第24話 クラーケン
深い霧が立ち込めた海域を、音もなく波を切り幽霊船は進む。
風はない。
なのに、帆は、風をたっぷり受けたみたいにパンパンに膨らんでいる。
「……ユリ、来るわよ」
右目の奥。脳内に直接、エル姉の警戒が伝わる。
さっきまで幽霊を怖がって僕の背中にしがみついていた、あの情けない声じゃない。
いつもの頼れる、世界最強の魔剣士としての直感。
「カトリーヌ、索敵して。魔物の気配だ」
「承知いたしましたわ、ユリエル様」
カトリーヌが杖を掲げる。
探知魔法を展開する彼女の表情も、いつになく真剣そのもの。
彼女にとっても、このクラーケンは格上だ。
ハイドラクイーンと同等のモンスター。いや、むしろ海上で戦うことを考慮するとクラーケンの方が脅威度は跳ね上がる。
「……巨大な魔力反応! 船の下から急速に浮上してきますわ!」
「ユリ! ちゃんと掴まってて!!」
咄嗟に近くにあるロープを握る。
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃。
船体が、折れるかと思うほど大きく傾き、ミシミシと軋む。
海面から突き出したのは、ぶっとい触手。
吸盤がびっしり並んだそれが、幽霊船の横腹を粉砕せんと振り下ろされる。
(絶対に、守らないと……ッ!)
僕は左腕のバックラーを突き出す。
もし、一撃でも船に当たれば粉々になり、航行不能になる。
「絶対防御」
キィィィィィン!
鼓膜を刺すような高音が響く。
僕の全面に展開された幾何学的な光の障壁。
それが、クラーケンの触手を真っ向から受け止めた。
物理法則を無視した不動の盾。
衝撃波が海面を割り、周囲に波しぶきが派手に舞い上がる。
(っ……凄い威力だな、間に合って良かった)
障壁越しに伝わる圧力。
並の人間なら、一瞬でミンチになっているレベルだ。
霧の向こうから、山のような巨体が姿を現した。
ポートリラの物流を止めていた元凶。
この海域の主、クラーケン。
爬虫類の様な巨大な瞳。
縄張りを侵した苛立ちか、僕たちをじっと凝視している。
「ユリエル様、お下がりを! 焼き尽くして差し上げますわ! 紅蓮の炎!!」
カトリーヌが放った極大の火球。
ドオォォォンッ!!
クラーケンの眉間に直撃。
だが、立ち込める蒸気の向こうで、化け物はケロリとしていた。
水属性の魔物に火魔法。相性が悪すぎる。
表面をちょっと焦がした程度で、致命傷には程遠い。
「ユリ、私が行くわ! あのイカは、切り身にしてやるんだから!」
エル姉が実体化。魔剣を抜こうとする。
でも、僕はそれを止めた。
「待って、エル姉。相手は海の中だ。甲板からじゃ、触手を切るのが精一杯だよ。本体を叩かないと」
クラーケンは再び触手を振り上げた。
今度は四方八方から、一斉に叩きつけるつもりらしい。
拘束で足場を作る……と言いたいところだけど、エル姉は直感で動くタイプだ。僕がリアルタイムで足場を組んでも、エル姉の速度には追いつけない。
エル姉は速すぎる。
僕の魔法が、足に間に合わなければ、エル姉は海へドボンだ。
「……方針変更。エル姉、一旦戻って」
「えっ? でもユリ、危ないわよ!」
「エル姉、信じて」
「複合技――『部分召喚』」
スキルの応用。
右腕に、エル姉の右手と魔剣を展開させる。
左手に「絶対防御の盾」。
右手に「最強の魔剣」。
「カトリーヌ、合図したら閃光魔法。奴の目を潰せ!」
「はい! いつでも行けますわ!」
僕は甲板を蹴った。
海面に向けて、魔力を放つ。
「束縛」
漆黒の手を足場として海面に配置する。
クラーケンの触手が迫るけど、左手のシールドでその軌道を逸らし、さらに加速。
「今だ、カトリーヌ!!」
「輝け! 閃光弾!!」
カトリーヌの手のひらから、光の玉が上空へ射出。
花火のように弾けて、夜の海を、強烈な白い光が支配する。
クラーケンの巨大な瞳が、一瞬だけ光に焼かれ、巨体が、怯んだ。
「……これで、終わりだ」
想像するエル姉の動きを脳内でトレースし、演じる。
右腕が勝手に動く。
「――閃光乱舞」
霧を、闇を、切り裂く連続攻撃。
クラーケンの眼球を切り裂いた。
シュパァァァァァンッ!!
斬撃の余波だけで海面が割れ、道ができる。
部分召喚なのに相変わらず凄い威力。
グオォオォォッ!!
クラーケンの咆哮が響き渡り、鮮血が海を赤く染めた。
クラーケンは賢かった。
目の前の餌は、自分を逆に喰らう捕食者だ、と。
残った触手を振り回しながら、一目散に深海へと逃げていった。
撃退。
海には静寂が訪れる。
霧が晴れ始め、月光が海面を照らし出す。
僕が甲板に戻ると、そこには切り落とされた触手の一部が、ビチビチと跳ねて転がっていた。
「……ふぅ。なんとか、追い払えたな」
部分召喚を解くと、エル姉が実体化して抱きついてきた。
「ユリ! 凄いわ、今の! 私の技をあんなに完璧に使いこなすなんて……天才っ!!」
「……いや、近くで何度も見てるから、ある程度は再現できるよ」
「お姉ちゃんをそんなに見ててくれるなんてっ!!」
あー、これ何言ってもダメなやつだなーと思っていると。
「はい! それよりユリエル様、見てくださいまし! このクラーケンの触手、最高級の食材ですわよ!」
目を輝かせてクラーケンを捌いている。
流石は僕らの狩猟係。食への執着が凄まじい。
甲板。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
カトリーヌが魔法で火を起こし、巨大なクラーケンの足を、豪快に炙っている。
「ユリエル様、焼けましたわ! 特製の甘辛いタレと一緒にご賞味下さいませ!」
差し出された串焼き。一口。
……絶品。
弾力があるのに、噛めば噛むほど旨味が溢れてくる。
タレとの相性が良すぎる。
「おいしい……。エル姉も食べる?」
「もちろんよ! ……あら、本当に美味しいわねこれ。昇天しちゃいそうな味だわ」
死人ジョーク。
エル姉はクスクスと笑いながら、僕の隣で幸せそうに口を動かしている。
喧騒を背に、僕は船首に立って前を見据えた。
霧の晴れた先。
地平線の向こうに、天を衝く巨大な山影が見えてきた。
「……あれが、霊山か」
そこには、求める力が眠っている。
ドラゴンゾンビ。
やつの火力を手に入れれば、帝国を滅ぼすカードは揃う。
カードが揃えば終幕は近い。
表情が少し強張る。
「……ねぇ、ユリ」
エル姉が、いつもとは違う、真面目なトーンで話しかけてきた。
「このまま二人で、どこか静かな場所を探して暮らすのもアリなのよ」
「私はユリのやりたいことを支えるだけだから……」
正直、その提案はめちゃくちゃ魅力的だ。
スローライフ。いい響き。
復讐なんて物騒なことを忘れて、エル姉の膝枕で一生を終える。
「……エル姉、ありがとう」
「僕だって、復讐だけが幸せのゴールだなんて思ってないよ」
「……ただ、怖いんだ」
「怖い?」
「そう、怖い。この怒りが消えちゃうことが」
「……僕だけ生き残って、王子の役目を捨てちゃうこと」
エルミリアは知っていた。
ユリエルの魔力を通じて繋がることで、莫大な生命エネルギーが消費されていることを。
ネクロマンサーは、自身の生命力を糧に、死者に生を与える。
いくら魔力総量が高いユリエルでも、あまりに強い力には代償が伴う。
「……でもね、エル姉。僕は今、最高に幸せだよ」
「こうやって、エル姉が隣にいてくれるから」
「ずっと一緒にいてね、離さないで……」
甘えすぎだろうか。
でも、これが本音。
すると、答えは言葉じゃなくて感触で返ってきた。
後ろからギュッ、と。
エル姉特有の、柔らかくて温かい抱擁。
……うん。
やっぱり、僕は幸せ者だ。




