第60章『日の沈みゆく帝国』その2
ざわめく酒場の奥で、その黒髪の美少女は静寂そのもののように佇んでいた。
透き通るような白い肌に、宵闇を切り取ったかのような流麗な黒髪。粗末な木製のワイングラスを指先で弄ぶその仕草には、洗練された高貴さと、どこかこの世を憂う深い影が差している。
「あそこに座っている女の子……ただ者じゃないね」
エミーナが身の丈ほどもある蛇矛の柄を床につき、興味津々といった様子で目を輝かせる。シャルロッテもまた、その女性から発せられる独特の品格に引き寄せられるように、そっと視線を送った。
二人が近付く足音に気づくと、黒髪の美少女はゆっくりと顔を上げた。その双眸は澄み渡り、深い知性の光をたたえている。
「……賑やかなお二人ですね。大きな矛をお持ちの金髪の剣士様と、気高くも優しげな眼差しをした栗色の髪のお嬢様」
「私はシャルロッテ。こちらは旅を共にするエミーナです。貴女のお召し物や立ち振る舞い……失礼ですが、このような地方の酒場には似つかわしくないお方とお見受けします」
シャルロッテが凛としたお辞儀を返すと、少女は小さく微笑み、自らを「ロゼッタ」と名乗った。彼女は名門貴族の血を引く者でありながら、腐敗しきった帝国の現状に失望し、民の真の声を聴くために各地を巡っているのだという。
「街の高札をご覧になりましたか? 聖杓の旅団の暴虐は日に日に増すばかり。けれど、それを力で押さえつけようとする領主たちもまた、民の血を吸う同罪の存在です」
ロゼッタの静かな語り口には、内に秘めた激しい情熱が宿っていた。
「この大地にはいま、真の正義と、民を慈しむ心が救いとして必要なのです。けれど私ひとりの力では、あまりにも無力……」
「そんなことないよ、ロゼッタさん!」
エミーナがテーブルを叩いて乗り出した。
「シャルロッテも言ってたんだ。お母さんに薬を届けたら、この街に戻って志願兵になるって! 私もこの矛で手伝うよ。ロゼッタさんみたいに頭が良くて、シャルロッテみたいに心が真っ直ぐな奴が上に立てば、世の中きっと良くなるもん!」
シャルロッテも深く頷き、ロゼッタの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ロゼッタさん。私には誇りと、父譲りの剣しかありません。ですが、虐げられる人々を救いたいという思いは誰にも負けません。どうか私に、貴女の理想の盾とならせてください」
ロゼッタは目を見開き、二人を交互に見つめた。やがて、その美しい唇から、深いため息とともに清々しい笑みがこぼれ落ちた。
「……まさか、このような場所で、これほどまでに気高く、頼もしい友に出会えるとは思いもしませんでした。神の引き合わせとしか思えません」
ロゼッタはグラスを掲げ、二人に視線を合わせる。
「私の名はロゼッタ。お二人の勇気と志に、私の知恵と全霊を捧げましょう」
「私はシャルロッテ。この剣と命を賭して、弱き者を守り抜くことを誓います」
「私はエミーナ! 二人を邪魔する奴らは、この矛でみーんな吹き飛ばしてあげる!」
淡い栗色の髪、まばゆい金髪、そして気品ある黒髪。
時代の大きな渦の中で出逢った三人の少女たちは、互いの手を強く握りしめた。やがて大陸全土を揺るがすことになる「桃色の誓い」が、いま静かに、しかし固く結ばれた瞬間であった。




