第64章『日の沈みゆく帝国』その6
北方の雪原に平和の光を取り戻してから数ヶ月。季節は巡り、爽やかな風が吹き抜ける初夏を迎えていた。
「ラグランの三華」として大陸全土にその名を轟かせつつある三人は、ロゼッタの言葉通り、帝国の東端に位置する港町「ポルト・グランデ」へと足を踏み入れていた。
そこはかつて、数多の貿易船が行き交い、異国の珍味や美しい絹織物が溢れる繁栄の港町であった。しかし、現在のポルト・グランデは異様な重苦しさに包まれていた。港に繋がれた船の多くは半壊し、活気あるはずの市場のアーケードには、網の手入れをする気力さえ失った漁師たちが力なく座り込んでいる。
「……ひどい有様だね。海からの風は気持ちいいのに、街全体がしおれてるみたい」
エミーナが身の丈を超える重厚な蛇矛を肩に担ぎ直し、金髪をなびかせながら悲しげに街並みを見渡した。
シャルロッテは淡い栗色の髪を指先で払い、近くの波止場で佇んでいた老船長のもとへ静かに歩み寄った。
「失礼いたします。私たちは旅の者ですが……この港町に何があったのですか? まったく船が出航している気配がありませんが」
老船長は深々と刻まれた額のシワを寄せ、怯えたように海を指差した。
「『漆黒の錨』だーらよ、お嬢ちゃん……。聖杓の旅団の崩壊に乗じて、海から現れた大海賊団だ。奴らは沖合に砦を築き、この港に出入りするすべての貿易船から理不尽な通行料をむさぼり取っている。払えなければ船ごと沈められ、乗組員は奴隷として売られるのさ」
「海賊……! 陸の匪賊が片付いたと思ったら、今度は海ですか」
シャルロッテの眉が吊り上がり、澄んだ瞳に強い憤りの火が灯った。
ロゼッタが静かな足取りで二人に歩み寄る。漆黒のマントを風にはためかせ、海の彼方に浮かぶ断崖絶壁の島——「鬼哭島」を見つめた。
「『漆黒の錨』の頭領は、かつて帝国の海軍提督であった男・バルバロッサ。ヴァルモン公の失政によって過酷なノルマを課され、ついに自ら海賊へと身を落とした冷酷無比な戦術家です。……港の防衛隊も彼の艦隊には歯が立ちません」
「そんなの関係ないよ!」 エミーナが地面を踏み鳴らし、激しい破砕音を響かせた。
「民の手から食べ物を奪う奴らは、陸だろうが海だろうが、私の矛で全員海に叩き落としてあげる!」
「ええ、その意気ですエミーナ」 ロゼッタは薄く微笑み、羊皮紙の海図を広げた。
「ですが、相手は海の猛者たち。真っ向から船で挑めば、彼らの艦砲射撃の餌食となります。……私に策があります。敵がこの港へ『上陸』してくる瞬間を狙うのです」
◇
ロゼッタの情報収集によれば、海賊バルバロッサは満月の夜、港の倉庫街に保管されている貴重な「交易用ワイン」と「香料」を強奪するために大規模な部隊を引き連れて上陸してくる予定であった。
そして、満月の夜。
静まり返る港に、巨大な黒い海賊船が三隻、音もなく接岸した。
「ハハハ! 野郎ども、持って行けるものはすべて奪え! 抵抗する奴は海の藻屑にしてやれ!」
甲板から躍り出てきたのは、顔に大きな傷を持つ巨漢・バルバロッサであった。彼の手下である数百人の海賊たちが、松明と曲刀を手に、一斉に港の倉庫街へと雪崩れ込んでいく。
「そこまでです、海を汚すならず者たちよ!」
倉庫の屋根の上に、月光を浴びた一筋の影が立ち上がった。
風に揺れる淡い栗色の髪。可憐な革甲冑に身を包み、細身の剣を構えたシャルロッテであった。
「あぁ? なんだその可憐なねえちゃんは! 迷い込んだお嬢様か?」
海賊たちが品のない大笑いを上げる。しかし、シャルロッテの瞳には氷のような冷徹さが宿っていた。
「私の名はシャルロッテ。誇り高き騎士の娘です。……これ以上、この港の民を苦しめることは許しません!」
シャルロッテは屋根からしなやかに躍り出ると、空中で剣を閃かせた。
——ズシャシャシャッ!
先頭にいた海賊たちの手にあった松明と曲刀が、一瞬にして切り刻まれて地面に転がった。圧倒的な速度と精度。海賊たちの笑い声が、瞬時に凍りつく。
「な、なんだこの速さは!?」
「油断するな、野郎ども! 囲んで殺せ!」
海賊たちが一斉に襲いかかろうとしたその時、港の暗がりから地鳴りのような咆哮が轟いた。
「私を忘れてもらっちゃ困るよーっ!!」
ドカンッ!!
倉庫の木壁を突き破り、まばゆい金髪を弾ませたエミーナが躍り出てきた。彼女が振り回す巨大な蛇矛は、まるで竜巻のように海賊たちを巻き込み、十数人の男たちを一撃で海へと吹き飛ばした。
「ひぇぇぇっ! 巨人がいるぞ! バケモノだーっ!」
「雑魚はいーっぱい集まっても雑魚なんだよ! 全員まとめて吹き飛びなさい!」
エミーナの無双の武勇により、海賊たちの陣形は一瞬で崩壊した。
「ええい、使えん奴らめ! 俺が相手になってやる!」
怒り狂ったバルバロッサが、身丈ほどもある巨大な錨の形をした鉄鎖を振り回しながら、シャルロッテに向かって突進してきた。
「死ねぇ、小娘がぁっ!」
強烈な風圧とともに叩きつけられる鉄鎖。それは石造りの石畳を容易に粉砕する破滅的な破壊力を持っていた。
◇
ドォン! ドォン! と、港に重音覚めぬ破壊音が響き渡る。
バルバロッサの振るう鉄鎖は、広範囲をなぎ払い、シャルロッテの逃げ場を奪っていく。しかし、シャルロッテの顔に焦りの色は一切なかった。
(大きい攻撃には、必ず大きな隙が生まれる……。父親の教え……そして、ロゼッタ様の授けてくれた作戦!)
シャルロッテは崩れ落ちた倉庫の瓦礫を足場にし、跳躍した。
「甘いぞ、空中ではかわすまい!」
バルバロッサが鉄鎖を上空へ向かって振り上げる。
その瞬間、シャルロッテの足元を強い風が突き抜けた。彼女は空中で身を翻し、振り上げられた鉄鎖の鎖の繋ぎ目を、レイピアの剣先で最小限の力で『突いた』のだった。
——チィンッ!
テコの原理と速度を利用した完璧な一撃。バルバロッサの腕に強烈な痺れが走り、巨大な鉄鎖が彼の手からすっぽ抜けて海へと落ちていった。
「な……なにぃっ!?」
「これで終わりです!」
着地したシャルロッテの身体が、極限まで沈み込む。
『風閃・三ノ型——波返し!』
銀色の光線が、夜の港を一直線に切り裂いた。
シャルロッテの身がバルバロッサとすれ違った瞬間、バルバロッサの豪華な上着がズタズタに切り裂かれ、彼の胸元に浅い十字の傷が刻まれた。
「ガハッ……! 馬鹿な……俺の海軍流の武技が……こんな少女の細剣に……」
バルバロッサは膝から崩れ落ち、大理石の波止場に倒れ伏した。
「首領がやられたぞーっ!」
「逃げろ! 悪魔の乙女たちだーっ!」
残された海賊たちは、戦意を完全に失い、海賊船へ逃げ帰ろうと一斉に走り出した。
しかし、港の出口には、すでに漆黒のマントを羽織ったロゼッタと、彼女が率いる港の義勇兵たちが整列していた。
「逃げ場はありませんよ、海賊の方々。あなた方の海賊船の底には、すでに我が潜水工作部隊が穴をあけてあります」
ロゼッタが静かに合図を送ると、沖合に停泊していた海賊船が、ゴボゴボと音を立てて傾き、海へと沈み始めていた。
「ひ、ひぃぃぃっ! 参りました! 助けてくれーっ!」
海賊たちはその場にひざまずき、全員が降伏の意を示したのだった。
◇
翌朝。
雲ひとつない快晴の空の下、ポルト・グランデの港には、復興を祝う歓声と笛や太鼓の賑やかな音が響き渡っていた。
海賊たちの脅威から解放された街の人々は、捕らえられた海賊たちの船から戻された物資を手にし、涙を流して三人の乙女たちに感謝を捧げていた。
「ありがとう、ラグランの三華様! あなた方のおかげで、またこの海に船を出せます!」
老船長が感極まった面持ちで、シャルロッテたちの手を強く握りしめた。
港の小高い丘から、キラキラと太陽の光を弾く美しい海を見下ろす三人。
「ふぅ~! 海の風って本当に気持ちいいね! ロゼッタお姉さん、海の幸のスープ、すっごく美味しかったよ!」
エミーナが満腹のお腹を擦りながら、嬉しそうに笑った。
ロゼッタは手に持った羊皮紙の地図を優しく閉じ、二人を見つめた。
「ええ。ポルト・グランデの平和はこれで保たれるでしょう。ですが……私たちの旅は、まだここで終わりではありません」
シャルロッテがそっと腰の剣に手を置き、ロゼッタの言葉に耳を傾けた。
「次はどこへ向かうのですか、ロゼッタ様?」
ロゼッタは遠く、海の向こうに霞む大陸の南方を指差した。
「南方の広大な砂漠地帯『サハラ=グラン』。あそこでは、帝国の旧貴族たちが民を奴隷として売買し、巨額の富を貪っていると聞きます。私たちが目指すのは、ただの匪賊退治ではありません。この大陸から『あらゆる不当な搾取』をなくすこと」
その言葉に、シャルロッテの胸が高鳴った。
「奴隷解放……。父が生前、最も憎んでいた悪行です。参りましょう、ロゼッタ様。私のこの剣、南方の砂嵐の中でも、変わらず正義のために振るってみせます」
「私も! 砂漠の悪党どもも、この矛で一網打尽にしてあげるからね!」
エミーナが威勢よく蛇矛を突き上げた。
三人は顔を見合わせ、清々しい笑顔を交わし合った。
淡い栗色の髪、まばゆい金髪、そして凛とした黒髪。
月夜に結ばれた「桃色の誓い」の絆は、北の雪原を越え、東の海を越え、いまや全土の虐げられた人々にとっての「唯一の希望」となっていた。
少女たちの歩む道は、決して平坦ではない。しかし、三つの心がひとつである限り、どんな暗闇も必ず切り拓かれていく。
新しい風を受け、乙女たちの気高き冒険は、南方の熱き砂漠へと続いていくのであった。




