第9章『シルヴァ・ポートの猫祭り』その2
猫の形の焼き菓子「ネコノミミ・サブレ」を紙袋に詰めてもらったシャルロッテたちは、水路に沿った石畳の小道を進んでいった。
香ばしいバターと柑橘の香りがふわりと鼻をくすぐる。焼き立ての熱を帯びた紙袋を大事そうに抱えるエミーナの横顔は、先ほどまでの泣き顔が嘘のように輝いていた。
「シャルロッテ様、このサブレ、焼き立てでとっても温かいです! なんだか食べるのが勿体ないくらい可愛らしくて……ああっ、でも冷めたらサクサク感が損なわれてしまうかも……どうしましょう、私、葛藤で胸が押し潰されそうですぅ!」
「エミーナ、買って数分でそこまで悩めるのはある意味才能だわ。熱いうちにひと口いただきましょう。ギャレットの分は、ちゃんと袋に残してあるのだから」
シャルロッテがクスリと微笑み、サブレをひとつ口に運ぶ。口内でほろりと崩れる生地からは、ほんのりとレモンの爽やかな風味が広がり、クリスタリア湖から吹き抜ける初夏の風によく合っていた。
「まあ……! サクサクして、とっても美味しい」
「本当ですか!? では、私も……んん〜っ! 甘くて美味しくて、ほっぺたが落ちてしまいそうです〜っ!」
エミーナが頬を押さえてうっとりと瞳を潤わせる。その隣で、ロゼッタが黒髪を優雅に揺らしながら、じっと自分のサブレを見つめていた。
「ロゼッタ? 食べないの?」
シャルロッテが尋ねると、ロゼッタは怪しげな光を宿した瞳をこちらに向け、はあと熱い吐息をついた。
「シャルロッテ様……この可愛らしい猫の耳を、私のこの愚かな歯で噛みちぎるなどという野蛮な行為……! あるいは、シャルロッテ様が私の耳を直接お噛み千切りになってくださるというのなら、喜んでこの身を捧げますのに……っ」
「……ロゼッタ。せっかくの美味しいお菓子なのだから、変な妄想を挟まずに普通に食べなさい。それと、私の前で変な期待を込めた目で見つめるのをやめなさい」
「ひゃんっ! 冷ややかな眼差しと手厳しいお言葉……! ご褒美をありがとうございます、シャルロッテ様!」
恍惚の表情でサブレを大切そうに噛みしめるロゼッタを見て、エミーナは「もう、ロゼッタちゃんたら、街中で恥ずかしいよぉ……」と顔を赤らめてため息をついた。
賑やかな喧騒が続く大通りを抜け、三人は先ほどギャレットを見かけた大きな木のある広場の隅へと戻ってきた。
木陰では、相変わらず無表情なギャレットが、地べたに直座りして猫たちに囲まれていた。先ほどよりも猫の数が増えている気がする。茶トラにサビ猫、長毛の白い猫まで、まるでギャレットを中心とした小さな「猫の王国」が形成されているかのようだった。
「ギャレット」
シャルロッテが声をかけると、ギャレットはビクッと肩を跳ね上げ、素早く猫を膝から降ろした。一瞬でいつもの無愛想な「御者」の顔に戻り、膝の上の毛を払う。
「……お嬢様。お戻りで。……怪我や不審者はございませんでしたか」
「ええ、とても楽しかったわ。ほら、ギャレットの分のお土産よ」
シャルロッテの合図で、エミーナが少し誇らしげに紙袋をギャレットへ差し出した。
「猫祭りの名物、ネコノミミ・サブレです! ギャレットさんの分も、シャルロッテ様が買ってくださったんですよ」
ギャレットは大きな手で小さな紙袋を受け取ると、少しだけ困惑したように眉を寄せ、それから深く頭を下げた。
「……お気遣い、感謝いたします、シャルロッテ様。馬の分……いや、俺の分まで」
「馬の分と言いかけたでしょ、今」
シャルロッテが突っ込むと、ギャレットはバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。その足元では、先ほどまで彼になついていた黒猫が「ニャー」と短く鳴き、ギャレットのブーツに頭を擦り付けている。
「ふふ、ギャレットは本当に動物に好かれるのね。お屋敷の鶏や豚たちも、ギャレットの言うことなら素直に聞く理由が分かったわ」
「……奴らは素直なだけです。人間のように嘘をつきませんから」
ボソリと呟くギャレット。寡黙だが、根の優しさがその一言に滲み出ていた。
◇
陽が傾き始め、クリスタリア湖の鏡面がオレンジ色から深い紫色のグラデーションへと移り変わっていく。白銀港の街灯りに火が灯り始めると、昼間の陽気な雰囲気から一転して、湖畔の都市は幻想的なロマンチックさに包まれた。
「そろそろ、お城へ帰りましょうか」
「はい、シャルロッテ様。……楽しかった時間は、どうしてこんなに早く過ぎてしまうのでしょう……ううっ、お城に帰ったら、今日の楽しい思い出が終わってしまうと思うと、涙が……!」
「エミーナ、泣くには早すぎるわ。また来年来ればいいでしょう?」
シャルロッテは優しくエミーナの肩を叩き、馬車へと乗り込んだ。ロゼッタもまた、どこか名残惜しそうに白銀港の灯りを振り返りながら、シャルロッテの後に続く。
「シャルロッテ様。本日は素晴らしい一日でございました。……できれば帰りの馬車の中で、シャルロッテ様の足を枕にさせていただくという過酷な罰を頂戴できれば……」
「却下よ、ロゼッタ。おとなしく座っていなさい」
「はぁん、即答の拒絶……痺れます……!」
馬車がゆったりと走り出す。御者台から響く鞭の音と、馬の蹄が石畳を叩く規則的なリズム。窓の外には、暮れなずむクリスタリア湖と、その中央に誇らしげに佇むフロストヴァイス城のシルエットが見えていた。
セレスティア伯爵家の令嬢として過ごす日々は、時に厳しく、時に窮屈に感じることもある。けれど、泣き虫で心優しいエミーナ、変態的だが忠義に厚いロゼッタ、そして寡黙だが頼りになるギャレット。愛すべき者たちに囲まれたこの領地での暮らしが、シャルロッテはたまらなく愛おしかった。
「また来年も、みんなで来ましょうね」
小声で呟いたシャルロッテの言葉に、侍女の二人は顔を見合わせ、心からの笑顔でうなずいた。
白銀港の「猫祭り」の夜は、水銀魚が跳ねる静かな湖面の音とともに、ゆるやかに更けていくのだった。




