瀬奈の見た孤独
夏休みは終わりを告げ、椿達に二学期が訪れた。夏の終わりはいつも雨雲が姿を表し、夏を終える余韻を物憂げに消していった。その蒸した熱に椿の背には汗が出て、それが下着の先を通り、制服に張り付いたまま姿を消した。
夏は秋へと変わっていないはずであるが、九月になってからは涼しげな空気が蔓延り、寂しげで哀愁のある風が秋を常に感じさせた。それでいて、まだ夏の気持ちは消えることがなかった。
始業式の日から授業が始まり、急に戻った日常は椿に困惑を襲わせた。それは心の表面をなぞるだけで常に浮き消えするもので、椿は感じるだけで思う事はなかった。
菜乃花や瀬奈は変わらずに過ごしているように思えた。また、他の人達もそれが当然かのように振る舞っており、時折その不安は見えない恐怖へと変貌を遂げた。
放課後になると、椿と瀬奈は部活へ行った。菜乃花はそのまま一人帰り、アルバイトへ勤しんでいた。
椿はその菜乃花の寂寥を感じる背にぼやけたような景色に変わるものを見た。吹奏楽部は嫌ではなかった。瀬奈もおり、中学生から続けていたものであるので、愛着も強くあった。しかし、その時にも菜乃花の事を思うのであった。
菜乃花がアルバイト先で自分の知らない人と関わる事に椿は強い嫉妬を思った。そしてそれは菜乃花がアルバイトの時間帯には常に心の中に留まり、椿は息苦しさすらも感じ、部活を終え、家に帰ってもそれは続き、二十一時を過ぎ、やっと消えるのである。
それでも瀬奈といると幾らかはその気持ちを忘れることができ、和らぐのであった。瀬奈は椿のその様子を心配に見ていたが、椿は自身のそんな思いを打ち明けるわけにもいかず、瀬奈に申し訳なく思っていた。それは一種の心の病なのであろうか。椿はそう思うと、やりきれない気持ちになり、何がそんなに不安に駆られてしまうのかと考えた。
瀬奈と別れて、電車に一人で乗ると、十八時を過ぎ、暗くなる空模様とともに不安は暗闇の広がりのごとく肥大してきた。
だが、それでも日々は変わらず、人々は何食わぬ顔で過ごしており、電車のアナウンスもいつもと変わらぬトーンを聞かせていた。椿はどこか異質な世界なように感じた。ディストピアを感じているのは自分だけなのだろうと漠然と思った。不安は人々には感じているように思えず、それを椿は思う事で、不安な事は何もないと自身に言い聞かせた。しかし、電車を降り、一人、烏丸御池駅の賑やかな煉瓦造りの銀行を抜けた先に待つ静寂を浴びた時、その不安は星すら見えない夜空を味方につけ、椿は菜乃花を強く思った。しかし、アルバイトをしているはずの菜乃花はその時間も自分とは違い、懸命に働き、様々な人と接している。それが耐え難い苦痛になっていくのを直に感じ、それが生々しい程に恐ろしく思えた。
雨音によって周りの音が遮断され、傘の下ので一人、椿は時間を早めに過ぎさる思いを持った。車のライトや電灯が不思議と悲しげを助長させ、菜乃花を思えば思うほど、首を絞めるのであった。
家に着いても、椿の気分は晴れずにいた。寧ろ、家での弟達の賑やかな様子が椿だけが孤独に苛まれたのだあった。窓には雨の冷たさが瞳の先に漠然と伝わり、椿は窓に触れるのを躊躇った。指に触れたら、その小さな冷たさに心の先が凍ったようになる事はわかっていた。
時間は二十時四十分である。あと、二十分の辛抱を椿は思った。スマートフォンを逐一開く事が増え、熱くなったスマートフォンの充電が気がつくと無くなりかけていた。
スマートフォンは充電器に挿し、充電を始めさせた。椿はそのまま、部屋を眺めた後、床に腰を掛けた。そこは夏の前に菜乃花と二人で並んで座った場所であり、椿はその事を記憶に強く刻み込んでいた。今もうないはずの菜乃花の座った後の熱を無意味に感じ、椿は心がむず痒く、もどかしい思いを身体に駆け巡らせた。まるで発作のように一瞬のうちに陥らせ、椿はそのまま倒れるように横になった。天井の照明は眩しさを僅かに思わせ、その明かりの中に佇む無秩序な存在しないものを思いの底に移してしまった。
二十一時を過ぎた頃、椿は菜乃花がアルバイト先を後にした時間を見計らって、メッセージを送った。既読はすぐにつき、数秒して返信は返ってきた。椿はその言葉をじっくりと読み、頭の中で反復させた。菜乃花の声が椿の耳に幻聴のように響き、その優しげな声色に椿は安堵を思うと共に、ふと、疲労感に襲われた。菜乃花が夜の街を過ぎ去りながら家に向かって帰る姿を想像し、自分を恥じた。頬に伝わる床の冷たい感触が雨の当たった地面と同化させ、菜乃花の感じている事を共有した気になり、自身を慰めた。
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二学期は始まると文化祭の準備に掛かる。慌ただしい中で涼しげな風が日に日に多くなり、秋の哀愁ある日が姿を鮮明に写し始めていた。椿も吹奏楽部の文化祭での演奏に向けて目を向け、そんな忙しい中で、先日まで思っていた心持ちは隠れたように忘れてしまっていた。部屋の扇風機は置物と変わり、朝には寒さのためにタオルケットを体に巻いていた。寝巻きを脱ぎ、下着姿になると、その肌に冷たい空気が刺してきた。夏を忘れ秋に変わり始めたと椿は思った。来週には雨が降る。その雨によって冷え切った街は更に夏を忘れ、そのまま夏の暑さは気がついたら戻って来なくなる。夏の終焉は秋と来訪と共に自然と消え去って行った。
椿は弟達と家を出る。椿は弟達を横目に見ながら、一緒に歩き、弟達が登校班の集合場所まで着くと、二人に手を振って、一人駅の方まで歩いていく。それがいつもの光景であり、椿の心の平穏は不思議なほどに保たれていた。数日前に感じたディストピアは消えていた。自分はあの集団に溶け込んでしまったと安心と焦燥を同時に感じていた。しかし、無機質に冷たく、過ぎ去ったものは終わるとその時間を無かったように思えるのであった。
学校で二人に会っても、椿はいつも通り変わらずに接し、菜乃花に向けたあの嫉妬と不安は流れてたと思った。
菜乃花の顔を見て、求めていたものは目の前にあると強く思い、不安は何も感じなかった。
・
そしてそれから文化祭の日が来た。騒がしい空気は学校の先にある古門を超えた辺りから肌に感じた。椿は瀬奈と早めに登校し、音楽室へと足を運んだ。二人はクラスの出し物とは別に吹奏楽部としての演奏があった。焦燥がどこか高揚へと変わり、薄暗い音楽室も照明がつく前のステージのように思えた。椿は時折、瀬奈と目を合わせ、心に潜む緊張を和らげた。瀬奈は目が合うと、愉快そうに笑い、椿にとってはそれは麻薬のように何度も瀬奈の方を向いてしまっていた。
練習の後に顧問の挨拶を聞き終えると、二人は音楽を後にし、教室へと向かった。
「なあ、椿?」
椿は瀬奈の言葉にどこか悪い予感がした。その声色に椿が触れてこなかったものが含まれていた。
「あんた、この前までずっとどっか上の空になってたけど、大丈夫なん?」
椿は心の欠片が抉れていくような感覚に落とされた。瀬奈にこの事を察せられてしまったことに、申し訳なさと自分の心が晒されたような恥を思った。
「大丈夫やで、この頃忙しいから」
「せやけど、無理してるように思うで」
「大丈夫大丈夫。なんもない」
椿は自分がやや早口で捲し立てるように話しているのを思った。また、それが余計に瀬奈に不信感を与えているのもわかった。
「なんか、あったら言ってな」
「うん、わかった」
椿はその極地を過ぎ去ったのを思った。瀬奈の中には恐らく、先月の菜乃花の事もあるように思われた。瀬奈にとっては自分の知らないところで二人の様子がどこかおかしくなっているのをただ見ているだけになってしまっている。それがどんなに寂しく、悲しくあるか、椿はいつか、瀬奈に菜乃花と付き合っている事を伝えなくてはならないと思った。
「今日は昼過ぎに私達は演奏があるし、三人が同時に自由時間に当たらへんな。明日、三人でどこか見てまわろ?」
「ああ、うち、明日は彼氏が来んねんな。申し訳ないけど、三人では無理かもな」
「そう」
椿は寂しげに言ってしまった事を悔いた。その際にどこか人のいない場所で、瀬奈に二人のことを伝えようと椿は思っていたが、その試みは刹那のうちに終わった。
瀬奈には恋を公にできる権利があった。しかし、椿と菜乃花にはその権利は持ち合わせていなかった。椿はその瀬奈に隠し事をしているやましさに苦しみ、周りの目の侮辱を含んだ批判に晒されることを恐れた。瀬奈に隠し通すことは心の痛みを常につねる様に傷つけ続け、瀬奈に二人の関係を告白し、もし、瀬奈がそれを受け入れることができなかったなら、二人はその人間的な生きでの恥を烙印を押されてしまう。
しかし、椿はそれを決して恥とは思う事はしなかった。それを思うのは椿達ではなく、二人を除いた世間なのである。恥というのは形が変わる。それは思う事によってさまざまに広がるのである。人々がいる分だけそれぞれに個性があるのである。
椿は自分と菜乃花が何も思わなければそれでいいのではないかと思ったが、その理想的な考えは現実にはとても夢を持ち込んだようであった。否定的な関係であるのは重々承知の上での関係であった。それを非難される覚悟もあった。しかし、それを悪とは思えなかった。そしてそれを瀬奈はその悪に対立する事は想像できないでいた。
椿はその考えはあくまで自分自身のものであり、菜乃花の考えを無視したものであるのを理解していた。菜乃花はどう考えているか、椿と同じであると断言はできなかった。その思いを触れようと覗き見る事は恐れが勝ってしまってできずにいた。椿はその思いを常に閉ざしながら、それでいて、菜乃花に性を見せつけ、満たしていた。
卑怯であり、人としての女の醜さが現れ、それを必死に隠していた。菜乃花がその事に気づいている様子はないと思われるものの、気づいていないかと言われると、不明であった。
瀬奈の純情は椿の卑劣なものと何もかもが違うようであった。
瀬奈の首筋に流れる髪をふと、目にし物体的な美しさとその動きと色艶の覆われた輝きが現実のままナチュラルに現れていた。
その髪が揺れる動き、物憂げは強さを増した。瀬奈の尊さはふと、自分を卑下した事により一瞬のうちに持ち上がり、視界が白く広がりそうになるのを堪え、意識が保つ内に、教室へと着き、机がない広々とした教室の端に佇んでいた椅子に倒れ込むのを抑えながら座った。その上目を遣いながら瀬奈を見上げると、瀬奈はやはり、心配そうに椿を見つめていた。
しかし、すぐそばには菜乃花が既におり、瀬奈の中心は椿の事でありながらも菜乃花に移っていた。
それからしばらく、椿は二人に心配されながらも、徐々に調子が元に戻っていくのを思った。顔色は次第に晴れていったのを感じ、二人が椿に向けた心配そうな目はやがて薄くなっていった。
そして椿はその事を内省し、その日、一日は朝の憂鬱を忘れ、文化祭を楽しんだ。クラスの出し物に吹奏楽部の演奏が慌ただしく続き、椿は自己嫌悪を陥る暇などないと休憩時に思った程であった。午後には晴れ模様が見えたが、夕方には曇り空が雨雲の様に変化して行った。幸いにも雨は降る事はなかったが、椿達は皆、明日のために一日目の文化祭を終えると足早に帰って行った。
ゆったりとした時間は帰りの電車の中で初めて感じた。晴れやかな面持ちとは言い難いが、救われたような気がしていた。過ぎ去るように早く打った鼓動はその緊張の溜息が汗となり現れ出た。その日は結局雨は姿を見せず、翌日は曇り空が端々に広がるが朝焼けの眩しさと久し振りに再開した。
ここから秋の写しが開かれるように、椿は涼しげな空気を浴び、一つ息をついた。
その日も昨日と同じ様に早く学校に向かい、朝練を行った。瀬奈は音楽室に着いた時には既におり、楽器を取り出そうとしていた。
「おはよう」
「おはよう、椿。眠そうやな」
「そうかな。別に寝不足っていう訳でもないねんけど」
椿はそう言って、瀬奈の言葉を信じるかのように目を軽く擦ってみせた。
そして他愛もない話をしながら、椿はテナーサックスを取り出し、胸元に軽く触れさせた。そして軽く吹いてみた。
朝のせいか、籠ったような音が決して愉快ではないように広がった。
「湿気のせいかな?」
椿はそう呟くと、視線を瀬奈に向けた。
「どうやろ?」
瀬奈はフルートを口元から遠ざけた。暗く眩いその反射した景色がまだ一日の始まりを告げ始めたように思えた。
「私の音、籠ってへん?」
「まあ、少しな。でも、チューニングのせいちゃう?」
「そうかな?もう一回吹いてみるわ」
椿は再び息を吸くと、サックスを吹いた。文化祭で演奏されるオーメンズオブラブのイントロの部分を八小節程吹くと、サックスは音を止ませた。しんとした、息が途絶えた音が響いた。
「どうやろ?」
「さっきよりはええんちゃう?」
淡々とした瀬奈の言葉を椿は信じる事にしてみた。その言葉に嘘は隠れていなかった。椿はこの曲のメインともいうべき、サックスソロは別の子に奪われてしまった。悔しくもあったが、慣れてもいた。それに椿は元々、ソロを取るよりも合奏の方で音を合わせてみたいと思っていた。涙をこぼさせる程は無く、吹奏楽に情熱を向けてはいるが、その事にはドライに似た思いを持っていた。椿自身、その性格にトラブルを抱えることも無く部活をできていることに時折、安堵することがあった。
「とりあえず、信じるわ」
椿はそう言いながらも無邪気に懐疑の視線を瀬奈に送った。瀬奈はふざけたように笑いながら
「ほんま、ほんまやで」と言って、手にしていたフルートを口元に近づけた。そして椿の耳に、曲の壮大なイントロのフルートパートが聞こえた。ドラムが入り、アップテンポに移る前のパートを椿は初めて聞いた時から気に入り、オーメンズオブラブをCDで聴くときは最初の部分はより、集中的に耳を傾けていた。
そして、時々、ピアノでイントロの部分だけ弾いては瀬奈に聴かせていた。
その後、二人は昨日と同じように朝練を終えると、教室へ向かった。
二人は午前中のうちに文化祭の出し物に出て、昼過ぎに演奏を控えていた。午後から自由時間であるが、瀬奈は恋人と二人で出し物を見て回る事になっていた。椿はその時間は菜乃花と回る事にした。どことない喪失感を思いながらも、その後のデートに椿は密かに心を躍らせた。風の中に自然と身を入れた先に見つけた甘い香りのようなものを思わせた。
午前は昨日と変わらずに、出し物をし、昼過ぎには瀬奈と吹奏楽部の演奏をした。曲目はオーメンズオブラブと宝島であった。オーメンズオブラブと同じTHE SQUAREの楽曲で鍵盤の和泉宏隆氏の作曲した曲であった。
演奏が終えた後、椿は菜乃花と別れ、菜乃花の待つ場所へと向かった。
菜乃花とは校舎の最上階の階段で待ち合わせていた。最上階は文化祭での物置になっており、関係者以外は立ち入りを禁止していた。人がいない為、待ち合わせるには丁度いいと言うことと、この場所は失恋した椿が泣いている時に菜乃花が声を掛けた場所であり、二人にとって大切な場所であった。
椿はサックスケースを音楽準備室に置いた後、瀬奈に手を振り、早足で音楽室を後にした。音楽室も最上階にある為、階移動はないが、菜乃花と待ち合わせている場所は真反対であった。廊下の先に微かに見える突き当たりが近くにあるように見えた。しかし、距離は長く、椿の足も自然と早くなっていった。
後ろではまだ部員達の話し声や楽器をケースにしまう音があった。その騒がしさから逃げる心地を感じた。
最上階は人が少ないからか、足音が響いて聞こえた。この場所のみ静寂が蔓延っていた。電気もついていないので、薄暗い廊下の先に着くと、菜乃花は階段に腰を掛けていた。
「菜乃花」
「お、椿。お疲れさん。良い演奏やったで」
「見に来てたん?」
「昨日もいたで」
「ほんま?全然気付かへんかった。言ってくれたらええのに」
「恥ずかしいやん」
菜乃花は下を向きながら言った。椿の目には菜乃花の頭頂部の黒色の美しい髪が映った。
「けど、二人が演奏してるの見てて、うち、幸せなんやなって思ったわ」
「どう言うことなん?」
「良い友達を持ったなって。かっこよかったんやで。二人とも」
椿は菜乃花の合わせることのない目線を不思議な程にからかいたくなるのを抑えた。
その時、廊下のすぐそばで他の生徒の話す声が聞こえた。二人は胸の奥が焦りを始めた。話を止め、その場に静寂を訪れさせた。
吹奏楽部員が三人、椿と菜乃花のそばを通り、そのまま階段を降りて行ったのを見届け、椿は思わず、菜乃花の横顔を覗き見た。
「うちらも行こう」
椿は菜乃花に誘われるがままに手を繋いだ。ほんのりとした冷たさに人肌の温もりが生まれた。
しかし、椿は階段を降りる頃には繋いでいた手を自然のうちに離していた。掌に染みるような冷たさが寂しく触れた。
二人は人の波に流されぬよう、お互いを気を掛けながら歩き、喧騒の中で迷子になることを恐れながら、いくつかの出し物を見て、人が少ない食堂へ足を入れた。
食堂は実質生徒達の休憩所と化しており、何人かの生徒達が椅子に座って携帯電話をいじったり、雑談をしていたりしていた。
椿は食堂の角にある自動販売機で飲み物を買った。
既に椅子に腰をかけていた菜乃花の隣に座ると、買ったばかりの飲み物を菜乃花の太ももに触れさせた。
「冷たっ」
菜乃花の驚いた声に椿は無邪気に笑った。椿はその笑いを終えた時、菜乃花が椿の顔をじっと見つめていることに気がついた。
怒っているようではなかったが、椿には不安の訪れを予感させた。
「椿、文化祭楽しい?」
椿はすぐには言葉を発することはできなかった。菜乃花の言葉の意図を考え、彼女の思惑を推察しようとしていた。
「楽しいけど、どうしたん、急に?」
「ここ最近、椿、元気がないように見えてな。瀬奈ともそんな話はしてたんやで」
椿は心に冷たい物を当てられた。声を上げるため、椿は息を小さく吸った。
「瀬奈からも聞いたわ。まあ、色々あったしな。疲れてたんや」
声は上擦り、早口に捲し立てるような話し振りであった。椿は冷や汗をかき、菜乃花の顔には照明の影がかかったのを見た。
「でも、今は椿が楽しそうで安心したわ。なんかあったら言ってな。うちら、友達やし....」
周りに人がいるからか菜乃花は友達と言っていた。椿にはその関係をまだ隠しておくべきなのかもしれないと思ってしまった。
その後、文化祭が終わる時間の間際に、二人は午後、待ち合わせた場所に隣同士で座っていた。
肩と膝から太ももにかけた足が触れていた。椿はその足の触れた幸福を微かに思った。
「私が、最近浮かない顔をしてるのを菜乃花と瀬奈に知られてるって聞いて正直驚いてるわ。私、ポーカーフェイス上手い方やって思ってたから」
その脈絡もない突然の話に椿自身も驚きの物音を聞いた。
「私、この頃、菜乃花と恋人でいる事を二人だけの秘密のままでいいのかよく考えるんや」
小さな声で話していたので、周りには聞こえていないようであった。菜乃花の表情を見るのは怖かった。
「そりゃあ、秘密やろ。知られたら、後ろ指刺されるで。悪いことはしてへんのに、間違ったことしてると思われるんはうち嫌やで」
「それはそうやけど」
椿は風に声を消されたように言葉を消し去った。
「瀬奈に秘密にしておくの、罪悪感でやられてまうねん」
椿は菜乃花の方を見れずにいた。菜乃花は何も言わずにいた。椿の言葉に悩んでいるのか怒っているのか、呆れているのか、椿はそんな事を考え巡らした。
「もし、もしやけど瀬奈に軽蔑されたら。それは嫌や」
「せやけど、隠し通すんも私は苦しいわ」
椿は去年、部活の先輩と付き合った際に、すぐに瀬奈に報告した事を遠い昔のように思い出した。一年は長いはずであるが、椿は過ぎ去った風のように思った。しかし、その風の中では強風が吹き荒れて今があるのだった。
「菜乃花の気持ちは尊重する。けど、私達は瀬奈の親友や。瀬奈は驚きはするかもしれへんけど、軽蔑はしないはずやで」
菜乃花は何も答えなかった。その事に強い拒否をしているわけでは無く、考え抜いているのを椿をしっかりと感じた。
菜乃花の初めての恋人を奪った自分自身の戒めとして、菜乃花の意思はしっかりと守ると決めていた。
五月の鎌倉旅行の際、二人の中でこの事を秘密にすると決めていた。しかし、そのズレを椿は僅かに感じ、それが冷たく肌寒くなると共に不安に変化を遂げていた。菜乃花はその変化を訪れていないようで、その確信を触れることを恐れているように見えた。
知らぬが仏という事を表しているようであり、幸せの延長を続けていきたいようであった。椿の心情に先輩に振られた時の重い傷跡がのし掛かった。
椿は手を伸ばし、菜乃花の手に触れた。先程とは違い、自然によって現れたものではなく、意志が入った、伝えるものを通じさせる為の意図的なものであった。
二人とも声を出さず、それを菜乃花は受け入れていた。否定も肯定もなく、ただ、廊下に響く騒がしさが次第に文化祭の終わりを告げていた。
「ゆっくりと考えさせて」
「ええよ。ゆっくりでええよ。時間はあるから」
「ありがとう」
菜乃花の少女のようなせせらぎのような声を椿は初めて聞いた。事実、菜乃花は幼い少女のような表情をしていた。それは椿には初めての景色であった。
耐えられぬ庇護が菜乃花の肩に回る手をより、強いものにさせた。椿の性が菜乃花の身体を求め始めた。肩に触れた手がその先を行こうとしていた。
菜乃花もその事に気がついたのか、椿の方を見上げていた。椿の手に菜乃花の手が重なり、指が絡まった。
「今はだめや。周りに人おるで」
そのまま、菜乃花は椿の豊かな胸に手を当て、流れるように掠れさせた。
椿はそこで、ふと我に返り、窓の先にある曇り空を目にし、襲いかかった欲望を冷めさせた。
枯れ果てる草花を想像し、菜乃花に対して、恥を思いながらも、菜乃花の気持ちをただ、雨が止むように待つ事にした。
瀬奈の立場を思うと、孤独の中に立たされる思いがあった。しかし、それは椿と菜乃花の思う瀬奈の立場であり、瀬奈自身にはそんな事は思う事は無かった。
文化祭の終焉とともに二人は階段を降りた。手を繋ぐことは二人ともできなかった。冷たい掌に影に浸った心苦しさを思った。




