第20話 本音と真実
代表選抜試験まで、あと二日。
まだ夜明け前の訓練場には、人影がほとんどない。
静寂を切り裂くように、木刀が風を斬る音だけが響いていた。
シュッ――。
シュッ――。
天城ハルは一人、黙々と素振りを続けていた。
昨日の模擬戦。
黒鋼カエデとの実力差。
まだ届かない壁。
(もっと速く。)
(もっと正確に。)
汗が額を伝う。
それでも木刀を振る手は止まらない。
「朝から頑張るね。」
突然、後ろから声が聞こえた。
ハルは木刀を下ろし、ゆっくり振り返る。
そこには、霧島結が立っていた。
両手を後ろで組み、いつもの人懐っこい笑みを浮かべている。
だが、その笑顔の奥に何を考えているのかは分からない。
ハルは少しだけ目を細めた。
「……何か用か。」
「別に。」
結は肩をすくめる。
「ただ散歩してたら見つけただけ。」
「そうか。」
短く答えると、ハルは再び木刀を構える。
興味がないという態度だった。
そんな様子を見て、結は小さく笑う。
「昨日、カエデが楽しそうだったから。」
ハルの動きが止まる。
「黒鋼が?」
「うん。」
結は頷いた。
「あの子が自分の昔話をするなんて、本当に珍しい。」
「そうなのか。」
「少なくとも私はほとんど聞いたことない。」
結は訓練場の壁にもたれ掛かる。
「長い付き合いだけど、一度か二度くらいかな。」
「昔のことを話したのは。」
ハルは静かに木刀を握り直した。
「俺は聞いただけだ。」
「そう。」
「でも聞かせる相手は選ぶよ、カエデ。」
結は笑っている。
しかし、その目だけは笑っていなかった。
「天城は。」
「何か気に入られたのかもね。」
「そんなことはない。」
ハルは即座に否定する。
「まだ会って二日だ。」
「ふふ。」
「そういうところ。」
「真面目だね。」
ハルは返事をしない。
結もそれ以上は踏み込まない。
二人の間には、どこか張り詰めた空気が流れていた。
まだ互いを知らない。
まだ互いを信用していない。
地下施設では、それが普通だった。
結はハルの木刀へ視線を向ける。
「昨日負けたのに。」
「もう練習?」
「負けたからだ。」
ハルは短く答える。
「勝てない相手がいるなら。」
「勝てるようになるまで振る。」
結は少しだけ目を見開いた。
そして、くすっと笑う。
「なるほど。」
「嫌いじゃない。」
その言葉だけを残し、ゆっくりと歩き出す。
すれ違いざま、結は小さく呟いた。
「じゃあ。」
「また後でね、天城。」
ハルは何も答えない。
去っていく結の背中を見送ることもなく、再び木刀を構えた。
シュッ――。
再び訓練場へ剣を振る音が響く。
一方、その場を離れた結は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「噂とは、全然違うんだね……天城。」
その表情はいつもの笑顔だった。
だが、その胸の内だけは誰にも読み取ることができなかった。
朝食を終えた地下施設の訓練生たちは、教官の号令で訓練場へ集められた。
今日の訓練場所は、地下施設の奥に造られた人工森林区域。
木々が生い茂り、視界は悪い。
岩や倒木も多く、姿を隠すには最適な場所だった。
教官が前へ出る。
「今日の訓練は索敵。」
「私を見つけ、制圧しろ。」
その一言で、全員が一斉に森へ飛び込んだ。
能力を使って木々を吹き飛ばす者。
足跡を追う者。
気配を探る者。
それぞれが思い思いの方法で教官を探し始める。
しかし、一人だけ動かない人物がいた。
霧島結だった。
ハルはその様子を見て眉をひそめる。
「探さないのか。」
結は笑う。
「探してるよ。」
「もう。」
「え?」
結は右手を軽く振った。
その瞬間。
光を反射するほど細い糸が、指先から何本も伸びていく。
一本。
二本。
十本。
二十本。
蜘蛛の巣のように木々へ絡み付き、森全体へと広がっていく。
あまりにも細いため、目を凝らさなければ見えない。
ハルは目を見開いた。
(いつの間に……。)
結は目を閉じる。
「まだ。」
「もう少し。」
森の奥。
一人の訓練生が何も知らず糸へ触れた。
ピン。
小さな振動が伝わる。
結が目を開いた。
「そこじゃない。」
「右。」
さらに別方向。
今度は木の枝がわずかに揺れた。
また糸が震える。
結は微笑む。
「見つけた。」
次の瞬間。
結は一気に駆け出した。
森を縫うように走り、迷いなく奥へ進んでいく。
ハルも後を追った。
数十秒後。
開けた場所へ出る。
そこには木陰へ身を潜めていた教官の姿があった。
「来たか。」
教官が構える。
しかし、その足元にはすでに何本もの糸が張られていた。
結は指を軽く動かす。
「終わり。」
瞬間。
糸が一斉に締まる。
教官の両腕。
両足。
胴体。
一瞬で拘束される。
教官は抜け出そうと力を込める。
しかし、糸はびくともしない。
その隙に結は教官の背後へ回り込んだ。
細いワイヤーが首元へ添えられる。
「私の勝ち。」
静かな声だった。
数秒後。
教官は笑って頷く。
「終了。」
糸が解かれる。
他の訓練生たちも遅れて集まってきた。
「また結か。」
「やっぱり速ぇ。」
「索敵なら敵わねぇな。」
教官は全員を見渡した。
「よく見ておけ。」
「霧島結。」
「索敵。」
「拘束。」
「暗殺。」
「この三つにおいては地下施設最高峰だ。」
ハルは結を見る。
真正面から戦っているわけではない。
派手な能力でもない。
それなのに、教官すら一瞬で制圧してしまった。
結は照れた様子もなく肩をすくめる。
「私、力は強くないし。」
「正面から戦ってもカエデには勝てない。」
「風間にも勝てない。」
「だから。」
一本の糸を指へ巻き付けながら笑う。
「真正面で勝てないなら。」
「勝ち方を変えるだけ。」
その言葉に、ハルは昨日のカエデを思い出していた。
力を信じる少女。
そして目の前には、力ではなく知恵で勝つ少女。
同じ地下施設で生き抜いてきた二人。
戦い方は正反対だった。
それでも、どちらも自分だけの戦い方を貫いている。
(地下施設には……。)
(まだまだ強い奴がいる。)
ハルは静かに木刀を握り締めた。
能力訓練が終わると、教官は全員を見渡した。
「続いて模擬戦を行う。」
「組み合わせは――。」
一枚の端末を確認する。
「天城ハル。」
「霧島結。」
名前を呼ばれた二人は前へ出た。
結は小さく笑う。
「よろしく。」
ハルは木刀を構える。
「ああ。」
教官が二人の間へ立つ。
「開始。」
その合図と同時に、ハルは一歩踏み込んだ。
だが。
結は真正面に立たない。
横へ流れる。
さらに木陰へ隠れる。
(逃げた?)
ハルは追う。
しかし、結は一定の距離を保ったまま森の奥へ誘導していく。
「逃げるだけか。」
ハルが呟く。
返事はない。
代わりに、木の陰から何かが飛ぶ。
細いワイヤー。
ハルは木刀で弾き飛ばした。
カンッ。
「……フェイント。」
その瞬間。
足元で何かが光る。
糸。
咄嗟に後ろへ飛ぶ。
足元を一本のワイヤーが横切った。
もし一歩遅れていれば足を絡め取られていた。
「へぇ。」
木の上から結の声が聞こえる。
「反応いいね。」
ハルは周囲を見渡す。
木。
岩。
草むら。
姿が見えない。
だが、気配だけは感じる。
(どこから来る。)
次の瞬間。
右。
ワイヤー。
振り向きざまに木刀で弾く。
今度は左。
避ける。
正面。
また糸。
ハルは木刀で切り払う。
一本。
二本。
三本。
次々と飛んでくる糸を正確に処理していく。
周囲から小さなどよめきが起きた。
「全部見切ってる。」
「新人にしては反応がいい。」
結も少し驚いていた。
(思った以上だ。)
(全部読んでる。)
だが。
結は笑う。
「でも。」
「読めても。」
「避け続けるのは大変でしょ。」
その言葉と同時に、ハルは違和感を覚えた。
自分が動いた場所。
飛び退いた先。
回避した位置。
気付けば、一つの場所へ追い込まれている。
(しまった。)
周囲を見る。
木と木の間。
岩の裏。
地面すれすれ。
何十本もの糸が張り巡らされていた。
「最初から……。」
結が木の枝から飛び降りる。
「誘導してた。」
指先がわずかに動く。
その瞬間。
張り巡らされた糸が一斉に締まる。
ハルは咄嗟に木刀を振る。
数本を切断。
しかし、それでも間に合わない。
足。
腕。
胴。
全身へ糸が絡み付く。
身動きが取れない。
結は静かに近付く。
ワイヤーをハルの首元へ添えた。
「終わり。」
静かな声だった。
教官が頷く。
「そこまで。」
糸が解かれる。
ハルは息を吐いた。
「……負けた。」
結はワイヤーを巻き取りながら笑う。
「天城は。」
「真正面から勝とうとする。」
「それじゃ勝てない相手もいる。」
ハルは黙って聞いている。
結は続けた。
「相手が強いなら。」
「相手を弱くすればいい。」
「動きを制限して。」
「考える時間を奪って。」
「自分の土俵で戦う。」
「勝負なんて、それで十分。」
ハルはしばらく考え込んだ。
今まで自分は、相手の攻撃を読み、正面から攻略することばかり考えていた。
だが、結は違う。
戦う前から勝負を作っていた。
「……勉強になった。」
その一言に、結は少し目を丸くした。
「普通、悔しがると思った。」
「悔しい。」
ハルは素直に答える。
「でも。」
「負けから学べることの方が多い。」
結は少しだけ笑みを浮かべる。
「面白いね。」
「天城って。」
そう呟く結の笑顔はいつも通りだった。
だが、その瞳だけは、今までより少しだけ柔らかくなっていた。
昼休み。
地下施設の食堂は、訓練を終えた者たちで賑わっていた。
ハルは定食を受け取り、空いている席へ向かう。
席に着こうとした、その時だった。
「隣、いい?」
顔を上げると、トレーを持った結が立っていた。
ハルは一瞬だけ考え、小さく頷く。
「好きにしろ。」
「ありがと。」
結は向かいではなく、隣へ腰を下ろした。
しばらくは食器の音だけが響く。
カエデのように豪快に食べるわけでもなく、結は意外にも静かに箸を進めていた。
「天城ってさ。」
結が口を開く。
「食べるの早いよね。」
「訓練の癖だ。」
「いつ呼ばれるか分からないから。」
「へぇ。」
結は少し笑う。
「地下施設っぽい考え方。」
「お前もそうだろ。」
「私は違うかな。」
「ちゃんと味わって食べたい派。」
そう言って味噌汁を一口飲む。
その姿だけ見れば、ごく普通の女子高生だった。
だが、その手はつい先ほどまで人を拘束する糸を操っていた。
そのギャップに、ハルは少し不思議な感覚を覚える。
「天城。」
結が箸を置いた。
「一つ聞いていい?」
「何だ。」
「どうしてそんなに強くなりたいの?」
真っ直ぐな問いだった。
ハルは少しだけ考える。
「守れなかったからだ。」
短い答え。
それだけで十分だった。
結も、それ以上は深く聞かなかった。
「そっか。」
静かに呟く。
少しだけ沈黙が流れる。
やがて結はハルの横顔を見ながら、小さく笑った。
「じゃあ、もう一つ。」
「……まだあるのか。」
「うん。」
結は箸を持ち直しながら、何気ない口調で言った。
「朝比奈美咲って。」
「知ってる?」
その名前を聞いた瞬間。
ハルの手が止まる。
箸を持つ指に、わずかに力が入った。
結はその反応を見逃さなかった。
だが、表情は変えない。
まるで雑談でもするような軽い笑顔のまま、ハルの返事を待っていた。
結の口から出た名前に、ハルの動きが止まった。
「朝比奈美咲。」
その名前だけで、胸の奥がざわつく。
忘れようとしても忘れられない。
思い出したくなくても、思い出してしまう。
「……なんで知ってる。」
ハルが低い声で尋ねる。
結は驚く様子もなく答えた。
「昔、友達だった。」
「学園に入る前だけどね。」
ハルは目を見開く。
「友達……?」
「うん。」
「同じ地域だったから。」
「遊ぶこともあったよ。」
結は味噌汁を一口飲む。
まるで昔話でもするような口調だった。
「あと。」
「天城のことも知ってる。」
ハルは結を見る。
「……俺を?」
「美咲がよく話してた。」
「『幼馴染がいるんだ』って。」
「『すごく優しい子なんだ』って。」
少しだけ沈黙が流れる。
結はハルの表情を見ながら、小さく尋ねた。
「付き合ってた?」
「……違う。」
ハルは首を横に振る。
「幼馴染だ。」
「それだけだ。」
「そう。」
結はそれ以上追及しなかった。
しばらく箸を動かしていたが、不意に呟く。
「私は。」
「美咲のこと、少し苦手だった。」
ハルが顔を上げる。
「……どうして。」
結は少しだけ考えてから答えた。
「優しかった。」
「誰にでも。」
「だから、みんな好きだった。」
その言葉に嘘はない。
結も美咲の優しさは認めていた。
「でも。」
その一言で空気が変わる。
「自分がなかった。」
ハルは黙って聞く。
「いつも誰かに合わせる。」
「嫌って言えない。」
「自分より。」
「相手を優先する。」
結は箸を置いた。
「あの子、自分の意見を言わなかった。」
「周りが笑えば笑う。」
「周りが泣けば泣く。」
「周りが望めば、自分もそうする。」
「そんな感じだった。」
ハルは静かに聞いていた。
結は続ける。
「笑ってたけど。」
「何を考えてるのか分からなかった。」
「本音を見せない。」
「だから私は。」
「信用できなかった。」
その言葉に、ハルは静かに首を振る。
「違う。」
結が視線を向ける。
「美咲は。」
「優しいだけだ。」
「誰かを傷付けるくらいなら。」
「自分が我慢する。」
「そういう奴だった。」
結は否定しない。
「そうかもね。」
「でも。」
結は真っ直ぐハルを見る。
「優しさだけじゃ。」
「誰かを守れない。」
その一言は、ハルの胸に重く刺さった。
優しいだけでは守れない。
その現実は、地下施設へ来て嫌というほど思い知らされている。
しばらく二人とも黙っていた。
食堂の喧騒だけが耳に入る。
やがて結が静かに口を開いた。
「天城。」
「今でも会いたい?」
その質問に、ハルはすぐには答えられなかった。
脳裏に浮かぶ。
笑っていた幼い頃の美咲。
学園で再会した美咲。
そして――。
自分を見捨てた、あの日の美咲。
ゆっくりと目を閉じる。
数秒後、静かに答えた。
「……ああ。」
その声に迷いはなかった。
「今は。」
「ある意味。」
「一番会いたい相手だ。」
結は何も言わず聞いている。
「聞かなきゃいけないことがある。」
「どうして、あの日……。」
そこまで言いかけて、ハルは言葉を飲み込んだ。
結は促さない。
ただ黙って待つ。
ハルは深く息を吐く。
「伝えたいこともある。」
「だから。」
「代表になる。」
その瞳には迷いがなかった。
代表になる理由は名誉ではない。
強さを証明するためでもない。
美咲に、もう一度会うため。
真実を確かめるため。
その覚悟が、今のハルを突き動かしていた。
結は静かにトレーを持ち上げる。
「そっか。」
それだけ言うと、小さく笑う。
「だったら。」
「負けられないね。」
ハルも立ち上がる。
「ああ。」
「絶対に負けない。」
二人は並んで食堂を後にした。
互いをまだ完全には信用していない。
それでも、少しだけ。
昨日より距離は縮まっていた。
食堂を出た後。
二人は人気の少ない通路を並んで歩いていた。
地下施設特有の冷たい空気が流れる。
どちらも口を開かない。
沈黙が続く中、ハルが静かに問い掛けた。
「霧島は。」
「どうして地下施設に来た。」
結の足が少しだけ止まる。
だが、それも一瞬だった。
振り返ることなく、小さく笑う。
「家族に売られた。」
あまりにもあっさりした口調だった。
まるで「今日は晴れてるね」とでも言うような軽さ。
だからこそ、その言葉は重かった。
ハルは思わず立ち止まる。
「……え?」
結は歩みを止めない。
「能力が発現した時ね。」
「私の能力を見て、お父さんもお母さんも喜んでた。」
「これで将来は安泰だって。」
少しだけ笑う。
「でも。」
「現実は違った。」
能力は期待されたほど価値がなかった。
生活は苦しいまま。
借金だけが増えていった。
「ある日。」
「知らない大人が家に来た。」
「両親はその人たちと話して。」
「私に荷物をまとめろって言った。」
結の声は変わらない。
まるで他人の昔話を語るようだった。
「そのまま車に乗せられて。」
「地下施設に着いた。」
ハルは何も言えなかった。
「あとで知ったよ。」
「お金と引き換えだったんだって。」
結は小さく肩をすくめる。
「結構、いい値段だったらしいよ。」
冗談めかして笑う。
だが。
その目だけは笑っていなかった。
底の見えない闇が宿っている。
ハルは拳を握る。
「そんなこと……。」
「あるよ。」
結は遮った。
「家族だから。」
「親だから。」
「絶対に裏切らない。」
「そんな保証、どこにもない。」
少しだけ空を見上げる。
「私は。」
「家族を信じてた。」
「でも、その家族が私を売った。」
「だから。」
結はゆっくりとハルを見る。
「私は人を信用しない。」
その言葉には迷いがなかった。
「家族ですら裏切る。」
「だったら。」
「他人なんて、もっと簡単でしょ。」
静かな笑顔。
けれど、その笑顔はどこか壊れていた。
ハルはしばらく黙っていた。
そして静かに口を開く。
「……俺は。」
「まだ、人を信じたい。」
結は少しだけ目を細める。
「優しいね。」
「違う。」
ハルは首を横に振る。
「裏切る人間もいる。」
「でも。」
「信じられる人間もいる。」
結は何も言わなかった。
その言葉を否定することも、肯定することもなく、ただハルを見つめる。
やがて、ふっと笑う。
「天城。」
「本当に変な人。」
そう言って前を向く。
その笑顔はいつもと変わらない。
だが、その胸の奥にある傷は、誰にも見せることはなかった。
夜。
地下施設の訓練場には、選抜候補者たちが集められていた。
昼間とは違う張り詰めた空気。
誰一人として無駄口を叩かない。
代表選抜。
それは地下施設から地上へ出る、唯一の切符。
勝てば未来が近づく。
負ければ、また地下での日々が続く。
教官が全員の前へ立った。
ゆっくりと周囲を見渡す。
「明日。」
短い一言。
「第一次代表選抜。」
「開始する。」
その瞬間、空気がさらに重くなる。
「試験内容は当日発表。」
「油断した者から落ちる。」
「以上だ。」
教官はそれだけ告げると、その場を後にした。
残された訓練生たちは、それぞれ無言で掲示板へ向かう。
壁には代表候補者の名前が並んでいた。
風間嵐。
黒鋼カエデ。
霧島結。
石田レン。
そして――。
天城ハル。
結は自分の名前を見つめたまま、小さく息を吐く。
(信用なんてしない。)
それが、この地下施設で生き残るための答えだった。
家族に裏切られた日から。
誰かを信じれば傷付くと知った日から。
そうやって生きてきた。
だから。
誰にも期待しない。
誰も信じない。
(でも。)
結は少しだけ視線を横へ向ける。
少し離れた場所で、自分の名前を見つめるハルの姿があった。
(天城だけは。)
(少しだけ。)
(違うのかもしれない。)
自分の過去を聞いても、同情しなかった。
慰めもしなかった。
ただ真っ直ぐに。
「信じられる人もいる」と言い切った。
そんな人間に、結は初めて出会った気がした。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
心の壁に、小さなひびが入った気がした。
一方、ハルも掲示板を見つめていた。
代表になれば、地上へ出られる。
星ヶ丘学園へ近付ける。
そして――。
(美咲。)
胸の奥で、その名前を静かに呼ぶ。
怒りなのか。
悲しみなのか。
未練なのか。
自分でも分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
(必ず。)
(会いに行く。)
逃げない。
目を逸らさない。
あの日の真実を、自分の耳で聞くために。
そのためにも、負けるわけにはいかない。
ハルは静かに拳を握り締めた。
地下施設代表選抜試験まで――
あと一日。




