第73章『沈みゆくフロスト ヴァイス城』その5
雨の音が強まる中、シャルロッテはまっすぐにギルバートの瞳を見つめた。
「分かりました、ギルバート様。その手綱、喜んでお渡ししましょう。ただし――私は単なる駒として動くつもりはありません。我がセレスティア家の復権と家族の安全だけは、絶対に譲りません」
「交渉成立だ」
ギルバートは短く答えると、懐から革袋を取り出し、机の上に置いた。ずしりと重い音が響く。
「ライナー伯爵が裏で手配している密輸ルートの目録と、当面の資金だ。奴は王都の商組合を裏で操り、不正な財を蓄えている。お前のその『からくり』と『手芸』の評判を利用して、奴の息がかかった商組合の市場を内側から切り崩せ」
「商人の戦場なら、私に分がありますわ」 シャルロッテの唇に、不敵で優美な笑みが浮かぶ。貴族の矜持と商人の知恵を宿したその表情に、ギルバートは一瞬目を見張った。
◇
翌日から、王都の商業界に激震が走った。
シャルロッテはギルバートから得た情報を元に、ライナー伯爵の息がかかった悪徳商人が独占していた高級絹糸や精密工具の流通ルートに対し、独自のルートを開拓。さらに、エミーナとロゼッタの協力のもと、王都中の貧しい手芸職人や工房を束ね、「セレスティア商会」を立ち上げたのだ。
「シャルロッテ様! ライナー伯爵側の店舗から、うちのからくり時計と刺繍製品の注文を打ち切りたいと圧力がかかりました!」 報告に来たロゼッタが怒りに震える。だが、シャルロッテは穏やかに微笑むだけだった。
「構いませんよ、ロゼッタ。彼らが扱わなければ、王都の大貴族たちや外国の使節団へ直接売り込むだけです。すでに黒鷲騎士団の仲介で、王宮御用達の商人と会う約束を取り付けてありますから」
隣で控えいていたエミーナが、思わず感嘆の声を漏らした。
「お嬢様……まるで何年も前から商人だったかのようですわ」
「お祖父様から学んだのは、歴史や法学だけではないのよ。国を動かすのは『人』と『金』の流れなのだと、幼い私に教えてくださったわ」
◇
その頃、王都の黒鷲騎士団本部。
「総長、セレスティア商会の勢いが止まりません。ライナー伯爵側の不正資金の源泉であった闇市場のシェアが、急激に奪われております。伯爵は焦りを隠せないご様子です」
副官の報告を聞きながら、ギルバートは窓の外、青空に小さく舞う凧を見つめていた。シャルロッテの別邸の方角から上がっているものだ。
「あの娘は、こちらの想像以上のスピードで動いているな」
「総長自らあのような娘と手を組むとは……何か意図がおありなのですか?」
ギルバートは視線を落とし、静かに言った。
「彼女の瞳には、かつて北方で凍えていた私の心にはなかった『光』がある。あの光が絶えない限り、王都の闇は必ず照らされる」
◇
数週間後。シャルロッテのもとに、北方の流刑地から一通の手紙が届いた。 ギルバートの密たる手配によって無事に届けられた、祖父フリードリヒからの直筆の手紙だった。
『我が愛しいシャルロッテへ。 お前の送ってくれた暖かな外套と食料、そしてお前の活躍の噂は、この極寒の地にも届いている。セレスティアの誇りは、お前の胸の中で気高く咲き誇っているようだな。どうか無理をせず、己の信じる道を進みなさい』
手紙を抱きしめ、静かに涙をこぼすシャルロッテ。そこへ、影のようにギルバートが姿を現した。
「泣いている暇はないぞ、シャルロッテ。ライナー伯爵が、いよいよ追い詰められて重大な一手を打ってきた」
「……何が起きましたの?」
涙を拭い、一瞬で鋭い表情を取り戻したシャルロッテに、ギルバートは静かに告げた。
「次の夜会で、国王陛下毒殺の濡れ衣を、再びセレスティア家に着せようとしている。……決戦の時は近い」
運命の夜会に向けて、二人の仕掛けた最大の反撃が、ついに動き出そうとしていた。




