遠雷
夏休みに入り、菜乃花の隣の家の庭に向日葵が良く咲いていた。菜乃花は家を出る時に、美しく咲き誇る向日葵を、その純粋にも咲く様をまざまざと見入っていたが、八月になると、次第に向日葵も枯れ色が見え、みるみるうちに枯れが目立った。その様を見ていた菜乃花は向日葵の儚さと嘆きの色を思った。夏は今年も猛暑が襲い、菜乃花にもその日光が直接当たり、自転車で走る先に日影を見つけると、菜乃花はそこで一息を入れていた。まだ午前中の事であり、菜乃花の焦燥は夏によって溶かされそうになっていた。バイト先まではそう遠くない距離であるが、体力があるというわけではない菜乃花にはこれほどの事でも、身体に応えるのであった。日影に降りた菜乃花はふと、上を見上げた。太陽は日陰に隠れているせいか、その顔を見ることはなかった。しかし、太陽に浸った風が菜乃花の顔を覆い被さり、暑さは変わらないようであった。
その事に絶縁のようなものを感じ、菜乃花は自転車に跨った。チェアやハンドルにも熱が溜まり、菜乃花の体に一瞬の強い刺激を与えたが、それはすぐ、柔いものへと変化した。金属の部分からは陽の光が反射して、小さな眩しさが目をくらますように菜乃花に先を不透明に仕上げた。
その部分を時折、手で覆い隠していたが、一度その部分に触れた。触れた指先が赤色に染まる幻覚を見るように菜乃花はその一瞬を悔やんだ。人を避けながら走るのは容易な事ではなかった。
椿と瀬奈は夏の間は部活に明け暮れる事になった。秋にはコンクールもある為、ほとんどの日を部活に当てていた。その為、菜乃花は夏休みに入っても未だ二人に会えていなかった。制服を着て、学校に行けば二人に会えるのであるが、行く用事もなく、また、用もなく学校に行くのは禁止であったように思えたので、なんとなく憚られた。二人とメッセージのやり取りはあるが、顔を見合わせない日々は寂寥が流れ出て、それは自然と学校が建つ東の方角へと顔が向くことになっていた。
朝日が昇った後、菜乃花は家の庭に出ると、隣の家に咲く向日葵と学校の方を見やり、遠くにいる二人を恋しく思うのであった。
そんな部活に精を出す二人に触発され、菜乃花は夏のバイトの量を増やし、二人に対する自身の自省はそのような形で対抗するように努力する事にした。
菜乃花の働くアルバイト先は二階突き抜けの日の良く入る美しい洋食屋であり、菜乃花は中学生の時からその店に通っており、高校生になったらバイトする事を夢見ていた。やがて、高校生になった際に、いよいよアルバイトを行う事ができ、一年以上経った今も続けている。
二代目のオーナーとその息子、他に菜乃花を含めたバイトが数人いる。店員も多くないので忙しいが、オーナー達は皆、菜乃花に優しく、そんな人達を菜乃花はこの店と共に気に入っていた。椿や瀬奈以外でアルバイトをしている友人などはアルバイト先での愚痴を言っている事をよく聞くため、それを聞くと、菜乃花はこの店は自分にとって天職なのだなとつくづく感じていた。
菜乃花は十一時からの勤務であり、その十五分前にはアルバイト先に到着していた。
店内にはオーナーと息子ともう一人のアルバイトがおり、菜乃花は挨拶を済ませるとそそくさと更衣室へと向かった。
休日での仕事はランチ時の仕事と、ディナーの準備の仕事があった。
平日などであればディナー時の仕事もあるが、休日は基本的に昼間の仕事に当てられる。エアコンの効いた店の中では外の暑さは窓の先に広がる景色からしかわからなくなっていた。微風に揺らぐ草とそれを突き刺すような陽の光に菜乃花は窓に触れる事を躊躇い、その眩しさにも嫌悪とはまた違った拒否をする思いを抱いた。しかし、静けさが漂う店は穏やかな面持ちを常に消し去ることはなく過ごさせてくれた。
店が開くと、昼時になるに連れ、徐々に客は増えた。だが、それも十四時が近づくに連れ、静けさを取り戻すようになった。その忙しさが逃げたのを認めると、菜乃花はふと、椿と瀬奈の事を思い出した。そして、耳元に彼女達が奏でる音が聞こえるようであった。クラシカルな甘いメロディが似合わぬように店に広がった。
そして、午前のうちには涼しさの色をした影も午後の太陽によってついに打ちひしがれてしまった。この時間になると、窓の付近に当たる床も靴の先から暑さが伝わるようであった。外の道を歩く人々を見ると、菜乃花は自分も涼しさを求めすぎずにいたいと思った。そんな思い持ち続けていると、夕方の淡い時間になったことには遅れて気づくのであった。そして、冬であれば暗くなる時間に菜乃花は店を後にした。吹奏楽部は十八時まで部活が続く、それでも部員は残って練習する人もいる。二人もコンクールが近づくに連れ、残って練習をしており、菜乃花はその期間は一人で学校を後にすることがある。店を出て、一人自転車に乗った際にそんな気分に浸った。寂しさを患わせ、それが一日の孤独と追憶によって奏でられた尊い思いが交差し、菜乃花は今日一日が素晴らしい日であったと心の底に日が差し込むよう空想を目の先に映しながら思った。
寂しさはお盆の日まで抱き、ある一日をその思いを打ち消す事にしようと菜乃花は考えた。
家に帰ると十八時を過ぎていた。菜乃花は二人にメッセージを送った。
二人は教室の中で見たのか、それとも学校を後にする時に見たのか、返信はすぐに返ってきた。ほぼ同時に返信が来たので、恐らくは二人は一緒にいるのだと思われた。
菜乃花はそこに書かれた文章を読み一安心をした。そして寂しさが溶けていく様を思い、その日に胸を躍らせた。
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お盆のある日に、三人は遊ぶ予定を立てた。菜乃花は誰よりもこの日を待ち望み、アルバイトも普段以上に力を入れて仕事をしていた。その淡い気持ちがとても心地良く、青い匂いが鼻だけでなく目の前の情景を全て輝くように彩った。
三人が顔を合わせる前の日は台風が街を襲い、鴨川も勢いが激しく、時折、水を掛けたように強い雨音が街に鳴り響いた。陽の姿もその片鱗は見えるものの、それはすぐ奥底の見えない雨雲によって消し去られ、雨は降っては止んで、それも雷のような轟音と共に続いた。菜乃花はその雨が止む事を祈りつつ、二人に心配をかけまいと敢えてメッセージを送るのを躊躇った。
不安になる轟音は窓から見える東寺の五重塔が倒れやしまいかと思うほどであった。しかし、打ち付けられる雨に五重塔は怯む事はなく立ちすくんでいた。菜乃花はその光景に底知れぬ希望を持ち得た。そして明日へ希望を持ち、雨の音の一音に晴れやかな思いを祈った。
朝に目を覚ますと、菜乃花は真っ先に窓の方を見た。カーテンの隙間からは光が僅かに差し込んでいるのを認めた。その明るさにどんよりとした陰鬱なものを思ったが、カーテンを開けるとそこには輝くような晴天が広がっていた。
菜乃花は安堵のため息を漏らし、十時頃には家を後にしていた。太陽に照らされていた自転車のサドルは暑くあったが、それを苦に思う事もない程に、心待ちにしていた。
二人とは京都駅の東口のエスカレーターの下で待ち合わせになっていた。
京都駅は常に混雑しており、改札の前ですら、三人が居合わせることは難しく思えたのだ。京都駅に着くと、菜乃花は早足で駐輪場からエスカレーターの方へ向かった、駐輪場には菜乃花と同じ歳くらいの学生の姿が見えたが、その人達を後ろに引き離し、一人先に駐輪場を後にし、雑響がどこもかしこも耳に届く中を菜乃花は目的の地だけを目指して歩いた。外は徐々に夏の暑さに肌を刺激され、持っていたバッグからハンカチを取り出し、額を拭った。香水はもう匂いが汗によって消えてしまったのだろうか。無駄な抵抗とは思いつつも、家を出る先に首元に掛けた。首辺りを嗅ぐと、まだ僅かに匂いはあったが、そこを一筋の汗が流れ、匂いは汗と共に下に落ちたような気がした。
エスカレーターの下には既に瀬奈がいた。
「おはよう、早いやん」
「お、菜乃花。今着いたばっかや」
菜乃花は瀬奈の掌に自身の掌を重ね合わせた。季節の暑さとは違う彼女の体温が手から心へと伝わった。
「椿はそろそろ着きそう?」
「どうやろ?今、メッセージ送ってみるわ」
瀬奈はそう言って、携帯電話の方に目を向けていた。
菜乃花は人がまだ少ないとはいえ、ここで待ち合わせることはなかったと今になって思った。考えればわかるはずなのに、何故ここで待ち合わせようと思ったのか、ぼやけたような頭ではわからなかった。遠くには外国人の団体が歩いており、背が高いせいかよく目立っていた。ふと、その方を眺めていると
「椿、あと五分もしたら駅に着くらしいで」
瀬奈がそんな事を言っていた。
「そう」
菜乃花は自分でも簡素な返事であると思った。
「ここは暑いから、駅の中入って、改札前で椿、待っとこか」
「せやな」
菜乃花と瀬奈は再び、駅の中へと入った。菜乃花達の無駄足は夏に肌を刺され、駅に戻る事で涼を得ることができた。
そして、しばらくすると、椿は二人の前に姿を見せた。
椿の姿を見つけたのは菜乃花であった。瀬奈の手を引っ張り、改札を抜け、二人を探す椿の元へ、慌てるように菜乃花は姿を現した。
「おはよう、椿」
「菜乃花、瀬奈。おはよう。待ち合わせの場所ここやったっけ?」
「暑かったから。二人でこっちに来たんや」
椿は微笑み、白いシャツの胸元に光るシルバーネックレスが小さくも鋭く眩しくさせた。
白シャツの短パンという服装で、椿としては珍しいオープンな印象を菜乃花に与えた。
三人はそのまま駅を後にし、日差しが差し込む、街の中へ身を投じた。
椿と瀬奈は外に出ると、日傘を差し、菜乃花はその異様にも思えた姿に変わってゆく流れを思った。
「二人とも、日傘さしてるんやね。うちだけ、何もしてへんわ」
「まあ、日焼けしたくないしな。菜乃花も入り」
瀬奈がそう言って、菜乃花を自身の日傘の中へ入れた。瀬奈の日傘は二人が入れるほどの大きいものであり、対し、椿は一人だけが入る小さい日傘であった。
菜乃花は歩を進めるが、目の前にいる椿は日傘を差しているせいでその姿はよく見えず、背中から下の部分のみが菜乃花の目に入った。
瀬奈の日傘の下で、なるべく体が出ないように歩き、車通りの少ない細い道を歩きながら、やんわりとした暑さに身を全て焼かれるような想像をした。
三人は京都駅の少し先にあるイオンを目指していた。人々の顔に少女達と同じような憂鬱の顔が広がっており、菜乃花は遊ぶ場所を変えようかとも思った。しかし、そう思っているうちに建物は姿を現し、足は自然に早足になっていた。その移り行く景色は菜乃花の目に風のように過ぎ去った。
三人は店に入り、目当ての服や化粧品を売ってる店へと向かった。菜乃花は椿と瀬奈の下ろした日傘を見て外を歩いていた思いが消え去っていることに気がついた。
こうして、三人で遊んでいると、先月の椿と二人で八坂神社へ行ったのが嘘のように思えた。二人でいるとそこには確かに恋人の関係が生まれるが、瀬奈がいることでそれは友人関係に変化し、自然と椿に向ける視線も性的で愛する存在から、友人のものへと変わるのである。
不思議と椿の顔立ちも妖美であったあの夜とは違い、十代の少女そのものであった。菜乃花はそれが錯覚のように見えた。
しかし、その違いに違和感は存在せず、受け入れるのは難しくなかった。それは出会った頃の椿であった。
菜乃花はそんな思いを持ちながら、二人についていき、やがて、三人はフードコートで休憩をしていた。
「夏休みなのに、どこも旅行行かへんかったな」
「まあ、私と瀬奈は部活あるしな。お盆くらいしか遊べへんけど、私は予定ないしな」
「瀬奈は彼氏とどこか行かへんの?」
「一応、明後日、デートはあるけど」
瀬奈は恋人の存在に慣れたのか、この頃は恥ずかしそうに言うことはなくなった。その澄ました表情に菜乃花は羨望に似たものを思った。そして、その羨望の渦の中に危機と平穏が両立して存在してるの事に後になって気がついた。
「うちから見たら、二人は青春してるなって思うわ」
「菜乃花も、バイト頑張ってるし、青春してると思うで」
瀬奈はそう言ったが、菜乃花は自身をどうしても、二人のように輝いてるようには思えなかった。それは菜乃花の心が道徳から曲がり、その罪悪感に逆らっているからであった。
「瀬奈、彼氏さんとはどう?」
「どうって?」
「この人とずっとおる感じする?」
椿は瀬奈を横目に眺めながら、彼女の言葉を待っていた。その表情に彼女の持つ不安があるように見えた。
「今はわからん。先のことなんてな。ずっと一緒におりたいけど」
椿は何も言わず、瀬奈の言葉を一身に受け止めてるように見えた。菜乃花とこれからもいられるか。女同士であるからには認められる恋では無い。これは一瞬のプラトニックで終わってしまうのかと菜乃花も考えた。
菜乃花はこの瞬間が今にも終わってしまうのではないかと不意に思った。
この関係を二人だけのものにして終わりたくなかった。静かな人目のない影の恋を菜乃花は恐れた。
「瀬奈、あのうちな」
声が掠れた。本能的に声が出なくなったように感じた。自分ですら、制御できない声を菜乃花はやりきれぬ苛立ちと共に諦めを持った。
「何でもない」
目の前が白くなったように思え、菜乃花は自身が倒れてしまう予感がした。しかし、景色はすぐさまに鮮明に甦り、菜乃花の遠くなった意識もすぐに戻った。これは幻想的に陥った自分が現実を受け止めたからであったのかと菜乃花は思った。
瀬奈は菜乃花に心配そうな目を向けた。椿はその目に同情を含めたものが存在した。
しかし、それ以降は悲しげな雰囲気は消し去られ、三人はイオンを後にすると、京都駅まで行き、菜乃花は二人と別れ、駐輪場に止めた自転車で家まで走った。
人気のない道へ出た時に、菜乃花は涙が溢れ出た。しかし、自転車を止めることはせず、そのまま悔しさから逃げ出すように走った。
大切な友人に二人の秘密を打ち明けることを心が拒んでいた。その事実に瀬奈を裏切った思いが強くなった。自転車が凸凹とした道に当たり揺れるが菜乃花はそのまま転んでしまえば良いと思った。
椿も同じ思いでいるのか、それを思うのも一瞬で、九条通りが見え始めると、菜乃花はより早く自転車を加速させた。信号が青になっているのを見て、九条通りを過ぎると、菜乃花は細い道の影に自転車を止めた。風に靡いた涙はその時にはもう枯れ、悲しげな思いだけが漣にこだました。




