宝島
椿はある土曜の朝、道の先に一羽の小鳥が死んでいるのを見た。
目を閉じたように開け、眠ったように動かない。椿にはそれが幾らかそれで無いような印象を受けた。しかし、その周りはいつもと変わらない街並みがあり、それを思うと、この鳥は死んでいるのだと思ざるを得なかった。
雀のようであるが、雀の色合いではなかった。その不思議な鳥から離れた時、椿は無性に他人事でないような気がした。
学校に着くと、瀬奈と会い、椿は瀬奈と音楽室へ入った。
「今日、学校来る時に小鳥が死んでるの見てもうて」
「ほんま?可哀想やなぁ」
椿はその小鳥が空を飛べずに落ちていく様を思った。
「うん、それで私、何もしんと可哀想っていう気持ちだけ持って、素通りしてしもて、今になって何かしてあげられたらと思って」
「その気持ちがあることが良いことやん。今度何かあったらしてあげいや」
「うん」
椿は瀬奈を向いて返事をした。ただ、瀬奈に向けてではなく小鳥に向けてであった。
部活は午前中のうちには終わる。椿と瀬奈は部活を終え、門を出た辺りで瀬奈が椿にお昼に行かないかと誘った。
「いいよ」
椿はそう言って少し間を作った。瀬奈はその間何も言わずに椿を見つめていた。
「菜乃花もいい?」
「いいんちゃう?あの子バイトの時間ちゃうやろうし」
瀬奈はそう言うと、菜乃花に電話を掛けた。椿にはその携帯電話越しに菜乃花の掠れた声が途切れ途切れに耳に入っていった。
菜乃花の瀬奈との電話での様子が椿との態度とは違うように思えた。それは菜乃花と瀬奈の長い友人関係が作ったものなのだと思った。その瀬奈に対する菜乃花の声と話し方が椿に自分でもおかしなくらいに嫉妬を抱かせた。それが瀬奈に対してなのか菜乃花に対してなのかはわからなかった。
やはり瀬奈には椿の知らない菜乃花を知っており、敵わないと思った。
「菜乃花、来るって。うち等で先に行ってよっか」
「そうだね」
晴れではないが、雨雲が掛かり、涼しげな風が吹くが、じめじめとした蒸し暑さが街を包み込んでいた。椿の髪の先も汗で濡れた。
「しかし、蒸し暑いなぁ。ストレス溜まってまうわ」
「そうだね」
「椿はなんか平気そうやね」
「私はあまり寒い方が苦手だから」
「椿らしいっちゃらしいなぁ。うちは暑いん苦手。特に梅雨の蒸し暑さはあかんわ」
瀬奈の言葉に椿は手を口に当てて笑った。
「菜乃花もそんな事言ってたな。暑いのが嫌いだって」
「あの子は寒いのも暑いのも嫌いやねん」
瀬奈はここにいない菜乃花をからかうように言った。もしここに菜乃花がいたら、瀬奈は菜乃花に怒られていただろう。
椿と瀬奈は烏丸御池駅に降り、イノダコーヒへと向かった。椿の家からも近い場所であり、椿が菜乃花の自分への返事を聞いた場所であった。それが無性に椿の心を強くぶつかり合わせた。
店にはまだ菜乃花はいないようであった。
「菜乃花はまだ来てへんみたいやね。二人で先に入っちゃおっか」
「そうだね」
店の扉を抜けると、冷たいエアコンの風が椿の髪をゆらりと攫って行った。肌に冷たい感覚が走り、額の汗も急ぎを覚えたように消え去った。
椿と瀬奈は奥の方のカフェテラスに通された。二階の四人掛けの丸テーブルに座り、余った椅子に二人は荷物を置いた。
二人はメニューを見ていたが、まだ決めるわけでもなく、雑談をしているばかりだった。椿の心の中には菜乃花の事が思い浮かび、瀬奈の話の途中途中に菜乃花の姿が出てくるようだった。
そしてそれは少しずつ、過激なものになっていき、鎌倉での夜が思い出された。瀬奈の何気ない話との差が微睡のような甘いものではないことを深く思った。
生々しい淡い色に当たった肌の色が今にも目の前に浮かび上がり、菜乃花の姿を見ると、それが余計に助長して広がるのを恐れた。
二階へ上がる階段の足音が椿には今にも菜乃花が来るのではないかと怖気付いていた。
ただ、その足音は大抵は店員や他の客の足音で、菜乃花のものではなかった。菜乃花の足音は派手なものではなく、儚い音を響かせるものであった。それは椿のみが思っていることなのかもしれないが、確かに菜乃花の足音を椿はしっかりと記憶していた。
「菜乃花、着いたみたいやで」
瀬奈はそう言いながら、携帯電話から椿の方に視線を移した。
椿は菜乃花が来るのを今か今かと待っていた。着いたと言う割にはすぐには来ない。それは店内が広いことを物語っていた。しかし、時間にしては一分を過ぎた辺りであった。菜乃花は階段を登ると、二人の前に姿を現した。椿にはその時、菜乃花の足音が聞こえなかった。店は騒がしかったが他の人の足音は聞こえていた。菜乃花の存在が溶けていくようにそれが、椿の中で特別から当たり前に移行していくような思いを寂しくも感じた。
「二人とも部活お疲れさん」
菜乃花はそう言って、椿の隣の椅子に腰をかけた。四つある椅子のうち二人が真反対に座り、そのもう一つは荷物置きになっていた。菜乃花の左には椿がおり、右側には瀬奈がいた。
「まだ何も頼んでへんの。菜乃花を待ってたしな」
瀬奈がそう言ってメニュー表を広げた。菜乃花はメニュー表を見ると、真っ先に注文を決めたようだった。
「うちはこのアラビアの真珠にするわ」
「すぐに決めたなぁ」
「ホットコーヒー好きやしな」
椿はメニュー表をじっと眺めていた。その間に瀬奈も注文を決めていたようだった。
「うちはアイスカフェオレにする。部活で疲れて汗止まらへんから、冷たい方が気持ちええし」
菜乃花は店員を呼んで注文をし、店員が離れると、ほっと一息をついた。
「しかし、休みやのに、二人とも大変やなぁ」
「ブラスエキスポが近いからなぁ。気合いも緊張も段々と強うなるよ」
瀬奈が答えた。椿は瀬奈の言葉を汲み取り、その緊張が違うように変わっていくのを恥に思った。真面目でいる瀬奈に少々の申し訳なさを思った。椿は一人で気まずさを感じつつも、菜乃花のいる空間に甘い蜜を求めるようにその視線は自然と菜乃花に写っていった。菜乃花はその事に気がついたようで時折、わざとらしく目を合わせてきた。
三人の注文した商品が来ると、少女達は各々口を閉じ始め、その集中は目の前のものに向けられた。しかし、菜乃花はコーヒーの暑さに舌を痺らせ、それを誤魔化すように二人に笑い掛けた。
「熱いわ。冷めるまで待つわ」
「慌てすぎやねん菜乃花は」
瀬奈が茶々を入れる。菜乃花はそれに笑って答えていた。椿はその空気に自分もいる事が嬉しかった。自分の存在がそこに自分としてしっかりおり、二人の目の中に自分が映ることに対して改めて椿の自尊心が高まるのであった。
カフェオレを飲み、甘みが喉を潤したその幸福な心地は自然とそんな思いに耽たのであった。
その甘みは菜乃花の唇の味が思い出されるほどによく似ていた。口付けが甘いとは何故と思いはするが、その感覚の印象が似ているのであろうと思われた。どちらもが多幸感故の味わいであり、椿のみが思うのであろう。
その後に店を後にした三人はそこで別れる事にした。椿は家へと向かい、菜乃花と椿は烏丸御池駅へと向かった。椿はなんとなく寂しさを思いながらも、二人と別れた。その姿が完全に見えなくなると、一抹の不安に似た悲しさが漂いまたすぐに会えるのにしばらくは会えなくなると言う気持ちが椿の心に反抗して強くなっていく。ただ、椿はその気持ちには無視をして、二人が歩いた道とは逆の道を歩いた。そんな不安は空中する訳はない。それはただの危惧や懸念であり、ばかばかしいものであるのだ。
家の道に出た頃、椿の携帯電話に通知が入った。携帯電話を開くと、菜乃花からであった。
これから会えない?とあった。椿は先程まで会っていたと一人で笑った。そして菜乃花に電話を掛けた。菜乃花はすぐに出た。
「どうしたの?」
「あんまり話せへんかったから、もうちょっと話がしたくて」
「瀬奈は?」
「本屋寄るって言って、別れたんよ。うちも一人になってしもて寂しかったから、椿に会いたくなって」
「瀬奈には内緒にね」
「そりゃもう」
椿は寂しげな道に立ち、人通りもないことを確認し、電柱に背をつけながら、どこか嬉しげに上を向いた。
「どこで会う?」
「どこでもええけど、うち、お金はもう無いからね。さっきのとこで大体使てしもたし」
「私の方がないよ。菜乃花と違ってバイトもしてないし」
椿はそう言って、菜乃花の言葉を他所に一人考え事をしていた。そして椿は菜乃花の言葉を遮るように言った。
「私の家に来る?」
「椿の家?」
「ここから近いし」
椿の震えた声は椿自身に緊張を伝えた。
「でも親おるんやろ?」
「そうだけど、何するつもりだったの?」
「い、いや別に」
菜乃花は慌てた様子で答えた。椿は周りを見た。
「菜乃花達が歩いた道を反対に行って、商店街に出る前に左に行ってそこに私いるから」
「うん、わかった」
菜乃花は上擦った声を漏らして、電話を切った。椿は携帯電話を閉まい、身体を電柱に預けて、再び上を向いた。車の音が遠くに聞こえたが、菜乃花の足音はまだ響かなかった。
菜乃花を待ちながら、椿は携帯電話の画面を眺めていた。菜乃花が来るのが遅い事に辟易して、ほんの瞬間的に菜乃花の事を忘れそうになっていた。菜乃花が来たのはそんな時であった。
「椿」
「菜乃花....」
少し驚いたような椿に対して、菜乃花は笑っていた。
「どうしたん?びっくりして」
「いや、別に」
一瞬でも菜乃花の事を意識の外に追いやった事を椿は菜乃花に悟られたくないと思った。
菜乃花は走って来たのだろうか。椿が思うよりも早く到着し、汗をかいている。
「菜乃花、汗が」
「気にせんといて、ちょっと走って来ただけやから」
菜乃花はそう言っていたが、椿は自分のためにと申し訳ない気持ちになった。ポケットから椿はハンカチを取り出すと、菜乃花の額や頬を拭った。
「椿⁉︎」
「汗かいてたら気持ち悪いでしょ」
菜乃花はほんの少しの抵抗は見せたが、椿の必死な様子を見て争う事をやめ、無抵抗に受け入れた。
目を瞑る菜乃花を椿は間近で眺め、その綺麗な細いまつ毛に触れそうになった。
椿程ではないにしろ、日焼けしてない肌が椿に美しく輝いた。
汗を拭き終えても、椿はしばらく、その手を菜乃花から離さなかった。菜乃花の息の音が静かに響く。今まで気づかなかった薄い黒子があり、キスをした時にはあったのかと椿は思った。
一分程経っていた。椿は流石にまずいと思い、菜乃花の顔から手を離した。菜乃花の瞳は静かに開き、椿を見つめていた。菜乃花としては何も思わずに見つめていたが、椿はその視線に不安を感じた。
「行こっか」
椿は誤魔化すように言った。その間が異様に長く思え、その静寂が恐ろしいようであった。
椿の家はそこから少しした場所にある。菜乃花を通すのは初めてであった。菜乃花はただ、椿の家を見上げるばかりであった。
椿の目には自分の家と菜乃花が同時に写っている事に動揺を感じた。似つかわないような重なってはいけないような感情が出てきた。しかし、幸福の故の想像が作り出した幻想が現実になっただけであり、椿はすぐにその幻想が思いの外、些細なことであったと知った。
幸福がこうして、簡単に壊されるのを椿は悲しく思った。これ以上の幸福はきっとないはずであるのに、まだ自分は高みを見上げるのかと思った。
椿は自分達に宝島など存在し得ないと思うようにした。そうすると、先程壊した幻想が幾らかの形を復活させてくれた。壊した幸福が薄い味であるが、戻って来た。そのノスタルジックなものは先程までには存在し得ないものであり、椿は自身の思いの行動を無理にでも肯定した。
椿は菜乃花を家に入れた。溢れ出る緊張が菜乃花の何気ない普段の行動を特別なものに変えていた。
「部屋に行こう」
リビングには両親と祖母がいた。菜乃花に気がつくと、母が椿の元へやって来た。椿は母に対して、邪険な思いを持った。
「友達が来たから。部屋に行くから静かにしてて、気遣わなくていいから」
椿はやや早口でそう言うと、菜乃花の方を振り返った。玄関を見回していた菜乃花は椿の声に気づくと、椿の背についていきながら二階へと上がった。
菜乃花は部屋に通され、口数少なく、そのまま床に腰を掛けた。椿は部屋の窓を少し開けたりと動き回り、菜乃花はその優越の心地良さが緊張の変化に行き帰りしていると思いながら、椿のその背を見続けていた。
「少し暑いでしょ?まだ扇風機出す季節でもないと思ってたんだけど、最近は暑いから悩ましいね」
椿はそのまま菜乃花の隣に座った。菜乃花には椿の横髪が頬に微かに当たり、髪の毛の妖美な匂いが鼻先をくすぐっていた。それは椿の部屋の匂いと重なって、異国のような感覚があった。菜乃花と椿は座ると、そこまで身長に差異は無かった。いつもは目を上げることが多い菜乃花はこの時だけは、椿を真横に眺めることができていた。椿は自室だからであるのか、菜乃花の肩に頭を乗せた。菜乃花は自分の緊張を他所に菜乃花の体に触れる椿への理性を敢えて見ないようにした。しかし、椿の頭が肩から首に触れ、髪が首の先を撫で、その触れ合う音が聖域の物のように贅沢にこだました。
「今日は来てくれてありがとう」
「うちだって、椿に会いたかったからええよ。瀬奈にも会えたしな」
椿はその言葉に瀬奈への友情も含まれていたと知った。だが、嫉妬は無かった。寧ろ、その事を含めなかった自分に嫌悪した。自分はいつも瀬奈を心の奥底で邪険にしている。先程の母のように。
「私達は部活、菜乃花はバイト。学生なんて休みの日なんて会い放題なんて思うけど、私達はなかなか難しいんだね」
「でも、普段学校で会えるやん」
「でも、時間は限られてるから」
椿はそうは言ったが、その限られた時間だからこそ、限定的な会話が余計に記憶に残るものであるとも思っていた。毎日永遠に会って話していたらきっと会話が途切れてしまうのを恐れていた。限りのないはずの愛は底を見せない事で、贅沢な時間を与えるのである。それで二人が終わるのは椿はなんとしても避けたかった。だから望むだけで終えるのである。望みはいつだって、上を見上げさせてくれる。時々、菜乃花と別れる事を考える時はそんな事を思っている。
椿は菜乃花の手が自身の肩にかかったのを感じた。菜乃花の首あたりに異様な熱を思った。そして菜乃花を愛らしいと思った。
「暖かいよ」
椿の呟きを菜乃花はどう思ったか、椿は確認しようとは思わなかった。そこから二人は何も話さずにいた。椿はこれが恐れていたものであると今になって気がついた。しかし、椿は菜乃花と話をしなくても心地が良かったのである。恐れていたものは何も無かったのであった。壁に触れた背の冷たさと菜乃花の体の暖かさを不思議に感じながら、客観的に夢を見るような景色をぼやけながら見ていた。
その後、暗くなる前に菜乃花は椿の家を後にした。椿は途中まで菜乃花と歩く事にし、二人は夕空に曇り空が掛かる様を見た後に、早足になりながら歩いていた。椿は道路側を歩き、菜乃花の歩くペースを見定めた。気持ちゆっくり歩いていたが、菜乃花も椿に合わせて歩いていたようで、椿は少しだけペースを早めた。菜乃花は自然とこちらの足元を見ることは無くなった。
道は車がよく通った。後ろから走る音が聞こえ、椿はその方を見て、菜乃花の方へ寄った。菜乃花にぶつからぬよう、それでも、寄りすぎないように心がけた。
「危ないよ」
椿は突然、菜乃花に手を握られた。そして菜乃花の方へ体を引き寄せられ、急な菜乃花の行動に一瞬の間が緊張のものに変化した。そしてすぐにその状況を理解し、改めて、菜乃花の手の暖かさを感じられた。その安心する手を椿も握った。菜乃花の自分への想いがそこで強く感じられた。
この時が終わらずにいればいいのにと椿は思った。しかし、イノダコーヒを目の前にした時、菜乃花はその方に目をやり
「うちはもうここで大丈夫やから。またね」と手を離した。
その暖かさから離れた寂しさがその反動によって冷たくなった自身の手をそのままに椿は菜乃花に手を振った。
「まあ明日」
菜乃花はそのまま先を行き、その後ろ姿を椿は眺めながら、先程まで触れていたその左手に残る暖かみと手の汗が消えないよう願った。




