第59章『日の沈みゆく帝国』その1
神聖帝国が衰退の途をたどり、腐敗した領主たちの搾取と相次ぐ飢饉によって、大陸全土は闇に包まれていた。世には自らを「聖杓の旅団」と称する無法者の群れが横行し、焼き払われた村々の煙が空を覆い尽くしていた。
東方の辺境、タラク伯領の小さな村に、一人の少女が暮らしていた。名はシャルロッテ。かつて落ちぶれた貴族の血を引く娘である。若くして父を亡くした彼女は、年老いた母と共に羊毛を紡ぎ、粗末な布を織って細々と生計を立てていた。質素な作業着に身を包んでいても、風にそよぐ淡い栗色の髪と凛とした佇まいには、隠しきれぬ気品が漂っていた。
「シャルロッテ、旅の支度が整いましたよ」
母の静かな声に振り返ると、そこには古びた革嚢と、母が夜を徹して織り上げた一反の上質なウール生地があった。母はわずかな蓄えを叩き、帝都へと向かう娘のためにこの生地を持たせようとしていた。これを街で金に変え、旅費にあてさせるためである。
シャルロッテの目的は、都の商人しか扱わないという東方の「茶の葉」を手に入れることだった。病に伏せがちな母に、あらゆる病を癒やすと噂される奇跡の薬草を飲ませたい――それが少女の切なる願いであった。
「母上、行ってまいります。必ずや本物の茶を持ち持ち帰ります」
「道中、神のご加護がありますように。ならず者に気をつけ、どうか無事でいておくれ」
シャルロッテは母の手を握って誓いを立てると、革嚢を背負い、朝もやの差し込む村を後にした。村外れに立つ巨大なオークの古木が、青々と葉を茂らせて彼女の背中を見送っていた。幼い頃、「いつか王を守る気高き女騎士になる」と語り、伯父に窘められた思い出の木である。
帝都へ続く巡礼路は険しく、途中の村々は悲惨を極めていた。黒く焦げた教会、路傍に打ち捨てられた遺体、そして遠くから響く悲鳴。シャルロッテは胸を痛めながらも、栗色の髪をフードの奥に隠し、ただひたすらに歩みを進めた。
大聖堂がそびえる帝都の市場は、混乱の世にあっても怪しい熱気に満ちていた。シャルロッテは苦労の末にウールを売り払い、ついに目的の小袋を手に入れた。乾燥した緑の葉から漂うかすかな香りを確かめたとき、彼女の胸には深い安堵が広がった。
だが、故郷へ引き返す道中、運命の暗雲が彼女を捕らえた。「聖杓の旅団」の残党が突如として現れ、旅人たちを襲い始めたのだ。
剣を抜く賊の前に、シャルロッテは護身用の細身の剣を構えて立ちはだかる。可憐な見た目からは想像もつかぬ鋭い牽制で一端は退けたものの、敵の数はあまりに多すぎた。奪われた茶の袋が泥に塗れようとしたその時、嵐のような叫びが街道に響き渡った。
「下種ども、そこを動くな!」
木々をなぎ倒し、躍り出てきたのは、まばゆい金髪をなびかせた美少女であった。名はエミーナ。小柄な体にそぐわぬ身の丈ほどもある巨大な蛇矛を軽々と振り回し、一撃で数人の賊を吹き飛ばす。その凛々しくも愛らしい瞳には、溢れんばかりの闘志が宿っていた。
振り下ろされた大矛の残光が収まると、道に転がっていたのは気絶した賊たちと、あまりの出来事に言葉を失うシャルロッテだった。
「おい、怪我はないか、お姉さん!」
エミーナは輝く金髪を揺らしながら振り返る。可憐で華奢な見た目とは裏腹に、豪快な笑みを浮かべていた。
シャルロッテは乱れた淡い栗色の髪をサッと払い、細身の剣を鞘に納めると、凛とした声で礼を言った。
「助かりました、お見事な槍捌きです。私はシャルロッテ。貴女のような強いお方が、なぜこのような街道に?」
「私はエミーナ! 安い酒と美味しい肉を求めて旅をしてたら、ハエどもが群がっているのが見えたから飛び込んじゃった!」
エミーナは楽しそうに笑い、地面に転がっていた茶の小袋を拾い上げると、シャルロッテの手の中に無造作に押し戻した。そのとき、彼女の視線がシャルロッテの佇まいに留まった。粗末な旅装から覗く気品と、危険を前にしても揺らぐことのなかった瞳の光。ただの村娘ではないと、金髪の少女は直感していた。
「……ふーん、なかなかいい度胸だね。でも、女の子一人で旅をするには世の中が荒れすぎてるよ。どこまで行くつもり?」
「東方のタラク伯領へ戻るところです。病の母に、この薬草を届けるために」
「タラクか! なら途中まで一緒に行ってあげる。どうせ私も当てのない旅だしね!」
豪快に笑うエミーナに毒気を抜かれつつも、シャルロッテはその申し出をありがたく受け入れた。こうして、騎士の気高さを秘めた淡い栗色の髪の少女と、類まれなる怪力を持つ金髪の美少女という、異色の二人は旅路を共にすることとなった。
だが、帝国の混乱は二人の想像以上に深く街道を蝕んでいた。
数日後、二人が差し掛かった大きな町・ラグランの宿場は、異様な緊張感に包まれていた。街頭には帝国政府からの高札が掲げられ、群衆がざわめいている。
『無法者「聖杓の旅団」討伐のため、志願兵を募る』
「ついに領主どもも手を焼き始めたか」
エミーナが不敵に鼻を鳴らす。シャルロッテは掲示を見上げながら、ぎゅっと拳を握りしめた。領主たちの搾取に苦しみ、ついに暴徒と化した人々と、それを鎮圧しようとする無力な政府。誰かが立ち上がらねば、この大陸の民に平和が訪れることはない。
「エミーナ……私は、母に薬を届けたら、もう一度この街に戻ってこようと思います」
「え? 志願兵にでも入るつもり、シャルロッテ?」
「はい。剣を執り、虐げられる人々を守ること。それこそが、父から受け継いだ私の血が求める道です」
シャルロッテの淡い栗色の髪が、夕暮れの風に揺れる。その決意に満ちた横顔を見つめ、エミーナは金髪をなびかせながらニヤリと笑った。
「いいね、面白そう! なら、私の矛も貸してあげるよ。でもその前に、お腹が空いちゃった! 酒場に行こう!」
二人が足を踏み入れた古い酒場の片隅。そこには、群衆の騒ぎから離れ、一人静かにワイングラスを傾ける、高貴な雰囲気を纏った黒髪の美しい女性が座っていた。
のちに帝国を揺るがすことになる「三つの誓い」が立てられるまで、あとわずか。乱世の歯車は、加速度を上げて回り始めていた。




