第8章『シルヴァ・ポートの猫祭り』その1
クリスタリア湖の鏡面のような水面は、太陽の光を浴びて白銀色に輝いていた。その中央にそびえ立つフロストヴァイス城は、まるで氷細工のように美しく、セレスティア伯爵家の悠久の歴史を無言のまま物語っている。
5月の第2週。厳しい冬が終わり、湖面を渡る風に爽やかな初夏の香りが混じり始めるこの季節、湖畔最大の交易都市「白銀港」は、一年で最も熱気と歓喜に包まれる。
「シャルロッテ様、お気をつけくださいませ! ああっ、馬車からお降りになる際のそのお足元、もし滑って転ばれでもしたら……私、申し訳なさで湖に身を投げてしまいますぅ!」
大きな瞳に涙を溜め、過保護に手を差し伸べてきたのは侍女のエミーナだった。華奢な体にフリルたっぷりの侍女服を纏った彼女は、相変わらずの泣き虫ぶりを発揮している。
「大丈夫よ、エミーナ。私は子供ではないわ。それに、今日という日をどれほど楽しみにしていたか……」
フロストヴァイス家の令嬢であり、伯爵の孫であるシャルロッテは、エミーナの手を優しく借りながら馬車のステップを踏み降りた。彼女の可憐な仕草に、周囲の空気が華やぐ。
「ええ、シャルロッテ様。エミーナの過剰な心配は無視して、どうか私をお踏み台になさってください。シャルロッテ様の靴の裏で踏みつけられる栄誉をいただければ、私は一生の幸福でございます……っ」
そう言って、うっとりとした表情でその場にひざまずこうとしたのは、もう一人の侍女、ロゼッタだ。艶やかな黒髪を揺らす彼女は、誰もが見惚れるほどの美少女でありながら、重度の変態的な嗜好を持っていた。
「ロゼッタ、立ちなさい。街中で変なことを言わないの」
シャルロッテが軽く呆れ顔で注意すると、ロゼッタは「はぅ、冷たいお言葉……素敵です……!」と頬を赤らめて身悶えした。
「おい、お嬢様方。俺はここで馬を休ませながら待ってる。長居するなら馬車を裏手に回すが……」
そう声をかけてきたのは、馬車の御者台から降りてきたギャレットだった。いつも通りの無愛想な顔で、しかし手際よく馬の手綱をほどいている。普段から馬車の御者だけでなく、領内の鶏小屋や豚、牛の世話までこなす無骨な男だ。人前では滅多に喋らない寡黙な男だが、ふと見ると、彼は馬の鼻面を撫でながら「……よしよし、今日は風が良いな。後で美味い干し草をやろう」とボソボソと動物相手に話しかけていた。
「ギャレット、ありがとう。お昼過ぎには戻るわね。……さあ、行きましょう!」
シャルロッテが胸を躍らせて一歩踏み出した先には、普段の交易都市とは一変した、幻想的な街並みが広がっていた。
年に一度の「猫祭り」。 古来より続くこの伝統行事は、白銀港の命の糧である「水銀魚」や鉱石の交易を守る猫たちに感謝を捧げる日だ。特殊な魔力が通う氷の張らない水路には、色鮮やかな小舟が行き交い、街の至るところに猫のモチーフをあしらったフラッグや花飾りが吊るされている。屋根の上、露店の庇、水路の縁——あちこちに本物の猫たちが思い思いの姿でくつろぎ、人間たちは猫の耳や尻尾の仮装をして楽しそうに歩いていた。
「すごいわ……! 街中が猫でいっぱいね!」
「シャルロッテ様、見てください! あの露店、猫の形をした焼き菓子が売っていますよ! 可愛い……でも、食べたら可哀想でしょうか……えーん!」
「エミーナ、泣くのが早すぎるわ。……シャルロッテ様、あちらの小路は少し暗くて治安が心配です。ぜひ私を先頭に歩かせてください。万が一、不審者に襲われたとしても、私がシャルロッテ様の身代わりとなって打擲される快感を——」
「ロゼッタ、静かに歩きなさい」
シャルロッテは二人の賑やかな侍女を連れ、賑わう大通りを進んだ。
街のあちこちからは、水銀魚の油で揚げた香ばしい魚フライや、甘い果実のシロップの匂いが漂ってくる。水路からは、パレードの準備をする装飾船の陽気な笛や太鼓の音が聞こえていた。白銀港の猫たちは人間を恐れず、シャルロッテの足元に近づいては「ニャ〜」と甘い声を上げてすり寄ってくる。
「ふふ、可愛いわね。はい、ご機嫌よう」
シャルロッテがしゃがみ込み、一匹の毛並みの良い三毛猫の喉元を撫でると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。
「まあ! 猫までもがシャルロッテ様の気品にひれ伏しておりますわ! 私も、私もその手で撫で回していただきたい……っ!」
「ロゼッタ、道端で声を上げないで。恥ずかしいでしょう」
「ひゃんっ! お叱りの言葉、ありがとうございます!」
エミーナは「ロゼッタちゃん、もうやめなよぉ……シャルロッテ様が困ってるじゃない……」とロゼッタの袖を引っ張りながらハラハラしている。
そんな三人娘の微笑ましいやり取りに、周囲の町人たちも温かな視線を向けていた。彼女たちがフロストヴァイス家の令嬢たちだとは気づいていない者も多いが、その一際目を引く美貌と気品は、祭りの華やかさをさらに引き立てていた。
やがて、遠くから高らかなファンファーレの音が響き渡った。
「パレードが始まるみたいだわ! 水路の方へ行きましょう!」
シャルロッテが声を弾ませると、三人は水路沿いの大きな広場へと向かった。すでに多くの人々が集まり、色とりどりの衣装を着た人々が猫の踊りを踊りながら練り歩いている。水路には、巨大な猫の形をした装飾舟が浮かび、船上では仮面をつけた奏者たちが陽気な音楽を奏でていた。
「うわあ……綺麗……! シャルロッテ様、すごいです!」
エミーナが目を輝かせ、感激のあまり再び涙を浮かべる。
「ええ、本当に素晴らしいわ。来て良かった」
シャルロッテは風に髪をなびかせながら、満面の笑みを浮かべた。初夏の心地よい光と、湖から吹き抜ける風、そして人々の歓声。白銀港の活気と、セレスティア伯爵領の平和を肌で感じ、彼女の心は温かな幸福感で満たされていた。
パレードが最高潮を迎えた頃、少し離れた広場の隅で、ひとつの小さな影がシャルロッテの視界に入った。
それは、馬車を停めた広場で留守番をしているはずのギャレットの姿だった。 彼は人混みを避け、大きな木の下でしゃがみ込んでいる。その周りには、いつの間にか十数匹もの街の猫たちが集まっていた。
「……お前は左耳が欠けてるな。ケンカでもしたか。……ほら、水銀魚の干物だ。喧嘩はほどほどにしとけよ」
「……そっちの黒いのは、太り過ぎだ。豚小屋のヤツらと同じくらい食い意地が張ってるな」
無表情のまま、ボソボソと猫たち一匹一匹に語りかけ、懐から取り出したおやつを分けてやるギャレット。猫たちは彼にすっかり懐いており、頭を脚に擦り付けたり、膝の上に乗り上げたりしていた。
「……ギャレットったら。人間にはあんなに寡黙なのに、猫にはあんなに口数が多いのね」
シャルロッテがクスリと笑うと、エミーナとロゼッタもその光景に気づいた。
「まあ、ギャレットさんたら! 猫たちの楽園で、自分が一番楽しんでいるじゃないですか!」
「……ふん、動物に優しくするのも結構ですが、私としてはあの無骨な手で手酷く扱われるのも悪くないかと……」
「ロゼッタ、最後まで台無しにしないで頂戴」
シャルロッテは呆れつつも、愛すべき侍女たちと、不器用で優しい使用人に囲まれた自分の日常を、愛おしく思った。
「さあ、二人とも。パレードが終わったら、あそこの屋台で猫の形をした焼き菓子を買いましょう。ギャレットの分もね」
「はいっ、シャルロッテ様!」
白銀港の「猫祭り」は、まだまだ終わらない。クリスタリア湖の豊かな水面が光を反射し、少女たちの笑顔と街の歓声、そして猫たちの鳴き声を、優しく包み込んでいた。




