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梅雨抜け

 七月になり夏の日柄がやってくると、昨夜に降った大雨は姿を隠し、夏の吹きかけを辺りに好き放題にされていた。制服の袖からも汗が通るようであり、菜乃花は日焼けをした腕を撫で、その熱気を肌に染み込ませた。夏はこうしてやってきたと思ったのだが、梅雨は明けておらず、その夜には再び雨が降り注いだ。止んでしまえば、冷たい優しげな空気が蔓延り、そのまま不快な感情を持たずに過ごすことができるのだが、雨は止まず、蒸した空気が、菜乃花を焦らすように暑く、陰鬱と舞い上がらせた。

 期末テストが始まり、菜乃花は深夜まで机に向かっていた。夜の音が恐ろしく響き始めても、菜乃花の心は不安が広がり、雨の音も自然と耳に届かなくなっていった。そして、雨が一旦鳴りを潜めたのは二時頃であり、菜乃花がそのことに気づいたのは三時を過ぎて、眠りにつこうとした時であった。

 窓を開けてみて、雨の中を通った冷たい風が、その瞬間に菜乃花の部屋に入り込んだ。

 菜乃花の髪が耳を掠めて、何も言わぬうちに窓を閉めた。時計を見つめ、ベッドへと体を入れた。あの冷たい風がどうも夢を覚ましてくれたように思えた。倦怠な心情を洗い流してくれたようにも思えた。

 翌朝は陽が差し込む快晴が雲の奥底に姿を見せていた。しかし、いずれは晴れていくようなそんな天気であった。

 朝のうちはまだ寒さがあり、夏の熱気が混ざり合い、過ごしやすかった。東寺駅まで自転車を使い走り出す。風が明らかに夏のものへと変わっていた。それは今急に変わったものではなかった。しばらくはこの風であったはずに思えた。いつからだろうかと菜乃花は考えたが、菜乃花は走り出してるうちにその事柄を忘れてしまった。期末試験の不安や、この先の夏にある椿と作る思い出が交互に菜乃花の心を突きあった。

 朝風を突き抜ける心地良さは雨上がりの蒸し暑さにも勝り、涼しさを残した早朝は影に寒さを感じるほどであった。

 道は雨に濡れたままで水溜りもまだ残っていた。その水溜りを避け、走っていると、様々な人とすれ違い、皆、各々の生を持っているように思えた。憂鬱の地に鮮やかな喜びが無意味にのしかかり、それが余計に憂鬱に不安を重ね合わせた。汗が頬を伝い、髪の先まで行き着きそのまま飛び跳ねた。駅に着くも、人はまばらであった。しかし、ホームには二、三十人程の人がおり、その人々に目を向けつつ菜乃花はイヤホンを耳にした。

 会社員や学生はいたが、菜乃花の通う学校の制服を着た人は見られなかった。それが寂しげのようにも思え、何故だか、嬉しくも思えた。その感情の真意を菜乃花にもよくわかりかねた。しかし、心の奥底に潜んだ。孤独を愛する故にそのような感情が湧き出るのかもしれなかった。決して一人になることが好きではない。しかし、嫌いというのも違うのである。複雑な糸と糸が何重にも混じり、菜乃花の感情が出来上がる。それを本人も理解できずにいる。

 学校に着き、教室にはすでに椿と瀬名がいた。二人とも真面目に教科書に目を向けていた。

「おはよう」

 菜乃花が二人に声をかけると、椿は教科書から目を菜乃花の方に向けた。意図せず上目遣いになっており、菜乃花は椿の少女の顔立ちを今一度、眺め、白い肌が輝いたのを見て、椿の手にしていた教科書に目を向けた。

「どう?テストは?」

「勉強はしたんやけど」

「椿でも不安なんやったらうちはもっと不安やわ」

 ささやかな不安がより、空気が入るように大きくなっていった。はち切れそうな不安は目に見えぬせいで頂を知らなかった。

「瀬奈は行けそうやな」

「いや、うちはあんま勉強してへんかったし。どうやろな」

「嘘」

「ほんまやって、試験終わったらイベントもあるから部活は休みやけど、自主練で忙しいし」

 菜乃花は椿の方に目をやった。椿はその視線に気付き、自身の前髪を掻き上げた。その目が開けていくにつれ、純粋さが広がっていくようであった。

「ほんまやで、私かてそのせいで、あんま勉強できてへんかったし」

「そうなんや」

「なんで椿の言うことは信じるん⁉︎」

「いや、椿は嘘つけへん子やからさ」

「まあ、そうかもしらんけど」

 瀬奈は自然と椿の肩に手をやった。椿が小さく驚きつつも、気にせずにその様子を受けれていた。

「でも、私かて嘘はつくで?そんな無垢な人間ちゃうし」

「ほんまかいな」

 菜乃花は瀬奈と目を合わせて笑っていた。不服そうにしている椿は可愛らしく、妹のように思えた。そして、その胸部にある大きい豊満な胸が作り出す影は白いワイシャツの差異のせいで、より性を思わせるものになっていた。

 椿達と離れ、自身の席に着いた菜乃花は改めて、自身の胸元を凝視したが、うっすらとしか浮かび上がってこない胸を慰めるよう、胸を撫でようとしたが、人目が憚れることもあり、鎖骨の方を撫でた。

 そして鎌倉の夜に初めて見た椿の裸は可愛らしい顔に似合わぬ美しさを作り出していた。その胸に触れた時のゴムのような感覚に浮き上がる欲望と椿の甘い声が夜を淡く彩った。途切れ途切れの感情がやがて、広域的に鎖のように繋ぎ合わせていた。

 菜乃花は後ろの席にいる椿の方を振り返りたいと言う欲求を抑え、これから始まる期末試験に向けて意識を向けることにした。

          ・

「試験終わったな」

 その日の試験を終え、三人は学校を後にした。学バスが三人のそばを走りだし、その騒音が消えるまで、まだ誰も喋り出すものはいなかった。

「試験終わったら祇園祭やんな」

「三人で行く?」

「いや、うちは遠慮しとくわ。宵山は彼氏と行く予定なんよね」

 瀬奈はそう言って一人、申し訳無さそうにしていた。

「リア充はこれやから」

 菜乃花がそう言うと、椿は無言で菜乃花の裾を引っ張った。椿の少し怒ったような表情に菜乃花は慌て、椿と目を合わせず、椿から逃れるように瀬名の方を見た。

「先祭りの方に行くん?」

「うん、そうやで。後祭りは家族と行くことになってんねん」

「そうなんや。少し寂しいな」

 菜乃花は椿に目を向けながら言った。椿も頷いており、その表情から悲しげなものが見て取れた。

「家族と行くんは毎年のことやねん。今までやったら、先祭りで会うてたんやけどな。ほんまにごめん」

「ええよ。そんな謝らんといて。またどこかで遊べばいいんやし」

「そうやで。私達はいつでも会えるんやし」

 三人は大通りに出て、菜乃花と椿は瀬奈と別れた。瀬奈はこの後に彼氏とデートに行くと言っていた。

 二人残された菜乃花と椿は互いに目を合わせあった。

「結局、この二人やな」

 椿のその言葉にどのような意図を持っているのかと菜乃花は考え事をしていた。誘っているようにも聞こえるが、意味は持たないのかもしれないようにも聞こえた。

「菜乃花は宵山の日は予定とかあるん?」

 椿は風に揺れる髪を押さえながら言った。その姿に少女の遠慮に似た嗜みを菜乃花を感じ取った。

「うちは何もない。そもそも祇園祭とかあまり行かへんし」

「そうなんや」

 椿がそう呟くとしばらく無言のままでいた。菜乃花はその続きがあると思っていたので少しばかり拍子抜けをした。椿は言いたげにしているが、菜乃花は敢えて触れないようにした。

「菜乃花、私と宵山行かへん?」

「ええよ」

 菜乃花の言葉は椿に驚きを与えたようだった。

「ええの?」

「ええよ。なんで?」

「いや、菜乃花、祇園祭とか行かへん言うてたし」

「それは今までのことや。椿とやったら行きたいよ」

 椿の頬にほんのりと赤みが見て取れた。菜乃花はそれが自分にも移って行ってるように思えた。椿はそれを恥ずかしそうに隠しているが、それは菜乃花も同じであった。

「ほんまに?」

「なんで嘘をつかなあかんねん」

 道に咲く、白い花が風と共に揺れた。目を逸らした菜乃花にはその姿が目に入り、椿への心情と共に重なった。

「ほんまやで。一緒にいたら楽しいやろ」

 白い花は風の煽りが消え去ると共に元の位置へ頭を戻した。菜乃花はその様子を流し目に見届けた。意識は椿に向いていたが、その風の揺らぎは菜乃花の視線から外れられなかった。

「椿のこと好きなんやから」

 椿の頬の赤みが目元の涙へと変わっていった。椿は菜乃花の両手を強く握った。

「私、この思いは菜乃花への一方通行って思ってた」

 涙声に似た椿の声は菜乃花に真実を伝えて、菜乃花心は動揺を抑えきれなくなった。

「菜乃花は仕方ないから付き合うてくれてんのかな、って。…けれど、菜乃花の気持ち知れて、私、めっちゃ嬉しい」

 椿はそのまま、菜乃花の体を抱きしめ、そして人目を憚るように周りを見渡した。

 抱きしめられた菜乃花の顎が椿の肩の先が当たり、椿の如何にも少女らしい匂いが菜乃花の鼻先を刺激した。髪が目の上あたりに散らつき、目の前に髪で覆われたぼやけたような夢見心地を体現した景色を広げた。

「人目のない所行こう」

 二人は人通りの無い道を行き、そこでキスをした。昼間の明るい日差しがまだ降り注ぐ、のどかな日頃に二人は淡色を落とす前に二人だけの世界に入り、外に向けて壁を作った。

 日陰に注ぐ暗闇が夜のように化けていた。椿は最後に菜乃花の頬にキスをした。残った赤みは唇に触れる事で光を反射させた。

「二人で宵山行こう。やから、私もやけど菜乃花も試験頑張って」

「うん、頑張る。だから....」

 菜乃花は言葉の端を口篭った。火花のように消えかかるのを菜乃花は自分の声ではないかのような感覚に感じた。

「宵山の時は恋人として甘やかして欲しい」

 蚊の鳴くような声が椿には耳に届いたのかは菜乃花にはわからなかった。耳元には車の走る音が強く響き始め、その途切れたところに鳥の声が鳴いた。その揶揄われたような鳴き声に、恥辱を乗せ、空を目掛けて消え去った。

 椿の顔を見ることはできなかった。しかし、思い浮かぶのは椿の全裸の姿であった。形のしっかりした身体を菜乃花はあれ以来見ていない。目の前にいる椿はその情欲な美しい様を服の下に隠し、清楚な身なりを醸していた。菜乃花はその時に椿の触れ合った唇を見た。そしてやがて目が合い、幼さも残る顔立ちを見て、罪悪の観念から来る優越に浸った。

 椿は菜乃花が気がついた時には手を握っていた。菜乃花はふと、その手を凝視すると、華奢に伸びた腕をまるで人形のようだと感じるようになった。

 その後、椿と話はしたが、人目があるからか、取り止めもないものばかりであった。最も菜乃花の頭の中には日陰での出来事とその思惑が全てを官能的に彩っており、話の内容は二の次になっていた。

 二人のすぐそばを一組の男女が歩き、二人の横を通り過ぎた。観光客だろうか、楽しげな雰囲気が菜乃花にも伝わった。二人の声が遠くまで菜乃花の耳に鈴のように残った。

 菜乃花は椿と手を繋いで歩いているが、女同士のせいか、恋人のようには見られないのを思った。それは隠し通すと言う意味では良い事でもあるが、いつまでも友人に見られるのは菜乃花の欲求が憤りを思い始めるのであった。菜乃花は過去に自分が振った男達ともし付き合っていたら、こんな思いを持たずに済んだのだろうと考えた。しかし、例え、恋人同士になり、周りからそう見られていたとしても、そこにあるのは偽りの恋であり、精神的な意味では恋人であるとは言えなかった。椿はそのような意味では明らかに逸脱していた。椿に向けるものは本物のものであり、椿は紛れもなく恋人であった。恋思いは目に見えぬものであるのだから、それが良い方向へ行くこともあるし、悪い方向に傾くこともある。同性の恋人はある程度寛容になりつつあるも、まだ心底では認められない人がほとんどであろう。それは菜乃花にも理解はできた。自分達は本能という意味では異常に当たるのである。しかし、それでも、抗えぬのが本能である。偏見に晒されなければそれも一瞬のスリルを持つのである。

 梅雨明けはもうしたのだろうか。夏の暑さがしみじみと入り込み、熱に浮かされた匂いが一年前に感じたものと同じになっていた。

「帰ったら勉強せんとこな」

「そうやで。赤点なんか取ったら、追試で祇園祭行けへんなってまうからね」

「はいはい、頑張りますよ」

 椿は菜乃花の方を見て笑みを浮かべていた。余裕そうに見える椿が羨ましく思えた。試験は七夕の日まで行われる。それから一週間程すると、祇園祭の先祭りの日になる。菜乃花達が通ってる学校から四条通は遠くはないので学校が午前で終わるものの、その帰りに遊びに出て、そのまま祇園祭に行く生徒も見られる。

「祇園祭さ、学校終わってからそのまま行く?」

「私はその日部活ないし、一旦家帰ろかな。菜乃花はどうするん?」

「椿がそのまま行くんやったら、うちも一緒にと思てたけど、うちはバイト入れて、その後に椿と合流しよかな」

 菜乃花はその日にバイトに休みを入れようかと思っていた。宵山の日は店は混む上に店員もそれを理由に休む人も多いので、常に店は忙しいので申し訳ない気持ちを持っていたが、椿とすぐに会えないのなら、バイトをしてから会うのがいいと思った。菜乃花の心にあった渦巻いものが薄らいだ。それと同時に先祭りがもう目前という事実が気持ちを昂らせた。

「疲れへんの?」

「椿と会えるんやったら全く」

「調子ええことばかり」と椿は微笑んだ。その笑みに見せた目尻の白い線がが美しく映った。

 椿と別れた後に菜乃花は白楽天町にある祖母の家を訪ねた。烏丸駅まで地下鉄を使って行き、そこから徒歩で向かった。日差しが強く、途中で飲み物を買い、それをバッグに入れ、祖母の家まで歩き続けた。

 家に着くと、扉を開け、奥にある玄関まで歩いた。畳が蒸したような祖母の昔ながらの家の匂いを感じ、異国に似た情緒に入り込んだ心持ちに攻められた。

「おばあちゃん、菜乃花やけど」

 大声で言うと、奥から物音が聞こえ、祖母が姿を現した。

「菜乃花か、よう来たね。お上がり」

 菜乃花は玄関に腰をかけ、靴をゆっくりと脱ぎ、腰を上げた。祖母の家では品良く行うことを昔から姉からよく言われていた。その習慣が無意識に現れ出た。

「どうしたん?」

「もうすぐ宵山やろ? やから、家の中の準備でもしよかと思って」

 菜乃花はそう言ったが、家の中は屏風は立てかけてあり、絨毯も敷いてあった。既に準備はできていたようであった。

「ごめんね。もうしてあるんや。近所の人らが手伝うてくれはってね。せっかくやし、ゆっくりして」

 祖母の家は町屋であり、昔ながらの家の形を色濃く残していた。京の出来事を今に伝えるためでもあり、伝統行事などの際は菜乃花もよく手伝いを行っていた。

 宵山などは祖母の家では一大行事であり、親戚、近所総出で行う。近年は取材をされた事もあり、祖母の家は一種の観光地のようになっていた。

「今、お茶とお菓子持ってくるさかいに」

 祖母は走り庭へと姿を消した。菜乃花は奥座敷に通された。エアコンもつけず、扇風機もそこにはなかった。庭への扉が開いており、風の通り道の役割を行っていた。そのせいか、日影に照らされ、涼しさを纏った空気は暑さでいじめてくることをしなかった。

 蚊が数匹、飛んでいるのが見えた。ゆっくりと、余裕のある飛び方であった。庭付近にある蚊取り線香では役に立たないように思え、菜乃花はバッグの中から小型の虫除けスプレーを取り出し、奥座敷に一面にスプレーを掛けた。

 それを終え、腰を下ろした時に祖母は茶と菓子を持ってきた。菜乃花は出された茶を口にした。冷たい茶で、喉奥に気持ちよさが漂った。

「あ、そういえば飲み物買うてたんやった」

 菜乃花はそれを思い出すと、祖母に笑い掛けた。

「おっちょこちょいやな」

 祖母は笑っていた。庭に光が入っていた。苔の色が庭を広く染め上げ、日の当たったところと影のコントラストが薄く国境を消し去りかけていた。

 庭には大きな穴がある。そこに灯籠が立っていた。灯籠は穴の壁となっている岩に挟まれ、灯籠も壁の一部であった。

 菜乃花は庭を眺め、雨の匂いがまだそこに留まっていることに気がついた。まだ蒸したものが乾き切らず、駄々を捏ねているようにも思えた。

「おばあちゃん、気になったんやけど、あの、灯籠の下に彫ってある人型のやつって何?」

「キリストや」

 祖母はそれがさも当然かのように答えた。その様子には菜乃花に疑問を挟むことが愚かな事であると言うような思いを持たせた。

「なんで、キリストなん?うち、キリスト教やちゃうやんな」

 灯籠の下に彫られたキリストはとてもキリストには見えず、彫られてから時が経ちすぎているせいかぼんやりとしたものに変わっていた。

「おばあちゃんもわからへんねんけど、子供の時におばあちゃんのおばあちゃんがそう言うてはったんよ」

「相当昔からあるんやね」

「どんどん焼けの前からあるかもしれへんね」

 そんな歴史のある灯籠は庭の苔の色が反射しているように見えた。キリストは姿をぼやかしながらも見守っているようだった。

「菜乃花は学校はどう?」

「どうって?」

 祖母は菜乃花の内面を覗き見るかのように言った。

「勉強とかは大丈夫?」

「ギリギリやけどね」

「恋人とかはおってんの?」

「恋人....。おることはおるよ」

 菜乃花は無意味な時を感じた。聞こえるのは無神経な雑音と、遠くにいる鳥の声のみであった。

「どんな人なん?」

 祖母の声には純粋な言葉があった。しかし、菜乃花のその思いは決して純粋なものではなかった。菜乃花はそんな邪推を祖母に見せるのが苦痛であった。

「おばあちゃん、誰にも言わへんって、約束できる?」

 祖母は幾らか面食らったような顔つきをした。不安の色がそこにはっきりと浮かんだ。

「ああ、約束できる。誰にも言わへん。墓場まで持っていくつもりで聞くわ」

 落ち着きのある声は風の通り超えとよく似ていた。聞き逃しそうになるほど、澄んだ言葉に菜乃花は祖母には信頼を任せても良いと感じた。

「うちな、女の子と付き合ってんねん。レズビアンっていうわけでは無いんやけど。うちはその子のこと、異様に愛せるようになって。おかしいのはわかるし、誰にも言えへんのも自分が異常やって自覚してるからやと思う。けど、抗えへんの。これは誰にも言えへん秘密。どうか、内緒のままにしといて」

 それは菜乃花の緊張がそうさせるのか、言い終えた後の時は長く感じる。蝉が鳴き始めたのはその心のざわめきを誤魔化すためだろうか。それも力強く鳴くのはわざとらしく感じられた。祖母の顔を見ることに怖気付き、菜乃花の意識は外の庭へと向かっていた。目をやることはできず全ては耳と肌から感じるものをイメージしているのであった。

「おばあちゃんはな。女同士はなかったけど、菜乃花くらいの時にこの家で働く、男の人のことを好きになったことはあったわ。それも姉さんがライバルで。でも、結局はお互いに手を引いたんや。それは最初からわかってたことで、家の為に己の欲情を優先することは、あの時はできひんかった。けれど、後悔は今でもあるわ。菜乃花にはそんな思いはしてほしくない。今はプラトニックかもしれへんけど、おばあちゃんは菜乃花の思いが、昔の思い出と重なったように思えるわ」

 菜乃花の体に汗が沸るのがわかった。額から溢れる汗はその言葉の重みを表した。祖母の内面の話を聞くのは生まれて初めてであった。祖母のそんな思いを菜乃花は考えたことがなかった。それがどこか現実的で生々しく、恐るように思え、それと同時に祖母はかつては自分と同じ少女であったという事実が胸の中に入り込み溶けた。

「来てみ」

 祖母はそう言うと立ち上がり、菜乃花を連れた。蔵の手前にある部屋へと入った。

「おばあちゃんは今でもこの部屋に来ると昔を思い出すんや。そして悔やむ気持ちが今でも湧いてくる。不思議なもんで枯れへんのや」

 狭い部屋のせいか、その声は奥座敷よりも響いた。かつては人が多く住み込みで働いていたであろうこの家も今は祖母と伯母だけが生活している。静寂に包まれた空間はそうせざるを得ないのである。騒音は逃げ去り、無音が騒音を奏でている。

「菜乃花はその思いを持つままに動いてええよ。そしたら、どうにもいつかの為に良き働きが来るからね」

 祖母はそう語り掛け、ゆっくりと奥座敷へ戻った。軋むような足音が遠のき、滲んだ音はすぐ乾いたように消えた。祖母はその部屋にいるのが苦痛であるように思えた。菜乃花はその時、蔵の入り口付近にある庭へと続く木の小さな門扉に無意味にくっつく蝉の抜け殻が目に入った。

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