんって、本当に優しいね。」


「そんなことないさ。」


「いや。」


 澪はゆっくり首を振る。


「地下施設で、私を助けてくれた時も。」


「今日も。」


「ずっと。」


「私のことを、一人の人間として見てくれた。」


「それが……すごく嬉しかった。」


 少しの沈黙が流れる。


 夕風が二人の間を優しく吹き抜けた。


 澪は白鳥のぬいぐるみをぎゅっと抱き締める。


 そして意を決したようにハルを見る。


「あのね。」


「また……。」


 言葉に詰まる。


 頬がほんのり赤く染まる。


「また、今日みたいに出掛けてもいいかな。」


「迷惑じゃなければ。」


 ハルは優しく笑った。


「もちろん。」


「俺でよければ。」


 その返事を聞いた瞬間、澪の表情がぱっと明るくなる。


「本当?」


「ああ。」


「約束だ。」


 ハルがそう言って小指を差し出す。


 澪は一瞬驚いたようにその指を見る。


「これは?」


「指切り。」


「約束する時にやるんだ。」


「そうなんだ……。」


 澪は恐る恐る自分の小指を絡める。


 二人の小指がそっと重なった。


「指切りげんまん。」


 ハルが口にすると、澪も真似をする。


「ゆびきり……げんまん。」


 慣れない言葉を口にしながら、少し照れくさそうに笑った。


 指を離したあとも、澪は嬉しそうに自分の小指を見つめている。


「これで約束。」


「うん。」


「約束。」


 その笑顔は、この一日で一番幸せそうだった。


 二人は再び歩き出す。


 宿舎までは、あと少し。


 この先に、思いもよらない再会が待っていることなど知らずに。


 夕日に照らされた二人の影は、静かに長く伸びていた。


 夕焼けに染まる交差点。


 赤信号に変わり、ハルと澪は横断歩道の手前で足を止めた。


 休日の夕方ということもあり、多くの人が信号待ちをしている。


 買い物帰りの家族。


 部活動帰りの学生。


 スーツ姿の会社員。


 誰もが信号が変わるのを静かに待っていた。


「結構、人が多いね。」


 澪が周囲を見回しながら呟く。


「ああ。」


「この時間は駅へ向かう人も多いからな。」


 ハルも何気なく返事をしながら、ぼんやりと向かい側へ視線を向けた。


 その瞬間だった。


 人混みの中に、一人の少女が見えた。


 肩まで伸びた栗色の髪。


 どこか懐かしい笑顔。


 制服姿。


 その姿を見た瞬間、ハルの身体が固まる。


「……。」


 朝比奈、美咲。


 見間違えるはずがなかった。


 一方、美咲も人混みの中からこちらを見つけていた。


 最初は偶然似ているだけだと思った。


 けれど。


 目が合った瞬間。


 心臓が大きく跳ねる。


(……え。)


(うそ……。)


(ハル……くん?)


 信じられなかった。


 地下施設へ送られた幼馴染。


 もう二度と会えないと思っていた少年が、目の前に立っている。


 思考が真っ白になる。


「どうした?」


 隣にいた黒崎仁が、美咲の視線を追う。


 そして向かい側を見る。


「……。」


 黒崎も静かに目を細めた。


 天城ハル。


 以前より引き締まった身体。


 立ち姿。


 纏う空気。


 ほんの数週間前とは別人のようだった。


(地下施設で、ここまで変わったか。)


 黒崎は心の中で静かに呟く。


 一方、澪は異変に気付いていなかった。


「天城くん?」


 ハルは返事をしない。


 ただ向こう側を見つめている。


 澪もその視線を追った。


「あ……。」


 向こうに立つ男女と目が合う。


 どこか張り詰めた空気。


 ただの知り合いではない。


 そう直感した。


 周囲では信号待ちの人々が談笑している。


 しかし。


 四人だけ時間が止まったようだった。


 やがて、美咲が震える唇をゆっくり開く。


「ハ……。」


 声が出ない。


 何から話せばいいのか分からない。


 謝りたい。


 生きていてよかったと言いたい。


 会いたかったと言いたい。


 けれど、どの言葉も喉の奥で詰まってしまう。


 その時。


 信号が青へ変わった。


 電子音が鳴り響く。


 人々が一斉に歩き始めた。


 流れる人波の中で、ハルと澪も静かに前へ進む。


 美咲と黒崎も同じように歩き出した。


 四人の距離が少しずつ縮まっていく。


 そして。


 互いの姿が手を伸ばせば届くほど近付いたところで。


 黒崎が静かに口を開いた。


「久しぶりだな。」


 短い一言。


 ハルは一瞬だけ黒崎を見る。


「ああ。」


 返事も短い。


 それ以上、余計な言葉は交わさない。


 しかし、その二文字だけで十分だった。


 互いが以前とは違う場所に立っていることを理解していた。


 美咲はまだ何も言えずにいた。


 ただ、ハルの顔を見つめる。


 痩せた頬。


 鋭くなった眼差し。


 どこか大人びた表情。


 それでも間違いなく、自分がずっと想い続けてきた幼馴染だった。


「ハルくん……。」


 震える声。


 ようやく絞り出した名前。


 ハルはゆっくりと美咲へ視線を向ける。


「久しぶり。」


 それだけだった。


 優しくもなく。


 冷たくもない。


 どこか距離を感じる声。


 澪は戸惑いながらハルを見上げた。


「知り合い……?」


 少しの沈黙。


 ハルは静かに答える。


「ああ。」


「昔の知り合いだ。」


 その一言。


 美咲の胸に鋭く突き刺さった。


(昔……。)


 幼馴染。


 家族のような存在。


 ずっと隣にいると思っていた。


 なのに今のハルにとって、自分はもう"昔の知り合い"でしかない。


 胸が苦しくなる。


 息が詰まりそうになる。


 それでも何も言えなかった。

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