第72章『沈みゆくフロスト ヴァイス城』その4
ギルバートの警告を残して去った背中を見送った翌日から、シャルロッテの本格的な闘いが始まった。
市場の片隅に借りた小さな露店。そこに並べられたのは、シャルロッテが夜を徹して仕上げた繊細な刺繍を施したハンカチと、精密な歯車で動く小さな木彫りの鳥のからくりだった。
「まあ、なんて素晴らしい仕上がり……! この鳥、生きているみたいに羽を動かすのね」
通りかかった裕福な商人の妻が足を止め、歓声をあげる。貴族社会の洗練された美意識と、かつて凧作りで培ったからくりの知識。その融合が生み出した品々は、瞬く間に王都の噂となった。
「シャルロッテ様! 今日の分もすべて完売いたしました!」
ロゼッタが弾んだ声で報告し、エミーナも安堵の笑みを浮かべる。売上金を手にしたシャルロッテは、すぐさまその大半を北方の流刑地への仕送りへと回した。過酷な環境にいる祖父フリードリヒや父に、暖かな冬着と十分な食料を届けるためだ。
しかし、没落したセレスティア家の娘が商売で成功を収めつつあるという噂は、思いがけない波紋を呼ぶことになる。
◇
「……セレスティアの生き残りが、街で浅知恵を働かせているそうだな」
王都の暗部に位置する豪奢な館。そこには、フリードリヒ伯を陥れ、セレスティア家を破滅へと追いやった密謀の主、ライナー伯爵の姿があった。
「あの娘、ただの世間知らずの令嬢かと思えば、一族を束ねて金を稼ぎ、北方の男どもを支えているとか。このまま放っておけば、いつか余計な芽を出すかもしれん。……消せ」
ライナー伯爵の冷酷な命を受け、闇の刺客たちが静かに動き出した。
◇
その夜、郊外の古い別邸を激しい雨が叩きつけていた。
一族の者たちが眠りについた深夜、シャルロッテは一人、暖炉の前で翌日の台帳をつけていた。ふと、雨音に混じって屋根を蹴るかすかな足音が聞こえる。
(誰かいる……!)
シャルロッテが息をのんだ瞬間、窓ガラスが激しく割れ、黒装束の刺客たちが部屋へと雪崩れ込んできた。銀色に光る刃が、シャルロッテの首元へと迫る。
「悲鳴をあげる暇も与えん!」
逃げ場のない狭い部屋。死を覚悟し、固く目を閉じたその時――。
ガギィンッ!
鈍い金属音が室内に響き渡り、刺客の剣が弾き飛んだ。
吹きつける夜風と雨の中、割れた窓枠を踏み越えて現れたのは、漆黒の外套を羽織った男。――ギルバートだった。
「黒鷲騎士団の目を盗んで、王都で勝手な暗殺を行おうとは……身の程を知れ」
ギルバートの漆黒の剣が一閃する。圧倒的な剣技の前に、刺客たちは言葉を発する間もなく次々と倒れ、残った者たちは闇の中へと逃げ出していった。
静寂が戻った部屋で、激しく肩を揺らすシャルロッテのもとへ、ギルバートが静かに歩み寄る。
「……怪我はないか」
「ギルバート様……なぜ、ここに?」
シャルロッテが問いかけると、ギルバートは濡れた外套を払い、冷ややかな、けれどどこか深みのある瞳で彼女を見つめた。
「言ったはずだ。調子に乗れば命を落とすと。ライナー伯爵はお前を脅威と見なした。この王都の闇は、お前が一人で背負えるほど浅くはない」
「ですが、退くわけにはいきません!」 シャルロッテは震える唇を噛み締め、ギルバートの正面に立った。
「狙われるということは、私たちがやっていることが奴らにとって都合が悪いということ。奪われた名誉も、お祖父様たちの自由も、私は絶対に諦めません!」
その強い眼差しを受け止め、ギルバートの唇の端が、かすかに、本当にごくわずかに上がった。
「……頑固なところは、フリードリヒ伯そっくりだな」
ギルバートは腰の剣を鞘に納めると、静かな声で言った。
「ライナー伯爵の背後には、王位を狙う巨大な陰謀が隠されている。お前の一族が陥れられたのも、その計画の足もとに過ぎん。……本気で一族を救いたいなら、私に利用されろ、シャルロッテ」
「利用……?」
「私もまた、母を殺し、私を北方に追いやった奴らに報いを受けさせる機会を狙っている。お前の知恵と覚悟、黒鷲騎士団の力……互いの目的のために、手を組むということだ」
嵐の夜、割れた窓から吹き込む冷たい風の中で、二人は見つめ合った。 敵か、味方か。運命の糸に手繰り寄せられた二人は、王都を揺るがす巨大な渦の中へ、共に足を踏み入れることを決意するのだった。




