第32話 ポンコツな姉
南の別邸。
森に囲まれた、王族専用の保養地。
ラグジュアリーな空間で、優雅で静かなひとときを満喫……。
ガッシャーン!! ドォォォンッ!!
そんな静寂は、一瞬で打ち破られた。
……。
僕は溜息を一つ。
腕捲りをして、風呂場へと向かった。
「いったぁい!? ちょっ、きゃあ! 助けて、床が……」
風呂場から響いたのは、およそ世界最強の魔剣士とは思えない情けない悲鳴。
扉を開けると、そこには ――惨状が広がっていた。
石鹸を泡立てすぎたのか、床一面がモコモコの泡が入道雲のように広がっている。
その泡の中で、丈の短いメイド服を着たエル姉が、ボフッと音を立てて顔を出す。
足元を見る。
ブラシに風魔法を付与していたせいか、風呂のタイルがとんでもない摩擦で剥がれ落ちていた。
「エル姉……何、遊んでいるの? お風呂場を破壊するつもり?」
「だって、隅っこの汚れがどうしても落ちなくて! ユリに……いえ、ご主人様に綺麗なお風呂を提供しようと思ったら……きゃあっ!」
再び滑りそうになった彼女の腰を、僕は咄嗟に抱きとめる。
「……なんでも超人なエル姉が、家事に関してはポンコツなんて」
「ううっ……面目ないです、ご主人様。……でも、ユリに抱きしめられるなら、アリよりのアリね!」
泡の中で頬を染める姉。
無理やり立たせて、僕は咳払い。
「お仕置きはまだ続いてるんだからね。とりあえず、後の片付けは僕がやるから。エル姉は……あ、いや、エルミリアは、夕食の準備を手伝うこと」
「はい! かしこまりました、ご主人様っ!」
返事だけは立派なメイド。
気を取り直して、風呂場をちゃっちゃと綺麗にする。普通に掃除すれば、そんなに時間はかからない。
拘束の黒い手を複数出し、ブラシを持たせた。僕は汲んできた水をひたすらかける。
エル姉が壊したタイルは、風呂場の端っこだから、まぁ、いいか。
念のため、破片を集めて、残った鋭利な部分は綺麗に削り整える。
終了。
台所に立ち、市場で手に入れた一本鶏のモモ肉を取り出す。
部屋で休んでいたカトリーヌが、慌てて「私がやりますわ!」と飛び出してきた。
けれど、彼女には休むように命令。
「今日は僕が作りたいんだ。カトリーヌは、ゆっくりお風呂に浸かってきて」
「そ、そんな、ユリエル様に料理をさせるなんて……ああ、でもユリエル様のエプロン姿……可愛いですわ……」
尊いですわっ!と言う、彼女を風呂場へ追いやり、調理開始。
メニューは『一本鶏のコンフィ』。
庭に生えていたローズマリーとタイムを摘み取り、たっぷりのオイルと共に、低温でじっくり。
夜営では決して作れない、手間と時間を贅沢に使った一皿。
パチパチと油が跳ねる音。
ハーブの芳醇な香りが満ちる。
「楽しいな……」
独り言が漏れた。
色々と思い返すと、僕は料理が好きだ。
……ちょっと違うな。
好きな人に料理を作るのが好きなんだ。
食べて笑顔になる、エル姉の顔がたまらなく好きなんだ。
生まれ変わったら、料理人になりたい。
そんなことを考えながら、調理を楽しんだ。
「ご主人様、サラダとパンの準備、できました!」
振り返ると、エル姉が不器用ながらも千切ったレタスを運んでいた。
形はバラバラ。
でも、一生懸命に洗ったのだろう。水滴がキラキラと光っている。
「よくやった。じゃあ、それを食卓へ。食事中は『メイド』じゃなくていいから。僕の隣に座って」
「えっ、でもお仕置きが……」
「僕の命令だよ。エル姉と一緒に食べたいんだ」
「……はいっ!」
フライパンで皮目をパリッと焼き上げたコンフィ。
ナイフを入れれば、ホロホロと肉が解け、溢れんばかりの肉汁が滴る。
「「……美味しい!!」」
エル姉と、カトリーヌの声が重なる。
「ユリエル様、この火入れ……完璧ですわ! 帝国の宮廷料理人でもここまでの味は出せません!」
「ユリ、お嫁に行けるわね……。あ、ダメよ、ユリのお嫁さんはお姉ちゃんって決まってるんだから」
「何言ってるのさ。……ほら、フルーツも切ったから食べて」
瑞々しいマンゴーとパッションフルーツ。
口の中が爽やかに中和される。
復讐。
そんな物騒な言葉を忘れ、僕たちはただの少年と少女に戻って、久々の団欒を楽しんだ。
夕食後。
僕は少しだけ意地悪な気持ちを込めて告げた。
「さて、エル姉。お仕置きの時間はまだ終わってないよ。……お風呂で、僕の背中を流して」
「なっ……!?」
カトリーヌがガタッと椅子を鳴らす。
僕は指を立てて制止。
一方のエル姉は、顔を真っ赤にしながらも、どこか期待に満ちた目でモジモジしている。
「よ、喜んで……お仕えしますわ。……ご主人様」
湯気に包まれた大理石の浴室。
背中に感じる、柔らかい手の感触。
王族として、従者に体を洗われるのは日常だった。
けれど、実体化した姉の手で洗われるのは、それとは全く違う「熱」を帯びている。
「ユリ、大きくなったわね……。あの頃はもっと、ちっちゃかったのに」
「……当たり前だよ。十年も経ったんだ。……くすぐったいよ、エル姉」
「ふふ、ごめんなさい」
石鹸の香りと、姉の吐息。
羞恥心と心地よさが混ざり合い、心臓の音がうるさい。
「……もういいよ。ここでおしまい。罰はおしまいだ」
「えー、もっと洗ってあげたいのに。……じゃあ、次は『ご褒美』の時間ね」
「え?」
振り返る間もなく、彼女はメイド服を脱ぎ捨て、そのまま湯船に飛び込んできた。
「ちょ、エル姉!? 何してるのさ!」
「いいじゃない、減るもんじゃないし! ほら、ユリ、肩まで浸かりなさい?」
目のやり場に困るどころの話じゃない。
死霊術で構成された体とはいえ、その質感は生身と変わらない。
僕は真っ赤になって顔を背けた。
姉は楽しそうに抱きつき、湯船の中で笑い声を上げた。
風呂から上がり、市場で買った果実でカクテルを作る。
「今日は特別。三人で乾杯しよう」
エル姉は甘党なので果実を多めに。
カトリーヌには少しビターに。
「美味しい! これ、ジュースみたいですわ!」
「本当ね、いくらでも飲めちゃうわ」
二人はグビグビと杯を重ねる。
……が、ベースに使ったのは南方の強い蒸留酒だ。アルコール度数はかなり高い。
「あ、あまり飛ばしすぎると――」
時、既に遅し。
数十分後、リビングはカオスと化していた。
「ユリぃ……。なんでそんなに可愛いのぉ……。もうお姉ちゃん、食べちゃいたい……」
エル姉、完全に目が座っている。
普段以上の距離感バグを発動させて、僕の首筋に顔を埋めてくる。
「……ユリエル様ぁ。私も、私もお仕置きされたかったですわぁ……。さあ、今すぐ私を、その冷たい瞳で蔑んでくださいまし!」
カトリーヌ。
普段の淑女(?)の仮面をかなぐり捨て、僕の足にしがみついてくる。
「ちょっと、二人とも! 離れて!」
「嫌よぉ! ユリは私のものよ!」
「いいえ、私の方が忠誠心は高いですわ! この胸の鼓動を聞いてください!」
男としては至福の状況……なのかもしれない。
けれど僕には、猛獣二頭に挟まれているような心地だった。
「……もう、勝手にして」
二人をズルズルと引きずりながら、なんとか寝室の巨大なベッドへ。
左右に二人を転がし、自分もその真ん中に倒れ込む。
お酒の力か、あるいは久々の安心感からか。
僕の意識は、深い、深い眠りの淵へと沈んでいった。
けれど、今夜だけは。
この少しだけ騒がしくて、壊れそうなほど優しい夢の中に、浸っていたかった。
暗闇の中、伝わってくる二つの温かい鼓動。
僕は静かに微笑み、目を閉じた。




