第58章『2人にもトキメキとドキドキを』その2
クリスタリア湖の水面を包んでいた朝靄が、少しずつ黄金色の陽光に溶けていく。フロスト・ヴァイス城の広々とした自室で、『アルヴの魔導書』を胸に抱えたシャルロッテは、ベッドとソファで穏やかな寝息を立てる二人の侍女を優しく見つめていた。
エミーナは「王子様……そんなに強く抱きしめられたら……むにゃむにゃ」と寝言を漏らし、口元を緩めている。一方、ロゼッタは「まったく……強引な方ですね……」と呟き、黒髪の前下がりボブを揺らしながら頬を微かに染めていた。
「ふふ、二人とも、どんな夢の世界に落ちているのかしら?」
シャルロッテは悪戯っぽく微笑むと、二人にかかるブランケットの位置を優しく整えた。古代のルーン文字が放つ青紫色の光は、二人の意識を遥かなる「夢の旅路」へと誘っていたのである。
◇
冷たく澄んだ風が、色鮮やかな旗のはためく城壁を吹き抜けていく。
エミーナが目を覚ますと、そこはフロスト・ヴァイス城の自室ではなく、絢爛豪華な異国の王宮の中庭だった。見慣れた侍女の制服ではなく、仕立ての良い豪奢なドレスを身に纏っている。
「えっ……えええっ!? 私、ドレスを着てる!? しかもここ、どこ!?」
困惑して自分の手を何度も見つめていると、頭上から低く楽しげな声が降ってきた。
「相変わらず賑やかな奴だな、おてんば姫」
「ひ、姫……!?」
振り返ると、そこには白銀の髪をなびかせ、息を呑むほど美しい顔立ちをした青年の姿があった。絢爛たる飾緒を肩から下げた軍服に身を包み、薄い唇に不敵な笑みを浮かべている。彼こそが、シャルロッテが魔導書で仕掛けた「お隣の国のオレ様王子」、カイゼルであった。
「な、誰がおてんば姫ですか! 私はセレスティア伯爵家の優秀な侍女のエミーナです!」
「ほう? 夢の中でも意地を張るのか。昨夜の舞踏会では、あんなに大人しく僕の手を取っていたというのに」
カイゼルは長身をかがめると、エミーナの額にトンと軽く指を当てた。
「〜〜〜っ! なんですかその上から目線! 私はパンとハーブティーが好きで、ナイフ投げが得意な普通の……」
そこまで言いかけたところで、突如として城壁の向こうから激しい爆発音が響き渡った。黒煙が上がり、悲鳴が中庭へと届く。
「な、何事!?」
「チッ、反乱分子の残党か。しつこい奴らだ」
カイゼルの瞳から甘さが消え、一瞬で冷徹な剣士の鋭さが宿る。彼は腰の長剣を抜くと、戸惑うエミーナの細い腰を引き寄せ、迷わず自らの背後に庇った。
「下手を打ったな、おてんば姫。僕の目の前で、僕の獲物に手を出そうとは」
「だ、誰が獲物ですか! 私だってナイフがあれば……」
ドレスのポケットを探ると、なんと普段愛用している二丁の投げナイフが隠されていた。エミーナの瞳にパッと眩い光が灯る。
「よしっ! ナイフがあるなら話は別です! 王子様、私の足引っ張らないでくださいね!」
「……ハッ、度胸だけは一人前か。気に入った」
襲いかかる刺客たちに対し、二人の息の合った連携が炸裂した。カイゼルの華麗で圧倒的な剣技が敵を薙ぎ払い、その隙を突いて迫る影を、エミーナの投げナイフが寸分の狂いもなく射抜いていく。
「見事だ、エミーナ!」
「ふふん、伊達にシャルロッテお嬢様をお守りしていませんから!」
だが、背後から放たれた一本の毒矢が、エミーナに向かって一直線に飛来した。
「エミーナっ!」
カイゼルは躊躇なく踏み込み、自身の腕でその矢を弾き飛ばした。激しい衝撃とともに矢は破砕したが、カイゼルの腕から鮮血が散る。
「王子様!? お怪我が……!」
「……かすり傷だ。お前が無事なら、それでいい」
先ほどまでの意地悪な態度は消え去り、カイゼルは深く優しい眼差しでエミーナを見つめた。そのまま強い力で彼女を抱き寄せる。
「な、なにを……っ! 離してください!」
「離さん。二度とお前を危険に晒すものか。……僕の側にいろ、おてんば姫。いや……エミーナ」
力強い腕の温もりと、耳元で囁かれる情熱的な声。エミーナの胸は早鐘のように激しく高鳴り、顔が火が出るほど熱くなった。
(な、なになにこれ!? 夢だって分かってるのに、胸がキュンキュンして破裂しそう……っ!)
◇
一方、時を同じくして、ロゼッタの意識は静寂に包まれた深い夜の王宮回廊にあった。
窓から差し込む月光が、黒髪の前下がりボブを美しく照らし出している。ロゼッタは自身の装いを確認した。可憐な侍女服ではなく、漆黒の革鎧を纏った王宮暗部の装いだった。
「これは……『アルヴの魔導書』の力による夢の中、ですか」
ロゼッタは一瞬で状況を把握し、冷静に溜息をついた。
「お嬢様も困ったことをしてくださいますわ。私にこのような甘ったるい幻影を見せようだなんて……」
「何が『甘ったるい』だ、ロゼッタ」
突如、背後の暗闇から低く重厚な声が響いた。
振り返ると、そこには金色の髪を厳格に切り揃え、鋭い藍色の瞳をした騎士が立っていた。王宮近衛騎士団長、ルードヴィヒである。彼は身の丈ほどもある大剣を背負い、静かな圧圧感を漂わせながらロゼッタへと歩み寄ってくる。
「ルードヴィヒ隊長……」
「夜間の単独調査は禁じられているはずだ。相変わらず自分勝手な行動が多いな、お前は」
ルードヴィヒは冷ややかな声で告げながらも、ロゼッタの至近距離で足を止めた。その瞳には、隠しきれない懸念と熱が宿っている。
「私はただ、職務を全うしているだけです。隊長の手を煩わせるつもりはありません」
ロゼッタがいつものように冷徹な素振りで目を逸らそうとした瞬間、ルードヴィヒの大きな手が彼女の顎をそっと、しかし力強くすくい上げた。
「〜〜〜っ!?」
「私から目を逸らすな、ロゼッタ」
顔が触れ合いそうなほどの至近距離。ルードヴィヒの厳格な瞳が、まっすぐにロゼッタの瞳の奥を射抜く。
「お前はいつも一人で全てを抱え込もうとする。……私がどれほどハラハラさせられているか、少しは自覚したらどうだ」
「た、隊長……これは……夢の中の出来事、です……」
冷静さを保とうとするロゼッタだったが、普段の完璧なポーカーフェイスが崩れ、頬が朱に染まっていくのを止められない。
「夢か現実かなど関係ない。私が護りたいのは、お前という存在だけだ」
その時、廊下の奥から不気味な足音が近づいてきた。謀反を企てる貴族の刺客たちだ。
「ちっ、追手か。ロゼッタ、私の背中に隠れろ」
「お断りします。私は隊長に護られるだけの脆弱な存在ではありません」
ロゼッタは素早く短剣を鞘から抜き放ち、静かに身構えた。
「強情な女だ。……だが、そういうところも嫌いではない」
ルードヴィヒは微かに口元を緩めると、大剣を一閃させた。凄まじい剣圧が廊下を突き抜け、敵の足止めをする。ロゼッタはその不意をついて影のように滑り込み、鮮やかな体さばきで敵の武器を弾き飛ばしていった。
静寂が戻った回廊で、息を整える二人。ルードヴィヒは剣を納めると、不意にロゼッタの手を強く握りしめた。
「隊長……?」
「手傷はないな? ……もう二度と、私の視界から消えるな。お前が暗闇を走るなら、私がその暗闇を照らす光になろう」
冷徹だった騎士が見せる、ただ一人への絶対的な執着と情熱。ロゼッタの胸の奥で、カチリと何かが音を立てて弾けた。
(そんな……冷徹な騎士様のクーデレだなんて……私、こんなベタな展開に動揺するはずが……っ!)
◇
エミーナの夢の世界では、戦いを終えた中庭の木陰で、カイゼル王子がエミーナを抱き寄せたまま離さずにいた。
「もう二度と離さんと言ったはずだ、おてんば姫」
「だ、だからおてんばじゃなくてエミーナですってば……っ! ああもう、顔が近いです王子様!」
「なら、僕の妻になれ。そうすれば一生、名前で呼んでやる」
「つ、妻ぁぁぁっ!?」
耳元で囁かれる甘い求婚の言葉に、エミーナの頭は真っ白になり、幸福感とときめきで破裂しそうになっていた。
一方、ロゼッタの夢の世界でも、静かな月光の下でルードヴィヒ隊長がロゼッタの腰を引き寄せていた。
「お前がいくら拒もうと、私の心はお前だけのものだ。……逃がさんぞ、ロゼッタ」
「隊長……ずるいですわ、そんな顔でおっしゃるなんて……」
静かに重ねられる唇の気配。ロゼッタはついに抗うことを諦め、そっと目を閉じたのだった。
◇
「ふふふ……二人とも、とっても良いお顔をしているわ!」
フロスト・ヴァイス城の寝室で、シャルロッテは満足そうに微笑むと、『アルヴの魔導書』を静かにパタンと閉じた。古代の青紫色の光が収まり、夢の魔法が解けていく。
「〜〜〜〜〜〜っっっ!?」
突如、ベッドとソファから同時に跳ね起きる二人の侍女!
エミーナは顔を真っ赤にして両頬をバシバシと叩き、ロゼッタは呼吸を荒くしながら黒髪の前下がりボブを激しく乱していた。
「お、王子様……っ! 抱っこ……求婚……っ! ああぁぁぁ恥ずかしすぎるぅぅっ!」
エミーナがクッションに顔を埋めてバタバタと足をのたうち回る。
「〜〜〜っ! 近衛隊長……っ!『逃がさん』だなんて……誰があんな展開に……っ!」
ロゼッタも滅多に見せないパニック状態で、胸元を押さえながら息を整えていた。
そんな二人を見て、シャルロッテは心底楽しそうに手を叩いた。
「どうだった、二人とも? 私のプレゼントした『最高の夢』は楽しんでもらえたかしら?」
「お、お嬢様ぁぁぁっ! 無茶苦茶です! あんなの心臓が持ちませんよー!」
「……お嬢様。いくら日頃の感謝とはいえ、限度というものがございますわ……っ!」
口々に真っ赤な顔で文句を言うエミーナとロゼッタ。しかし、その瞳には夢の余韻と、隠しきれないときめきの光がはっきりと宿っていた。
「ふふ、でも二人とも、口ではそう言いながら、なんだかすごく嬉しそうよ?」
シャルロッテが悪戯っぽく微笑むと、二人は顔を見合わせ、同時にふっと表情を緩めた。
「もう……本当にお嬢様には敵いませんわ」
ロゼッタが降参したように溜息をつき、乱れた髪を指で整える。
「へへ……でも、ちょっとだけ……本当にちょっとだけ、格好良かったかもです、あの王子様」
エミーナも照れくさそうに頭を掻きながら笑った。
窓の外では、秋の澄み切った陽光がクリスタリア湖の水面を美しく照らしている。夢のようなロマンスを胸に秘めながら、三人の絆はより一層深く、温かく結ばれたのだった。




