第14話 収容番号742
重い瞼をゆっくりと開く。
視界に飛び込んできたのは、見慣れない灰色の天井だった。
冷たいコンクリートの壁。
鉄格子のはめられた分厚い扉。
窓はない。
時計もない。
朝なのか夜なのか、それすら分からなかった。
湿った空気が肌にまとわりつく。
ここが地下だということだけは、本能的に理解できた。
ハルはゆっくりと上体を起こす。
昨日の出来事が頭の中を駆け巡る。
星ヶ丘学園。
退学。
地下施設。
そして――
美咲。
笑っていた。
黒崎の隣で。
抱き寄せられ、口づけを交わす姿が脳裏に焼き付いて離れない。
胸が締め付けられる。
忘れようとしても忘れられない。
その時だった。
施設全体を揺らすような警報が鳴り響く。
『起床時刻です。収容者は五分以内に整列してください。繰り返します。収容者は五分以内に整列してください。』
無機質な女性のアナウンスが何度も繰り返される。
ガシャン――。
重々しい音を立て、鉄の扉がゆっくりと開いた。
そこには黒い軍服を着た兵士が一人、無表情で立っていた。
感情は一切感じられない。
機械のような目だった。
兵士はハルを見ることもなく、淡々と告げる。
「742、出ろ。」
ハルは反応しない。
兵士はもう一度、同じ口調で言った。
「742。」
「……早くしろ。」
742。
一瞬、自分が呼ばれていることに気付かなかった。
だが、部屋には自分しかいない。
ようやく理解する。
――742。
それが今の自分なのだ。
天城ハルではない。
742。
ただの収容番号。
兵士にとっても、この施設にとっても、名前など必要ない。
ハルは小さく拳を握る。
昨日まで当たり前だった自分の名前が、もう誰にも呼ばれない。
その事実が、胸の奥に重くのしかかった。
ゆっくりと立ち上がる。
そして、何も言わず独房の外へ足を踏み出した。
そこには、同じように番号だけを与えられた収容者たちが、無言のまま整列していた。
ハルが廊下へ出ると、すでに数十人の収容者が整列していた。
全員が灰色の囚人服を身にまとい、胸元には黒い番号が刻まれている。
誰一人として口を開かない。
視線だけが前を向き、微動だにしない。
その異様な静けさに、ハルは思わず息を呑んだ。
ここには、生気というものがなかった。
やがて、一人の男が収容者たちの前へ歩み出る。
黒い軍服。
鋭い眼光。
顔には無数の傷跡が走っていた。
男は全員を見渡すと、低くよく通る声で口を開く。
「新人ども。地下施設へようこそ。」
「俺は教官の神崎だ。」
「今日からお前たちを鍛え、兵器へと育てる。」
兵器。
その言葉に、新人たちの表情がわずかに強張る。
しかし教官は構わず続けた。
「まず最初に、この施設の規則を教える。」
「ここでは名前を名乗ることも、呼ぶことも禁止だ。」
「お前たちは番号で管理される。」
「名前は過去だ。この施設に過去は必要ない。」
ハルは胸元を見る。
黒く刻まれた数字。
742。
それだけが、自分を表すものになっていた。
「次に、命令は絶対だ。」
「命令に従わない者には処罰を与える。」
「能力者だろうが、元主席だろうが、例外はない。」
「この施設に特別扱いは存在しない。」
その時だった。
列の後方から、小さな笑い声が聞こえた。
「兵器だってよ。」
「馬鹿らしい。」
一人の青年が鼻で笑う。
「俺はこんな場所に従うつもりは──」
最後まで言い切ることはできなかった。
ドンッ。
教官の姿が一瞬で消えた。
次の瞬間には青年の目の前に立ち、その腹へ拳を叩き込んでいた。
「がはっ……!」
青年は数メートル吹き飛び、床を転がる。
呼吸すらまともにできず、胃液を吐き出す。
誰も動かない。
誰も助けない。
教官は青年の胸ぐらを掴み、そのまま片手で持ち上げた。
「命令は絶対だと言った。」
「一度目は教育。」
「二度目は制裁。」
「三度目は不要と判断する。」
青年は恐怖で何度も頷く。
教官は手を離し、何事もなかったかのように新人たちの前へ戻った。
「質問はあるか。」
誰も手を挙げない。
いや、挙げられない。
沈黙だけが流れる。
教官は満足そうに頷いた。
「いい返事だ。」
そして、一人ひとりの顔を見渡しながら、静かに言い放つ。
「覚えておけ。」
「ここではお前たちは人間ではない。」
一拍置く。
「国家が管理する兵器候補だ。」
その言葉は、地下施設全体に響き渡るようだった。
ハルはただ前を向いたまま、何も答えなかった。
だが心の中では、もう一度だけ自分の名前を呟く。
――天城ハル。
その名前は、この場所では誰にも呼ばれない。
教官は新人たちを見渡しながら、資料を閉じた。
「次に、お前たちの生活について説明する。」
「この地下施設では、新人は必ず二人一組で行動する。」
ざわめく者はいない。
誰もが黙って話を聞いている。
「理由は四つ。」
「相互監視。」
「共同任務。」
「共同訓練。」
「そして、生存率の向上だ。」
教官は淡々と続ける。
「一人では生き残れない。」
「だが二人なら生き残れる可能性が上がる。」
「もっとも――」
そこで口元をわずかに歪めた。
「片方が使い物にならなければ、もう片方も共倒れだ。」
新人たちの表情が曇る。
「バディは番号順で決定する。」
「相性など考慮しない。」
「貴様らに選ぶ権利はない。」
教官は手元の端末へ視線を落とした。
「741……745まで、前へ。」
数人が一歩前へ出る。
「742。」
ハルは無言で前へ出た。
「743。」
「はいはい。」
場違いなほど気の抜けた返事が響いた。
一瞬、その場の空気が止まる。
教官の眉がぴくりと動いた。
ゆっくりと列の後方から一人の青年が歩いてくる。
肩まで伸びた少し乱れた黒髪。
どこか眠たそうな目。
緊張感などまるで感じさせない足取りだった。
「急げ。」
「はいはい、急いでますよ。」
青年は悪びれる様子もなくハルの隣へ立つ。
そして横目でハルを見ると、小さく笑った。
「よろしく。」
ハルは返事をしない。
視線すら向けない。
「無口だな。」
青年は肩をすくめた。
その瞬間。
「私語は禁止だ。」
教官の低い声が飛ぶ。
「すみません。」
口では謝っているが、表情に反省の色はない。
教官は深いため息をついた。
「742。」
「743。」
「今日から貴様らはバディだ。」
「行動、訓練、任務、生活。」
「その全てを共にする。」
「どちらか一人が規則を破れば、二人まとめて処罰する。」
ハルは無言のまま前を向いていた。
一方、青年は小さく息を吐く。
「面倒くさそうだな。」
聞こえるか聞こえないか程度の独り言。
しかし、その軽い口調とは裏腹に、青年の視線は一瞬だけハルをじっと見つめていた。
死んだような目。
感情のない表情。
まるで魂だけが抜け落ちた人間。
青年は心の中で呟く。
(……こいつ、普通じゃないな。)
それが、石田レンと天城ハル――収容番号742の、最初の出会いだった。
「743。」
教官が番号を読み上げる。
「はいはい。」
緊張感の欠片もない返事が、新人たちの列に響いた。
周囲の収容者が、わずかに視線を動かす。
先ほど、教官に逆らった青年が一撃で床へ沈められたばかりだ。それを見た後で、これほど気の抜けた返事ができる者など普通はいない。
教官も同じことを思ったのだろう。
手元の端末から顔を上げ、険しい目を列の後方へ向ける。
「返事は一度でいい。さっさと前へ出ろ」
「今、行きますって」
列の間から、一人の青年が歩み出た。
年齢はハルと同じくらいだろうか。
無造作に伸びた黒髪に、眠たそうな目。囚人服を着ているにもかかわらず、その歩き方には妙な余裕があった。
恐怖を隠しているようには見えない。
かといって、自分の力に絶対の自信を持っているようにも見えなかった。
ただ、何もかもを面倒くさがっている。
そんな印象だった。
青年はハルの隣まで来ると、教官ではなく、先にハルの顔を覗き込んだ。
「俺が743。今日から相棒らしいな」
そう言って、気軽に片手を上げる。
「よろしく」
ハルは答えなかった。
視線を前へ向けたまま、口を閉ざしている。
誰かと関わる気などなかった。
もう誰も信じたくない。
大切に思った相手ほど、自分を深く傷つける。
それを、嫌というほど思い知らされた。
だが青年は、ハルの態度を気にした様子もなかった。
「無口だな」
小さく笑い、さらに顔を寄せてくる。
「もしかして、喋れないとか?」
「私語は禁止だ」
教官の低い声が飛んだ。
青年はすぐに前へ向き直る。
「はい、すみませーん」
間延びした返事だった。
反省しているようにはまるで聞こえない。
教官のこめかみに青筋が浮かぶ。
「743。次にふざけた返事をしたら、規律訓練室へ送るぞ」
「それは困りますね」
「なら態度を改めろ」
「善処します」
「返事は『はい』だ」
「はい」
今度だけは真面目な返事をした。
しかし、教官が目を離した直後、青年はハルにだけ見えるように小さく肩をすくめる。
まるで、面倒な教師に注意された生徒のようだった。
ハルはわずかに眉を動かした。
ここは地下施設だ。
名前を奪われ、番号で管理され、命令に逆らえば容赦なく処罰される場所。
周囲の者たちは恐怖で身体を強張らせている。
それなのに、この男だけは違った。
軽い。
あまりにも軽すぎる。
今の状況を理解していないのか。
それとも、理解したうえで恐れていないのか。
ハルには分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
青年の態度には、ハルを哀れむ様子も、無能力者だと見下す気配もなかった。
そもそも、ハルがどんな人間なのか知ろうとすらしていない。
ただ隣にいたから、声をかけた。
それだけだった。
「移動しろ」
教官の命令で、新人たちが歩き始める。
ハルも無言で足を進めた。
その隣を、青年が並んで歩く。
しばらく沈黙が続いた後、青年は教官に聞こえない声で呟いた。
「まあ、仲良くしようぜ。742」
名前ではなく、番号。
本来なら人間性を奪うための呼び方だった。
だが青年の口から発せられたそれは、不思議と冷たく聞こえなかった。
ハルは返事をしない。
それでも青年は気にせず、前を向いたまま歩いている。
石田レン。
後にハルの親友となり、地下施設で最も信頼する相棒となる男。
しかし、このときのハルはまだ、その名前すら知らなかった。
教官に案内され、二人は生活区画へと向かった。
長い廊下を歩き、一枚の鉄扉の前で止まる。
「742、743。ここがお前たちの部屋だ。」
教官が電子錠を解除する。
重い音を立てて扉が開いた。
部屋の中は驚くほど簡素だった。
二段ベッドが一つ。
小さな机が一脚。
古びた冷蔵庫。
ロッカーが二つ。
それだけだった。
「……狭いな。」
レンが苦笑しながら部屋を見回す。
「まぁ、寝るだけなら十分か。」
教官はそれだけ告げると部屋を後にした。
扉が閉まる。
重たい施錠音が響き、部屋には二人だけが残された。
レンはロッカーへ荷物を放り込むと、大きく伸びをする。
「ふぅ……。」
そして冷蔵庫へ歩いていく。
扉に手を掛けたところで、ふと思い出したように立ち止まった。
「あ、そういや。」
右手を軽く前へ突き出す。
次の瞬間。
空間がぐにゃりと歪んだ。
黒い穴が静かに広がる。
底の見えない闇。
レンは何の躊躇もなく腕を突っ込む。
ガサゴソと何かを探る音。
数秒後。
取り出したのは透明なペットボトルだった。
さらにもう一本。
「ほい。」
一方をハルへ放り投げる。
ハルは反射的に受け取った。
冷たい。
しっかりと冷えている。
レンはキャップを開け、水を一口飲む。
「収納。」
まるで自己紹介でもするように言った。
「別空間を作って、物をしまっとける能力。」
もう一口飲む。
「武器でも食料でも何でも入る。」
「容量には限界があるけどな。」
ハルは黙って黒い穴を見つめていた。
空間系能力。
かなり珍しい能力だ。
レンは苦笑する。
「便利だけど、戦闘向きじゃない。」
「火も出ないし、雷も落とせない。」
「殴る力が強くなるわけでもない。」
肩をすくめる。
「地味な能力だよ。」
「でも、工夫すれば結構使える。」
「武器を隠したり、不意打ちしたり、補給したり。」
「使い方次第ってやつ。」
レンはベッドへ腰掛けた。
「で、お前は?」
初めてハルへ真正面から問い掛ける。
「能力。」
部屋が静まり返る。
ハルはしばらく俯いていた。
そして、小さく答える。
「……ない。」
レンは目を瞬かせた。
「……え?」
聞き間違いかと思った。
「ないって……。」
数秒沈黙し、確認する。
「無能力?」
ハルは小さく頷く。
その瞬間だけは、さすがのレンも驚いた。
能力者が当たり前の世界。
地下施設には犯罪者や落ちこぼれが集められる。
しかし。
能力そのものを持たない人間がいるとは思ってもいなかった。
「へぇ……。」
レンはそれ以上、何も言わない。
ハルは視線を落とす。
――まただ。
どうせ次も同じだ。
哀れまれるか。
笑われるか。
見下されるか。
そのどれかだ。
そう思った。
だが。
「まぁ、能力なんて道具だからな。」
レンはあっさりと言った。
「え……?」
思わずハルは顔を上げる。
レンは水を飲みながら続けた。
「強い能力を持ってても、使い方が下手なら意味ない。」
「逆に地味な能力でも、頭使えば格上を食える。」
手に持ったペットボトルを軽く振る。
「俺の能力なんて、その代表だ。」
「結局さ。」
レンは笑う。
「能力が戦うんじゃない。」
「人間が戦うんだよ。」
その言葉に、ハルは何も返せなかった。
学園では、生まれて初めて能力の有無だけで価値を決められ続けた。
誰一人として、「能力は道具だ」と言ってくれる人はいなかった。
だからこそ、その何気ない一言は、ハルの心に静かに残った。
部屋で一息ついた後、レンは立ち上がった。
「さて。」
「飯の時間まで少しあるし、施設を案内しとくか。」
ハルは返事をしない。
それでもレンは気にした様子もなく部屋を出る。
「ほら、742。」
「迷子になられても俺まで怒られるからな。」
仕方なくハルも後を追った。
地下施設の通路はどこまでも続いている。
灰色のコンクリート。
等間隔に並ぶ鉄扉。
監視カメラ。
武装した兵士。
どこを見ても自由という言葉は存在しなかった。
レンは歩きながら指を差す。
「あっちが訓練場。」
「毎日死ぬほど鍛えられる。」
さらに奥を指差す。
「あっちは医務室。」
「怪我したら運ばれる。」
一拍置いて、反対側を指差した。
「で、あそこ。」
重厚な鉄扉の前には赤いランプが点灯している。
「規律訓練室。」
「入ると死ぬ。」
ハルが初めてレンを見る。
レンは真顔のまま数秒黙り──
「……冗談だけど。」
肩をすくめた。
「半殺しにはされるらしい。」
全然冗談になっていない。
ハルは何も言わない。
レンは苦笑した。
「笑わないタイプか。」
「俺だけ滑ってるみたいじゃん。」
返事はない。
それでもレンは話し続ける。
「まぁ、そのうち慣れる。」
「ここは暗い顔してても明るい顔してても、一日は一日だから。」
その言葉だけは、妙に実感がこもっていた。
やがて二人は食堂へ到着する。
中は広かった。
長机が何列も並び、数百人は入れる広さがある。
だが、聞こえるのは食器がぶつかる音だけ。
誰も雑談をしない。
笑い声もない。
黙々と食べ、食べ終えれば席を立つ。
異様な光景だった。
レンは慣れた様子で食事を受け取る。
「今日は当たりだな。」
「昨日よりマシ。」
トレーを持ち、空いている席へ座る。
ハルも向かいへ腰を下ろした。
配られた食事は質素だった。
白米。
薄いスープ。
焼いた魚が一切れ。
最低限、生きるためだけの食事。
ハルは箸を持ったまま動かない。
食欲など湧かなかった。
美咲の笑顔。
黒崎の隣で笑う姿。
あの映像が何度も頭をよぎる。
胸が苦しくなる。
レンは一口ご飯を頬張ると、そんなハルを横目で見た。
「食わないのか。」
返事はない。
「食わないと倒れるぞ。」
それでもハルは動かなかった。
レンはそれ以上何も言わない。
無理に励ますこともしない。
説教もしない。
ただ黙って自分の食事を続けた。
その静かな気遣いだけが、重苦しい食堂の空気の中で、不思議とハルの心に残っていた。




