第19話 温泉
アメル村から北へ歩いて一週間。
僕たちは帝国の追撃をひらりひらりと、かわしつつ、北の港町ポートリラを目指して広大な草原を歩いていた。
連日の強行軍。
足取りは鉛のように重い。
正直、限界。
「ユリ、顔色が悪いわよ。お姉ちゃんが、おんぶしてあげようか?」
エル姉が過保護全開で覗き込んでくる。
死後、僕の魔力で受肉した彼女は、疲れを知らない無限の体力。
……いや、死ぬ前から体力は無限だったけ。
「姉さん、流石に成人でおんぶとか、外聞が悪すぎるよ」
そんな僕らの後ろで、もう一人。
元帝国エリート魔導師。
今は忠実すぎる猟犬と化したカトリーヌが、口を開いた。
「ユリエル様。この先、私の実家が管理していた隠れ温泉がございます。街には近寄れませんが、あそこなら帝国の目も届きません。一度、身を清め、魔力を回復させるべきかと」
「温泉……?」
エル姉の目が、キラリと輝いた。
「あら、いいじゃない。生前は王宮の石造りのお風呂ばかりだったもの。天然の温泉なんて、風情があって素敵だわ。ねえユリ、入りましょう? ね?」
「……まあ、ポートリラまではまだあるし。一度、腰を据えて休むのも戦略のうちか」
僕が頷くと、カトリーヌは「御意に」と深々と頭を下げた。
だが、見逃さなかった。
彼女の口角が、かなり怪しく吊り上がっていたのを。
……嫌な予感。
到着した場所は、切り立った岩壁の裏側。
まさに隠れ家的な秘湯。
澄んだ湯が溢れ、遠くには黄金色に染まる草原。
絶景。
本来なら最高のご褒美だ。
「さあ、ユリエル様、お姉様。準備は整っておりますわ。お二人で、ゆーーーっくりと、心ゆくまで家族の絆を深めていらしてください」
カトリーヌが手際よく脱衣所(という名の岩陰)を整え、僕を湯船へと押し出す。
「待って。カトリーヌ、僕は一人で入りたいんだけど」
「何を仰いますか。是非、家族水入らずでお楽しみを。さあ、どうぞ!」
「話を聞け――うわっ!」
背中を押され、半ば強制的に湯船へと放り込まれた。
着水。
「ふふふ、ユリ。観念なさい」
湯煙の向こう。
既に湯に浸かっていたエル姉が手招きをしていた。
……目のやり場に困る。
死霊術で蘇ったとはいえ、エル姉は全盛期の美しさをキープしている。
いや、魔力が循環している分、生前よりも肌に艶がある。
恐ろしいほどの色気。
「……姉さん、その、体調はどう?」
僕は視線を泳がせながら、湯の端っこに縮こまる。
エル姉は、ふぅーっと長いため息をつき、肩まで湯に浸かった。
「そうね……。『生き返るわー』」
「……」
「あら、今のギャグ、ウケなかった? 私、死んでるのに生き返るなんて、高度なジョークだと思ったのだけど」
「……あはは、高度すぎて僕には理解できなかったよ」
苦笑い。
でも、温かい湯に身を委ねると、固まっていた筋肉が解けていくのがわかる。
帝都から出て以来、僕の心はずっと張り詰めたままだった。
アメル村での一件。
村人たちをアンデッドとして使い、砦を蹂躙したあの夜。
復讐の快感。
それ以上に深い、喪失感。
「あんまり一人で背負い込まないで」
不意に、エル姉の柔らかい手が僕の肩に置かれた。
「ユリは、思ってる以上に繊細だから。こんな時くらいは何も考えないで温泉を楽しみなさい」
「……そうだね。ありがとう、姉さん」
湯煙の中、僕たちは言葉を失い、ただ夕日を眺めていた。
その頃、湯船の外。
カトリーヌは超人的な手際で夜営の準備を進めていた。
「ふふ、ふふふふ……。ユリエル様の脱ぎたての服……。いえ、いけませんわカトリーヌ。今は献身的な従者として振る舞う時……!」
自分を律するように頬をパチンと叩き、彼女は茂みへと飛び込んだ。
狙うは希少な野鳥、フォールバード。
普通の猟師なら数日かかる獲物。
だが、彼女は元帝国一級魔導師。
「見つけましたわ。焼き鳥になりなさい」
指先から放たれた超精密射撃の魔法、火の針。
鳥を傷つけることなく一撃で仕留める。
そのまま獲物を捌き、自慢の火魔法でじっくりと火入れ。
弱火でじっくり、脂が滴る絶妙な火加減。
火炎魔法は、弱火が一番難しい。
エリート教育で叩き込まれた魔法制御を、今彼女は夕食の調理に全振りしている。
才能の無駄遣いすぎる。
やがて、湯から上がってきた僕らのもとへ、カトリーヌがタオルを捧げ持って駆け寄ってきた。
「お上がりですか。さあ、お拭きいたしますわ」
「カトリーヌ、自分でするよ」
「滅相もない! 私は従僕です。私が貴族であった頃は当然の様に従者に体を拭かせてましたわ! ユリエル様とお姉様をお世話することこそ、私の至福。さあ、じっとしていてくださいまし!」
彼女は跪き、まず僕の足を、次に腕を、丁寧に拭き上げていく。
かつては帝国のエリートとして、平民を虫けらのように見下していた彼女。
しかし今、彼女はその逆転した立場に、言いようのない昂揚感を覚えていた。
完全にそっちの目。
(ああ……。気高きユリエル様が、私の奉仕を受け入れている……。この美しい肌を拭けるのは、世界で私だけ……! )
「カトリーヌ、顔が怖いんだけど……」
「……あら、失礼しました。あまりに甲斐甲斐しく働ける喜びで、つい……」
恍惚とした表情。
そのままエル姉の髪も乾かしていく。
姉さんは「気が利くじゃない」と満足げだが、その瞳の奥には「私のユリにあまりベタベタ触るな」という無言の圧がこもっていた。
夕食は、カトリーヌが仕留めたフォールバードの香草焼き。
口に運ぶと、芳醇な肉汁。
一週間の疲れが溶けていく。
「美味しいよ、カトリーヌ」
「……! もったいないお言葉ですわっ!」
感激のあまり、カトリーヌの魔力が焚き火に干渉し、火柱ができる。
危ない。
食後、地図を広げて今後の予定を確認。
「明日、明後日にはポートリラに着くはずだ。バルガスはあそこの領主としている。物資も底をついてきたし、何よりあいつの首を獲らないと」
「ドラゴンゾンビの噂も気になりますわね。聞いた話では、ポートリラから船で北へ行った大陸の霊山に眠るという伝説……。もし手に入れば、ユリエル様の力は帝国軍にも匹敵しますわ」
カトリーヌの進言に、僕は深く頷いた。
今の僕に必要なのは、圧倒的な「火力」だ。
エル姉という最強の個体はいるが、国を飲み込むには、まだ駒が足りない。
「ユリ、寝るわよ。夜更かしはお肌の天敵なんだから」
エル姉が僕の腕を掴み、強引に寝床へと引きずり込む。
「ちょ、姉さん、カトリーヌもいるんだから……」
「あら、カトリーヌも来なさい? せっかく温泉で温まった体が冷えるじゃない」
僕を挟むように川の字になる。
温泉で癒えた肉体は、驚くほど軽い。
夜の草原に、静かな寝息と、焚き火のパチパチと弾ける音だけが響いていた。




