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幼馴染を寝取られ、学園に殺された無能力の俺は最強になって帰ってくる  作者: ワールド


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第19話 鉄拳少女

 代表選抜試験まで、あと三日。


 地下施設の朝は早い。


 午前五時。


 施設全体に警報が鳴り響き、まだ眠っていた収容者たちが一斉に起き上がる。


『全収容者、第一訓練場へ集合。五分以内に整列しろ』


 無機質な館内放送が響く。


 ハルも急いで制服へ着替え、レンと共に訓練場へ向かった。


 地下施設の訓練場は学校の体育館など比べ物にならないほど広い。


 剣術エリア。


 能力訓練エリア。


 格闘エリア。


 射撃訓練エリア。


 それぞれに分かれ、多くの収容者が朝から汗を流していた。


「すげぇ……」


 思わず声が漏れる。


 昨日まで絶望しかない場所だと思っていた地下施設。


 しかし今目の前にあるのは、能力者たちが己を磨き続ける巨大な鍛錬施設だった。


「見惚れてる暇はねぇぞ。」


 レンが肩を叩く。


「今日から全員評価対象だ。」


「教官はどこで見てるか分からねぇ。」


「気を抜いた瞬間に減点される。」


「分かった。」


 ハルは頷き、木刀を受け取った。


 能力訓練では当然何もできない。


 世界唯一の無能力者であるハルに、能力を鍛える術は存在しない。


 だからこそ。


 彼は剣を握る。


 振る。


 踏み込む。


 切り返す。


 何百回。


 何千回と積み重ねてきた基本動作を、誰よりも丁寧に繰り返していく。


 隣では炎が舞う。


 雷が走る。


 風が渦を巻く。


 能力者たちが次々と能力を発動し、訓練場は轟音に包まれていた。


 その中で、木刀一本だけを握るハルの姿は異質だった。


「742。」


 教官の声が飛ぶ。


「模擬戦。」


「はい!」


 相手は筋力強化の能力者。


 開始の合図と同時に、相手が真正面から突っ込んできた。


 ハルは真正面から受けない。


 一歩横へ。


 木刀で軌道を逸らし、そのまま背後へ回る。


 鋭い一撃。


 だが相手は能力で腕を強化し、防御する。


 ガキィン!!


 木刀が弾かれた。


 その隙に拳が迫る。


 ハルは後方へ飛び退く。


 土煙が舞い上がる。


「能力がなければ、ここまでか。」


 教官が静かに呟く。


 ハルは肩で息をしながらも木刀を構え直した。


 勝てない。


 それでも倒れない。


 その姿を見た教官は、無言で評価表へ何かを書き込んだ。


「終了。」


 模擬戦が終わる。


 ハルは汗を拭きながら息を整える。


「やっぱ能力がある相手はきついな……」


「でも、結構粘ったじゃねぇか。」


 レンが笑う。


「普通なら一発で終わる。」


「そうなのか?」


「相手、結構強かったぞ。」


 その時だった。


「おい、新人!」


 訓練場中に響くような元気な声。


 ハルが振り向くと、一人の少女が大股でこちらへ歩いてきていた。


 短く結んだ黒髪。


 引き締まった体。


 拳には包帯が巻かれている。


 昨日食堂で見た少女。


 黒鋼カエデだった。


「お前、昨日来た無能力者だろ!」


 ハルが頷く。


「ああ。天城ハルだ。」


「へぇ!」


 カエデはニカッと笑う。


「思ったより動けるじゃねぇか!」


 その笑顔には敵意はない。


 純粋に面白いものを見つけた子供のような笑顔だった。


 隣でレンがため息をつく。


「……始まった。」


「何が?」


「お前。」


 レンはハルの肩をぽんと叩いた。


「面倒なのに見つかったぞ。」


「おいレン!」


 カエデが頬を膨らませる。


「失礼だな!」


「誰が面倒なんだ!」


「お前以外に誰がいる。」


「違う!」


「私は面倒じゃなくて元気なんだ!」


「同じだ。」


「全然違う!」


 訓練場に笑いが起こる。


 ハルは思わず苦笑した。


 昨日は地下施設最強候補の一人という印象しかなかった。


 だが実際に話してみると、まるで近所の元気な姉のような人物だった。


 カエデはハルの目の前まで来ると、ニヤリと笑う。


「新人。」


「朝から結構いい動きしてたな。」


「気に入った。」


「だから――」


 拳を軽く鳴らしながら言う。


「あとで私と勝負しろ!」


 レンは頭を抱えた。


「ほらな。」


「こうなると思った。」



 訓練が一段落し、短い休憩時間が訪れる。


 ハルはタオルで汗を拭きながら水を飲んでいた。


 すると、先ほどの少女が再びこちらへ歩いてくる。


「おい!」


 勢いよく手を振りながら近付いてくる姿は、まるで昔からの知り合いのようだった。


「昨日来た奴だろ?」


「ハルだっけ?」


「ああ。」


 ハルが答えると、少女は満足そうに頷いた。


「私は黒鋼カエデ!」


「よろしくな!」


 そう言って、遠慮なくハルの肩をバシンと叩く。


「いっ……!」


「お、おい……。」


 思わずよろけるハル。


 本人は軽く叩いたつもりなのだろう。


 しかし筋力強化能力者の一撃は、それだけで普通の人間には十分重い。


「悪い悪い!」


「あはは! 加減忘れてた!」


 カエデは悪びれる様子もなく豪快に笑った。


 その様子を見たレンが、大きくため息をつく。


「だから言ったろ。」


「こいつには近付くな。」


「面倒だから。」


「はぁ!?」


 カエデが即座に反応する。


「失礼だな!」


「誰が面倒なんだ!」


「お前。」


 レンは真顔だった。


「朝から騒ぐ。」


「教官に怒鳴られる。」


「模擬戦を始める。」


「壁を壊す。」


「全部お前。」


「最後は違う!」


「壁は壊してない!」


「去年壊した。」


「去年だ!」


「今年じゃない!」


 周囲から笑いが起こる。


「また始まった。」


「いつもの夫婦漫才だ。」


「レンも慣れてるよな。」


 収容者たちは呆れながらも笑っていた。


 どうやらこのやり取りは日常らしい。


 ハルも思わず笑みを浮かべる。


「なんだよ。」


「笑ったな?」


 カエデがニヤリと口角を上げる。


「いや……。」


「思ってた人と違ったから。」


「ん?」


「昨日はもっと怖い人かと思ってた。」


 その言葉にカエデは一瞬きょとんとした。


 次の瞬間、大声で笑い出す。


「あはははは!」


「私が怖い?」


「そんなわけないだろ!」


「私は地下施設で一番優しいぞ!」


「それはない。」


 レンが即座に否定する。


「えぇ!?」


「どこがだよ!」


「昨日だけで三人病院送り。」


「模擬戦だ!」


「ちゃんと手加減した!」


「手加減してそれだから怖いんだよ。」


 また笑いが起こる。


 カエデは不満そうに頬を膨らませる。


「みんなして私を怪物みたいに言いやがって……。」


 そう言いながらも、本気で怒っている様子はない。


 むしろ、この掛け合いを楽しんでいるようだった。


 ハルはそんな二人を見ながら思う。


(地下施設って、もっと殺伐とした場所だと思ってた。)


(でも……。)


 ここにも笑いがある。


 仲間同士でふざけ合い、軽口を叩き合う時間がある。


 昨日まで抱いていた地下施設の印象が、少しだけ変わっていく。


 そんなハルの様子に気付いたカエデは、満足そうに笑った。


「ようやく笑ったな。」


「新人。」


「そんな硬い顔ばっかしてたら疲れるぞ。」


 そう言ってハルの背中を勢いよく叩く。


「ぐっ……!」


 また前につんのめるハル。


「だから加減しろ。」


 レンが呆れたように額を押さえる。


 カエデは舌を出して笑った。


「悪い悪い!」


「でも気に入った!」


「ハル、お前面白い!」


 屈託のない笑顔だった。


 その笑顔を見たハルは、小さく笑い返す。


「……ありがとう。」


 地下施設に来て初めて。


 同世代の仲間と自然に笑い合えた瞬間だった。



 カエデはニヤリと笑いながら、拳を鳴らした。


「決まり!」


「休憩終わったら勝負だ!」


「えっ?」


 ハルが目を丸くする。


「ちょ、ちょっと待て。」


「俺はまだここに来たばかりなんだぞ。」


「だからだよ。」


 カエデは当然のように言った。


「新人がどれくらい強いのか気になるじゃん!」


 レンは呆れたように額へ手を当てる。


「相変わらずだな……。」


「教官。」


「止めなくていいんですか?」


 近くにいた教官は二人を一瞥すると、静かに頷いた。


「模擬戦を許可する。」


「ただし寸止めだ。」


「了解!」


 カエデは元気よく返事をすると、訓練場中央へ向かって歩き出す。


 周囲の収容者たちも足を止めた。


「おい、また始まるぞ。」


「カエデの模擬戦か。」


「新人が相手?」


「かわいそうに……。」


 誰もが勝負の結果を疑っていなかった。


 地下施設屈指の格闘家。


 黒鋼カエデ。


 新人が相手になるような存在ではない。


 二人が向かい合う。


 ハルは木刀を構える。


 対するカエデは拳だけ。


「一応言っとく。」


 カエデは笑った。


「本気で来い。」


「手加減された方が腹立つから。」


「……分かった。」


 教官が右手を上げる。


「始め!」


 その瞬間だった。


 ドンッ!!


 地面が爆ぜる。


「速っ!」


 ハルの視界からカエデが消えた。


 次の瞬間、拳が目前まで迫っている。


 間一髪。


 ハルは身体をひねり、紙一重でかわした。


 拳は空を切り、その風圧だけで髪が揺れる。


「へぇ!」


 カエデが楽しそうに笑う。


「避けた!」


 普通なら今ので終わっていた。


 周囲から驚きの声が上がる。


「今の避けたのか?」


「新人だろ?」


 カエデは続けざまに右、左、回し蹴りと畳み掛ける。


 ハルは攻撃しない。


 受けない。


 避ける。


 流す。


 一歩。


 半歩。


 最小限の動きだけで距離を保ち続ける。


 (正面からじゃ勝てない。)


 (なら読むしかない。)


 ハルはカエデの肩、腰、重心の移動を観察する。


 踏み込む瞬間。


 身体が沈む癖。


 右拳の前に左肩がわずかに動く。


 その全てを見逃さない。


「おもしれぇ!」


 カエデはさらに速度を上げる。


 拳が暴風のように襲いかかる。


 それでもハルは真正面から受けない。


 木刀で軌道を逸らし、柱を盾にし、訓練用の障害物を利用して距離を取り続けた。


「逃げてるだけじゃねぇか!」


 誰かが叫ぶ。


 しかし教官は首を横に振った。


「違う。」


「あれも立派な戦術だ。」


 能力差がある相手に真正面から挑めば一瞬で終わる。


 だからこそ、勝機が生まれるまで耐える。


 それがハルの戦い方だった。


 一分。


 二分。


 三分。


 訓練場が静まり返る。


 普通なら十秒も保たない。


 そう思われていた勝負が、いまだ終わらない。


 カエデの額に初めて汗が浮かぶ。


「なんだこいつ……。」


 攻撃は当たりそうで当たらない。


 動きは決して速くない。


 なのに、気付けば一番嫌な場所へ逃げられている。


 まるでこちらの動きを読まれているようだった。


 教官も腕を組み、静かにハルを見つめる。


「能力はない。」


「身体能力も平均以下。」


「だが……。」


 評価表へペンを走らせる。


「戦闘勘が異常だ。」


 その言葉を最後まで聞くことなく、カエデは大きく踏み込んだ。


「だったら!」


「これならどうだぁっ!!」


 渾身の右ストレート。


 今までで最も速く、最も重い一撃。


 ハルは避けようとした。


 だが、あと一歩届かない。


 拳が木刀ごと吹き飛ばす。


 衝撃で身体が宙を舞い、そのまま地面を転がった。


 訓練場に静寂が落ちる。


 教官が静かに口を開いた。


「そこまで。」


 勝者、黒鋼カエデ。


 当然の結果だった。


 しかし、その場にいた誰もが同じことを思っていた。


 ――新人が、ここまで戦うなんて。




 模擬戦を終えたハルとカエデは、そのまま食堂へ向かった。


 昼休みが始まったばかりの食堂は、多くの収容者で賑わっている。


「腹減ったー!」


 カエデは一直線に配膳口へ向かう。


「今日のメニューは……おっ! 唐揚げじゃん!」


 目を輝かせながら、ご飯を特盛に変更し、唐揚げも追加する。


 それを見ていた調理担当が苦笑した。


「また特盛か。」


「今日は訓練頑張ったからな!」


「毎日だろ。」


「細かいこと気にすんな!」


 豪快に笑いながら席へ向かう。


 一方、ハルは普通盛りの定食を受け取り、その向かいへ腰を下ろした。


「いただきます!」


 カエデは両手を合わせると、勢いよくご飯を頬張る。


「うまっ!」


「やっぱ運動した後の飯は最高だな!」


 大きな口で次々と料理を平らげていく姿は、見ていて気持ちがいい。


 ハルは思わず笑った。


「よくそんなに食べられるな。」


「食わないと強くなれないからな!」


「筋肉は裏切らない!」


 そう言って腕を曲げ、自慢げに力こぶを見せる。


 ハルは苦笑するしかなかった。


「……なんか、思ってた人と全然違う。」


「ん?」


「昨日はもっと近寄りがたい人かと思ってた。」


 カエデは箸を止めると、声を上げて笑った。


「あはは!」


「よく言われる!」


「でも私は普通だぞ?」


「いや、普通ではないと思う。」


「なんだよそれ!」


 二人は自然と笑い合う。


 地下施設へ来てから、こんな穏やかな時間を過ごしたのは初めてだった。


 少し沈黙が流れる。


 ハルは味噌汁を一口飲み、ふと口を開いた。


「一つ、聞いてもいいか?」


「おう。」


「なんでそんなに強くなりたいんだ?」


 その瞬間だった。


 カエデの箸が止まる。


 一瞬だけ、表情が固まった。


 だが次の瞬間には、いつもの笑顔へ戻る。


「そんなの決まってるじゃん。」


「強い方がカッコいいだろ!」


 豪快に笑ってみせる。


「子どもの頃から強い奴って憧れるじゃん!」


「それだけ?」


「それだけ!」


 明るく答えるカエデ。


 だが、どこか無理をしているようにも見えた。


 ハルはそれ以上追及しなかった。


「悪い。」


「聞きたくないことだったか。」


 そう言って視線を落とす。


 しばらく食器の音だけが響いた。


 やがて。


 カエデが小さく息を吐く。


「……別に。」


「話したくないわけじゃない。」


 その声は、先ほどまでの明るさとは違っていた。


 どこか遠い過去を見つめるような、静かな声。


「たださ。」


「思い出したくないだけ。」


 ハルは黙って耳を傾ける。


 カエデは箸を置き、自分の拳を見つめた。


「この力が発現した時から。」


「私の人生、少しずつ狂い始めたんだ。」


 食堂の喧騒が、どこか遠くに聞こえた。



 カエデは、自分の拳を静かに見つめていた。


「私さ。」


「昔は本当に普通だったんだ。」


 幼い頃。


 父と母との三人暮らし。


 休日には公園へ遊びに行き、夜は三人で夕食を囲む。


 笑い声の絶えない、ごく普通の家庭だった。


「能力が発現した時も、最初は嬉しかった。」


 能力名――筋力強化。


 身体能力を飛躍的に高める、極めてシンプルな能力。


 幼いカエデは純粋に喜んだ。


 父も母も頭を撫でてくれた。


『強くなったな、カエデ。』


『でも、人を守るために使うんだよ。』


 その言葉が嬉しくて、毎日能力を鍛えた。


 走った。


 腕立てをした。


 拳を振った。


 誰よりも努力した。


 だが、現実は残酷だった。


 能力測定の日。


 教官は資料を見ながら淡々と言った。


『筋力強化か。』


『外れ能力だな。』


 周囲の子どもたちも笑う。


『もっと珍しい能力が良かったな。』


『パワー馬鹿専用じゃん。』


『才能ないな。』


『将来性なし。』


 教師も、大人も、能力研究者も。


 誰一人として、その能力を評価してくれなかった。


 それでもカエデは諦めなかった。


「能力が弱いなら。」


「私が強くなればいい。」


 その一心で鍛え続けた。


 そして、中学二年の冬。


 運命の日が訪れる。


 学校帰り。


 交差点で信号待ちをしていた時だった。


 突然、ブレーキ音が響く。


 大型トラックが制御を失い、歩道へ突っ込んできた。


 逃げ遅れた親子。


 誰も動けない。


 悲鳴だけが響く。


「考えるより先に。」


「身体が動いてた。」


 能力を発動する。


 全身の筋力が一気に膨れ上がる。


 真正面からトラックへ飛び込み、両腕で受け止めた。


 地面が砕ける。


 腕の骨が軋む。


 それでも踏ん張った。


 親子は助かった。


 命は救えた。


 ――だが。


 止まり切れなかったトラックは横転。


 勢いで店舗へ突っ込み、建物を大破させる。


 飛び散った瓦礫で数名が負傷した。


 ニュースは、その出来事をこう報じた。


『能力者による重大事故。』


『市街地で危険能力を無断使用。』


『能力犯罪として捜査開始。』


 誰一人。


 助けられた親子の話はしなかった。


 英雄ではなく、犯罪者。


 裁判では救助行為であることも認められた。


 それでも判決は変わらない。


 能力育成資格――永久剥奪。


 地下施設への収容。


「その日さ。」


 カエデは苦笑する。


「一枚の紙を渡されたんだ。」


 そこには冷たい文字が並んでいた。


 能力名:筋力強化


 戦闘適性:A


 社会的価値:低


 将来性:なし


「何百回見ても忘れられない。」


「私の人生を四文字で否定された気がした。」


 カエデは静かに拳を握る。


「その時に決めた。」


「絶対に見返してやるって。」


「筋力強化は外れ能力なんかじゃない。」


「人を守れる力なんだって。」


「私の拳で証明してやる。」


「力は悪くないって。」


 その瞳には、一切の迷いがなかった。


 ハルは黙ってその言葉を聞いていた。


 能力がなかったことで否定され、人生を奪われた自分。


 能力が地味だと否定され、人を救ってなお罪人にされたカエデ。


 歩んできた道は違う。


 それでも、社会から「価値がない」と切り捨てられた痛みだけは、誰よりも理解できた。


「……ありがとう。」


 ハルは静かに言う。


「話してくれて。」


 カエデは照れくさそうに笑うと、いつもの明るい表情に戻った。


「湿っぽい話は終わり!」


「午後も訓練だ!」


「今度はもっと粘れよ、新人!」


 その笑顔は、もう無理に作ったものではなかった。



「……力は悪くないって。」


 そう言い切ったカエデの表情には、迷いはなかった。


 ハルは静かに頷く。


「俺も、そう思う。」


 短い言葉だった。


 だが、それだけで十分だった。


 能力がないことで人生を否定されたハル。


 能力が地味だと人生を否定されたカエデ。


 二人にしか分からない痛みがあった。


 その時だった。


「へぇ。」


 どこか楽しそうな声が聞こえる。


「カエデが昔話なんてしてる。」


「珍しいね。」


 二人が振り向く。


 食堂の入口に立っていたのは、長い黒髪を揺らした少女。


 霧島結だった。


 いつものように人懐っこい笑みを浮かべながら、トレーを持ってこちらへ歩いてくる。


 そして何の遠慮もなく、二人の隣へ腰を下ろした。


「聞いてたのか!」


 カエデが目を丸くする。


 結は悪びれもせず肩をすくめた。


「丸聞こえ。」


「食堂だもん。」


「そりゃ聞こえるよ。」


「うぐっ……。」


 反論できず、カエデは悔しそうに唸る。


 結はくすくすと笑った。


「珍しいよね。」


「カエデが自分の過去を話すなんて。」


「新人だから特別?」


「そ、そんなんじゃねぇよ!」


「じゃあ何?」


「……気分だ!」


「はいはい。」


 結は適当に相槌を打ちながら、スープを一口飲む。


「でもさ。」


 結はハルへ視線を向けた。


「この子ね。」


「見た目より、ずっと優しいんだよ。」


 ハルは少し驚いた表情を見せる。


 カエデは勢いよく立ち上がった。


「余計なこと言うな!」


「えー?」


「本当のことでしょ?」


「違う!」


「この前だって、迷子の猫を探すために訓練サボ――」


「それ以上言うなぁ!」


 カエデは慌てて結の口を塞ごうとする。


 しかし結は身をかわしながら笑い続ける。


「あと、食堂のおばちゃんが重い荷物持ってた時も、一人で全部運んであげて――」


「やめろって!」


「照れてる。」


「照れてねぇ!」


「顔真っ赤だけど?」


「うるさい!」


 二人は子どものように言い合いを始める。


 その様子を見ていた周囲の収容者たちも苦笑していた。


「また始まった。」


「仲いいな、あいつら。」


「毎日あれだぞ。」


 食堂には自然と笑い声が広がる。


 ハルも思わず笑みを浮かべた。


 地下施設へ来る前は、もっと殺伐とした場所だと思っていた。


 憎しみだけが渦巻く場所だと。


 だが違った。


 ここにも笑い合える仲間がいる。


 支え合う人たちがいる。


 その光景が、ほんの少しだけ胸を温かくした。


 結はそんなハルを見て、小さく微笑む。


「安心した?」


「……え?」


「ここって怖い人ばっかりだと思ってたでしょ。」


 図星だった。


 ハルは苦笑しながら頷く。


「少しだけ。」


「でも、違った。」


 結は嬉しそうに笑う。


「もちろん危ない人もいるよ。」


「でも、この地下施設には仲間もいる。」


「一人じゃ生きていけない場所だからね。」


 その言葉に、ハルは静かに頷いた。


 代表選抜試験まで、あと三日。


 この仲間たちと競い合い、そして戦う。


 そう思うと、不思議と胸が高鳴っていた。



 その日の夜。


 消灯時間まで、あと一時間。


 地下施設の訓練場には、人影がほとんどなかった。


 静まり返った空間に響くのは、一つだけ。


 風を切る音。


 シュッ――。


 シュッ――。


 ハルは黙々と木刀を振り続けていた。


 一振り。


 また一振り。


 今日の模擬戦を思い返す。


(まだ遅い。)


(踏み込みも甘い。)


(あの一撃も避けられた。)


 頭の中で何度も反省を繰り返しながら、木刀を振る。


 汗が地面へ落ちる。


 腕は重い。


 それでも止めない。


 止まれば、その分だけ差が開く。


 そんな時だった。


「まだやってんのか。」


 聞き慣れた声が響く。


 振り返ると、訓練場の入口にカエデが立っていた。


 タオルを肩に掛け、スポーツドリンクを片手に持っている。


「今日は十分動いただろ。」


「少しは休めよ。」


 ハルは木刀を握り直した。


「まだ足りない。」


「代表になりたいんだ。」


 その言葉に、カエデは少しだけ目を見開く。


 そして、ふっと笑った。


「その意気だ。」


 ゆっくりと歩み寄る。


「でもな。」


 ハルの目を真っ直ぐ見つめる。


「代表になりたいなら。」


「まずは私を超えてみろ。」


 そう言うと、右手を握り締め、拳を突き出した。


 力強く。


 揺るぎなく。


 自分の信念そのものを示すような拳だった。


 ハルはその拳を見つめる。


 今日の敗北。


 カエデとの実力差。


 まだ届かない背中。


 それでも。


 その背中を追い掛けたいと思った。


 ハルは木刀を肩へ担ぐ。


 そして、真っ直ぐ笑った。


「絶対に超える。」


 迷いのない声だった。


 カエデも笑う。


「そのくらい言えなきゃ面白くねぇ。」


「楽しみにしてる。」


 二人は軽く拳と木刀を合わせる。


 カツン。


 小さな音が、静かな訓練場へ響いた。


 その光景を。


 少し離れた通路から、一人の男が静かに見つめていた。


 風間嵐。


 地下施設最強と呼ばれる男。


 腕を組み、無言のまま二人を見つめる。


 表情は変わらない。


 何を考えているのかも分からない。


 やがて、小さく視線を伏せる。


「……。」


 それだけ呟くと、踵を返した。


 足音は静かに闇へ消えていく。


 ハルは、その視線に気付くことはなかった。


 代表選抜試験まで、あと三日。


 それぞれの想いを胸に。


 地下施設の長い夜は、更けていくのだった。

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