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明日への扉

 目覚まし時計の音がけたたましく鳴り、菜乃花はそれを無意識に近いうちに止めた。音が消えた静寂が波のように訪れ、そこから静寂の物音が菜乃花の耳を襲った。

 ベッドから体を起こし、洗面台に行き、顔を洗う。寝ぼけ眼を消すために瞼を何度か擦る。そしてある程度の眠気が無くなり、コンタクトレンズをつける。菜乃花の兄は高校生のうちに眼鏡をかけていた。菜乃花はそんな事にならないよう目を大事にしようとしていたのだが、結局は自分も目が悪くなり、眼鏡は似合わないからとコンタクトレンズにした。しかし、朝の眠い中、こんな作業が憂鬱を助長させる。つくづく、自分が悪いのは承知の上だが、目が良い人が妬むほどに羨ましかった。

 部屋に戻り、制服を着る。この作業も勝手に体が動くほどであるが、その労力はこれから一日の半分ほどを使っているように感じられる。それでいて、春の陽気さが鎌倉を訪れた辺りから夏のように変わっていた。

 窓から見える晴れた空は気持ちが良いが、その暑さは嫌でも夏を思い出させるものであった。窓に一つ指を触れてみるが、まだ冷たさが感じられた。しかし、菜乃花の体温がその暖かみを移し、彼女は指を窓から離し、その触れた跡を見ていた。

 家を出て、九条通りを出て、電車に乗る。仕事に行く人と学生と観光客がいた。外国人の顔はどこか希望のような物が覗き見えた。菜乃花は彼らは自由を常に感じられているのだろうかと思った。彼らを羨ましいとも思ったが、彼らにとってはこの地で生活をしている菜乃花達に羨望の目を向けているのであろうと思われた。

 隣の芝生は青く見えるのであるが、その芝生はどちらも青いのか、青く見えないのかはわからなかった。恐らくどちらも正しくもあり正しくも無いのである。青く見えるのはその人の幻覚であり、外観だけを触れたように見ただけではよくわからないのである。

 学校に着くと、菜乃花は学校の前の緩やかな坂に息切れをし、その調子のまま教室へと入った。

教室には既に椿と瀬奈がおり、菜乃花は二人を見ると、心なしか、朝からの物憂げが取り払われたように思えた。

「おはよう」

「おはよう、菜乃花」

 二人の挨拶はまだ春らしさを帯びた声で陰気をのある自分の声を菜乃花は恥ずかしく思い、菜乃花は挨拶をいつもより高い声を意識した。

「菜乃花、鎌倉どないやった?」

「椿に聞いたんが全てやで」

「椿、菜乃花が来たら話すって言うてんねんで」

「また、面倒くさいことを」

 菜乃花はそう言って、椿に目を向けた。椿は菜乃花と目が合うと笑みを見せた。その見上げた笑みに菜乃花はその時の夜を思い出し、椿から目を逸らした。

「なんてことないで。大仏とか鶴ヶ丘とか定番のところ行っただけ。あとはカフェとか」

「カフェええなぁ。写真ないん?」

 瀬奈は菜乃花に向けて言ったが、菜乃花は写真を撮っておらず、撮ってないことを手振りで表した。瀬奈は椿の方を見た。

「私、撮ってるで」

 椿は携帯電話を取り出し、瀬奈にカフェでの写真を見せた。ついでに鎌倉の旅行の写真も見せた。菜乃花も椿が撮った写真は見てなかったので、瀬奈の隣に顔を覗き込ませながら見た。

 そこには寺や神社での椿と菜乃花との二人での写真が大半で、景色だけを写した菜乃花の写真とは対照的であった。

 菜乃花は椿との差異に自身の無情さを思った。菜乃花はなんとなく写真を撮られるのが好きではなく、また人を主体的に写した写真よりも風景画のような写真を好んだ。それは菜乃花の心に潜む羞恥心や自己嫌悪がそのようにさせていた。菜乃花自身その事を気づいていたが、それを悪い事とは思わなかった。しかし、椿のような人を羨む事もあり、決してどちらかを否定することはなかった。

「いいなぁ。私も一緒に行ったらよかったわ」

「瀬奈は彼氏とのデートどないやったん?」

「楽しかったで。まあ、色々あってな」

 瀬奈はそう言うと顔を赤らめた。菜乃花は目の前にいた瀬奈を遠く感じた。それは瀬奈が急に離れたと言うより、菜乃花が置いてかれたようだった。

「おめでとう」

 椿は瀬奈の耳元に囁くように言った。菜乃花も周りに聞こえないように小さく呟いた。菜乃花には鎌倉での夜のことが思い出された。

「今度は三人で行こや」と瀬奈は二人に照れくさい顔を見せて言った。

「せやな」

 菜乃花はそう言ったが、今回の二人での旅行で椿との関係が親密に進んだことを思うと、瀬奈がいるのは嬉しいが、喜ぶことができない事も自覚した。そしてその事に自身を嫌悪した。椿はどう思ってるのか、菜乃花には読み取れなかった。菜乃花と同じ気持ちであって欲しいと言う気持ちとそうであって欲しくないと言う気持ちが交差していた。

            ・

 放課後になり、椿と瀬奈は吹奏楽部の練習に行ってしまった。菜乃花はアルバイトがあるため、一人で帰宅をした。

 朝とは打って変わって、この時間は多少は人も少なく感じられた。

 窓からはまだ夕陽も差し込まず、午後の穏やかさに包まれていた。菜乃花はこの景色を見て、学校を抜け出したような思いになった。そしてその自由を得た清々しさが心をくすぐったく刺激した。

 東寺駅を出て、菜乃花はそのまま家へ帰らず、バイト先に直行した。

 十七時からのバイトであるため、家へ帰って再び来る頃はギリギリになり、バイトを始めた頃は走って家へ帰り、すぐ自転車に乗って向かっていたが、バイト先の先輩に叱られた事で、バッグの中にバイトの服を詰め、学校帰りにそのまま直行していた。

 バイトをしてる間も菜乃花は椿のことを時折考え、部活に励んでる彼女を思うと菜乃花もバイトを頑張れた。恋人が頑張っているのに自分のみが何もしないことに耐えられず、菜乃花がバイトをしているのはそんな自分の為でもあった。

 バイトが終わった後、椿からメッセージが届いており、菜乃花はその事に気がつくと、真っ先に画面を開いた。そしてメッセージを見て、菜乃花はしばらく夢現に感情に浸たり、制服を着替えると、バイト先を後にした。

 バイト先を出て、少し歩き、菜乃花は人通りの無い道を行った。街灯はあるが、影を感じる虚しい灯りの下で菜乃花は椿に電話をした。

「もしもし、椿」

「あ、菜乃花」

 椿の声は電話越しにも表情が読み取れた。

「どないしたん? 急に電話したいやなんて」

「いや、今日は学校終わってから会えてへんかったし、なんか寂しくて、声が聞きたくなって」

 菜乃花は街灯に背を預けた。そして上を向き、椿に向けた愛しい気持ちをなんとかして抑えていた。

「まあ、確かに瀬奈もおったから、あんまり鎌倉での親密な話はできへんかったしなぁ」

「そう。でも、行った場所の話とかは部活の時とかにいっぱいしたんやけどな」

 椿の声は楽しそうな声からふと、寂しげなものに変わった。菜乃花にはその寂しさが二人のこそこそとした秘密のようであり、楽しくもあった。

「なぁ、菜乃花」

「何?」

「いつかは、瀬奈にも私らのこと打ち明けたいなぁ」

 椿の堂々とした希望を持った言葉は菜乃花に椿に触れたい感情を抱かせた。

「せやな。いつかは言おな」

 菜乃花にはその事にまだ恐怖の方が多く混じっていた。椿にはどう感じられているのかはわからなかった。

 菜乃花は声だけでなく椿の姿形を今すぐにでも求めていた。

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