表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幼馴染を寝取られ、学園に殺された無能力の俺は最強になって帰ってくる  作者: ワールド


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/26

第13話 奈落

 ――暗い。


 何も見えない。


 意識だけがゆっくりと浮かび上がっていく。


 頭が重い。


 身体は鉛のように動かない。


 どこからか一定の振動が伝わってくる。


 ガタン。


 ガタン。


 規則的な揺れだけが、薄れた意識を現実へ引き戻していく。


「……うっ。」


 喉の奥から苦しそうな声が漏れた。


 全身に鋭い痛みが走る。


 胸。


 腹。


 腕。


 脚。


 まるで身体中の骨が砕けているようだった。


 ゆっくりと右手を動かそうとする。


 その瞬間。


 ――ガシャン。


 冷たい金属音が車内へ響いた。


「……?」


 重い瞼をゆっくりと開く。


 ぼやけた視界。


 薄暗い天井。


 鉄でできた壁。


 そして、自分の両手首を拘束する銀色の手錠。


「……ここは?」


 掠れた声が漏れる。


 視線を動かす。


 両足にも太い足枷。


 身体中には何重にも巻かれた包帯。


 少し動くだけで激痛が走る。


 ようやく理解する。


 自分は横になっているのではない。


 護送車の床へ座らされているのだ。


 正面には分厚い鉄格子。


 その向こうには黒い制服を着た兵士が四人。


 誰一人としてこちらを見ない。


 まるで荷物でも運んでいるかのような無表情だった。


 ハルはゆっくりと窓へ視線を向ける。


 流れていく景色。


 見渡す限りの荒野。


 岩山。


 枯れた木々。


 見覚えのない場所だった。


(ここ……どこだ。)


 学園ではない。


 町でもない。


 人の気配すら感じられない。


 胸の奥がざわつく。


 最後の記憶を必死に探る。


 試験。


 黒崎。


 木刀。


 敗北。


 そして――。


「……美咲。」


 思わず名前を口にした。


 あの最後の光景が頭をよぎる。


 泣きながら黒崎の後を歩いていく幼馴染。


 胸が締め付けられた。


「……試験は……。」


 兵士へ問いかける。


「終わったのか……?」


 返事はない。


 車内にはエンジン音だけが響く。


 もう一度尋ねようとした、その時だった。


 前方へ座っていた兵士の一人が、初めて口を開く。


「目が覚めたか。」


 感情のない声だった。


 ハルは兵士を見る。


「……俺は、どれくらい眠ってた。」


 兵士は一瞬だけ沈黙し、淡々と告げた。


「一週間だ。」


「……。」


 言葉の意味を理解できなかった。


「一週間……?」


 兵士は頷きもしない。


「試験終了から七日。」


「現在、お前は地下施設へ移送中だ。」


 その一言だけだった。


 ハルの思考は止まる。


(一週間……。)


(そんなに眠っていたのか。)


 その七日間で、何があった。


 学園はどうなった。


 美咲は。


 黒崎は。


 何も分からない。


 ただ、護送車だけが冷たい音を響かせながら、誰も知らない奈落へと走り続けていた。



 護送車は長い時間、何もない荒野を走り続けた。


 窓の外に見える景色は変わらない。


 岩山。


 荒れ果てた大地。


 乾いた風に揺れる枯れ木。


 人の住んでいる形跡はどこにもなかった。


 やがて車体が大きく揺れ、ゆっくりと速度を落としていく。


 ガコン。


 重いブレーキ音とともに護送車が停止した。


「到着だ。」


 兵士の一言で、後部の扉が開く。


 眩しい光に目を細めながら外へ出ると、ハルは思わず息を呑んだ。


「……。」


 そこにあったのは、巨大な山だった。


 切り立った岩肌の中央だけが人工的に削られ、巨大な鋼鉄の門が埋め込まれている。


 高さは十メートルを超える。


 厚さも数メートルはあるだろう。


 まるで戦争用の要塞だった。


 門の周囲には武装した兵士たち。


 監視塔。


 自動砲台。


 何重にも張り巡らされた鉄条網。


 逃げるという発想すら浮かばない。


 兵士に肩を押され、ハルは歩き出す。


 重い手錠が鳴る。


 足枷が床を擦る。


 その音だけが静かな山へ響いていた。


 巨大な門がゆっくりと開く。


 ギギギギ……。


 耳障りな金属音。


 門の向こうは暗闇だった。


 一歩足を踏み入れる。


 背後で門が閉まる。


 ドォン――。


 腹の底まで響く重低音。


 まるで外の世界との繋がりが完全に断たれたようだった。


 さらに奥へ進む。


 長い通路。


 無機質なコンクリート。


 冷たい照明。


 途中には何枚もの分厚い鉄扉が待ち構えていた。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


 そのたびに厳重な認証音が鳴り、重々しく扉が開閉する。


 進めば進むほど、外の光は遠ざかっていく。


 やがて最後の非常灯すら見えなくなり、人工照明だけが薄暗く通路を照らしていた。


(地下……。)


(どれだけ潜るんだ……。)


 エレベーターへ乗せられる。


 数字がゆっくりと減っていく。


 地下三階。


 地下五階。


 地下十階。


 まだ止まらない。


 地下二十階。


 地下三十階。


 耳が詰まるような圧迫感。


 息苦しさ。


 まるで地獄の底へ落ちていくようだった。


 ようやく扉が開く。


 そこには広大な地下施設が広がっていた。


 見渡す限り灰色の壁。


 規則正しく並ぶ独房。


 巡回する武装兵。


 施設というより監獄。


 いや、それ以上だった。


 兵士の一人が書類へ視線を落とす。


「収容番号七四二。」


 淡々とした声。


 ハルは顔を上げる。


 一瞬、自分以外の誰かを呼んでいるのかと思った。


 しかし兵士は真っ直ぐハルを見ていた。


「以後、お前の識別番号は七四二。」


「名前は不要だ。」


 その言葉に、胸が締め付けられる。


 天城ハルではない。


 無能力者でもない。


 ただの数字。


 たった三桁の番号。


(名前まで……。)


(俺は……。)


 足元へ視線を落とす。


 手錠。


 足枷。


 兵士に囲まれた自分。


 誰一人として、人間を見る目ではなかった。


(俺は……犯罪者なのか……。)


 誰にも答えられることのない問いだけが、静かな地下施設に虚しく消えていった。



 重い鉄扉がゆっくりと開く。


「入れ。」


 兵士に背中を押され、ハルはふらつきながら部屋へ足を踏み入れた。


 ――狭い。


 最初に浮かんだ感想は、それだけだった。


 広さは四畳ほど。


 壁も床も天井も、冷たいコンクリートで覆われている。


 家具らしいものは、壁際に固定された鉄製のベッドが一つ。


 部屋の隅には仕切りもない簡素なトイレ。


 天井には無機質な監視カメラが一台、無言でこちらを見下ろしていた。


 窓はない。


 外の景色どころか、昼なのか夜なのかすら分からない。


 まるで世界から切り離された箱だった。


「ここがお前の部屋だ。」


 兵士が無機質に告げる。


 次の瞬間。


 背後で鉄扉が閉まり始めた。


 ガァン――。


 耳をつんざくような金属音。


 続いて何重もの施錠音が響く。


 ガチャン。


 ガチャン。


 ガチャン。


 最後に電子ロックの作動音が鳴り、完全な静寂が訪れた。


 ハルはゆっくりと扉へ近づく。


 押してみる。


 びくともしない。


 小窓から外を覗こうとしても、厚い鉄板が視界を遮っていた。


(外からしか……開かない。)


 逃げ道はない。


 本当に閉じ込められたのだ。


 力が抜けるように、その場へ座り込む。


 冷たい床の感触だけが現実を突きつけてきた。


 部屋には何も聞こえない。


 誰の声も。


 足音も。


 風の音さえ届かない。


 あるのは、自分の呼吸だけだった。


「……美咲。」


 小さく名前を呼ぶ。


 返事はない。


 当然だ。


 ここには誰もいない。


 それでも、無意識に名前を呼んでしまう。


 沈黙だけが部屋を満たしていた。


 ゆっくりと目を閉じる。


 すると、試験の日の記憶が少しずつ蘇ってくる。


 木刀がぶつかる音。


 黒崎の冷静な眼差し。


 何度倒れても立ち上がった自分。


 泣き叫ぶ美咲。


 そして――。


 黒崎と並んで歩いていく、美咲の後ろ姿。


 胸が締め付けられる。


「……違う。」


 ハルは首を横へ振る。


「あれには……何か理由がある。」


 そうだ。


 美咲は約束した。


 『私は味方だから。』


 『ハル君は一人じゃない。』


 あの約束が嘘だったはずがない。


 黒崎について行ったのも、きっと何か事情があったんだ。


 自分にそう言い聞かせる。


「きっと……そうだ。」


 しかし、その言葉は誰に向けたものでもなかった。


 静まり返った独房の中で、小さな呟きだけが虚しく消えていった。


 どれくらい時間が経ったのだろう。


 静寂だけが支配する独房で、ハルは鉄製のベッドへ腰を下ろしたまま動けずにいた。


 その時だった。


 ――ブツッ。


 突然、壁一面が白く光る。


「……っ!」


 反射的に顔を上げる。


 何もなかったコンクリートの壁が、巨大なモニターへと変わっていた。


 同時に、天井のスピーカーから無機質な声が響く。


『新人教育を開始する。』


 感情のない機械音声。


『収容番号七四二。視聴を開始せよ。』


 画面が切り替わる。


 映し出されたのは――学園だった。


「……!」


 ハルは息を呑む。


 見慣れた校舎。


 広い中庭。


 噴水。


 木々が風に揺れている。


 つい一週間前まで、自分が毎日歩いていた場所。


 昼休みらしく、生徒たちは思い思いに昼食を取っていた。


 笑い声が響く。


 友人同士で肩を組み、楽しそうに話す者。


 購買へ走る者。


 中庭で能力の練習をする者。


 遠くでは運動部が汗を流している。


 いつもと変わらない日常。


 何も変わっていない。


 ただ一つだけ。


 そこに、天城ハルの姿はなかった。


「……。」


 画面を食い入るように見つめる。


 自分の席。


 自分が歩いていた廊下。


 自分が昼食を食べていた場所。


 どこにも、自分はいない。


 まるで最初から存在しなかったかのようだった。


 その時、画面の中で数人のクラスメイトが話し始めた。


「あ、そういえばさ。」


「無能力のやついたよな。」


「ああ、天城?」


「退学したんだろ?」


 一人が肩をすくめる。


「まぁ、当然じゃね?」


「最初から無理だったし。」


 別の生徒が笑う。


「能力もないのに入学してきた時点で場違いだったよな。」


「黒崎に負けるのなんて最初から分かってたじゃん。」


「あはは、それな。」


 笑い声が重なる。


 誰も怒らない。


 誰も否定しない。


 話題はほんの数十秒で終わり、彼らは別の話を始めた。


 好きな店。


 次の授業。


 休日の予定。


 ハルのことなど、もう誰も話さない。


 画面の中の世界は、何事もなかったように時間が流れていく。


 ハルは何も言えなかった。


 一週間。


 たった七日。


 それだけで、自分は忘れられてしまった。


 仲間だと思っていたクラスメイトも。


 同じ教室で学んでいた生徒たちも。


 誰一人、自分のいないことを気にしていない。


(俺は……。)


 拳を握る。


 包帯越しでも分かるほど手が震えていた。


(そんな存在だったのか。)


 胸の奥が締め付けられる。


 あれほど憧れた学園。


 ようやく入学できた場所。


 必死に努力して認められようとした日々。


 その全てが、たった一週間で消えてしまった。


 モニターの向こうでは、今日も楽しそうな笑い声が響いている。


 その輪の中に、もう自分の居場所はなかった。



 モニターの映像が不意に切り替わる。


 教室。


 廊下。


 そして、学園の中庭。


 見慣れた噴水の前だった。


「……。」


 ハルの瞳が大きく揺れる。


 そこに映っていたのは、一人の少女。


 朝比奈美咲。


 紺色の制服を着て、風に長い髪を揺らしている。


 その姿を見た瞬間、ハルは無意識に立ち上がっていた。


「美咲……!」


 モニターへ駆け寄る。


 しかし、その距離は決して縮まらない。


 ガラス一枚の向こう。


 そこには、自分の知らない一週間後の世界があった。


 美咲は中庭のベンチへ腰掛け、誰かを待っているようだった。


 そして、その人物はすぐに姿を現す。


 黒崎仁。


 ゆっくりと歩み寄り、美咲の前で立ち止まる。


 ハルの胸が大きく脈打った。


(黒崎……。)


 美咲は立ち上がる。


 試験の日のように泣いてはいない。


 顔色も悪くない。


 制服も綺麗に着こなし、いつものように髪を整えている。


 あの日の涙の跡など、どこにも残っていなかった。


(一週間……。)


(時間は……ちゃんと進んでるんだ。)


 自分だけが止まったまま。


 世界は何事もなかったように動き続けている。


 黒崎が静かに口を開いた。


「調子はどうだ。」


 低く落ち着いた声。


 それに対し、美咲は小さく頷いた。


「はい。」


 短い返事。


 そして――。


 ふっと微笑んだ。


 ほんの少し。


 穏やかな笑みだった。


 ハルの呼吸が止まる。


「……。」


 信じられなかった。


 あの日、自分の前で泣き崩れていた美咲。


 あれほど苦しそうだった美咲。


 その美咲が、今は黒崎の前で笑っている。


 黒崎も、その笑顔を見て口元をわずかに緩めた。


 冷徹だった男が見せる、小さな笑み。


 二人はそのまま並んで歩き始める。


 他愛のない会話。


 何気ない相づち。


 時折聞こえる笑い声。


 まるで、それが当たり前の日常であるかのように。


 ハルは画面から目を離せなかった。


「……違う。」


 小さく呟く。


「違う……。」


 美咲はそんな子じゃない。


 きっと理由がある。


 黒崎に何か言われているだけだ。


 無理をして笑っているだけだ。


 そう思おうとする。


 そう信じようとする。


 しかし、画面の中の美咲は自然だった。


 作り笑いには見えない。


 無理をしているようにも見えない。


 黒崎と肩を並べ、穏やかに歩いている。


 その光景だけが現実として映し出されていた。


「……嘘だ。」


 ハルの声は震えていた。


「そんなはず……ない。」


 モニターの中では、二人の時間だけが静かに流れ続ける。


 その世界に、もう天城ハルの居場所はなかった。


 モニターの向こうで、二人の歩みが止まる。


 中庭の噴水。


 柔らかな風が美咲の髪を揺らした。


 黒崎は静かに美咲へ向き直る。


 その距離は、一歩。


 あと一歩踏み出せば触れられるほど近い。


「……。」


 ハルの呼吸が浅くなる。


 嫌な予感が胸を締め付けた。


(やめろ……。)


 黒崎がゆっくりと右手を持ち上げる。


 その手は迷いなく、美咲の肩へ触れた。


 優しく。


 まるで壊れ物を扱うように。


 ハルの瞳が揺れる。


「美咲……。」


 逃げろ。


 そう叫びたかった。


 その手を振り払え。


 俺のところへ戻ってこい。


 何度も心の中で叫ぶ。


 しかし――。


 美咲は逃げなかった。


 肩を震わせることも。


 手を払うことも。


 一歩後ろへ下がることもなかった。


 ただ静かに黒崎を見つめている。


「……なんで。」


 震える声が漏れる。


 黒崎は何も言わない。


 そのまま一歩、美咲へ近付く。


 そして。


 そっと彼女を抱き寄せた。


「っ……!」


 美咲の身体が黒崎の胸へ収まる。


 ハルは反射的にモニターへ駆け寄った。


 ガンッ!


 拳が画面へ叩きつけられる。


「やめろ……!」


 叫んだつもりだった。


 しかし喉は震えるだけで、ほとんど声にならない。


「や……めろ……。」


 拳を何度も叩きつける。


 ガンッ。


 ガンッ。


 ガンッ。


 モニターは何事もなかったように映像を流し続ける。


 画面の向こうでは、美咲は抵抗しない。


 抱き締められたまま、静かに目を閉じていた。


 ハルの頭が真っ白になる。


(違う。)


(これは違う。)


(何か理由がある。)


(そうだ。)


(黒崎に脅されているんだ。)


(だから……。)


 必死に理由を探す。


 そうでもしなければ、自分が壊れてしまう。


 その瞬間だった。


 黒崎が美咲の顎へそっと手を添える。


「……。」


 美咲は顔を上げる。


 二人の距離がゆっくりと縮まっていく。


 あと少し。


 あと数センチ。


 ハルは目を見開いた。


「やめろォォォッ!!」


 絶叫が独房へ響く。


 しかし、その声が届くことはない。


 二人の唇が重なる。


 静かに。


 ほんの数秒。


 それだけだった。


 だが。


 ハルには永遠にも思えた。


 時間が止まる。


 呼吸が止まる。


 鼓動が止まる。


 頭の中で何かが音を立てて崩れていく。


 指切りをしたあの日。


 「私は味方だから」と笑った美咲。


 「ハル君は一人じゃない」と涙を流した美咲。


 何度倒れても立ち上がれた理由。


 守りたかった未来。


 信じ続けた約束。


 そのすべてが、目の前で粉々に砕け散った。


「…………。」


 もう声は出なかった。


 モニターの前に膝をつき、力なく項垂れる。


 視界は涙で滲み、それでも残酷な映像だけは鮮明に映り続けていた。


 世界が、終わった。


 黒崎と美咲はゆっくりと距離を離した。


 ハルはその場に膝をついたまま、震える瞳でモニターを見つめている。


 頭が真っ白だった。


 耳鳴りだけが響く。


 その時だった。


 画面の外から数人のクラスメイトが二人へ近付いてくる。


「あれ、黒崎じゃん。」


「朝比奈さんもいる。」


 楽しそうな笑い声。


 昼休みの何気ない会話。


 一人の男子生徒が、ふと思い出したように口を開いた。


「そういえばさ。」


「天城ってどうしたんだっけ?」


 その名前を聞いた瞬間。


 ハルの身体がびくりと震える。


 胸の奥に、小さな希望が灯る。


(頼む……。)


 震える手を胸の前で握り締める。


(美咲。)


(頼む……。)


(お願いだ。)


(俺のことを忘れてないって……。)


 モニターの中で、美咲が静かに足を止めた。


「……。」


 少しだけ考えるように視線を落とす。


 ほんの数秒。


 その短い沈黙が、ハルには永遠にも感じられた。


 そして、美咲は顔を上げる。


「ハル君?」


 その名前を口にした。


 ハルの瞳に涙が浮かぶ。


(そうだ……。)


(美咲……。)


(やっぱり……。)


 まだ終わっていない。


 そう思った。


 次の瞬間。


 美咲はふっと小さく笑った。


 優しくも悲しくもない。


 どこか吹っ切れたような笑みだった。


「もうどうでもいい。」


 ――その一言だった。


 世界から音が消える。


 笑い声も。


 風の音も。


 何も聞こえない。


 ハルの思考は、そこで完全に止まった。


「…………。」


 口は開いたまま。


 何も言えない。


 何も考えられない。


 胸の奥が強く締め付けられる。


「……っ。」


 息を吸おうとする。


 吸えない。


 肺に空気が入らない。


 胸を押さえる。


 苦しい。


 痛い。


 心臓が潰されるような激痛。


「はっ……。」


 喉だけが震える。


 呼吸が続かない。


 視界が滲む。


 ぽたり。


 ぽたり。


 涙が床へ落ちていく。


「なんで……。」


 ようやく漏れた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。


「なんで……美咲……。」


 返事はない。


 モニターの中では、クラスメイトたちが笑いながら別の話題へ移っていた。


 もう誰も天城ハルのことを話さない。


 まるで、その存在自体が消えてしまったかのように。


 ハルの身体から力が抜ける。


 支えを失った人形のように、その場へ崩れ落ちた。


 冷たい床へ額をつけたまま、ただ涙だけが止めどなく流れ続けていた。


 ――ブツッ。


 突然、モニターが消えた。


 真っ白だった壁は再び冷たいコンクリートへ戻る。


 独房は静寂に包まれた。


 ハルは床へ倒れたまま動かない。


 涙だけが頬を伝い、コンクリートへ落ちていく。


 どれだけ時間が経ったのか分からない。


 何も考えられなかった。


 何も感じられなかった。


 もう、心は空っぽだった。


 その時。


 ガチャン。


 重い電子ロックが解除される音が響く。


 ゆっくりと鉄扉が開いた。


 そこへ、一人の老人が姿を現す。


 白髪交じりの短い髪。


 黒い軍服。


 年老いているにもかかわらず、その瞳だけは鋭く、まるで獲物を値踏みする猛禽のようだった。


 老人は倒れたハルを見下ろし、口元をわずかに歪める。


「歓迎しよう。」


 低く、落ち着いた声が独房へ響く。


「収容番号七四二。」


 ハルは反応しない。


 老人は気にする様子もなく続けた。


「ここは絶望した者だけが集められる場所だ。」


「夢を失い。」


「仲間を失い。」


「希望を失った者だけが、この地下へ送られる。」


 静かな口調だった。


 だが、その一言一言が胸へ突き刺さる。


 老人は一歩だけ近付く。


「安心しろ。」


「お前はもう人間として生きる必要はない。」


 ハルの瞳は虚ろなまま動かない。


「これからのお前は、人ではない。」


「兵器になる。」


 その言葉にも、ハルは何も返さなかった。


 怒りもない。


 悲しみもない。


 絶望すら、もう感じていなかった。


 ただ、ぼんやりと天井を見つめている。


 無機質なコンクリートの天井。


 そこには空も、光もなかった。


(……もう。)


 心の中で、小さく呟く。


(もう誰も信じない。)


 幼い日に交わした約束も。


 必死に積み重ねてきた努力も。


 信じ続けた人も。


 全部、失った。


 老人は静かに踵を返す。


「明日から教育を開始する。」


 それだけ告げると、独房を後にした。


 ガチャン。


 鉄扉が閉まる。


 ガチャン。


 電子ロックが作動する。


 再び静寂だけが独房を支配した。


 その日。


 天城ハルという少年は、希望を失った。


 そして、誰にも知られることなく――地下施設編が幕を開けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ