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雨情

 雨がその日は降りしきり、椿は湿気に溢れた教室で授業にも身が入らず窓の先を見ていた。しかし、景色は変わらず薄暗い空と風に揺れる山が映るばかりで退屈に陥るばかりである。窓からの景色に飽きた椿は窓に当たる雨の模様を眺めた。これが思いの外、椿の好奇心を刺激させてくれた。退屈な空気の中に飲まれた椿にはそんな子供のような目で見ることが新しい景色を届けてくれることを知った。

 授業が終わり、瀬奈は椿の元に駆けつけた。

「蒸し暑いわ。髪の毛が膨れ上がってる気がする」

「私もじめじめしてるせいで髪がなぁ」

「椿なんて長い髪やし、手入れ大変そうやもんなぁ」

「うん、毛先が痛んでて、週に一回高いリンス使ってるんやけど、それでもなぁ」

 椿は自身の毛先を手に持ち眺めた後に指で撫でるように絡ませた。

「切っちゃえば?去年はショートやったやん」

「あれはあの時付き合ってた先輩が髪短い方が好きって言うたから」

「吹っ切れるためか」

 瀬奈はそう言って納得したが、椿は髪を伸ばしているのは菜乃花が時々、椿の長い髪を羨望の目で触れてくるからであった。そのくすぐったさが椿は嫌いではなかった。

「でも、もう慣れたけど、椿はずっとショートやったやん。うちはその時の椿も好きなんやけどなぁ。もちろん、ロングも似合うけどね」

「ありがとう」

 椿はそう言って微笑んだ。机に腰をかけていた瀬奈は、椿と目を合わすと、椿の髪に触れた。

「触ってもいい?」

「いいよ」

 瀬奈は髪の先を触れていたが、椿にはそれが自分の髪ではないように思えた。時折、髪の先を伝わって椿にも触れられてるという感触があるものの、それはどこか虚空に手を入れるように見えた。

「くすぐったそうやね」

「くすぐったいよ」

 瀬奈は手を離した。生暖かい風が降りた髪のせいで首を刺激した。

「雨止みそうにないなぁ」

「今日は一日降るらしいからなぁ」

「湿気は楽器の天敵やで。早く梅雨が終わればいいのになぁ」

 瀬奈は物憂げに事を言った。椿は膝の上に置いた手の暖かみを感じ、瀬奈の背の影を眺めた。薄暗い模様からは哀しげな情尾が感じられた。

 雨音は休み時間には騒音によってかき消されるが、授業になると、教師の声よりも大きく響く。その音が胸騒ぎの音とよく似ていた。椿には酷く不快な音であった。昼間であるのに夜のような寂しさがあった。心を縛られるような窮屈を思いながら、放課後に瀬奈と音楽室に向かい、部活を行う。椿は今日ほど憂鬱な日は無いと思った。サックスの冷たさが心地良くもその手の平の反対側には蒸し暑さが常に触れていた。

 合奏は雨音を消すように吹いていた。嫌いな音を愛する音で聞こえないようにすれば少しはこの気持ちも晴れるのではないか。椿の演奏は今日はとても力強かった。

 六時になり、椿は部活を終えた。瀬奈と二人で薄暗い廊下を歩いていた。

「この時間で暗くなるなんて冬の廊下みたいやわ」

 瀬奈は呟き、椿は外を見た。変わらずに雨は降り、雨は廊下に強く響いた。それも一音一音が自己主張をするように椿の耳に残り、雨から逃れるように小走りで階段の方まで行った。

「椿、今日私、母親が車で迎えに来てんねん。ここでな」

 瀬奈は玄関で椿にそう言って申し訳無さそうにしていた。椿は笑みを浮かべながら、瀬奈に手を小さく振った。瀬奈は母親の車を見つけたようで、椿に手を振って、傘も刺さずに走ってその方まで行った。椿は車のライトがつき、走り去るまでを置いてかれるような目で見つめていた。そして、孤独に苛まれたように心持ちの中、帰宅することに億劫になりながらもじめじめとした気候を目の前にして、傘を刺そうとした時、ふと、携帯電話を取り出した。椿の何もない心の中を埋めてくれるものがないか探そうとした。そしてそこに菜乃花のグループメッセージがあるのに気がついた。

 そのメッセージを見て、椿は食堂の方へ急いだ。菜乃花は食堂で待っているとメッセージを送っていた。椿は慣れない走りをしたせいで息切れを起こしながらも食堂へと着いた。

「お、椿」

 菜乃花は椿に気づいて声を出したが、椿の息の切れた様子を見て、すぐさま椿の元へ駆け寄った。

「どうしたん?そんなに息切れして」

「だって、菜乃花が食堂で待ってるって」

「そうやけど、そんなに急ぐことないやん。うちは勝手に帰らへんよ」

「でも、私が気づかずに帰っちゃうことだってあるやろ?」

 菜乃花は椿の言葉に少し間を置き、椿の肩に手を置いた。

「その時は椿がメッセージくれるんちゃうの?うちは椿のことそんな酷い子とは思ってへんよ」

「この時間まで何してたん?私をずっと待ってたん?」

 椿は調子を取り戻し、菜乃花に連れられながら、椅子に腰掛けた。菜乃花は隣に座った。暗い天気に薄暗い電気が灯っているだけだったので、菜乃花の顔ははっきりとはよく見えず、お互いが気味悪く写った。壁に面してる奥の自販機だけが力強く眩しく光っていた。

「雨が凄いからさ。無理に変えるのも嫌で今日はバイトもないから、椿と瀬奈と帰ろうと思って、図書室で時間を潰してたんよ。五時になると図書室も閉まっちゃうからさ、一人でずっと食堂におった」

「馬鹿やと思てまうよ」

「構わへんよ。一人で寂しく帰るよりは全然」

「もう....」

 椿は自分でもわかるくらい顔が熱くなっていた。しかし、それは菜乃花には気づかれなかったのだろう。菜乃花はこちらをじっと見つめてくることはなかった。

「瀬奈は?」

「お母さんが車で迎えに来てたみたい。先に帰っちゃったよ」

「そっか」

 菜乃花の呟きに、椿はその心の内を探し出そうとしたが、掴み出すことはできなかった。椿の思ったような事を菜乃花は思っていないだろうと思った。

 今いる空間も心の中も閉塞的であるが、椿はその恐怖を紛らわすために、気づかれぬように菜乃花の裾を二つの指でさするように掴んだ。自然の暖かみが浮かんで来たが、恐らくは自分の指が触れ合ったことによるものであろうと思った。

「ここで話してても雨は止まへんよね。椿行く?」

「うん」

 菜乃花は立ち上がり、椿の指から菜乃花の裾は離れていった。暗く広がる菜乃花の顔であるが、椿に向ける表情はよく見えずとも、優しさの風がよく伝わった。

 誰もいない校舎の中を二人は手を繋いで歩いた。肌寒い腕を包むように菜乃花の手は暖かかった。

 蒸し暑さと緊張とどちらとも言えない汗が椿の額に流れ出た。それを反対側の手で拭い、その指に絡みついた一粒の汗を醜くも透き通った純粋なものと見た。

 玄関を出た先でその強い雨の音と地面に打ちつける雨の残骸と冷たい風が椿の足先を物憂げな心持ちにさせた。

「椿、おいで」

 菜乃花は広げた傘に椿を入れた。

「私、傘持ってるよ」

「意地悪言わんといて。こうしたいの」

 椿は罪悪感を抱えながらもそれを償うように菜乃花の肩に自身の肩を触れ合わせた。椿の髪先が菜乃花の耳に微かに当たった。菜乃花は気づかないようであった。

「私が持とうか?」

 菜乃花はその言葉に反対しようとしたが、椿は既に傘を手にしていた。菜乃花の身長では椿の体に雨が触れてしまうと思ったのだろう。菜乃花は素直に椿に傘を渡した。

 高校を出ると、緩やかな坂が広がる。雨が坂に流れて行く様を椿は坂に足を踏み入れる前に眺めた。

 椿はゆっくりと歩き出し、菜乃花はその動きに合わすように歩いていた。菜乃花の身体に雨が当たらないように椿は注意しながら歩いていた。傘には雨の音が鳴り、時折、冷たさが頬を刺激した。

 六時であるが、曇天の下では薄暗く、車はすでにライトを灯していた。

 椿はローファーの中に雨が時折入っていくのを思い、不愉快に眉を歪ませた。光照院の小さな門を潜り抜け、その先の川が大きな音を立てて、流れていた。

「うちさ、雨ってそこまで嫌いちゃうねんなぁ」

 菜乃花はその川を見て思ったのかそんな事を言っていた。

「なんで?」

「雨のせいで二人っきりになれる気がするやん」

 菜乃花はそう言うと、口先を上に向けた。椿は周りを見回した後、ゆっくりと傘を下ろした。そして二人の頭を傘で隠した。

 音は全て雨音にかき消されていた。その音を二人ですらも聞くことはできなかった。

「雨がうるさい」

「それがいいんちゃう?」

「わからへんなぁ」

 椿は傘の先に見える街並みに目をやった。走る車の音がいつもより大きく響いていた。椿にはそれはやはり不快であった。

「早く、梅雨が明けて欲しいと思うわ。夏が待ち遠しい」

「うちは暑いの苦手やから、早く秋になって欲しい」

 椿は自分の肩を菜乃花の肩に強くくっつけた。

「何?」

「別に、私達なんで、ここまで好きなものは合わへんのやろなって」

「お互いの事は好きやん」

 椿は何も言わずにいた。菜乃花の方を一瞥しただけで何も言う事はなかった。

 大通りへ出ると、二人の会話もままならないほど、騒がしさは増した。二人はそのまま無言で歩いていた。しかし、椿は菜乃花の暖かみが身体に伝わり、熱が出たような気分を別れるまで感じていた。

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