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第68章「日の上りゆくクリスタリア湖』

十月第三週、秋の深まりとともに北方の空気は澄み渡り、ガラスのように硬質な冷気が世界を包み込む季節。


「クリスタリア湖」——その鏡のごとき水面は、朝日を受けて蒼白く輝いていた。湖の中央に浮かぶ孤島に燦然と聳え立つのは、古き伝統と気品を誇るセレスティア伯爵家の居城「フロスト・ヴァイス城」である。白大理石と冷たい結晶質で築かれた美しき城塞は、朝靄の中で神秘的な静寂を纏っていた。


東の空から差し込む淡い金色の陽光が、天秤細工の施された高い窓を抜け、最上階にある令嬢の寝室を優しく照らし始める。


シルクとフェザーで仕立てられた豪華な天蓋付きベッドの上で、セレスティア伯爵家令嬢、シャルロッテがそっと両眸を開いた。


「……ん……」


淡い栗色の髪が、真っ白なシーツの上に柔らかな曲線を描いて広がっている。シャルロッテは長い睫毛を揺らし、天井に描かれたフレスコ画を見つめた。しかし、その瞳にはどこか深い困惑と、覚めやらぬ熱情が宿っていた。


呼吸を整えようと胸に手を当てる。心臓が早警を鳴らしていた。まるで、つい数分前まで激しい戦場の只中に身を置き、冷酷な剣を振るっていたかのように、全身の筋肉がかすかに強張り、熱を帯びている。


(私は……シャルロッテ・フォン・セレスティア。ここは、フロスト・ヴァイス城の私の部屋……)


頭では理解しているはずだった。だが、指先に残る「レイピアの柄の冷たい感触」と、頬を掠めた吹雪や砂漠の風の熱気が、あまりにも生々しい。


「……夢……だったの……?」


ぽつりと漏らした声は、静かな室内に儚く消えた。


その時、重厚なオーク材の扉が滑らかな音を立てて開き、二人の人物が部屋へと足を踏み入れ、静歩でベッドへと近付いてきた。


朝の光を浴びて入ってきたのは、シャルロッテに仕える二人の侍女であった。


一人は、まばゆいばかりの金髪を後頭部で快活にまとめ、エプロンドレスに身を包んだエミーナ。もう一人は、漆黒の髪を完璧な夜会巻きにし、寸分の狂いもない姿勢で銀のトレイを捧げ持つロゼッタ。


ふたりはベッドの前に並ぶと、いつも通りの優雅かつ丁寧な礼をとった。


「おはようございます、シャルロッテ様。十月第三週の清々しい朝でございます」


ロゼッタの澄んだ静謐な声が室内に響く。続いて、エミーナが元気よく頭を下げた。


「シャルロッテ様、おはようございます! 朝のお着替えと、温かい紅茶をお持ちしました!」


いつも通りの完璧な朝の挨拶。しかし、二人を交互に見つめたシャルロッテは、即座に違和感を察知した。


ロゼッタの透き通るような瞳には、隠しきれない動揺と深い思索の影が揺れている。そして快活なはずのエミーナは、手に持ったトレイの上の銀のポットを、ほんの僅かに震わせていた。二人の呼吸はどこか荒く、額にはかすかな汗が浮いていた。


シャルロッテはゆっくりと体を起こし、シーツを滑り落としながら二人を凝視した。


「……ロゼッタ。エミーナ」


「……はい、お嬢様」


「ふたりとも……今、どんな夢を見ていましたか?」


シャルロッテのその問いかけに、ロゼッタの息が止まり、エミーナの手がピタリと途切れた。


二人は顔を見合わせ、言葉を失った。その反応こそが、何よりの雄弁な答えであった。





室内を支配した数秒間の静寂を破ったのは、エミーナの大きな溜息だった。


「やっぱり……やっぱり、シャルロッテ様も……!」


エミーナは手にしていたトレイをサイドテーブルにドスンと置くと、侍女としての作法も忘れ、ベッドの脇にガタガタと膝をついた。金髪が大きく揺れる。


「私、おかしくなっちゃったのかと思いました! 目が覚めた瞬間、自分の手がすごく軽くて……『あれ!? 私の身の丈を超える巨矛は!?』って、ベッドの横を必死で探込んじゃって……!」


「エミーナ、身だしなみを整えなさい」


ロゼッタが嗜めるように声をかけたが、そのロゼッタ自身も、手にした銀のトレイを握りしめる指先に白く力が入っていた。


「ですが……シャルロッテ様。お言葉を返すようですが、私もまた、信じがたい幻影を見ておりました。……いえ、幻影というには、あまりにも息遣いがリアルでございました」


ロゼッタは漆黒の髪を指先でそっと撫で、どこか遠くを見るような瞳になった。


「私は……ラグランという街で、知識と戦略を駆使し、お二人とともに政変や匪賊の討伐に挑む作戦立案者でした。シャルロッテ様は『風閃』と呼ばれる流麗な剣技を振るう気高き女騎士……そしてエミーナは、圧巻の怪力で重装歩兵すらなぎ払う無双の矛使い……」


「ロゼッタ……! それです!」


シャルロッテの胸が高鳴った。彼女はベッドから身を乗り出し、侍女二人の手を強く握りしめた。


「私も全く同じ夢を見ていました! 帝都ヴェルサイユでのヴァルモン公との対決、北方のラグナール要塞での吹雪の中の潜入、東の港町ポルト・グランデでの大海賊バルバロッサとの戦い、サハラ=グランの砂漠での奴隷解放……そして、最後のカルナック渓谷での三千の敵との決戦まで……!」


「そう! そうなんだよシャルロッテ様!」 エミーナが興奮のあまり言葉を重ねる。


「私、カルナック渓谷で巨大な岩が降ってきたとき、大矛を横一閃に振るって、ドゴォォォンって叩き割った感触が、まだこの掌に残ってるんです! あれ、夢なんですか!? 嘘でしょ!?」


「ええ……」 シャルロッテは己の華奢な手のひらを見つめた。


「私も、レイピアの腹で相手の攻撃を受け流し、関節を正確に穿つ感覚が……父から教わった剣術とはまた違う、修羅場を潜り抜けた者だけが知る鋭利な剣技の記憶が、確かに身体に染み付いているのです」


三人は顔を見合わせ、息をのんだ。


ひとりが同じ夢を見ることはある。だが、主と侍女の三人全員が、ストーリーの細部に至るまで完璧に一致する「もう一つの人生」の記憶を共有して目覚めるなど、常識では考えられない現象であった。


「これは……錯覚なのでしょうか」


ロゼッタが静かに思索をめぐらせる。


「クリスタリア湖の古き精霊が見せた戯れか、あるいは……並行して存在する別の世界の私たちが、夢という回路を通じて、一時的に記憶を共有したのか……」


「どちらにせよ……」


シャルロッテは淡い栗色の髪をすっと払い、可憐な唇に美しい笑みを浮かべた。


「私たちにとって、あの時間は紛れもない『真実』でしたわ」





気付けば、朝の着替えや給仕の時間はどこかへ吹き飛んでいた。


三人はシャルロッテの部屋の丸テーブルを囲み、ロゼッタが淹れた温かいアールグレイの湯気を挟んで、まるで昨夜の冒険の武勇伝を語り合う戦友のように言葉を弾ませていた。


「ねえねえ! シャルロッテ様!」


エミーナが目を輝かせながら、紅茶のカップを置いて身を乗り出す。


「一番シびれたのは、やっぱり帝都の大聖堂での決戦ですよ! ヴァルモン公が幼い皇帝陛下に手を伸ばした瞬間、シャルロッテ様がステンドグラスを突き破って天井から降りてきたじゃないですか! 『風閃・二ノ型』でしたっけ!? あれ、めちゃくちゃ格好良かったです!」


「もう、エミーナったら……」


シャルロッテは頬をかすかに桃色に染め、恥ずかしそうにカップに口を寄せた。


「あれはロゼッタ様が完璧なタイミングで大聖堂の警備を正門前へ誘導してくださり、エミーナが大暴れして近衛兵を引きつけてくれたからこそ跳べたのです。私一人では、到底あのような真似はできませんでしたわ」


「ふふ、お褒めいただき光栄です」


ロゼッタが静かに微笑み、ティーポットから優雅におかわりを注ぐ。


「ですが、エミーナの暴れっぷりも相当なものでしたよ。正門前で重装兵を何人も空へ打ち上げて、『ヴァルモンのカかしどもーっ!』と叫んでいた姿は、まさに鬼神の如き勇猛さでした」


「うぐっ……! ロゼッタお姉さん、そのセリフは言わないでよ~! 夢の中とはいえ、乙女としてちょっと恥ずかしいんだから!」


エミーナが顔を真っ赤にして頭を抱えると、シャルロッテとロゼッタから弾けるような笑い声が漏れた。


「でも……」 シャルロッテは遠く、窓の外の透明なクリスタリア湖を見つめた。


「北の雪原で出会った、あの悲しげな瞳をした少女……私たちが要塞を陥落させて、朝陽とともに希望の鐘が鳴り響いたとき、彼女が見せてくれた笑顔が忘れられません」


「……ええ」


ロゼッタも深く頷いた。


「ポルト・グランデの海賊退治も、サハラ=グランでの奴隷解放も……私たちが成し遂げたことは、単なる破壊や暴政の打ち倒しではありませんでした。虐げられていた人々が自由を取り戻し、自らの足で歩み出す『希望』を創り出すこと……それこそが、私たちの結んだ『桃色の誓い』の本質でした」


「桃色の誓い……」


エミーナがぽつりと呟く。


「ラグランの街の満開の桃の木の下で、みんなで杯を重ねた時のこと、今でもはっきり覚えてる。あのとき、本当に『私たちは三人でひとつなんだ』って思えたんだ」


三人の間に、温かく、けれど切ない愛おしさが満ちていく。


夢の中で紡がれた数年間。 生まれた境遇も、髪の色も、立場も違う三人の乙女たちが、背中を預け合い、笑い合い、時に血を流しながら大陸を駆け抜けた日々。


それは、単なる侍女と令嬢という主従関係を超えた、永遠の絆の記憶であった。





しばらく思い出話に花を咲かせた後、ふと壁にかけられた大型の大理石時計が重厚な音を立てて七時を告げた。


「あ……」


エミーナが時計を見上げ、ハッと我に返った。


「やばい! シャルロッテ様のお着替えも、朝食の準備も途中で、こんなにお喋りしちゃって……! 奥様やお館様に怒られちゃう!」


慌てて立ち上がり、エプロンを整えようとするエミーナ。ロゼッタもまた、いつもの冷静な侍女の顔に戻り、スッと立ち上がった。


「失礼いたしました、シャルロッテ様。あまりにも夢の記憶が鮮明であったため、つい弁えを失って長居をしてしまいました。ただちに朝の支度をお手伝いいたします」


ロゼッタがクローゼットへ向かい、本日のドレスを選び出そうとする。


だが、シャルロッテは静かに立ち上がると、二人の手をとった。


「ロゼッタ、エミーナ」


二人が振り返る。


シャルロッテの淡い栗色の髪が、窓から差し込む十月の朝光に透けて、神聖なほど美しく輝いていた。その瞳には、令嬢としての気品と、あの旅で養われた気高く強い「騎士の魂」が同居していた。


「夢の中の旅は、一旦の終わりを告げました。私たちは今、クリスタリア湖のフロスト・ヴァイス城にいて、私はセレスティア家の娘、貴方たちは私を支える大切な侍女です」


シャルロッテは二人の手をギュッと強く握りしめた。


「ですが……あの冒険で私たちが学んだ強さ、優しさ、そしてお互いを信じ抜く絆は、何ひとつ消えてなどいません。たとえここが現実であっても、私の心にはいつも、あの桃色の誓いが咲いています」


ロゼッタの瞳が、かすかに潤んだ。彼女は深々と頭を下げ、胸に手を当てた。


「……はい、シャルロッテ様。私の知恵と忠誠は、どのような世界であれ、永久に貴女と共にございます」


エミーナも瞳に涙を溜めながら、破顔した。


「うん! 私も! 私のパワーは、いつでもシャルロッテ様とロゼッタお姉さんを守るためにあるんだから!」


三人は顔を見合わせ、心からの笑顔を交わし合った。


もう、どちらが現実でどちらが夢か迷うことはなかった。 夢での冒険は、この現実の絆をより一層強く、かけがえのないものにするための、天からの美しい贈り物だったのだから。





ロゼッタの手によって、シャルロッテの淡い栗色の髪が手際よく編み上げられていく。


鏡に映る自分の姿を見つめながら、シャルロッテはふと思った。 ドレスの裾を軽く持ち上げる自分の立ち振る舞いに、以前よりもずっと優雅で、それでいて隙のない美しさが備わっていることに。


「シャルロッテ様、本日のドレスは、湖の青に映える銀刺繍のアンサンブルにいたしました」


「ええ、とても素敵だわ、ロゼッタ」


「朝食には、エミーナ特製の温かい麦粥と、フレッシュベリーのタルトをご用意させております」


「わぁ、楽しみだわ! エミーナの作る料理は、夢の中の焚き火料理も最高だったけれど、やっぱり城の厨房で作るものも絶品だものね」


「へへっ! 腕に撚りをかけて作りますからね!」


エミーナが嬉しそうに胸を張る。


身支度を終えたシャルロッテは、天窓の近くへ歩み寄り、冷たいガラス越しに外の景色を見上げた。


十月第三週のクリスタリア湖。 澄み切った空には雲ひとつなく、遠くの連峰にはうっすらと初雪が冠されている。フロスト・ヴァイス城を包む空気は冷たく厳しいが、シャルロッテの胸の奥には、消えることのない温かな「情熱の火」が灯っていた。


(どのような未来が訪れようとも、私にはこの二人がいる)


流麗な剣技を誇った赤き旋風の騎士も。 重厚な巨矛を振り回した無双の金髪少女も。 漆黒の髪に深い知性を秘めた美しき参謀も。


いま、この静かな城の中で、新たな一日を歩み出そうとしている。


「シャルロッテ様、お食事の用意が整いました」


扉の傍らで、ロゼッタとエミーナが深々と頭を下げて待っている。


シャルロッテは振り返り、淡い栗色の髪をなびかせながら、颯爽とした足取りで歩み出た。


「ええ、参りましょう」


朝の光が溢れる廊下へと踏み出す三人の背中に、どこからか爽やかな風が吹き抜けた。


それはまるで、あの遠い異国の街で咲き誇っていた、甘く気高い桃色の花びらの香りを運んでくるかのように、どこまでも優しく、どこまでも高く包み込んでいくのであった。

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