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幼馴染を寝取られ、学園に殺された無能力の俺は最強になって帰ってくる  作者: ワールド


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第11話 約束の代償

 張り詰めた空気が、試験場全体を包み込んでいた。


 黒崎仁。


 一年主席。


 その名を知らない者はいない。


 そして、その黒崎と向かい合う一人の少年。


 天城ハル。


 世界で唯一の無能力者。


 全身は土埃にまみれ、制服はところどころ裂けている。腕には無数の擦り傷が刻まれ、頬には乾き始めた血が赤黒く残っていた。


 それでも、その瞳だけは死んでいない。


 ハルは静かに木刀を握り締めていた。


 黒崎もまた、無駄のない動きで木刀を構える。


 二人の間に言葉はない。


 互いの視線だけが交差していた。


「……ハル君。」


 美咲は小さく呟く。


 返事はない。


 聞こえていないのか、それとも聞こえていても振り返らないのか。


 どちらでもよかった。


 今のハルには、自分しか見えていない。


 目の前に立つ黒崎だけを見つめている。


(駄目……。)


 胸の奥で警鐘が鳴る。


(このままじゃ駄目。)


 回想の中で見た、小さなハルの笑顔が頭をよぎる。


 能力がなくても笑っていたハル。


 両親を亡くして泣きじゃくったハル。


 夕焼けの公園で、小指を差し出しながら笑ったハル。


 その全部が、目の前の傷だらけの背中と重なる。


(止めなきゃ。)


 そう思った瞬間、美咲は一歩踏み出そうとした。


 しかし――。


「っ……。」


 足が動かない。


 まるで地面に縫い付けられたようだった。


 もう一度、力を込める。


 動け。


 お願いだから。


 ハル君のところへ。


 それなのに、膝が小さく震えるだけだった。


(どうして……。)


 悔しかった。


 さっきまで、あれほど強く思っていたのに。


 『何があっても止める。』


 『退学になっても構わない。』


 そう覚悟したはずだった。


 なのに、体は言うことを聞かない。


 喉が締め付けられる。


 呼吸が浅くなる。


 視界が揺れる。


 心臓だけが嫌になるほど速く鼓動を打っていた。


 目の前では、黒崎が静かに木刀を持ち上げる。


 その姿を見た瞬間、美咲の中で何かが切れた。


「ハル君っ!」


 思わず叫ぶ。


 その声に、ハルの肩がほんのわずかに揺れた。


 けれど、それだけだった。


 振り返らない。


 歩みも止めない。


 ただ前だけを見つめている。


 美咲は唇を強く噛み締めた。


(お願い……。)


(お願いだから振り向いて。)


(もう約束なんていい。)


(諦めてもいい。)


(逃げてもいい。)


(だから……。)


(生きて。)


 その言葉は喉まで出かかった。


 けれど、声にならない。


 涙だけが頬を伝って落ちる。


 目の前にいるのは、自分が誰よりも知っているハルだった。


 一度決めたことは曲げない。


 誰に止められても。


 何を失っても。


 最後までやり遂げる。


 それが天城ハルという人間だった。


 だからこそ、美咲は分かってしまう。


 今さら言葉だけでは止まらない。


 それでも。


 それでも助けたい。


 助けたい。


 助けたい。


 その想いだけが、美咲の胸の中で何度も何度も叫び続ける。


 震える足を無理やり前へ出そうとした、その瞬間だった。


「――それ以上、前へ出るな。」


 静かな声が、美咲の動きを止めた。





 美咲は震える足を無理やり前へ踏み出した。


 一歩。


 たった一歩だった。


 それだけでいい。


 ハルのところまで行って、この戦いを止める。


 約束なんてどうでもいい。


 試験なんてどうでもいい。


 退学になってもいい。


 ハルさえ生きていてくれるなら、それでよかった。


 そう思っていた。


 その瞬間だった。


「――止まれ。」


 低く、よく通る声が試験場に響いた。


 黒崎だった。


 振り返りもしない。


 ハルから視線を外さないまま、美咲だけに向けて言葉を放つ。


 その一言だけで、美咲の足は止まった。


 それでも首を横に振る。


「嫌です……!」


 涙で滲んだ視界の先にいるのは、傷だらけのハルだった。


 これ以上戦えばどうなるのか。


 そんなことは誰よりも分かっていた。


「ハル君が死んじゃいます!」


 声が裏返る。


 悲鳴にも近かった。


 試験場にいた能力者たちも、その叫びに息を呑む。


 しかし黒崎は動じない。


 静かに木刀を構えたまま告げる。


「一歩でも試験区域へ入れば、お前も試験参加者と見なされる。」


 美咲は理解できなかった。


「そんなの関係ありません!」


 涙を拭うこともせず叫ぶ。


「退学でも何でもいいです!」


「私はハル君を助けたいだけなんです!」


 初めて黒崎が口を閉じる。


 短い沈黙。


 風だけが二人の間を吹き抜けた。


 そして、黒崎は静かに言った。


「関係ある。」


 その二文字。


 たったそれだけだった。


 けれど、その場の空気が一変する。


 先ほどまで戦闘だけを見守っていた受験生たちも、教師たちも、誰一人として声を出さない。


 黒崎の声音が変わっていた。


 怒っているわけではない。


 脅しているわけでもない。


 ただ、事実だけを告げる人間の声だった。


 美咲は唇を噛み締める。


「関係ありません……!」


「私は……。」


「私はハル君を助けるって決めたんです!」


 そう叫ぶと同時に、再び前へ出ようとする。


 だが、その瞬間。


 黒崎がゆっくりと振り返った。


 鋭い眼差し。


 冷たいわけではない。


 感情が読めない。


 その瞳には迷いが一切なかった。


 美咲は思わず息を呑む。


 黒崎は真っすぐ美咲を見つめたまま言う。


「朝比奈美咲。」


 名前を呼ばれた。


 それだけで、美咲の身体が強張る。


「お前は試験の内容を理解しているか。」


「……。」


「答えろ。」


 美咲は小さく頷いた。


「はい……。」


「ではもう一度聞く。」


 黒崎の声は静かだった。


 だからこそ恐ろしい。


「それでも踏み込むのか。」


 美咲は迷わなかった。


「行きます!」


「ハル君を助けます!」


 黒崎は目を閉じ、小さく息を吐く。


 そして再び口を開いた。


「なら、お前は退学になる。」


 退学。


 その言葉に、美咲は一瞬だけ表情を曇らせる。


 しかし、すぐに叫び返した。


「それでも構いません!」


「ハル君が助かるなら!」


 黒崎は否定もしない。


 肯定もしない。


 ただ静かに美咲を見つめる。


「……そうか。」


 その一言だけだった。


 だが、その声にはどこか諦めにも似た響きが混じっていた。


 そして黒崎は、ゆっくりと次の言葉を口にする。


「なら、お前はまだ何も知らない。」


 美咲は眉をひそめる。


「……え?」


 黒崎は再びハルへ視線を戻す。


 木刀を握る手は微動だにしない。


 静寂が流れる。


 その静寂を破るように、黒崎は低く告げた。


「この学園で『退学』が何を意味するのか。」


 その言葉に、美咲の心臓が大きく脈打った。



 美咲の鼓動だけが耳の奥で響いていた。


 退学。


 その言葉くらいなら、何度も聞いたことがある。


 学校を辞めること。


 夢を諦めること。


 それくらいの意味だと思っていた。


 だからこそ、美咲は迷わず答えた。


「それでも構いません。」


「ハル君を助けられるなら……。」


 黒崎は首を横に振る。


「違う。」


 その一言で、美咲は言葉を失った。


 黒崎はハルから目を離さないまま、淡々と続ける。


「この学園でいう退学は、学校を去ることではない。」


「国家能力管理法第三十二条。」


「学園の試験を妨害した者、または重大な規律違反を犯した者は、能力育成資格を永久に剥奪される。」


 聞き慣れない法律の名前。


 教師たちは何も口を挟まない。


 誰も否定しない。


 つまり、それは事実だった。


 美咲は乾いた唇を動かす。


「永久に……?」


「ああ。」


「二度と学園へ戻ることはできない。」


 黒崎は静かに続ける。


「資格を失った者は、全員『地下施設』へ送られる。」


「……地下施設?」


 初めて聞く言葉だった。


 美咲は困惑した表情を浮かべる。


 そんな施設の存在など、授業でも教わったことはない。


 ニュースでも見たことがない。


 黒崎はわずかに目を細めた。


「知らされていないのは当然だ。」


「一般市民が知る必要のない施設だからだ。」


 その言葉に、美咲の背筋が冷たくなる。


「地下施設は、能力社会を維持するための国家管理施設。」


「そこへ送られた者は、一生、国家の管理下で生活する。」


 美咲は小さく首を振る。


「そんな……。」


「嘘ですよね……?」


「そんな施設……。」


 黒崎は即座に答えた。


「嘘ではない。」


 その声には一切の揺らぎがない。


「能力の研究補助。」


「危険区域での保守作業。」


「災害地域での復旧任務。」


「能力災害発生時の支援。」


「施設維持のための労務。」


「退学者は、それらの任務へ順次配置される。」


 黒崎は事実だけを並べていく。


 そこには感情も同情もない。


 まるで教科書を読み上げているようだった。


「生活区域は地下。」


「外出は許可制。」


「国家管理下で生活を続ける。」


「能力が有効活用できると判断される限り、その配置は続く。」


 美咲の呼吸が乱れる。


「そんなの……。」


「刑務所じゃないですか……。」


「違う。」


 黒崎は静かに否定する。


「刑罰ではない。」


「国家制度だ。」


「能力社会を維持するための。」


 その一言が、かえって恐ろしかった。


 悪意があるわけではない。


 罰を与えたいわけでもない。


 ただ、それがこの世界の仕組み。


 だからこそ覆らない。


 美咲は試験場を見渡した。


 教師たちは無言だった。


 神崎も止めない。


 受験生たちも驚いた表情を浮かべながら、誰一人「そんな話は聞いたことがない」と反論しない。


 つまり、知っている者は知っている。


 知らないのは、自分だけだった。


 美咲は震える声で尋ねる。


「……戻ってきた人は?」


 黒崎は沈黙した。


 数秒後、小さく答える。


「俺は知らない。」


「少なくとも、この学園で地下施設から復帰した者を見たことはない。」


 その言葉だけで十分だった。


 戻れない。


 それは制度上の話ではなく、現実なのだ。


 美咲の膝から力が抜ける。


 もし今、自分が試験区域へ飛び込めば。


 退学になる。


 地下施設へ送られる。


 ハルを助けられたとしても、自分はもう二度と今までの日常へ戻れない。


 その事実が、ようやく美咲の胸に重くのしかかった。


 黒崎は再び木刀を握り直す。


 視線はハルへ向けられたまま。


 それでも最後に一つだけ、美咲へ告げる。


「覚悟とは、何を守り、何を失うかを知った上で下す決断だ。」


「知らないまま飛び込むことは、勇気ではない。」


「ただの無謀だ。」


 試験場は静まり返っていた。


 誰も言葉を発しない。


 美咲だけが立ち尽くし、目の前の現実を受け止めきれずに震えていた。




 美咲はその場に立ち尽くしていた。


 前にはハルがいる。


 手を伸ばせば届く距離ではない。


 けれど、走ればすぐに辿り着ける。


 試験区域を示す白い線など、ほんの数歩先だった。


 あれを越えればいい。


 ただそれだけで、ハルの隣へ行ける。


 黒崎の前に立って、両手を広げればいい。


 自分が盾になれば、この戦いを止められるかもしれない。


 頭では分かっている。


 やるべきことも分かっている。


 それなのに。


 足は地面に縫い付けられたように動かなかった。


(助けなきゃ。)


 胸の中で、もう一人の自分が叫ぶ。


(早く。)


(ハル君が傷つけられる前に。)


(今すぐ行かなきゃ。)


 美咲は右足に力を込めた。


 靴底がわずかに地面を擦る。


 半歩。


 本当に小さな一歩だった。


 それでも白い線は、先ほどより近くなった。


 あと少し。


 もう一歩。


 もう一歩踏み出せばいい。


 その瞬間。


 黒崎の言葉が蘇った。


 ――資格を失った者は、全員地下施設へ送られる。


 ――地下施設から復帰した者を、俺は知らない。


 美咲の足が止まる。


 目の前の景色が、一瞬で暗くなったような気がした。


 地下。


 窓のない部屋。


 日の光も差し込まない場所。


 そこへ連れていかれ、二度と地上へ戻れない。


 朝になっても太陽を見ることはできない。


 家へ帰ることもできない。


 学校にも行けない。


 友達にも会えない。


 父と母の声を聞くことすらできなくなるかもしれない。


(そんなの……。)


(怖い。)


 その感情を自覚した瞬間、美咲の胸が強く締め付けられた。


 助けたい。


 ハルを助けたい。


 それは嘘ではない。


 なのに、自分が地下へ送られる姿を想像しただけで、足が震えた。


(私……。)


(怖いって思ってる。)


 その事実が、美咲自身を責め立てる。


 ハルは目の前で命を懸けている。


 世界で唯一の無能力者であるハルが、百二十四人の能力者から逃げ続け、傷だらけになりながらも立っている。


 それなのに自分は。


 たった一歩が踏み出せない。


(最低だ。)


(私、最低だ。)


 涙が頬を伝う。


 その雫が地面へ落ちた瞬間、遠い日の記憶が蘇った。


 能力測定の日。


 まだ何も知らなかった頃。


 教室の中央で、一人ずつ能力を披露していた。


 火を出す者。


 風を起こす者。


 物を浮かせる者。


 子供たちは自分の能力に目を輝かせ、教師も笑顔で記録を取っていた。


 けれど、ハルの番だけは違った。


 何度測定器に手を置いても、反応はなかった。


 教師が機械を変えても。


 時間を置いて測り直しても。


 結果は同じだった。


 無反応。


 能力値、ゼロ。


 教室に奇妙な沈黙が落ちた。


 やがて誰かが言った。


 ――無能力者だ。


 それをきっかけに、小さな声が教室中へ広がっていった。


 ――本当に何もないの?


 ――かわいそう。


 ――能力がない人なんているんだ。


 ハルは何も言わなかった。


 ただ俯いて、自分の手のひらを見つめていた。


 放課後。


 公園のベンチに座ったハルへ、美咲はいつものように声をかけた。


 ――帰ろ!


 けれど、ハルは首を横に振った。


 ――帰りたくない。


 あの日、美咲には何と声をかければいいのか分からなかった。


 大丈夫と言うことも。


 気にしないでと言うことも。


 きっと違うと思った。


 だから何も言わず、ハルの隣へ座った。


 二人で夕焼けを眺めた。


 それだけだった。


 それでも、帰る頃にはハルの表情が少しだけ柔らかくなっていた。


(あの時は……。)


(隣にいるだけでよかった。)


 美咲は目の前のハルを見る。


 今は違う。


 ただ見守るだけでは何も変わらない。


 黙って隣に座ることもできない。


 今度こそ、自分から歩み寄らなければならない。


 そう思った瞬間、足に再び力が戻った。


(行かなきゃ。)


 美咲は顔を上げる。


 黒崎は何も言わない。


 止めることも。


 急かすことも。


 ただ美咲がどんな選択をするのか、静かに待っている。


 その沈黙が、かえって苦しかった。


 誰かに止めてほしかった。


 行くなと言ってほしかった。


 そうすれば、自分は命令に従っただけだと言い訳できる。


 反対に、行けと言ってほしかった。


 そうすれば、迷わずハルのところへ走れたかもしれない。


 けれど、黒崎は何も言わない。


 決めるのは美咲自身だった。


 美咲は白い線へ向かって、もう一度足を上げる。


 その時だった。


 今度は別の記憶が蘇る。


 黒い服を着た大人たち。


 白い花。


 煙の匂い。


 ハルの両親の葬儀。


 大勢の人間がいた。


 誰もが悲しそうな顔をしていた。


 けれど、誰一人としてハルの隣へ座ることはできなかった。


 ハルは泣かなかった。


 遺影を見つめたまま、一言も話さなかった。


 美咲はそんなハルの隣に座った。


 やはり何も言えなかった。


 慰めの言葉など、何の意味もないと思った。


 しばらくして、ハルは掠れた声で言った。


 ――もう一人だ。


 その言葉を聞いた瞬間、美咲は何も考えずに答えていた。


 ――違う。


 ――私がいる。


 ――だから一人じゃない。


 ――これからもずっと一緒にいる。


 その時、ハルは初めて泣いた。


 声を押し殺しながら。


 子供のように肩を震わせながら。


 美咲の服を強く掴んで泣いた。


(そうだ。)


(私が言ったんだ。)


(私がいるって。)


(ずっと一緒にいるって。)


 なのに今、自分は遠くから見ている。


 ハルが傷つくのを。


 たった一人で黒崎に立ち向かうのを。


 約束した自分が、何もせずに見ている。


「……違う。」


 美咲の唇から、小さな声が漏れる。


「こんなの……違う。」


 ハルを一人にしないと決めた。


 何があっても味方でいると決めた。


 その約束があるから、今までハルは歩き続けてきた。


 それなのに、ここで自分が逃げたら。


 自分までハルを見捨てたら。


 本当にハルは一人になってしまう。


(行く。)


(今度こそ。)


(地下でも何でもいい。)


(ハル君を助ける。)


 美咲は拳を握った。


 爪が手のひらへ食い込む。


 痛みを感じることで、震えを押さえようとした。


 白い線へ向かって足を踏み出す。


 けれど。


 脳裏に母の顔が浮かんだ。


 朝早く起きて弁当を作ってくれる母。


 美咲が学校から帰れば、笑顔で迎えてくれる。


 試験の前日には、緊張する美咲の背中を撫でながら言った。


 ――結果なんて気にしなくていいからね。


 ――美咲が無事に帰ってきてくれれば、それでいいから。


 続いて父の顔が浮かぶ。


 口数は少ない。


 けれど、美咲が学園へ入れると決まった時、誰よりも喜んでいた。


 高い学費を払うために、仕事を増やしたことも知っている。


 疲れて帰ってきても、美咲の前では弱音を吐かなかった。


 ――困ったことがあったら、いつでも帰ってこい。


 父はそう言ってくれた。


(お父さん……。)


(お母さん……。)


 美咲の足が、また止まる。


 もし自分が地下へ送られたら。


 二人はどうなる。


 突然娘を失った両親は。


 自分が帰ってこない家で、これから先も生活していくことになる。


 母は毎朝、美咲のいない食卓を見る。


 父は使われなくなった部屋の前を通る。


 自分のせいで、二人の日常まで壊れてしまう。


 それだけではない。


 もし試験妨害の責任が、自分一人で終わらなかったら。


 もし黒崎の言う地下施設が、家族にまで何らかの影響を与える制度だったら。


(私が庇えば……。)


(家族まで……。)


 そこまで考えた瞬間、美咲は息を呑んだ。


 まだ黒崎から、家族への処分について説明されたわけではない。


 けれど、この世界の制度が退学者本人だけに優しいとは思えなかった。


 美咲の行動が、父や母の人生まで変えてしまうかもしれない。


(でも。)


(ハル君は一人だ。)


(ハル君には、もうお父さんもお母さんもいない。)


(だから私が……。)


(でも私には、お父さんとお母さんがいる。)


(だから守らなきゃ。)


(でもハル君を見捨てるの?)


(違う。)


(見捨てるわけじゃない。)


(でも、何もしないなら同じじゃない?)


(違う。)


(違わない。)


 答えが何度も変わる。


 行く。


 行けない。


 助けたい。


 怖い。


 約束を守りたい。


 家族を失いたくない。


 自分が地下へ送られるのも怖い。


 そんな自分が嫌になる。


(どうしたらいいの……?)


 美咲は頭を抱えたくなった。


 けれど、視線だけはハルから外せなかった。


 ハルは一度も振り返らない。


 美咲がここまで苦しんでいることも知らない。


 いや。


 もし知ったなら、きっとハルは言う。


 ――来るな。


 ――美咲まで巻き込まれる必要はない。


 そう言って、いつものように笑うのだろう。


 自分がどれだけ苦しくても。


 どれだけ怖くても。


 美咲を守るために、何でもないふりをする。


(だからこそ……。)


(私が行かなきゃ。)


 再び決意が膨らむ。


 その直後、母の言葉が蘇る。


 ――無事に帰ってきてくれれば、それでいい。


 決意が崩れる。


(帰りたい。)


 思ってしまった。


 家に帰りたい。


 母の作った夕食を食べたい。


 父の不器用な「おかえり」を聞きたい。


 明日も太陽の光を浴びたい。


 普通の日常を失いたくない。


 その願いが胸に浮かんだ瞬間、美咲は自分自身に絶望した。


「ごめん……。」


 誰に向けた言葉なのか分からなかった。


 ハルに対してか。


 父と母に対してか。


 それとも、何も選べない自分に対してか。


 涙が次々と溢れ出す。


 拭っても止まらない。


 頬を伝い、顎から制服へ落ちていく。


 美咲はまた一歩進もうとする。


 けれど止まる。


 足を戻そうとする。


 それもできない。


 前にも進めず。


 後ろにも戻れず。


 ただ白い線の手前で震えている。


 その間も、黒崎は何も言わなかった。


 美咲の弱さを責めない。


 約束を嘲笑わない。


 覚悟がないと突き放すこともしない。


 ただ待っている。


 だからこそ、美咲は逃げられなかった。


 誰かのせいにすることも。


 制度のせいにすることも。


 黒崎のせいにすることもできない。


 最後に選ぶのは、自分なのだ。


(ハル君を助けたい。)


 それは本心。


(お父さんとお母さんを失いたくない。)


 それも本心。


 どちらかが嘘なら、どれほど楽だっただろう。


 ハルだけが大切なら、迷わず飛び込めた。


 家族だけが大切なら、すぐに背を向けられた。


 けれど、どちらも失いたくない。


 どちらも大切だった。


 だから選べない。


 美咲は震える唇を噛み締めながら、ハルの背中を見つめた。


 その背中は、いつもよりずっと遠く見えた。


 美咲は知ってしまった。


 誰かの味方でいるということは、ただ隣で笑うことではない。


 時には、自分の人生を差し出すことを求められる。


 その覚悟を突きつけられた時。


 自分はまだ、ハルの隣へ立つことができなかった。




 長い沈黙のあと。


 黒崎が、ゆっくりと美咲へ視線を向けた。


 これまでハルだけを見ていた瞳が、初めて美咲を正面から捉える。


 鋭い。


 けれど、責めるような色はなかった。


 ただ、美咲の中にある迷いをすべて見透かしているようだった。


「決めろ。」


 短い言葉。


 それだけで、美咲の心臓が強く跳ねた。


 黒崎は続ける。


「ハルを助けるか。」


 美咲の視線が、ハルの背中へ向く。


 傷だらけの制服。


 強く握られた木刀。


 それでも前を向き続ける姿。


 助けたい。


 今すぐ駆け寄りたい。


 その思いが胸の奥から溢れ出す。


 だが次の瞬間。


「家族を守るか。」


 父と母の顔が浮かんだ。


 帰りを待つ母。


 不器用に笑う父。


 いつでも帰ってこいと言ってくれた家。


 美咲の呼吸が止まる。


 黒崎は淡々と告げた。


「どちらも守ることはできない。」


「今のお前にはな。」


「……。」


「ハルを庇えば、お前は退学になる。」


「地下へ送られ、家族も処分の対象になる。」


「ここに残れば、家族は守れる。」


「だが、ハルは一人で俺と戦う。」


 どちらを選んでも。


 必ず何かを失う。


 そんな選択を、美咲はしたことがなかった。


 これまで信じていればよかった。


 励ませばよかった。


 隣にいればよかった。


 けれど今は違う。


 想いだけでは何も守れない。


「答えろ。」


 黒崎の声が、静寂を切り裂く。


「お前は誰を選ぶ。」


 美咲は口を開いた。


 けれど、声が出なかった。


「私は……。」


 その先が続かない。


 ハルを選ぶと言えば、父と母を捨てることになる。


 家族を選ぶと言えば、ハルを見捨てることになる。


 どちらも言えない。


 どちらも失いたくない。


 だから答えられない。


 涙だけが、また一筋頬を伝った。


 黒崎は急かさない。


 慰めもしない。


 ただ、美咲が答えを出すのを待っている。


 試験場にいる誰もが、息を殺していた。


 やがて美咲は俯いた。


 両手を強く握り締める。


 唇が震える。


 それでも最後まで、答えは出なかった。



 黒崎は静かに美咲から視線を外した。


 答えは聞かない。


 聞く必要もなかった。


 その沈黙こそが、美咲の答えだったからだ。


 再び、黒崎の意識は目の前の少年へ向けられる。


 天城ハル。


 世界で唯一の無能力者。


 傷だらけの身体。


 制服は裂け、腕には乾いた血がこびりついている。


 それでも、その姿勢は崩れていなかった。


 木刀を両手で握り、真っすぐ黒崎を見据えている。


 呼吸は乱れている。


 肩も上下している。


 体力は限界に近いはずだった。


 それでも、一歩も引かない。


 美咲はそんなハルの背中を見つめる。


(お願い……。)


(もうやめて。)


(お願いだから……。)


 その願いは声にならない。


 ハルは振り返らない。


 何も知らないからだ。


 美咲がどれほど苦しみ、どれほど泣いたのか。


 黒崎から何を告げられたのか。


 何一つ知らない。


 知っているのは、ただ一つ。


 試験はまだ終わっていないということだけだった。


 ハルは木刀を握り直す。


 汗で滑りそうになる柄を、さらに強く握り締める。


 ぎしり、と木刀が小さく軋んだ。


 静寂が流れる。


 風が二人の間を通り抜け、地面の砂をさらっていく。


 誰も口を開かない。


 受験生も。


 教師も。


 神崎でさえ、ただ二人を見つめていた。


 黒崎はゆっくりと木刀を構える。


 無駄のない、美しい構え。


 一切の隙がない。


 対するハルも、木刀を正眼に構えた。


 その構えは粗削りだった。


 洗練されてはいない。


 それでも、覚悟だけは誰にも負けていなかった。


 数秒の沈黙。


 黒崎が低く問いかける。


「準備はいいか。」


 ハルは一度だけ息を吸う。


 迷いはない。


 恐怖もある。


 痛みもある。


 それでも、目の前から逃げるという選択肢だけは最初から存在しなかった。


 ハルは黒崎を真っすぐ見据え、短く答える。


「はい。」


 その一言だけだった。


 だが、その返事には。


 これまで積み重ねてきた努力も。


 何度打ちのめされても立ち上がってきた意地も。


 世界中から無能力者と蔑まれても諦めなかった誇りも。


 すべてが込められていた。


 黒崎は小さく目を細める。


 そして、静かに木刀を握り直した。


 ついに、一年主席と世界唯一の無能力者。


 二人の戦いが始まろうとしていた。



 何もできなかった。


 その事実だけが、美咲の胸を締めつけていた。


 白い線の手前。


 あと数歩。


 たったそれだけの距離なのに、今は世界で一番遠く感じる。


 ハルの背中が滲む。


 涙で視界がぼやけているせいか、それとも自分が遠ざかってしまったせいなのか。


 もう分からなかった。


 美咲は震える唇をゆっくりと開く。


「ごめん……。」


 掠れた声だった。


 誰にも届かないほど小さな声。


 それでも、胸の奥から自然と零れ落ちた。


「ごめんね……。」


 その一言を口にした瞬間、涙が次々と溢れ出す。


 止めようとしても止まらない。


 制服の袖で拭っても、また新しい涙が頬を伝う。


(助けたい。)


 その気持ちは少しも変わっていない。


 今すぐ駆け寄りたい。


 ハルの前へ立って、もう十分頑張ったと言ってあげたい。


 もう一人じゃないと抱き締めてあげたい。


 昔と同じように。


 何も言わず隣に座ってあげたい。


(でも……。)


 足は動かなかった。


 何度命令しても。


 何度力を込めても。


 身体は言うことを聞かない。


 頭の中ではハルの笑顔と、父と母の笑顔が何度も重なっていた。


 どちらも大切だった。


 だから選べなかった。


 その弱さを、美咲は誰よりも理解していた。


 黒崎は何も言わない。


 責めない。


 慰めない。


 ただ静かに前を向き、木刀を握る。


 その姿を見たハルも、木刀を握り直した。


 ぎゅっと柄を握る音だけが、小さく響く。


 試験場は静まり返っていた。


 誰一人として息をすることさえ忘れたようだった。


 風だけが砂を巻き上げる。


 木々が揺れる。


 遠くで鳥が羽ばたく音が聞こえた。


 そのすべてが、これから始まる戦いを見届けようとしているかのようだった。


 黒崎が一歩踏み出す。


 ゆっくりと。


 迷いなく。


 それに応えるように、ハルも前へ出る。


 一歩。


 また一歩。


 二人の距離が少しずつ縮まっていく。


 あと十歩。


 あと八歩。


 あと五歩。


 美咲は叫びたかった。


 止まって、と。


 お願いだから戦わないで、と。


 けれど、声は喉の奥で凍りついたまま出てこない。


 ただ両手を胸の前で強く握り締め、震えることしかできなかった。


(私が約束したのに……。)


(どんな時も味方でいるって。)


(一人にはしないって。)


(なのに。)


(私は……。)


 美咲は、自分が初めて「約束」を後悔した。


 そして――黒崎の木刀が、静かに振り下ろされた。




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