祇園祭
期末試験が終えた椿の心情は晴れやかでは合ったが、夏の暑さがまだ本番でないことに嘆きを覚え、いささか夜のほんの少しの涼しさを身を寄せたいものであった。
電車の中は涼しいが窓の付近の日光が当たっている窓が熱を閉ざすことはなかった。揺れる車内に椿の心も揺らぎ、夏の間に何回菜乃花と顔を合わせるのだろうかと思った。
烏丸駅を出ると、地面の熱が靴底に伝わった。それが一瞬、幻想のような熱さであり、思い込みのように思えたが、やがてそれは思い込みではないことがわかった。ローファーは徐々に熱を帯び、椿は髪の先まで行き届いた汗に嫌悪を抱くと、早足で家へ向かった。椿の心には苛立ちが募り、それは自然に向けられたやり場のないものであった。
車が通りを通るたびに浴びせられる熱風は髪を靡かせ、汗が髪から解き放たれた。額の汗を手で拭い、暑さに抗うことを諦めた心に早くなる足は止まることを知らずにいた。
家着いた頃、蝉の声が辺りに響き、夏のようだと椿は錯覚した。家には祖母だけがおり、二人の弟はまだいないようであった。
「おかえり」
「ただいま、駿達はまだ帰ってきてへんの?」
祖母はリビングでテレビを見ていたようで、帰ってきた椿を見上げていた。
「駿也達はまだ学校やな。もうすぐ帰って来るんとちがう?」
祖母は弟達が気掛かりなのかと聞いたが、特に用はないので
「いや、小学校は終わるのが遅いんやなって」
椿はそのままバッグを部屋に置きに行かず、エアコンの効いたリビングに居座った。バッグはリビングの端に置きっぱなしになっており、弟達に見られるわけには行かないと思いつつ、足が動くことはなかった。
いつもであったなら、このようなことをしている弟に叱ったりするものの、これでは叱る顔ができないと考えながら、どこか熱に浮かされたせいか上の空になっていた。
「椿、コーヒー飲むか?」
「お願い」
祖母はその言葉を聞いて立ち上がり台所へ向かった。椿もその力を借り、バッグを部屋に置きに行った。
そしてバッグを置いてリビングへ戻った時に弟の一人が帰ってきた。
「おかえり、駿は?」
「駿はまだ学校やで。俺の方が早く終わるから」
「低学年は早くて羨ましいな」
「姉ちゃんの方が早いやん」
弟にそう言われた椿は手にしていたスマホから弟の顔を覗き見た。弟と目が合い、子供らしい顔をして、つまらなそうな表情をしていた弟は無邪気そのものだった。
祖母がリビングへ戻った。コーヒーを二つ持ち、その一つを椿に手渡した。コーヒーの中に浮かぶ氷が冷たい音を立てた。
「隼人も帰ってきたん?何かジュースでも飲む?」
「ええわ、俺このあと遊びに行くし」
弟はそう言って、ランドセルを置きに二階へ上がった。椿は弟の去った様を見守り、早めにバッグを置きに行った事に胸を安堵はさせた。
「今夜私、友達と祇園祭に行くわ。夕方に出てくから」
「そう、楽しんどいてな」
祖母はそう言った後、弟が勢いよく家を出ていった。残されたその空白に椿は寂しさを思った。
「おばあちゃんはさ、祇園祭行かへんの?」
「足痛いからな」
椿は祖母が撫でた足を見た。その痛みは目には映るなかった。しかし、語らないことにその痛みが蓄積された強いものであると言う想像が沸いた。
「昔は行ったんやけどな」
祖母は昔を思い出したように言った。祖母の少しの微笑みに椿はその記憶の中を覗き見たように感じた。
「何があったん?」
「何が?」
「祇園祭のこと」
祖母は一瞬虚空を見た。その記憶はまざまざとしていた。
「十八の頃やろか。おじいちゃんと宵山行ったんやわ。四条大橋で知り合いに会うたんやけどな。口で言うんも難しいんやけど、それがどうも知り合いのようではなくてな。狐が化けたようで、つままれたような思いがしたんよ。知り合いに化けた狐がいたんと違うやろかって。祇園祭にはそんなこともあるんかなってな」
「面白い話やな」
俄には信じがたい話ではあったが、祖母の口ぶりは揶揄っているように聞こえなかった。本当にあったのだろうと思わせるような力強さがあった。
想像の中の若い祖母を椿は自分自身を思わせた。もしかすると今夜、自分自身にも同じことがあるのだろうか。菜乃花に似た人物に合ってしまうのだろうか。
空は晴れているが、そんな紛い物と出会う時は空はどんよりと濁ったようになるのかと想像した。
「なんで知り合いじゃないと思ったん?」
「雰囲気や話し振り、あとは私の心の持ちようかもしれへんな」
祖母の言葉は椿には幾らか不明に捉えた。
「私も昔の記憶やから、あまり覚えてへんのかもね。もしかしたら、本当に狐が化けたかもしれへんけど、ただ、知り合いが人の多さに気後れしたのかもしれへんし」
祖母は弁解をした。椿にはその話に真実を求めるのは意味がないと思った。その話の神秘に感じられる儚さが椿には心の中に強く消え去らずに残ったのを思った。
祖母の話ぶりには少女のような色合いがあった。美しい思い出なのだろう。透き通るような涼しさが感じられ椿は感動した。
不思議な事は夏の夜に起こるのであった。今夜ももしかしたら孫に伝わって起こるかもしれないと椿は心を踊らせた。
聞こえぬはずの祭りの騒がしさが耳に残響のように聞こえ出した。山鉾の輝かしい光が目の前に開くのを見た。夜はきっと夜の姿を変えているのだろう。静寂は軽蔑され、宵山は神様の為にあるのである。
・
夕方、十七時に椿は家を後にした。菜乃花はこの時間までバイトをしており、ゆっくりとだが、椿は待ち合わせの場所まで向かうことにした。
祇園四条駅は宵山の日は人通りが一年でも最も多くなる。駅での待ち合わせは菜乃花と会うのに時間が掛かるのは明白であった。
椿は敢えて電車に乗らず、歩いて四条通まで向かった。
浴衣に着替えた椿は普段よりも慎重に歩き、まだ夕方の最盛期を望ませた空模様に夜を待ち侘びさせた。
人通りはまばらでありつつも、いつもよりは人が多く見られるように感じた。それは気のせいなのかはわからないが、時折、観光客と思われる人々が住宅街の道を歩き、その場違いな模様は祇園祭の影響の波かと思われた。
途中でカフェに寄り、カフェオレを飲みながら休憩をした。ほんの少ししか歩いていないのだが、汗が出て、疲れも出てきた。携帯電話を開き、菜乃花に連絡をした。
冷たさを香るカフェオレに椿は身の内を寄せた。
菜乃花からはすぐに返信が来て、アルバイトを終え、帰宅している最中だと言う。椿は家へ帰る菜乃花を想像し、もう十分程、カフェの中で時間が過ぎるのを待った。
カフェを後にするのは少しばかりの覚悟を持ってからであった。夕方あるが、夏は活動をまだやめる事はせず、夕陽が沈まぬ風を装っているのを知っているからか、寂しげな景色はあるものの、まだ夏の空は健在で椿の億劫な気持ちは変わらずにいた。
四条通の近くへ来ると、騒がしさも徐々に広がり、椿以外にも浴衣を着た人が見られるようになった。
しかし、皆、椿のように一人ではなく、友人や恋人とおり、孤独な焦燥は幾たびも押し寄せ、それに飲み込まれながらも、歩みは止まる事はなかった。
四条通に出ると、人々は波のように歩き、その中を椿はやや早足で流されぬように進んだ。
椿の耳には今は喧騒が流れ出ていた。この騒がしさに身を投じるのは危険であると思った。一人孤独を抱え椿は歩き、そして、誰も目にすることがなく通り過ぎるだけの御旅所の前に立った。ここが菜乃花との待ち合わせ場所であった。
七度参りと言って、御旅所から、その東の方角に位置する八坂神社の方へ誰に話しかけれても声を出さずに七回行ったり来たりをし、お参りをすれば願いが叶うという参詣がある。その浪漫が溢れた参詣を椿は一度行ってみようかと思ったことがある。
しかし、御旅所から八坂神社は遠く、片道でも十分以上は掛かる。それに人通りの多いこの日ではもっと時間は掛かると思われた。
それに今は七度参りの途中に菜乃花が来てしまったらと思うと、行う気にはなれずにいた。
御旅所の日陰に隠れ、目の前を行き交う人々を眺めながら、耳に騒めく景色の音が遠くに見える山鉾が重なり、静かな京は遠くに訪れるのだろうと思った。
椿の瞼の先には幻想が浮かんでいた。その幻想の影には現実が蔓延っていた。幻想の園に立ちすくむ椿はこの風を感じていた。
朱色に輝く街並みに山鉾の明かりは対抗するように輝いた。椿は自分の着ている浴衣の裾が目に入り、ふと、それが夕陽に溶け込んだのを見た。それが一瞬だけ美しく姿を変えた。夢のような景色を見た後はすぐに変わらぬものへと戻った。
目の中に宿った残景はこの一瞬を記憶した。写真にも写せず、絵にも描けないものを椿は生涯消し去ることができようか。短い間であったからこそ死の底まで埋もれることのないものが存在し得るのかと思った。
そしてそれは夏によって溶けた想像がなし得るのである。そんな思いを現実に引き戻したのは菜乃花が椿の前に姿を現したからであった。
「や、椿。待たせたね」
「待ってへんよ」
菜乃花は椿の頬に手を当てた。椿の汗が頬を伝い、菜乃花の手に乗った。
「汗、えらい出てるやん。暑かったやろ」
菜乃花にそう言われ、椿は否定しようとしたが、ふと、それは無理なことであると悟り、首を縦に振った。
「ごめんな、アイス買ってきたし食べよ」
菜乃花は手に持っていた袋からアイスを取り出し、椿に渡した。アイスを受け取った椿はすぐにそれを口の中に頬張った。
「椿、浴衣で来たんや。うちもそうすればよかった」
菜乃花は黒シャツに白のミニスカートという服装であった。現代的で可愛らしい印象を与えた。しかし、お互いの服装が並んで見ると不釣り合いであった。
「浴衣は少し歩きずらいで。私は洋服にすればよかったって思ってわ」
「転ばんようにね。危ないで」と菜乃花は椿の手を握った。それがあまりにも自然に受け取られ、椿はその様子を一歩遠めに思った。すぐに現実は風のように戻し、椿は菜乃花の手が触れていると知った。
「どこへ行こうか?」
「そうやな」
会話はすぐにすぐ下の鴨川の流れる音に流され、二人は四条大橋から鴨川とその川辺に座り込む人々を眺めた。
鴨川沿いに立つ東華菜館が厳格に聳え立ち、川床で食事をする人々を椿は羨ましそうに眺めた。
「あそこで食べるん、私達にとってはまだ早いな」
その言葉を聞いた菜乃花は橋から顔を出して、その方を見た。何を思うか、その後に椿の顔をまじまじと見つめた。
「うちら高校生やし、まず入れへんのちゃう?」
その言葉が投げかけられた方を椿は見た。
「菜乃花は大人っぽいし行けるんちゃう?」
「いや、うちより椿の方が身長高いし、大人っぽいで」
椿はその言葉に菜乃花の素直な心情を信じた。しかし、椿は自分をそのように思った事はなかった。それを謙遜するように肩に伸びた髪をなぞり、菜乃花の頭を覗き見た。
「二人で行ったら行けるんちゃう?」
「ほんま?」
二人はそんな会話をしたが、お互いそれが冗談だと言う事はわかっていた。
「大人になった時、いつか、行こな」
椿はその声に涼しさのある透明な思いが込められてるような気がした。菜乃花はこの関係が一時ではないと信じていた。椿はそれが何よりも嬉しく思えた。
「卒業したら、ここで宵山を眺めような」
その時、椿の耳には強い川の流れが響いた。先程よりも強くなったように思えるその音は何を意味してるのかはわからなかったが、二人の未来をより良いものへ導くように思った。
・
宵山は四条通を辿り、八坂神社まで続く、普段は車の通りが多い道もこの日は歩行者天国へと変わる。椿達は四条大橋を抜け、南座を通った。その時点で時刻は十九時をとうに過ぎていた。四条大橋の上にいた時間は時を感じさせなかった。夕陽を見せていた空はいつの間にか夜が掛け合って混じり、蒼色の空が広がっていた。八坂神社に向けてまだ夕陽がほんの僅かに肩を覗かせ、その裏に潜む山が緩やかに淡い色の火を消すように息を吹きかけているように見えた。東の方には夜がそこまで迫っていた。明らかに先程よりも暗くなっていた。それと比例して、街が明るくなり、街を灯す明かりが夜に吸い込まれるようであった。夜の闇は目を離した隙に街を包み込む、それがふと、子供心のように恐ろしく思えた。まだ未完成の夜が夕陽の僅かな抵抗により、そのヴェールの中を裸にしていた。夜がまだ明るく、夕陽の余波に似たものがあるような気がした。この残り少ない夜の前の美しさを寂しげな気持ちに覚えると、夜はもう夕陽をかき消してしまった。
夕陽は街の明かりに目を奪われた時にはもう消えていた。夕陽が消えた途端に街の明かりが強く光ったのか、街の明かりが目に入ることで淡い色をした夕陽が消えたと錯覚したのか、椿はそれを思う間もなく、喧騒に身を投じ、菜乃花と一つの手を握り合いながら、流れを身を任せていた。菜乃花は椿の前に立ち、歩いているが、人の流れに抵抗しているように見えた。時折、足を止め、椿の方を振り返った。椿はその時の菜乃花の目に、気遣うような思いを見た。
椿は菜乃花と同じように足を止めた。菜乃花は椿をじっと見つめ、静かに頷くと、再び歩みを始めた。しかし、歩みは先程よりも早くはなかった。歩道の端に行き、人に追い越されるのを椿は眺めていた。無機質に通り過ぎる人々は皆、知らぬ人であり、誰一人として、見たことある顔は無かった。
「誰か一人くらい知り合いに会えると思ったんやけどな」
「こんだけ人多いんやし、おっても会えへんよ」
椿の独り言のような言葉に菜乃花は笑って返した。
「瀬奈もどこかにおるんよね」
「そうやろうな」
このすぐ近くのどこかにいるはずの瀬奈を想像した。瀬奈は二人を見てどう思うだろうか。普段の違う雰囲気を見て、椿と菜乃花の関係に気づくのだろうか。瀬奈のような恋人同士は椿のすぐそばを幾人も通り過ぎていた。その背に瀬奈を思う事はあるが、どれも彼女では無かった。
瀬奈の恋愛を見ると、椿は胸の奥が苦しむ音を聞くのであった。それは瀬奈とは違い、椿は不純なものであると気づいていたからであった。しかし、それを思う事は菜乃花に対してその思いを汚れたものとしているように思わせ、その気持ちは気づきつつも決して誤りなどではないと思わせた。
そして、その思いを雑響に誤魔化すように
「私のおばあちゃんの話なんやけどな。私達くらいの時に宵山にいったんやって、そこで知り合いに会ったらしいんやけど、なんかその人のようでその人っぽくなかったらしいねん。狐につままれたみたいやって言ってたで」
「不思議なもんやな」
菜乃花は笑いながら聞いているのかと思っていたが、真剣な表情で椿の話に耳を向けていた。椿はその横顔を見て、頬に様々な明かりが当たったのを見届けた。
「もしかしたら、瀬奈もこの場所で会ったら、私はおばあちゃんと同じように狐につままれたって思うんかな?」
「嫌やな。せっかく会えたんにな。瀬奈やなかったら」
椿にはその思いが存在しなかった事を一瞬、悟るように知り、悔やみを思った。瀬奈を除け者にした思いに対して強く嫌悪した。
椿は自身の髪が再び靡いたのを知った。その靡いた風のつま先が不純に広がる想像をしてしまった。
菜乃花に対して申し訳なく思うも、その思いに間違いがないことに絶望を覚え、自分自身の感情はどうして、正解とはズレるのだろうかと悔やんだ。菜乃花の背を見るたびに今は心が痛み、一人でどこかに逃げ去りたいと思うことも刹那のうちに何度もあった。しかし、その事に気がつかない菜乃花は椿に対して、変わらず接し、椿はその目に涙の幻覚を流し、菜乃花を清い少女であると思った。
菜乃花のようになれれば良いがと椿は思うも、その汚れを取り除くのは容易ではないことを知っていた。菜乃花と触れ合えばそれは浄化されるのではないかとも思ったが、性はそれを助長するのみであった。
花見小路が右に姿を現し、その手前の信号が青色に変わるのを待つ間、椿は菜乃花の隣に立った。菜乃花を見ると、その後ろには一力亭が佇み菜乃花を情熱的に京の色に溶け込ませた。
「横の道、行かへん?」
菜乃花にそう言われ、椿は菜乃花の奥に覗かれる花見小路の景色を見た。
「ええよ」
菜乃花は椿の手を引き、二人は花見小路に身を投じた。端の方を歩きながら目の前を歩く外国人に当たらぬよう横によけると、道の真ん中には車が二台続けて走り抜けた。
そんな騒がしくも美しい道を歩き、電灯の灯りに二人は奥に奥にと導かれた。
店の看板や店の前に置いてある提灯が時折、電灯の代わりをして、そこに佇んでいた。椿はこの騒めきに不安を思うも、犬矢来や紅殻格子が自然と飾られる町屋など普段あまり訪れない風景に心を踊らさせていた。
「この道歩くのは初めてみたいなもんやな」
「みたいなもん?」
椿の言葉に菜乃花は聞き返した。椿は菜乃花の顔を見て、菜乃花と目が合った。その瞳の奥に、純粋な思いを感じ取った。
「記憶にはないねんけど、昔、花見小路行った事あるらしいわ」
椿はその言葉と共に、記憶に映らないその景色を想像した。その頃はどんな天気であったのか、賑やかであったのか、どの季節であったのか、それは両親に聞いても曖昧なように思えた。写真でもあれば別であるが、想像の中ですら、幼き頃の椿が歩いた花見小路は記憶の中とよく似ており、そしてぼやけた風景を写していた。
道は常に車が通り、どこか少女達の行く場ではないと思わせる残響が引き締めきあっていた。
ただ、それでも幻想的な風景は残存し、夢見心地で歩く京の人である椿の瞳にですら美しく、遠くに見える、永遠の暗闇に溢れる誘惑を覚えさせた。
建仁寺を目の前にした時、椿達は一度立ち止まり、菜乃花は後ろに広がる街並みの方へ振り返った。
「戻る?」
「うん」
椿はその横にある暗い道を目にしたが、自然と先程までいた道に導かれるように四条通の方を目指し歩き出した。繋がれた手は建仁寺を前にして一度離れたが、舞い戻ったように再開した。
椿は四条通に戻る事をどこか、日常に帰るような心持ちを持った。菜乃花はそばにいるのに、どこか彼女と離れるような思いが離れなかった。何故だかはわからずにいたが、どこか幻想的に映る菜乃花はこの道を外れる事に魅惑が欠けるのではないかと野暮な事を思ったからであろうか。
四条通に戻ると、再び菜乃花が椿の前に立ち、椿は菜乃花の手を引かれ、その先へと進んだ。菜乃花は変わらずにいた。椿はその事に深い安堵を覚えた。そして自分がどれだけ子供のような妄想に苦しんだのか笑いたくなるほどに馬鹿らしくなった。
そして、そのうちに道の先に赤く彩られた八坂神社の門が姿を現した。手前の信号や、四条通の道々に輝く店の明かりとは違い、厳格な色をし、影との合わせが重く厚さを身構え、その奥に控える山々と神を守るために佇んでいるかのようであった。
ただ、その距離はまだ長く、二人の小さな歩みでは辿り着くのは時間が掛かるように思えた。
時間は二十時を近くに回っていた。八坂神社の門はぼんやりと姿を滲ませ、菜乃花の姿を立てた。全ては椿の映す景色がそうしているのであった。八坂神社を菜乃花の背景にしてしまうほどに椿は菜乃花が全てであった。そんな不謹慎な事実にも椿は申し訳なさと共に、菜乃花を愛せることに嬉しさを持った。そして愛する人と肌を触れ合いながら、輝かしい思いを特別な日の夜に共有できることに幸せを改めて知った。そしてそれを一時でも変わらぬ事だと思ったことに対して、愚かであり、贅沢であり、希望を持った幸せと思った。
ざわめきが夜であるのにそよ風を立て、不思議と静かな暗闇を生み出し、それを椿だけが感じているように思えた。目の前にいる菜乃花ですら、その事を感じているようには思えなかった。椿はどこか、自分だけが違う世界にいるように思えた。ただ、その触れ合う手の先にいる菜乃花が唯一の橋繋ぎであった。椿がその世界に身を留められているのは菜乃花の手が繋がっているからであり、それが無ければ椿は一人寂しい世界に閉じ込められるのであった。神を冒涜した罪を孤独という罪で補うためで、救いを求める事はそれこそが補いであったのだ。
ふと、思うと八坂神社はどんどんと目の前に大きく広がった。椿は目の前を想像の中の世界に閉じ込められたように暗闇から抜け出した感覚に陥った。
明るさは先程と変わらぬのであろうか。椿の目にはより明るさが増したように思えた。椿をじっと見つめるような威圧感があった。それでも菜乃花の手に引かれ、椿はその門を菜乃花と共に超えた。
その先には屋台が並び、境内には人が多く集まっていた。賑やかさはまだ途切れず、夜の冷たさをも抑え込んだ暑さに椿は夜の序盤を過ぎたのだと感じた。
人波の中、小さな隙間を見つけながら、菜乃花の進む先に身を任せ、二つに分かれた道を左へと進んだ。二人は本殿の方へは行かず、参道がある道の方へと進んだ。その日は絵馬堂も人がたむろし、その先に進んだ東北門へと続く道は人が影のように隠れ、幾分か寂しさが目に見えた。万灯籠はその遠くへと続く、優しい光を持った灯籠が遠くから響く騒ぎを静かに受け止めるように鎮座していた。右には少し小高く立った壁と、灯籠と同じ色をした柵が並び、それは時を止めたような、追憶を感じる作りであった。
二人の足音もその灯籠に消えていくように椿の耳には何も残らなかった。息をする小さな音がやけに心の中に火を灯すように聞こえた。木々を揺らす風がまるでその時だけは静かに見守っているようであった。
灯籠の中の明かりが時折、本物の火のような揺らめく幻覚を見ることがあった。椿はその幻覚に恐れを持ち、菜乃花の左肩に触れ合うように移動した。道の端には小さな水が流れていた。そこには厳島社や神馬社が建ち、椿はなかなか歩みを重ねようとはしなかった。菜乃花はそんな椿を見つめるばかりで、椿も菜乃花の視線に気がつきつつも、ついに人の影が消えた万灯籠の消え入りそうな明かりの道を眺めていたいとそこに留まっていた。
「椿、疲れた?」
「ううん、大丈夫やって」
「休んでく?」
「ええって、もう少し先まで歩きたい」
その声は灯火のようなとても消えゆく声で、椿はその明るさに照らされた道の影に自身の心の中の似た冷たさを思った。
椿は歩き出した。菜乃花は椿に倣って歩き、二人は椿の求めた影を頼りに歩いた。
歩いて見える景色は揺れ動き、そこに菜乃花の横顔が美しく映った。それを目に映すたび、椿は仄かな幸せの意味を理解した。儚げで弱々しく見えるものの、飾り気がない、その奥ゆかしさを並べた美は椿が手に触れられる近さに存在していた。夜が永遠に続き、明かりの灯火は消えず、このまま求めるものを空の果ての方まで遠ざけ、死を恐れずに歩いて行きたいと思ったその束の間に、二人はほんの僅かな階段を目の前に右へ横切った。そこの影色が鮮やかに彩った場所で一休みをするために腰を下ろした。繋いでいた手は一度離れた。
「疲れたやろ?」
「うん」
ほんの先程までは出す事はないと思った言葉を椿はいとも簡単に言った。いつの間にか、こんなにも疲労が溜まっていたことに椿は自身の情けの無さと甘えを恥じた。そしてどこからともなく線香の香りが広がっていき、疲れた椿に微かな疲れを浄化した。
境内が姿を見せ、賑やかな人々の声がそこにまだ帰りを待たずして、留まっていた。
外国人の家族が二人の前を通り、万灯籠の方へと歩いて行った。小さな子供の声が響き、椿はその声に先程感じた仄かな幸せが再び蘇ったと思った。しかも先程の椿が菜乃花に思ったものとは違い、将来への不安が無く、儚さよりもこの時を美しく彩った声が姿を見えなくしても響くのであった。
椿はその方を眺めていたが、それが風の向こうに運ばれたのを見届け、菜乃花の手に再び触れた。菜乃花は椿を見つめ、椿は思いがけず菜乃花と目が合った。頬を照らし、その目を見つめ合い、菜乃花は何も言おうとはせずに前を向いた。菜乃花の心を椿は自分の想像で補った。横目に見た菜乃花の神社の明かりに照らされた顔は椿にはよくわからず、その淡さは恐らくは菜乃花のものではないように思われた。
椿は菜乃花の染められた明かりをしばし眺めると、菜乃花に目線を送った。二人は境内の残響の中に身を投じ、八坂神社を後にしようとした。西楼門の下に立った時、その先に続く四条通りが宵山によって輝く街に、椿は見惚れるように足を止めた。周りは沢山の人々が同じように足を止め、写真を撮っていた。ここを通った時には椿は振り返りをせず、この景色に気がつく事はなかった。
「なんで今気づいたんやろ」
繋いだ菜乃花の手からその力が手の甲に触れている指先から伝わった。
「なんでやろうね」
菜乃花も椿と同じように純粋な心の内でこの言葉を聞かせていた。




