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幼馴染を寝取られ、学園に殺された無能力の俺は最強になって帰ってくる  作者: ワールド


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第12話  約束は終わった


 試験場を包む空気が、張り詰める。


 誰一人として言葉を発しない。


 風が砂をさらい、乾いた音だけが耳に届く。


 黒崎仁。


 一年主席。


 誰もが認める最強。


 その男が静かに木刀を構えた。


 力みはない。


 肩の力は抜け、呼吸も乱れていない。


 まるで散歩へ出掛ける前のような自然な立ち姿。


 それなのに。


 隙だけは一切存在しなかった。


 対する天城ハル。


 制服は破れ、全身には無数の傷。


 呼吸も荒い。


 額から流れる汗が頬を伝い、顎から地面へ落ちる。


 何度も逃げ続けた三十分。


 体力はとうに限界を迎えている。


 それでも、木刀だけは強く握り締めていた。


 震えているのは恐怖ではない。


 疲労だ。


 それでも手放さない。


 手放した瞬間、本当に終わると分かっているから。


 黒崎は静かに口を開いた。


「来い。」


 短い。


 ただ、その一言だけだった。


 挑発でもない。


 命令でもない。


 ただ、自分の前へ来いという事実だけを告げる。


 ハルは木刀を握り直した。


 ぎゅっと柄を握る音が小さく響く。


 大きく息を吸う。


 肺が痛む。


 全身が悲鳴を上げている。


 それでも、目だけは死んでいなかった。


「はい。」


 その返事と同時に、ハルは地面を蹴った。


 土が舞う。


 一気に間合いを詰める。


 迷いはない。


 今まで逃げ続けてきた。


 今だけは違う。


 真正面から。


 全力で。


 黒崎へ向かう。


「はぁぁぁぁぁっ!!」


 裂帛の気合い。


 木刀が一直線に振り下ろされる。


 無駄のない軌道。


 今のハルが出せる、最高の一撃だった。


 しかし――。


 カンッ。


 乾いた音が響く。


 黒崎は一歩も動かなかった。


 片手。


 たった片手だけで木刀を持ち上げ、ハルの渾身の一撃を軽く受け止めていた。


 衝撃すら感じていないようだった。


 表情も変わらない。


 息も乱れない。


 ハルの腕だけが震えていた。


(重い……!)


 木刀が動かない。


 押しても。


 力を込めても。


 まるで巨大な岩を押しているようだった。


 黒崎は静かにハルを見下ろす。


「終わりか。」


 その声には嘲りも怒りもない。


 ただ、事実を確認するような響きだけがあった。


「まだだ!」


 ハルは叫びながら木刀を引く。


 すぐに体勢を立て直し、横薙ぎへ切り替える。


 速い。


 普通の一年生なら反応できない速度。


 だが。


 黒崎は木刀をわずかに傾けるだけだった。


 またも受け流される。


 勢いを利用され、ハルの身体が大きく流れた。


 その一瞬。


 黒崎の右足が静かに前へ出る。


 無駄のない踏み込み。


 そして。


 ドンッ。


 鈍い音が響く。


 木刀の先端が、ハルの腹へ正確にめり込んだ。


「がっ……!」


 息が止まる。


 肺の空気が一瞬で押し出され、ハルは数メートル後方へ吹き飛んだ。


 背中から地面へ叩きつけられる。


 砂埃が舞い上がる。


 試験場が静まり返った。


 受験生たちは息を呑む。


 教師たちも無言。


 神崎だけが腕を組み、静かに戦いを見つめていた。


 ハルは苦しそうに咳き込む。


 腹を押さえながら、それでも木刀だけは離さない。


 ゆっくりと膝をつく。


 立ち上がろうとする。


 震える足。


 汗と血で汚れた制服。


 それでも。


 黒崎は同じ場所から一歩も動いていなかった。


 まるで今の一撃など、準備運動にもならなかったと言わんばかりに。


 美咲は、その光景を見て声を失う。


 たった一度。


 たった一合。


 それだけだった。


 なのに。


 誰の目にも分かった。


 これは勝負ではない。


 戦いですらない。


 埋めようのない実力差を、一方的に突きつける――ただそれだけの時間なのだと。





 ハルは腹を押さえながら立ち上がった。


 肺が焼けるように熱い。


 だが、まだ終われない。


 木刀を握る手に力を込める。


(一撃でもいい。)


(掠らせるだけでもいい。)


(あの人に、届けば――。)


 黒崎は微動だにしない。


 木刀を肩へ担ぐように構え、静かに待っていた。


「来ないのか。」


 その一言が、ハルの闘志へ火をつける。


「行きます!」


 地面を強く蹴る。


 砂が舞い上がる。


 一気に距離を詰めると、低い姿勢から踏み込んだ。


 相手の懐へ飛び込むような鋭い一歩。


 そして、その勢いを乗せた袈裟斬り。


「はあぁっ!」


 鋭く振り下ろされた木刀。


 しかし。


 カンッ。


 黒崎は最小限の動きで受け流した。


 力比べですらない。


 角度を少し変えただけで、ハルの剣は横へ流される。


「まだ!」


 その勢いを利用し、ハルは身体を反転させる。


 横薙ぎ。


 さらに返す刀で逆袈裟。


 連続攻撃。


 普通の受験生なら、防ぐだけで精一杯だ。


 だが。


 黒崎は半歩。


 半歩だけ下がる。


 それだけで全てが空を切った。


「浅い。」


 短い一言。


 次の瞬間。


 ドッ。


 木刀が腹へ突き刺さる。


「ぐっ!」


 息が止まり、ハルは後方へ吹き飛んだ。


 転がりながらも、すぐに受け身を取る。


 立つ。


 まだ終われない。


 今度は真正面。


 一直線の突き。


 最も速く、最も短い軌道。


 喉元を狙う。


「そこだ!」


 しかし。


 黒崎は首を少し傾けただけだった。


 突きは空を切る。


 そのまま木刀を絡め取られる。


 腕を引かれる。


 体勢が崩れた。


 肩。


 バシィッ!


 鈍い衝撃。


「がぁっ!」


 右肩へ木刀が叩き込まれる。


 腕が痺れた。


 握力が一瞬抜ける。


 木刀を落としそうになる。


 それでも歯を食いしばる。


(まだだ……!)


 距離を取る。


 呼吸を整える。


 黒崎は相変わらず同じ場所。


 一歩も追わない。


 汗一つかいていない。


「……終わりか。」


「違う!」


 ハルは叫ぶ。


 真正面から勝てない。


 ならば。


 左へ踏み込む。


 フェイント。


 黒崎の視線を誘導する。


 右へ切り返す。


 足払いと見せかけ、突きへ変化。


 今まで練習してきた連携。


 教師にも褒められた、自分なりの工夫。


 だが。


「見えている。」


 黒崎は動かなかった。


 いや。


 動く必要がなかった。


 フェイントに一切反応しない。


 本命だけを見極めている。


 突きが放たれた瞬間。


 木刀が弾かれた。


 カンッ!


 強烈な衝撃が腕へ走る。


 木刀が大きく跳ね上がる。


 完全な隙。


 黒崎は迷わない。


 肩。


 腹。


 脚。


 三連撃。


 バシッ!


 ドンッ!


 ガッ!


 肩へ。


 腹へ。


 そして膝の横へ。


 一撃一撃が正確すぎる。


 急所ではない。


 だが確実に戦闘能力を奪う場所だけを狙っている。


「ああぁっ!」


 脚から力が抜ける。


 膝をつく。


 その瞬間だった。


 黒崎の木刀が腹へ突き込まれる。


 ドォンッ!!


 ハルの身体が宙へ浮いた。


 数メートル先まで吹き飛び、何度も地面を転がる。


 砂煙が舞い上がる。


 静寂。


 誰も声を出せない。


 受験生たちは呆然と立ち尽くしていた。


「これが……。」


「一年主席……。」


「能力を使ってないぞ……。」


「剣だけだ……。」


 誰かが震えた声で呟く。


 神崎も腕を組んだまま、黙って見つめている。


 黒崎は木刀をゆっくり下ろした。


 呼吸は乱れない。


 額に汗も浮かばない。


 戦っているというより、技量の差を教えているような余裕だった。


 倒れたハルを見下ろし、静かに言う。


「遅い。」


 その一言だけだった。


 その言葉は、剣の一撃よりも重く、ハルの胸へ深く突き刺さった。




「ハル君!!」


 美咲の悲鳴が試験場に響き渡る。


 吹き飛ばされたハルは地面を何度も転がり、ようやく止まった。


 制服は土と血で汚れ、右腕は震えたまま動かない。


 呼吸をするたびに胸が軋む。


 腹へ受けた一撃が、内臓を揺らしていた。


 それでも。


 ハルは木刀を離さなかった。


 指先は痙攣している。


 握力もほとんど残っていない。


 それでも、その手だけは意地でも柄を握り締めている。


「……まだ。」


 掠れた声が漏れる。


 片膝を地面につく。


 震える脚へ力を込める。


 ゆっくりと。


 本当にゆっくりと立ち上がった。


 その姿を見て、受験生たちは息を呑む。


「まだ立つのか……。」


「もう無理だろ……。」


「身体が限界じゃないか。」


 誰もがそう思った。


 だが。


 天城ハルだけは諦めていなかった。


 黒崎は静かに木刀を構え直す。


 その目に驚きはない。


 ただ、倒れたはずの相手が再び立ったという事実を受け止めるだけだった。


「来い。」


 ハルは答えない。


 ただ前へ踏み出す。


 足はふらつき、真っ直ぐ歩くことさえ難しい。


 それでも一歩。


 また一歩。


 黒崎との距離を縮めていく。


「うおおおおおっ!!」


 最後の力を振り絞り、木刀を振り上げる。


 だが。


 黒崎は一歩踏み込む。


 バシッ。


 肩。


 鋭い一撃が落ちる。


「ぐっ!」


 腕の力が抜ける。


 続けざまに腹。


 ドンッ。


 息が止まる。


 さらに脚。


 ガッ!


 膝が折れた。


 ハルは再び地面へ倒れ込む。


「ハル君!!」


 美咲は思わず駆け出そうとした。


 しかし。


 黒崎の視線が一瞬だけ向く。


 その視線だけで身体が止まった。


 神崎の言葉が頭をよぎる。


『試験への介入は退学だ。』


 足が動かない。


 助けたい。


 でも動けない。


「お願い……!」


 涙が頬を伝う。


「もうやめて!!」


 叫びは空しく響くだけだった。


 ハルは地面へ手をつく。


 身体が言うことを聞かない。


 立ち上がれ。


 そう命令しても、脚は震えるだけだった。


 それでも。


 木刀を地面へ突き立てる。


 杖代わりに身体を支える。


 ギリッ。


 歯を食いしばる。


 腕が震える。


 脚も震える。


 全身が悲鳴を上げていた。


 それでも。


「……まだ。」


 立った。


 誰もが目を見開く。


 普通なら気絶している。


 普通なら戦えない。


 それでもハルは立っていた。


 黒崎はゆっくりと息を吐く。


 そして初めて、わずかに口を開いた。


「何度倒しても立つ。」


 静かな声だった。


「立つ理由は何だ。」


 試験場が静まり返る。


 誰もがハルを見る。


 ハルは肩で息をしながら、小さく笑った。


 唇の端から血が流れる。


 口の中には鉄の味が広がっていた。


 それでも目だけは黒崎を見据えている。


「約束……です。」


「……。」


「俺には……。」


 呼吸が乱れる。


 一言話すだけでも苦しい。


「守りたい約束が……あるんです。」


 その言葉を聞いた瞬間。


 美咲の瞳が大きく揺れた。


 幼い日の公園。


 夕焼け。


 小さな指同士を絡めた約束。


『俺、絶対に諦めない。』


『私もずっと応援するから。』


 あの日の景色が脳裏へ蘇る。


「ハル君……。」


 涙が止まらない。


 自分は何もできない。


 助けることも。


 止めることも。


 ただ見ていることしかできない。


 ハルは再び木刀を構えた。


 腕は震え、足元もおぼつかない。


 それでもその姿勢だけは崩さない。


 黒崎は静かに頷いた。


「そうか。」


 その一言だけだった。


 しかしその瞳には、先ほどまでとは違うものが宿っていた。


 実力は認めない。


 勝負にもなっていない。


 それでも。


 何度倒れても立ち上がる、その意志だけは認め始めていた。


 だからこそ――。


 黒崎はもう一度木刀を構える。


 今度は容赦なく、その約束ごと叩き折るために。


「お願い……。」


 美咲の声は震えていた。


 両手を胸の前で強く握り締める。


 祈ることしかできない。


「もうやめて……。」


 黒崎は何も答えない。


 静かに木刀を構えたまま、ハルだけを見つめている。


 ハルもまた、美咲の声には振り向かなかった。


 視線は黒崎だけ。


 もう身体は限界だ。


 それでも木刀を握り、前へ進む。


「お願いだから……。」


 涙が止まらない。


 頬を伝い、制服へ落ちていく。


 どうして。


 どうして止まってくれないの。


 黒崎さんも。


 ハル君も。


 私はもう十分だよ。


 勝てないことなんて誰が見ても分かる。


 もう立たなくていい。


 もう頑張らなくていい。


 そう叫びたいのに。


 誰も止まらない。


 ハルが一歩踏み出す。


 黒崎も静かに踏み込む。


 バシッ――。


 木刀が肩へ落ちる。


「ぐっ……!」


 ハルの身体が傾く。


 それでも倒れない。


 歯を食いしばり、踏み止まる。


 次の瞬間。


 腹へ一撃。


「がはっ!」


 口から血が飛び散る。


 身体が折れ曲がる。


 それでも木刀は離さない。


「やめてぇぇぇぇ!!」


 美咲は叫ぶ。


 試験場中へ響くほどの声だった。


 それでも黒崎は止まらない。


 ハルも止まらない。


 脚。


 肩。


 腹。


 正確な一撃が積み重なるたび、ハルの身体は少しずつ壊れていく。


 美咲は目を覆うこともできなかった。


 見なければならない。


 逃げてはいけない。


 そう思っているのに。


 胸が苦しい。


 呼吸ができない。


 視界が涙で滲む。


 その時だった。


 頭の中へ、あの日の景色が浮かぶ。


 夕焼けの公園。


 小さな頃のハル。


『能力がなくても、俺は諦めない。』


 笑っていた。


 何も持っていないのに。


 それでも前だけを見ていた。


 その隣で、自分は笑っていた。


『大丈夫。』


『私は味方だから。』


 指切りをした。


『ハル君は一人じゃない。』


 約束した。


 絶対に一人にはしないって。


「違う……。」


 美咲は首を振る。


「こんなの違うよ……。」


 約束は守るはずだった。


 どんな時も隣にいるはずだった。


 なのに。


 今の私は。


 何もできない。


「私……。」


 足を前へ出そうとする。


 一歩。


 あと一歩だけ。


 それだけでハル君のところへ行ける。


 けれど。


 足は止まった。


 神崎の言葉。


『試験への介入は退学だ。』


 家族。


 母。


 父。


 地下施設。


 様々な言葉が頭の中を駆け巡る。


 助けたい。


 でも。


 助けられない。


 身体が動かない。


「ごめん……。」


 小さく呟いた。


 誰にも聞こえないほど小さな声だった。


 その間にも。


 ハルはまた立ち上がる。


 木刀を杖代わりにして。


 膝を震わせながら。


 一歩。


 また一歩。


 黒崎へ向かっていく。


「どうして……。」


 美咲は泣き崩れそうになる。


「どうしてそんなに頑張るの……。」


 その答えを、美咲は知っていた。


 約束だ。


 自分との約束。


 あの日交わした、小さな約束。


 だからこそ胸が締め付けられる。


 約束を守ろうとしているのはハルだけ。


 私は。


 私は何をしているの。


 涙が止まらない。


 呼吸も乱れる。


 膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。


 拳で地面を叩く。


「お願い……。」


「もうやめて……。」


「お願いだから……。」


 何度願っても。


 その声は、二人には届かなかった。



 肩で荒い息を繰り返す。


 肺は焼けるように熱い。


 腕は痺れ、脚は震え、全身の感覚が少しずつ遠のいていく。


 それでも。


 天城ハルは木刀を離さなかった。


 黒崎は静かに立っている。


 構えは最初から変わらない。


 呼吸も乱れず、汗一つ流していない。


 その姿は、まるで今までの攻防など何事もなかったかのようだった。


「終わりか。」


 静かな問いだった。


 しかしハルはゆっくりと首を横へ振る。


「……まだ。」


 その一言だけで十分だった。


 黒崎は何も言わない。


 ただ木刀を構え直す。


 ハルも木刀を握り直した。


 指先の感覚はもうない。


 それでも握る。


 離せば終わる。


 離したくない。


(最後だ。)


(この一撃だけ。)


(約束だけは……。)


 大きく息を吸う。


 そして。


「うおおおおおおっ!!」


 全身の力を振り絞って地面を蹴る。


 足裏が裂けるように痛む。


 腕が悲鳴を上げる。


 それでも止まらない。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 一気に間合いへ飛び込む。


 木刀を大きく振りかぶる。


 今までで一番速い。


 今までで一番重い。


 今までで一番強い。


 渾身の一撃。


「はあぁぁぁぁぁっ!!」


 木刀が黒崎へ振り下ろされる。


 その瞬間だった。


 黒崎は一歩だけ前へ出た。


 たった一歩。


 それだけでハルの間合いは完全に崩れる。


 カンッ――。


 鋭い音が試験場へ響く。


 木刀が弾かれた。


「っ!」


 衝撃で両腕が大きく開く。


 完全な隙。


 黒崎は迷わない。


 身体を半回転。


 腰の回転を乗せた木刀が一直線に放たれる。


 ドォンッ!!


「がはっ……!」


 腹へ。


 今までで最も重い一撃だった。


 内臓が押し潰されるような衝撃。


 肺の空気が一瞬で吐き出される。


 ハルの身体が宙へ浮いた。


 数メートル吹き飛び、背中から地面へ叩きつけられる。


 砂煙が舞う。


 誰も声を出せない。


 静寂だけが広がった。


 ハルは動かない。


 いや。


 動けない。


 身体が言うことを聞かなかった。


 それでも。


 右手だけは木刀を握り締めている。


 ゆっくりと顔を上げる。


 霞む視界の先。


 黒崎が歩いてくる。


 一歩。


 また一歩。


 一定の歩幅。


 焦る様子もない。


 ハルの前で立ち止まる。


 木刀を静かに持ち上げた。


 切っ先がハルの喉元へ向けられる。


 あと数センチ踏み込めば勝負は終わる。


 誰が見ても決着だった。


 神崎も。


 受験生たちも。


 美咲も。


 全員が理解する。


 これ以上は続けられない。


 ハルは苦しそうに息を吸う。


 肺へ空気が入らない。


 口の端から血が流れる。


 それでも。


 小さく笑った。


「……まだ。」


 掠れた声。


「まだ……負けてません。」


 試験場が静まり返る。


 誰も言葉を失った。


 そこまでして。


 そこまで傷ついて。


 それでも諦めない。


 黒崎はしばらくハルを見つめていた。


 その瞳に怒りはない。


 嘲笑もない。


 ただ、事実だけを見据える冷静な眼差し。


 そして静かに口を開く。


「負けだ。」


 短い一言。


 感情は込められていない。


 勝者の誇示でもない。


 敗者への侮辱でもない。


 ただ、この勝負の結末を告げる宣告だった。


 ハルは喉元へ突きつけられた木刀を見つめる。


 握った木刀へ力を入れようとする。


 だが。


 もう腕は動かなかった。


 その瞬間。


 天城ハルの戦いは終わった。


 静寂が試験場を包む。


 砂煙がゆっくりと晴れていく。


 地面には、仰向けに倒れたハルがいた。


 呼吸は浅く、荒い。


 胸が上下するたびに痛みが全身を駆け巡る。


 それでも右手は木刀を握ったままだった。


 黒崎はそんなハルを静かに見下ろしていた。


 勝者の笑みはない。


 誇らしさもない。


 ただ、現実を見つめる者の目だった。


「これが現実だ。」


 低く、静かな声が響く。


 ハルは薄く目を開ける。


 霞む視界の中で、黒崎だけを見つめ返した。


「努力を否定するつもりはない。」


 黒崎は続ける。


「努力する者は尊い。」


「諦めず立ち続けたお前は立派だ。」


 受験生たちがざわめく。


 一年主席が、敗者を認めている。


 そんな光景は誰も想像していなかった。


 しかし。


 黒崎の言葉はそこで終わらない。


「だが。」


 一言だけで空気が変わる。


「努力だけでは守れない。」


 静まり返る試験場。


 黒崎は周囲の受験生たちも見渡すように言葉を続ける。


「この世界では、理想だけでは生き残れない。」


「願うだけでは救えない。」


「覚悟だけでは届かない。」


 一歩。


 黒崎はハルへ近づく。


「力が全てではない。」


 その言葉に、一瞬だけ受験生たちは戸惑う。


 能力至上主義の世界で、一年主席が「力が全てではない」と言ったからだ。


 しかし黒崎はすぐに続ける。


「だが。」


「力がなければ守れない。」


 その一言には迷いがなかった。


「守りたい者がいるなら。」


「守る資格を得るための力が必要だ。」


「現実は、それほど優しくない。」


 ハルは唇を噛む。


 反論したい。


 立ち上がりたい。


 だが身体は動かない。


 黒崎はゆっくりと木刀を下ろした。


 そして初めて、ハルから視線を外す。


 その先にいたのは、美咲だった。


 涙で顔を濡らし、その場に立ち尽くしている少女。


 黒崎の表情がわずかに和らぐ。


 先ほどまでハルへ向けていた冷たい眼差しではない。


 どこか諭すような、穏やかな瞳だった。


「見ただろ。」


 美咲は肩を震わせる。


 返事はできない。


「これが現実だ。」


 黒崎の声は責めるものではなかった。


 事実を伝えるだけの口調だった。


「大切な人を守りたい。」


「その気持ちは間違っていない。」


「だが、その気持ちだけでは守れない。」


 美咲の視線がゆっくりとハルへ向く。


 倒れたまま動けない幼馴染。


 助けることもできなかった。


 約束を守ることもできなかった。


 胸が締め付けられる。


 黒崎は静かに一歩だけ美咲へ近づいた。


「次は、お前だ。」


 美咲の身体が小さく震える。


 黒崎は真っ直ぐ美咲を見つめた。


 その瞳には命令も威圧もない。


 あるのは問いかけだけだった。


「大切な人を守りたいか。」


 その一言が、美咲の心を大きく揺らした。


 返事はできない。


 涙だけが止めどなく頬を伝っていた。



 試験場は静まり返っていた。


 誰も口を開かない。


 倒れたハル。


 涙を流す美咲。


 そして、その二人を静かに見つめる黒崎。


 しばらくの沈黙のあと。


 黒崎がゆっくりと口を開いた。


「来い。」


 その一言だけだった。


 美咲は顔を上げる。


 涙で滲む視界の先に黒崎がいる。


 黒崎は穏やかな表情のまま続けた。


「強くしてやる。」


 短い言葉だった。


 だが、その言葉には確かな自信があった。


「……。」


 美咲は何も答えられない。


 首を横へ振る。


「いや……。」


 震える声。


「そんなの……。」


 視線は自然とハルへ向く。


 地面へ倒れた幼馴染。


 血に汚れた制服。


 それでも木刀だけは離していない。


 胸が締め付けられる。


 脳裏に浮かぶのは、幼い日の約束だった。


『私はずっと味方だから。』


『ハル君は一人じゃない。』


 夕焼けの公園。


 指切り。


 二人で笑い合った日々。


 その思い出が、美咲の心を縛る。


「私は……。」


 涙が溢れる。


 約束を守りたい。


 ずっと隣にいたい。


 そう思っていた。


 でも。


 今日、自分は何をした。


 助けられなかった。


 手を伸ばすことさえできなかった。


 家族の顔が浮かぶ。


 母。


 父。


 神崎の言葉。


『試験へ介入すれば退学だ。』


 恐怖。


 迷い。


 そして。


 何もできなかった自分。


「ごめん……。」


 誰へ向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。


 黒崎は静かに言う。


「今日だけでは終わらない。」


 美咲が顔を上げる。


「次も同じだ。」


 一言ずつ。


 現実を突きつけるように。


「お前は泣く。」


「守れない。」


「目の前で、大切な人を失う。」


 美咲の肩が大きく震えた。


 否定したい。


 そんな未来は来ないと言いたい。


 しかし。


 今日という現実が、その言葉を許さなかった。


 ハルは倒れている。


 自分は助けられなかった。


 それが答えだった。


 黒崎はゆっくりと右手を差し出す。


「それでもここに残るか。」


 静かな問いだった。


 試すような声ではない。


 選択を委ねる声。


 美咲はその手を見る。


 そして。


 もう一度ハルを見る。


 動かない。


 立ち上がれない。


 それでも、ハルはどこか満足そうに木刀を握っていた。


 その姿が、美咲の胸を締め付ける。


(ごめん……。)


(ごめんね……。)


(約束……守れなかった。)


 涙が止まらない。


 視界が歪む。


 唇を強く噛み締める。


 何度も首を横へ振る。


 嫌だ。


 離れたくない。


 一緒にいたい。


 でも――。


(このままじゃ。)


(私はまた同じことを繰り返す。)


(また守れない。)


 震える右手が、ゆっくりと持ち上がる。


 あと少し。


 あと少しで届く距離。


 手は何度も止まった。


 それでも。


 最後には前へ伸びた。


 震える指先が、黒崎の差し出した手へ触れる。


 そして。


 ぎゅっと、その手を握った。


 その瞬間。


 美咲は声を押し殺しながら泣き崩れた。



 身体が動かない。


 指一本すら思うように動かせなかった。


 呼吸をするだけで胸が痛む。


 視界は滲み、世界の輪郭がぼやけていく。


 耳に入る音も遠い。


 それでも。


 ただ一人だけ。


 美咲の姿だけは見失わなかった。


「……美咲。」


 掠れた声が漏れる。


 美咲は泣いていた。


 肩を震わせ、何度も涙を拭う。


 それでも涙は止まらない。


 俯いたまま立ち尽くしている。


(よかった……。)


(まだそこにいてくれる。)


 そう思った。


 次の瞬間だった。


 美咲がゆっくりと歩き出す。


 一歩。


 また一歩。


 向かう先は――。


 黒崎だった。


「……。」


 ハルの思考が止まる。


 違う。


 きっと違う。


 何か理由がある。


 そう自分へ言い聞かせる。


 だが。


 美咲の足は止まらない。


 涙を流しながら。


 ゆっくりと黒崎へ近付いていく。


 その途中で。


 膝から力が抜けた。


 身体が前へ倒れる。


 黒崎は何も言わず、一歩前へ出る。


 倒れかけた美咲の身体を静かに支えた。


 美咲は抵抗しなかった。


 そのまま黒崎の胸へ額を預ける。


 押し殺していた嗚咽が、一気に溢れ出す。


「……っ……。」


 肩を震わせながら泣き続ける。


 黒崎は何も言わない。


 ただ、美咲が倒れないよう支えているだけだった。


 けれど。


 倒れたハルには。


 その光景は違って見えた。


 黒崎へ寄り添う美咲。


 黒崎へ身を預ける美咲。


 その姿だけが、ぼやけた視界へ焼き付く。


「……美咲?」


 小さく名前を呼ぶ。


 聞こえているはずだ。


 幼い頃から何度も呼んできた名前。


 嬉しい時も。


 悲しい時も。


 いつも返事をくれた。


 でも。


 返事はなかった。


 美咲は俯いたまま動かない。


 ハルの声へ振り向くこともできない。


 その沈黙が、何より残酷だった。


 黒崎は静かに美咲の肩へ手を添える。


「行くぞ。」


 短い一言。


 美咲は小さく頷いた。


 二人はゆっくりと歩き始める。


 ハルから離れるように。


 一歩。


 また一歩。


 距離が開いていく。


(待って。)


 そう言いたい。


 身体を起こしたい。


 追い掛けたい。


 だが。


 身体は動かない。


 声も出ない。


 ただ見ていることしかできなかった。


「……み、さき。」


 もう一度だけ名前を呼ぶ。


 その声に。


 美咲の足が止まった。


 ゆっくりと振り返る。


 二人の視線が重なる。


 涙で濡れた瞳。


 何かを伝えたいように唇が震えている。


 ごめん。


 そう言おうとしたのかもしれない。


 違う。


 そう伝えたかったのかもしれない。


 けれど。


 何一つ言葉にはならなかった。


 ただ涙だけが頬を伝い落ちる。


 その涙の意味を。


 今のハルには知ることができない。


 美咲は唇を強く噛み締める。


 そして。


 もう一度だけ黒崎の方へ向き直った。


 歩き出す。


 一歩。


 また一歩。


 今度は振り返らなかった。


 その背中は少しずつ遠ざかり。


 やがて、人混みの向こうへ消えていった。


 ハルはただ、その後ろ姿を見つめ続けることしかできなかった。


 まるで、自分だけが世界に置き去りにされたようだった。



 身体はもう動かなかった。


 立ち上がることも。


 声を張り上げることも。


 何一つできない。


 それでも。


 ハルは震える右手をゆっくりと前へ伸ばした。


「……。」


 あと少し。


 あと少しだけ届けば。


 そんな思いで指先を伸ばす。


 しかし。


 届かない。


 指先は虚しく空を掴むだけだった。


 遠ざかっていく背中。


 並んで歩く二人。


 黒崎。


 そして、美咲。


 ぼやけた視界の中でも、その姿だけははっきり見えた。


(違う。)


(美咲はそんな人じゃない。)


 心のどこかで、そう信じようとする。


 幼い頃からずっと一緒だった。


 能力がないと笑われても。


 石を投げられても。


 誰も味方になってくれなくても。


 美咲だけは違った。


『私は味方だから。』


『ハル君は一人じゃない。』


 その言葉だけを支えに生きてきた。


 世界中が敵になっても。


 美咲だけは味方だと。


 そう信じていた。


 ずっと。


 最後まで。


 信じていた。


 だからこそ。


 目の前の光景を理解できなかった。


 どうして。


 どうして美咲が。


 どうして黒崎の隣を歩いている。


 何か理由がある。


 そう思いたかった。


 でも。


 理由を聞くこともできない。


 追い掛けることもできない。


 手を伸ばしても。


 届かない。


「……みさき。」


 最後に名前を呼ぶ。


 その声は掠れ、風に溶けて消えた。


 返事はなかった。


 美咲はもう振り返らない。


 二人の姿は少しずつ小さくなり。


 やがて試験場の出口へ消えていく。


 残されたのは。


 静まり返った試験場と。


 地面へ倒れた一人の少年だけだった。


 ハルはゆっくりと拳を握る。


 悔しさ。


 無力さ。


 悲しさ。


 その全てが胸の奥で渦巻いていた。


 頬を、一筋の涙が静かに伝う。


 誰にも気付かれないまま。


 地面へ落ちて消えた。


 その日。


 天城ハルは初めて、「力」ではなく、「信じていた人」を失った。

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