第69章『沈みゆくフロスト ヴァイス城』その1
秋の澄んだ空が広がるクリスタリア湖。その穏やかな水面に、セレスティア伯爵家の堅牢なる拠点、フロスト ヴァイス城がその雄姿を浮かべていた。
この日、城内は異様な熱気に包まれていた。王国元老院の重鎮である当主フリードリヒの、六十歳を祝う還暦の祝宴が執り行われようとしていたからだ。
厨房では、二つの組が火花を散らしている。緑のカーネーションを胸に宿したヴァランタン率いるチームが豪快な丸焼きやステーキを仕上げれば、紫のラベンダーを戴くアドリアナのチームが繊細なフレンチや和食を美しく盛り付けていく。総勢十名の料理人たちが命と真心を懸けた料理が次々と運ばれ、完璧主義のハウスメイド、通称『メガネのナデット』ことベルナデットが、指紋一つ許さぬよう大広間の調度品を磨き上げ、鋭い眼光で清掃状態をチェックしていた。
そんな喧騒から離れた、城の奥深くにある手入れされた中庭。一人の美少女が、大きな凧を手に佇んでいた。セレスティア家の孫娘、十七歳のシャルロッテである。
幼い頃、祖父フリードリヒに連れられて広大な王国中を旅した記憶――。そびえ立つ山々や地平線まで広がる草原を肌で知る彼女にとって、深い湖と高い石造りの城壁に隔てられたこの城は、美しくも世界を閉じ込める籠のように感じられた。
「お嬢様、そんな危険な場所へ登られては困ります!」
「そうですよお嬢様、早く降りてきてくださいませ!」
金髪の侍女エミーナがあたふたと声を上げ、黒髪の侍女ロゼッタもハラハラしながら見上げる中、シャルロッテはドレスの裾を軽やかにさばき、城壁の回廊へと登っていく。手にしたのは、己の手で組み立てた精巧な仕掛けの大きな帆布の凧だった。
「風が来たわ」
シャルロッテが手を放すと、凧は秋の冷涼な風をとらえ、まるで一羽の大きな鷲のように、どこまでも高く蒼穹へと舞い上がった。
城壁の向こうに広がる、見渡す限りの壮大な景色。それを目に収めた彼女の瞳の奥には、しかし達観した静けさがあった。己が名門セレスティア伯爵家の令嬢であり、いずれは政治的な政略結婚の定めに従う身であることを、誰よりも深く理解していたからだ。
◇
同じ頃、湖の対岸から城へと続く石畳の目抜き通りを、静寂と冷気を纏った一隊が通り抜けていた。
国王直属の暗部「黒鷲騎士団」。その新たな総長に就任したギルバートは、漆黒の漆飾の甲冑に身を包み、冷徹な仮面の下にある暗い瞳で周囲を見下ろしていた。王家の血を引きながらも、幼少期に母を不審な火災で失い、極寒の北方辺境で育った彼にとって、この国に渦巻く華やかさは不気味な陰謀の裏返しにすぎない。
「総長、フロスト ヴァイス城にて本日、フリードリヒ伯の祝宴が行われております」
副官の報告に、ギルバートはかすかに眉を動かした。妥協を知らぬ頑固な忠臣、フリードリヒ伯。王の寵愛を受け、王太后妃の兄という強大な後ろ盾を持ちながらも、その過剰なまでの正義感が引き起こす危うさを、ギルバートは予見していた。
ふと空を見上げれば、湖の向こうから高く舞い上がる一つの凧が目に入った。豪奢な空に異質でありながら、しなやかに揺れるその姿に、ギルバートの冷ややかな視線がしばし留まる。
城の大広間では、宴が最高潮を迎えていた。
豪華な肉料理と葡萄酒が並び、銀の杯が交わされる中、フリードリヒ伯は国王の強権的な治世に対する諫言を、いつもの愚直さで口にしてしまう。王国の正義と民を守ろうとする決意――しかしそれは、絶対的な権力を固めようとする国王の逆鱗に触れるには十分すぎるものだった。
宴が終わりを告げようとした、その時。
重々しいオークの扉が打ち破られ、鉄の甲冑が擦れ合う冷たい音が大広間に満ちた。
「国王陛下のお名において宣告する!」
突如として雪崩れ込んできたのは、黒衣の外套を羽織った黒鷲騎士たちであった。指揮を執るギルバートの冷徹な声が、宴の余韻を鮮やかに引き裂く。
「元老院議員フリードリヒは王を侮辱し、王国を叛乱の危機に晒した罪により拘束。セレスティア伯爵家の全財産および領地を没収し、一族の男者は全員、北方の最果ての流刑地へ追放とする!」
悲鳴が上がり、ゴブレットが床に落ちて葡萄酒が血のように広がった。一瞬にしてどん底へと突き落とされた人々がパニックに陥る中、エミーナとロゼッタも恐怖に身を震わせる。
その混乱の中、ギルバートは冷酷なまでに整然と部下へ指図を飛ばし、そして、彼の視線はある一点で止まった。
狂乱し取り乱す貴族たちの中で、ただ一人――静かに立ち尽くす娘がいた。
シャルロッテだ。
彼女の顔に恐れや絶望の色はない。ただ、深く悲しげな、けれどもしっかりとした意志を宿した瞳で、運命の濁流を見つめていた。その瞳は、逃れられぬ悲劇を受け止めつつも、決して屈することのない力強さを秘めている。
◇
連行されていく男たち。
当主フリードリヒ、その長男フィリップ。さらには家族一番の常識人でありながら跡取り候補として一族に従順だった二十歳の兄ガブリエルや、まだ十六歳の従兄弟オリバーまでが、非情にも兵士たちに囲まれていく。城に残されたのは、世間知らずの淑女たちと、子供、そして老人ばかりとなった。
「お祖父様……お兄様……」
護送されていく一族の男たちの背中を見送りながら、シャルロッテは拳を強く握りしめた。
今まで彼女を守ってきた「セレスティア家」という大きな庇護は、今日この瞬間、跡形もなく打ち砕かれた。けれど、彼女の胸の奥で、長年眠っていた強い意志が、確かに目覚めようとしていた。
運命の嵐は荒れ狂い、破滅へと向かって吹き荒れている。だが、どれほど風が強くとも、私は折れることはない――。
立ち込める暗雲の向こう側、高く舞い上がっていたあの凧のように。




