風を集めて
雨が降り始めた途端に、空は陽が差し込んだ。お天気雨を椿は地面からの乾いた雨の匂いと共に、夏の到来を思った。
「傘持ってきてて、よかった」
傘を刺した椿はそう独り言を誰にも聞かれないよう呟き、自身の顔を傘の中に埋めた。傘の内側から火の差し込みが模様のように浮かび、触れると熱を帯びて来そうに思えた。
指の先が光の当たる場所に伸びたが、触れはしなかった。肩にかけたバッグが指を伸ばした拍子に落ちそうになり、椿は慌てて伸ばした指の手でバッグを掴んだ。
雨はより強くなり、傘の音が恐ろしいように大きくなった。椿は不安を覚えながらも、その傘の下で傘を持つ手を強めながら、水たまりの反射した眩しさに目を逸らした。
昼下がりの午後に一抹の不安が降り注いだ。それと対比するように、緩やかな心持ちが広がっていくのも感じていた。
左腕に付けてある腕時計を見ると、十三時まではまだ十五分もあった。雨は気がつくと弱まっていたが、それでも止む気配はなかった。
橋の角で、強まった川の流れを他所に、椿は目の前を流れていく人をどこか風と同じように眺めていた。
木々の流れを人が造形し、それは川の音と人々の声が混ざり合い、喧騒を情尾に動かしていた。喧騒は大きいほどに椿の孤独な閑古鳥は寂しく叫びないた。
椿は歩く人々の邪魔にならぬよう、橋の方に寄った。雨に濡れた橋に背を掛けると濡れてしまうので、橋と背が触れ合う手前に体を止め、背が濡れてしまう恐れを抱きながら、菜乃花を待っていた。
無意味にも思える残響が古都を幻想から現実なものにしていった。どこか自然的な美を作られた美の仮面に移し替え、この街がなんてことのない他と変わらぬものであるのだと椿が傘で目の前を隠し、人々の足のみしか見えないと思った時、その中の二つの足が椿の目の前で動かずに止まった。傘をあげると、菜乃花が立っていた。黒色のトップスに白色のプリーツスカートといった服装でカジュアルな印象を与えた。
「椿、待った?」
「ううん」
菜乃花は椿の傘の中に身を入れた。
「待ったやろ?椿、こういう時は三十分くらい早めに着いてることあるし」
「三十分はいないよ」
そう言って、椿は菜乃花に目を合わせた。菜乃花は椿を無言で見続けた。椿が根負けするのを待っていると思われた。その意地らしさに椿は心が紐解いてくようであった。菜乃花はボーイッシュな印象があるが、目元は丸く黒い目の淵に可愛らしさが浮かんでいた。椿は菜乃花と付き合うようになってからは日に日に彼女の可愛らしさを追求するようになり、出会った頃に覚えた印象は幕に覆われていた。ただ、その月日が菜乃花との記憶の流れになっていることに椿は嬉しさを覚え、時折、それに触れて、幸せを思っていた。
「十五分くらいだけだよ」
「ごめん、待たしたな」
「大丈夫だよ。十五分なんて待ったうちに入らへんよ。私はそのくらい早く来てないと緊張したまんまやからね」
椿はそのわざとらしく言った言葉を菜乃花はどう受け取ったのか見るのが怖かった。傘の中に二人でいる閉鎖的な空間が酷く苦痛であった。椿はなぜこんな弱くなる自分がこんな身勝手な事をしたのだろうとその時ばかりは考えた。しかし、その恐れを思うのはその時ばかりであり、その前後には信頼が募るだけであった。
「椿はかわいいなぁ」と菜乃花は手を椿の頭に当てた。
「だって、菜乃花に会うんだよ。緊張するに決まってるやん」
「うちに会うだけで緊張するなんて、気が小さいんちゃう?」
椿は鋭い目を菜乃花に向けた。それは力のない抵抗を菜乃花に向けただけであった。
「でも、うちも椿に会うのは緊張してんねんで。電車の中でまだ駅に着かんといてって願ってたからなぁ。やけど、あっという間に着いちゃったからさ。時間っていうのは不平等に流れるよね」
その事を小さな声で菜乃花は言った。椿は耳元のくすぐったさが、菜乃花の息遣いなのか、言葉のむず痒さなのかは不明であった。しかし、菜乃花も自分と同じような思いを抱えていたことが菜乃花と同じ地に立てた心地になった。
「椿は今日、行きたいところあるんやろ?」
「うん、雨やけど、それも風情があるのかなってところ」
「また、小説の舞台?」
「まあ、間違ってないよ」
椿は恥ずかしいそうに上を見上げた。その先で菜乃花の頭をぼやけるように見た。椿は鎌倉に行ってから、文学を好むようになった。それが今日まで途切れることなく続いていた。
椿はそれを隠すように菜乃花と共に歩き出した。
「でも、それだけじゃないよ。少し、見てみたいものがあってね」
「何?」
「着いてから言うね」
菜乃花はそれ以上言及することはなかった。椿の言葉を素直に受け入れ、椿からほんの少し遅れながら歩き、椿の後ろ肩を眺めていた。
「菜乃花、濡れちゃうよ」
「もう雨弱まってるから大丈夫やで」
椿は傘の先から手を伸ばしてみた。細雨であった。指の腹にしっとりと柔らかい水滴が乗り、弱々しくなった雨に胸を撫で下ろした。
「傘、閉じるね」
そう言って、椿は傘を菜乃花や周りの人に当たらぬように閉じた。
傘を閉じた先に見えたのは両手を前に組んで歩く菜乃花の姿であった。椿は可憐な印象を受け、菜乃花の手を握りしめた。
菜乃花は驚いたようであったが、何も言うことはなかった。雨の音が消え、残ったのは喧騒のみであった。 Gleasonそしてその喧騒の中に二人は佇み、喧騒と化していた。
・
北山駅に着いた時には陽が心地良く差し込み、道の雨の跡が消えかかるように思えた。その蒸した暑さが外を出た時に真っ先に椿と菜乃花の肌を刺激した。
椿は後ろ髪をわざと手で靡かせ、じめっとした空気を逃がそうとした。しかし、あまり変わったことはなく、風が椿の後ろ髪を顔に被させた。
「雨上がりは暑いなぁ。傘、日傘にしよっかな」
菜乃花は自分で言った冗談で笑っていた。椿は菜乃花に対して、笑っていたが、ふと、傘を開いて菜乃花の言葉通り、日傘として使ってみた。
傘を開き、顔が傘に隠れた後、傘を動かして、菜乃花の方を見た。菜乃花と目が合い、椿は笑みを向けた。
「さすが椿、似合うわけやわ」
「何が?」
菜乃花は椿の耳元に口を近づけた。椿は口付けをされるのかと期待したが、それは杞憂に終わった。菜乃花の声がその期待を突き刺した。
「すぐそば通った人が椿のこと見てたで」
「菜乃花の思い違いじゃない?」
椿はそう言ったが、菜乃花はそんな事はないと強く言っており、椿は恥ずかしい思いを持ちながらも菜乃花の言葉を受容した。
「行こうか」
恥ずかしさを隠すようにやや早口に椿は言った。椿はここでも菜乃花の手を自ら握った。菜乃花はしばらくして手を握り返した。今日のようなじめじめした気候の日には手を繋いでは暑苦しいばかりであるが、そんな事を忘れてしまうくらいに椿は菜乃花の手を握ることに罪を覚えたように緊張を生み出した。
植物園には楠の並木がある。広い道の端々に楠が並び、椿はこの景色を見たくなって来たのであった。
「椿はここが好きなん?」
菜乃花の言葉に椿は心の景色を読まれたのかと思った。
「何で?」
「顔に出てるで、嬉しそうな顔がさ。目を輝かせてるんやもん。足も止まって見渡すようにね」
椿は慌てて、歩き出そうとしたが、手を繋いでいた菜乃花は歩こうとはせず、止まったままであった。
靴の先にある影が二人の先を描いていた。忠実に歩みを止めた二人をじっと動かずにそのままにしておいた。
美しく色づく、緑の色が天井を彩り、みずみずしい穏やかな涼しさを夏のものに変えていた。日陰はまだ雨の景色を色づかせており、今だけはこの場所が長い時間止まっていたように思えた。
「綺麗やなぁ」
菜乃花は無意識に言葉に出したように言った。それが本当に無意識に出たものから椿はふと、考えた。ただ、それが心からの言葉であるのは感じ得た。言うまでもなく、爽やかな光が葉の模様を写して、二人の目を美しく形作っていた。
二人がこうしてる間にも二人を無視して、歩く人々が並木道を進んでいた。その後ろ姿が意味の無い形のように浮かんでいた。そしてそれが意味のある存在であると気付いた時、椿は菜乃花の方を見た。それは先を歩く人と同じ存在なのであった。しかし、それは椿にとっては違っていた。その事を改めて思うと、尊き存在の有無が見えない情で出来上がっていると揺れる木々の細い枝が教えてくれたかのようであった。
木の折々の影が見せる表情はどれも自分を見ているような子供心に感じたものを今になって思った。馬鹿馬鹿しさを懐かしく思いつつ、菜乃花と握った手は昔には無かったものであり、今というこの時を不思議なものだと呟きそうになった。
「歩こう菜乃花」
菜乃花は椿を意味も無く見つめ、そのまま歩き出した。椿はその事を歩いている時に思い出そうとしたが、それはごく自然に起こり、何か意味がありそうでも記憶には何も残らなかった。無意味では無いはずなのだが、消滅した記憶は事も無くと押し進めた。椿はその消えた追憶すらも存在を消してしまった。それは二度と永遠にほんの針の糸のようなものでなければ取り戻す事の出来ないものへと変化した。
無秩序に足音が鳴り、それが風や他の音よりも耳に残った。それは二人の存在を今に知らしめているからなのだろうか。ピアノが鳴るようにBGMになりそうなのを椿は菜乃花とのデートの重要な思い出の物音になるように思えた。それはふとした時に蘇る寂しげな美しいものであった。
散らばった冷たさはまだ帰ってくることはないが、しばらくは何気ない葉が洋燈のように照らしてくれるのだろう。風を集めて、清く吹くのである。
植物園には夕方の閉園の時間で滞在していた。他の客よりも長くおり、椿も菜乃花もこんなにも長く時間を使ってしまうとは思ってもみなかった。
気がつくと、辺りは二人だけになってしまい、手を繋いだ二人がどこか異国で彷徨ってるようにも見えた。広い地で小さな少女達が立ちすくむ様は儚さが溢れ落ちる水のようであった。
そのまま時間に促されるまま、二人は植物園を後にした。道に出て、何をするでも無く、ただ、道を走る車の喧騒を耳にしながら静けさを体に纏い、喧騒に揺れる髪をその象徴に力強く、その事を椿は知らずにまだ見えぬ夕陽の頂を別れを延ばす言い訳にしようとしていた。
「あっという間やったなぁ」
菜乃花の声は寂しさを帯び、離れようとする意思が覗けた。
「あのさ、菜乃花。私、今日は夜遅くなるって家に行ってるんだ」
菜乃花がその事をどう汲み取ったか、椿は敢えて理解しようとはしなかった。ただ、その装飾のない姿をままに認めるのみであった。
「うちに電話するわ。待ってて」
菜乃花はそう言って、椿から少し離れた。椿は遠くに見える菜乃花を見て、それが椿の体と一体になる想像をした。そして鎌倉の夜に見た菜乃花の裸が思い出された。その裸の上に菜乃花は性を隠している。それは椿自身も同じであった。
「家族に言ってきたで。夜まで椿とおれるわ」
「少し長かったけれど、揉めた?」
「少しだけな。でも、うちらはもう高校二年生やからね。いつまでも子供ちゃうんよ。上にはそんな事言ってへんかったはずやのに」
「心配なんだよ」
椿は再び菜乃花の手を握った。手を握るのはいつも椿からであった。
「菜乃花は妹なんだね」
「そうやで。兄と姉がおる」
椿は目を丸くしたように菜乃花を見つめた。菜乃花は髪をいじり、目元を隠すようにしていた。
「意外?」
「うん、菜乃花はお姉さんっぽいから、下がいるかと思ってた」
「そうかなぁ。うちはそこまで年下の面倒とか見たことないけどな」
椿の大きく開いた目は自然と閉じ始めた。一瞬、視界が線が細くなるようにぼやけた。それが幻想のように妖美な雰囲気に変えた。
「椿は?」と一瞬の間を後に菜乃花は
「椿はきょうだいおるん?」と聞いた。
「私は小学生の弟が二人ね」
椿は幼い顔立ちを卒業しつつある弟と、まだ幼い顔立ちを変えずにいる可愛げな弟を目に浮かべた。
「あれ?この前、家に行った時はおらへんかったよね?」
「二人ともサッカーをやってて、だいたい土日は練習とかしてるんだよ」
「元気な弟たちやなぁ。姉はそんなでもないのに」
「ほんまにね」
椿はその事を一人心の中で微笑んだ。弟達は姉ににず、活発であった。それは男の子だからであろうか。
「椿に弟がおるのも意外やわ」
「そう?」
「一人っ子かと思ってた。家行った時もきょうだい見えへんかったから」
先入観の表れを椿は考えた。それはお互いが持ち得たものであった。
・
その夜は寂しげな場所にいたからか、二人とも賑やかな場所にいる事を望んでいた。しかし、五条の道は車の通りとは別に人通りは少なかった。
「ここらは大きい道の割には寂しい感じやね」
「騒がしいのにね」
「四条とかの方がよかった?」
「いや、混雑してる道を歩きたくはないかな。疲れちゃうし」
椿の言葉に菜乃花は確かになと呟いた。
「来月は祇園祭があるから、もっとあそこ混むで」
椿は祇園祭の事を菜乃花に言われるまで忘れていた。その時期に四条通に足を運んだことは今まで一度もなかった。
「祇園祭ってどのくらい人がいるの?」
「車が規制されて通れんなるくらいかなぁ。友達と行ったことあるけど、楽しかったで」
「瀬奈?」
「そうやで」
車の走る音に混じり、椿の声は途切れ途切れに響いた。菜乃花に伝わっているかと心配になるが、菜乃花はその分、椿の方へ体を寄せ、菜乃花の唇が近くにあることに今になり、気がついた。
過去の事実に今、寂しさを思うのは贅沢なような気がした。それは仕方のないことであり、椿自身の落ち度にもよく似ていた。
「椿は行ったことないん?」
椿はしばらく黙っていた。どう言えばよいかと考えていた。そしてこの時になり、夜の冷たさに肌が気づいた。
その二つの事柄に椿は何かを考えるのをよした。
「うん」とそれだけ言った。
「宵山の日に行ってみる?平日のど真ん中の日やけど」
「どうしようかな」
迷いは限りなく続き、その中の一つを意味もなく拾い上げた。
「しばらく考えててもいい?」
「いいよ。ゆっくりで」
「ありがとう」
椿は菜乃花と暗い道の端に寄り、口付けをした。触れ合う音は耳元の上部で生々しく、幻想のような音を浮かび出した。




