高校一年生
椿は高校に入学した日の事をはっきりとは覚えていない。桜が咲いていたのは覚えているが、それはいつの時も同じようだった気がする。
気がついたら、高校生になっていた。エスカレーターに乗ったような流れに沿って椿は無意識のうちに自分の周りの景色が勝手に変わっていくのを思った。
中学と同じように吹奏楽部へ入り、中学と同じフルートを選んだ。そして一週間もしないうちに仲の良い友人もできた。瀬奈という同じ吹奏楽部の同級生が椿は話していて一番心地が良かった。
ただ、瀬奈は中学の頃からの友人もおり、菜乃花も瀬奈の中学時代の友人の一人であった。
椿は瀬奈が自分以外の子と話しているのを見ると、自分でもわからぬ嫉妬心に心を焼かれた。それは特に菜乃花に向けることが多かった。自分や瀬奈よりも大人っぽく、口数が少なめの彼女は瀬奈との仲の良さが誰よりも目に見えてわかった。椿は二人を見る目が決して良いものではない事に気づき、自分の子供っぽさに自己嫌悪した。
しかし、高校生になると、子供から大人へと変わっていくのが目に見えるのか、椿は二つ上の先輩に告白をされた。同じ吹奏楽部の先輩だった。椿とは同じパートではないが、話す事はあった先輩だった。椿が思う先輩との接点はそれくらいだった。それくらいで人を好きになり、告白するものなのか。その短絡的な決断に椿はした辟易した。しかし、自分を好ましく思ってくれる事は決して嫌なことではない。椿はその先輩の思いに身を乗せる事にし、先輩と付き合ってみる事にした。椿にとっては恋人ごっこに近かったかもしれなかった。自分よりも背の高い先輩を見上げ、その目はいつしか憧れへと変わり、幻想の頂を覗いた気がした。
その春頃は椿にとっても青春の端先を舐めたように思えた。仲の良い友人との部活動、そして部活の先輩との恋、地に足がつかないような夢見心地のような毎日、それがいつまでも続くのかという不安は心の奥底に常にあった。その不安が時折、椿を貶めた。その不安に悩まされるくらいならいっそのこと、崩れてしまえばいいとも思ったこともある。しかし、そんな考えをしたせいなのか、梅雨がやってくる季節に椿は突然、先輩から別れを切り出された。まだ一カ月程で、デートも一度しか行ってなかった。椿のその一回のデートがまずかったのかと思った。しかし、初めての恋人とのデートで椿は何が悪かったのかは見当がつかなかった。
たった一ヶ月だけだが、その一ヶ月の間に積み重なった先輩への思いは偶像のように高くなり、それは突然崩れてしまった。
部活へも先輩と顔を合わすため、出づらくなった。別れてからの最初の部活はどうも足が進まなかった。おもりつけたような足取りは本当にするのだなと椿は悲しみの中で感心した。
その努力も虚しく、椿は部活へ行く事を諦めた。むしろ、足がこうしても向かない事に清々しさを思った。一番上の階の廊下、部活の時間には生徒や教師が通る事は見られない廊下で椿は涙をした。一度出た涙は止まる事なく、出続けた。これが一ヶ月でなく一年、そしてもっと長い期間であったなら、どれほどの悲しみだろう。流れてく涙を思いながら、そんな事を冷静に考えていた。床に涙が落ちるのを見て、余計に悲しみが湧く、そんな悲しみは底を尽きなかった。
そこを菜乃花が通ったのは全くの偶然であった。こっそりとつけていたイヤリングを落とした菜乃花は学校中を探し回っていた。そんな時に階段で座り込んでいる椿を見つけた。
菜乃花にとっても椿にとっても友人の友人という間柄であり、話したこともほとんどなかった。だが、顔見知りである上に座り込んでいる椿を見て菜乃花は放って置けなかった。
「大丈夫?」
菜乃花は声をかけた。椿はその時、初めて菜乃花がそこにいるのに気づいた。何故か足音には気が付かなかった。それほど悲しみに集中していたのか。そんなはずはなかったのだが、とにかく、足音はわからなかった。足音は元々聞こえなかったのではないかとも思った。
顔を上げた椿は泣いていた。菜乃花は慌てて、ハンカチを取り出し、椿に渡した。椿はその善意か優しさに疑いと暖かみを思った。
そして後者の方を思うと余計に涙が出てきてそうになった。
「落ち着いた?」
しばくして菜乃花は椿に再び声を掛けた。椿はその時には既に落ち着きを取り戻していた。それと同時に部活をサボった事への後悔がすぐに出てきた。
「どうしたん?」
青白くなった椿の顔を菜乃花は心配した。椿は菜乃花の方を向いた。何か、すぐ倒れてしまいそうな儚い弱々しさが見えた。
「部活すぐに行かなあかん。サボってもうた」
立ちあがろうとした椿の手を菜乃花は強く握った。
「そないな状態で行かん方がええよ。気持ちの整理がちゃんとつくまではまだ休んどいた方がええと思う。今日は休み。言い訳は瀬奈にしといてもらうし」
椿は菜乃花の顔をじっと見た。このまま帰ってもいいのかと漠然と考えた。しかし、一人で帰れる程の足取りではないような気がした。
「うちと帰る?」
そんな椿を見て、菜乃花は言った。
「うん」
椿は消えそうな声で言った。菜乃花は椿の手を風が吹くように握った。
「行こか?」
菜乃花は問いかけた。椿は菜乃花となら帰れる気がしたが、菜乃花の存在が急に大きくなって行き、ここで二人で帰って別れたら、このような感情がもう二度と心に現れないような気がした。
「待って」
呼び止められた菜乃花はふと、椿を見つめた。
「もう少しここにいて。話を聞いてほしい」
菜乃花は椿の隣に行き、階段に腰を掛けた。椿もその横でそっと同じように腰を掛けた。
椿の長い髪が菜乃花の頬を一度だけ撫でた。そのくすぐったさが甘い心地の良さがあった。
自分よりも背の高い少女を菜乃花は見上げるように見た。しかし、今にも消え入りそうな少女を可愛らしいと思った。
菜乃花は椿に話を聞き、その話をじっと聞いていた。話を聞きながら菜乃花は椿の顔を初めてじっと見た。可愛らしい顔立ちであるが、その顔の造形が美しく形取られていることに気づいた。目は大きく、まつ毛が自分よりも長かった。白い肌に柔らかそうな唇、隣にいると彼女の良い匂いが菜乃花に伝わり、彼女はふと、椿への気持ちが高鳴るのを感じた。目の前にいるのが恋をしている人のように思ってしまった。
別れ話は決して悲しいだけじゃない。怒りや清々しさをも含む事もある。しかし、椿の別れ話は悲しみと不安が蔓延るものだった。
「私、先輩に告白されて付き合って、一ヶ月ずっと先輩を好きになろうと思ってた。そんで、やっと好きになり始めた時に別れるなんて」
それが彼女の本音なのだろうと菜乃花は思った。悲しみの中に湧き出す怒りを感じた。菜乃花は椿の頭を撫で、指先で透き通るような髪をなぞった。
それが心地良かったのか、椿は悲しげな事を言うことはやめ、無言になった。菜乃花はそのまま撫で続けた。それが今は椿にとってよかった気がした。
菜乃花はその時に、椿を守ってあげたいと思うようになった。また、椿も菜乃花に感謝し、礼をし続けたいと思っていた。菜乃花は唾を愛おしく思い、彼女とより親しくなりたいと思った。椿は菜乃花に自分の思いを見せ、裸を見せつけた心持ちになっていた。しかし、それは恥ずかしげなものではなく、清々しさを纏ったものであった。
その後、菜乃花は椿と学校を出て行った。椿の心は部活をサボった罪悪感と、泣き腫らした清々しさが混在していた。先輩の事をいつか吹っ切れるような気がした。
菜乃花を見ると、菜乃花は椿と目が合うと、心配そうな表情を向け、そのあとに笑みを向けた。椿はその顔を見るや否や顔を逸らした。
捨てられた感情がこのような形で幻覚のように舞い戻ってきたのを思った。
・
次の日に、椿は瀬奈と菜乃花と会うと、瀬奈に部活をサボった事を謝った。
「連絡しても全然返信ないし、心配したんやで」
瀬奈はそんなように言っていた。すると菜乃花が
「せやけど、椿も反省してるし許したり」
と椿を庇った。
それは瀬奈だけでなく、椿にも驚きだった。
「どうしたん?急に椿と何かあったん?」
瀬奈が驚いた様子でそう聞くと、菜乃花は恥ずかしそうな表情を見せた。
「まあ、そやね」
菜乃花は椿と目を合わせた。椿は菜乃花の表情が映り、居た堪れなくなった。指で髪を絡ませた。それが二人にどう映ったかまで知ろうとする余裕はなかった。
「そっか。でも、まあ椿がまた部活来てくれるならそれでええよ。昨日は元気なさそうやったし、心配もしてたんやで」
「ごめんな、瀬奈」
椿はそう言って、瀬奈の手を握った。その様子を菜乃花は眺め、少しだけ、二人の世界にしてあげようとした。
・
それは夏休みになる直前の日だった。終業式を終えた後、菜乃花は椿に呼び出され、椿と菜乃花が梅雨の日に会った階段で椿を待っていた。
菜乃花には一瞬の不純が浮かんだが、現実的ではないその妄想をすぐに消し去るも、椿が自分を呼んだ理由は依然としてわからずにいた。
菜乃花が階段について、少しすると、足音が聞こえ、それが近づき、椿が来たのだと菜乃花は思った。
椿はある意味で菜乃花の姿が見えないかのように菜乃花の前に姿を現した。そして、その綺麗な顔を菜乃花に見せつけ、安心するような表情をした。先程まで揺られていた長い髪が動かず止まる。髪の先は汗が染み込んだのか、少し濡れていた。これが彼女の黒い髪を小さく眩しくさせていた。そんな細い一筋の髪を菜乃花は見た。それが自身の緊張を和らげるシュールとも言える方法であった。
「今日はありがとうな、菜乃花」
「うん」
菜乃花は小さく返事をした。それしか言葉が出なかった。
「先月に、菜乃花に話を聞いてもろうて、私を助けてくれてありがとう。その時に、私もう男の人と恋せえへんって思ったんよ」
菜乃花は椿が何を言っているのか一瞬理解がしかねた。
「菜乃花があの日、私に向けた笑顔が今でもずっとうちの瞼に残ってる。あの日から私はあかん思いを持った。でも、それはスリルがあって、それでいて、自分を正直にさせてくれた。うちは想いだけを伝えに来た」
椿はそう言うと、菜乃花の手前に来た。
「私は菜乃花が好き。女やけど、恋したんよ」
菜乃花は頭が真っ白になり、椿の言葉が夢のように思えた。そして自身が男か女かである事も忘れそうになった。現実を全て思い出すと、その混乱する考えの中で椿の肩を両手で掴んだ。
「本気なん?」
菜乃花は椿が冗談を言ってる事を願った。
「うん」
しかし、椿の目は真っ直ぐに菜乃花を見ていた。これはふざけているのではないと菜乃花は思った。そして、少し後退り、壁に背をぶつけた。その間、何も言わずに椿を見つめた。確かに椿に好意を持たれるのは嬉しくないわけではない。しかし、今はよくわからなかった。過去に男に三回ほど告白をされたことがあり、椿と同じように菜乃花は一度その告白してきた男子と付き合い、その後に振られた事がある。
しかし、同性に好かれるのは初めてだったのだ。この気持ちの整理ができず、五里霧中の中を彷徨うような景色を思った。
「そっか、ごめんな。今のうちにはどう返事する事もできひん。少し考えさせて。でも決して椿を嫌悪するような事やない」
椿にそう言った菜乃花は校内に響く静寂が夏の暑さを呼んでいるのを感じた。
まだ夕方にもならない昼頃。一日がまだこれからにもなる時間帯に菜乃花は夜を望んだ。
「また返事する」
「ありがとう。私の馬鹿なことに付き合ってくれて」
椿はそう言って、申し訳なさそうにした。菜乃花はそんな椿を励ますように手を握った。椿にはそれが菜乃花が自分に向けた最後の優しさだと思うようにした。
校舎を出ると、日差しが差し込み、二人は木の影を探しながら歩いた。校門まで続く緩やかな下り道はここから逃げ出したいと思えた。
例え振られても後悔はないと思った。思いを伝えた気持ちが心地良く椿を幸福に感じさせた。
蝉が鳴き、じりじりとした熱を被った風が椿の髪を靡かせた。風に触れた肌から汗が流れ、それが髪に触れてしまった。
汗に滴った髪がたらんと下を向いた。椿はそれを不快に思った。
菜乃花の短い髪は耳の辺りまで揺らめき、そのボブカットされた髪を椿は羨ましくも思った。しかし、自分にはショートカットは似合わないと自負しており、何年も掛けて伸ばした長い髪に唯一の自信を持っていた。このストレートの髪が自分を自分らしくしていると思っていた。
だが、菜乃花はそんな椿の思いをさらうように堂々としており、椿の怯えを隠した自信は脆いものである感覚を感じた。
・
それから少しして、椿の元に菜乃花から連絡が来た。
どこかで会える?という文字を見て、椿はその文字から読み取れる意味をじっと見つめながら考えた。ひびで割れてる画面が光でその存在が浮き彫りになった先に見える文字は自分の事柄からどこか他人事のように変わっていった。そう思う事で、椿は冷静を保っていた。
そして勇気を振り絞り、椿は菜乃花に電話をした。菜乃花はすぐに椿の電話に出た。
「もしもし、菜乃花?」
「どないしたん、椿?」
「明日、三条の喫茶店行かへん?私の家の近くにあるんやけど」
椿はその言葉を吐くと、緊張が目の前を飛んでいき後に残った勇気が体を硬直させたのを思った。
「ええよ」
菜乃花は優しげな口調で言った。その優しげな言い方は椿を受け入れるからであるのか、それとも椿を励ますためであるのか、椿には解りかねた。
次の日、椿は9時半頃には喫茶店の前に立っていた。菜乃花は26分に着く電車に乗っていると言っていた。
後ろの窓ガラスに豪華客船の模型があった。椿はそれを暇な時に眺め、ガラスに映る自分を見て、髪を直したり、自分のコーデが似合っているか、確認をしていた。
そんな事をしている時に菜乃花は椿のそばへやってきた。
「お待たせ」
声を掛けられ、椿は窓ガラスに映る自分とその横に菜乃花が立っているのを認めた。
「菜乃花、おはよう」
「うん、おはよう」
菜乃花は半袖のジージャンとその下に白のシャツ、蓬色のズボンと夏を感じさせるさっぱりとした服装をしていた。それを見て、椿は今日は暑いのだと気づいた。
「入ろか」
「うん」
二人は喫茶店に入り、奥にある洋風の間に通された。二人の他に四組ほどの客がいた。二人は丸テーブルに向かい合わせに座り、椿のその緊張から、菜乃花の後ろに広がる庭園に目をやっていた。
「何頼む?」
菜乃花にそう聞かれ、椿は慌ててメニュー表を見た。そしてとりあえず目についたアイスカフェラテを頼むと菜乃花に言った。
「了解、うちはコーヒーにしよ」
菜乃花は店員に飲み物を注文をし、ついでにパンケーキも頼んでいた。
「朝食べてへんし、お腹すいてもうて。二枚あるし、一枚は椿食べて」
「ありがとう」
椿はそう言うと、運ばれた水に手をつけた。冷たさが口先を刺激し、それによって唇が鈍った感覚を持った。
二人は少しの間、何も言わず、店の中の様子や中庭を覗き見ていた。テーブルに窓から差し込む光が反射して、テーブルに置いてある小さな花と青い空がテーブルの表面に良く写っていた。
そしてそれを破ったのは菜乃花であった。
「椿はここ、よう来るん?」
「いや、二回目。前に一人で来た事あって、いつかまた来ようと思ってたんやけど、一人で行くん恥ずかしくて」
「まあ、一人で喫茶店って緊張するよな。うちはそないな事したことないし、椿の方が大人に見えるわ」
そないな事ないと椿は言おうとしたが、そんなにムキになる理由がないことに気づき、思いとどまった。
そして二人の元に飲み物とパンケーキが運ばれると、椿はカフェラテに一口添えた。甘さが口に広がり、椿が潜めていた緊張が広がり、そして静かにもなった。
「あのな、椿もわかってると思うけど、今日はこの前の返事しようと思って」
「うん」
椿は唐突に出てきた菜乃花の言葉に飲んでいる手を止めた。最悪のシチュエーションを想像し、心が傷つかないように最善を務めた。それと同時に自分の意図しない意思が、望んでいた妄想も行った。
「あれからずっと考えて、やっぱりおかしいなとも思ってた。だって女同士って普通やないし、周りには自慢もできひんし、たくさん悩むと思う」
淡々とした言葉は怖いくらいに感情を読み取れなかった。菜乃花の声は周りに人がいるからか、椿にのみ聞き取れる声だった。
「せやけど、二人で悩むんも悪くないかなって。まだうちもわからへんことたくさんあるけど、長い先を見ずに今を見ていこうかなって。うち、椿はずっと可愛いと思ってたし、この前の事があって、うちにもそないな感覚あるんを強う思ったし。試しみたいな感じやけど、椿と付き合ってみたいなって」
椿は自分の指が震えたのにも気付かない程、目の前が白くなっていくのを見た。こんな感覚は本当にあるんだなとどこか冷めたように思っていた。
「椿?」
菜乃花にそう呼ばれ、椿ははっとした。菜乃花は椿に笑い掛け、椿に手を伸ばした。
「手、握らせて」
「うん」
菜乃花の手は夏になるからか暖かく、その自分ではない体温が自分に入っていくような感覚があった。
「好きやで。椿」
椿は何も言えず、ただ顔を赤らめた。椿は菜乃花の顔を直視できず、庭園にばかり目を向けていた。




