第57章『2人にもトキメキとドキドキを』
クリスタリア湖の透明な水面が、秋の透き通った朝日を受けてキラキラと銀色に輝いていた。
湖の中央にぽっかりと浮かぶ島にそびえ立つのは、白大理石の塔と繊細な装飾で知られるフロスト・ヴァイス城。セレスティア伯爵家の居城であるこの城に、十月の爽やかな朝が訪れた。澄んだ冷気が城全体を包み込み、窓ガラスの端には薄っすらと繊細な霜の結晶が模様を描いている。
城の最上階近くに位置する広々とした寝室で、豪奢な天蓋付きベッドの天鵞絨のカーテンがふんわりと揺れた。
ふさふさとした長い睫毛がゆっくりと震え、シルクのシーツから可憐な少女が顔を覗かせる。淡い栗色の髪を朝光に透かせるその少女——セレスティア伯爵家の令嬢、シャルロッテは、重い瞼を擦りながら静かに身体を起こした。
「……ん……リド……様……?」
寝ぼけた声で呟き、空になった隣の枕へと無意識に手を伸ばす。しかし、そこに触れたのは人肌の温もりではなく、ひんやりとしたシルクの冷たさだけだった。
シャルロッテは数回瞬きをして、ゆっくりと周囲を見回した。
シックで洗練されたリド公爵邸の寝室ではない。見慣れた、幼少期から過ごしてきたフロスト・ヴァイス城の自室だ。壁には幼い頃に父から贈られた肖像画が飾られ、窓の外には見渡す限りのクリスタリア湖の青い水面が広がっている。
「あれ……? 泥だらけの修道院は……? 王宮の仮面舞踏会は……? え、挙式は……?」
シャルロッテは呆然と自らの手を見つめた。左手の薬指には、あの日、月光の下でリドから贈られたはずの銀の誓いの指輪がない。
(夢……? うそ、全部夢だったの……!?)
あんなにリアルだったのに。 冷徹な「黒狼公」リド公爵との衝撃的な出会い。暗闇の中で感じた彼の胸の鼓動。自分を庇って負った傷の温もり。大広間での激闘と、夜明けの修道院で見せた彼の優しい微笑み。そして、王宮の大聖堂で交わした愛の誓いと、二人で誓い合った甘い未来——。
(私……ひとりで勝手に何回もリド様と出会って、恋をして、命がけで戦って、結婚までしていたなんて……っ!)
事実を理解した瞬間、シャルロッテの顔が耳まで真っ赤に染まった。あまりの羞恥心に、思わず羽根布団を頭からかぶってベッドの上でバタバタと足をのたうたせる。
(恥ずかしすぎる……! なんであんなにディテールがしっかりした長編の夢を見たの私!? しかも、何回も続きを見るみたいに結婚生活まで満喫しちゃって……っ!)
「おはようございます、シャルロッテお嬢様! 今朝も絶好の秋晴れですよー!」
突如、パンッと威勢よく扉が開く音とともに、明るい声が部屋に響きわたった。
布団の隙間からそっと覗くと、そこには見慣れた金髪のショートボブを元気いっぱいに揺らす侍女、エミーナの姿があった。手に銀のトレイを載せ、焼きたてのパンと温かいハーブティーの湯気を立たせている。
「エミーナ……」
「あら、お嬢様? なんだか赤くなっていらっしゃいますけど、熱でもおありですか? それとも……また何か面白い夢でもご覧になりましたか?」
エミーナがニシシと悪戯っぽく笑う。そのすぐ後ろから、静かな足取りで黒髪前下がりボブの侍女、ロゼッタが歩み寄ってきた。彼女は手際よく窓のカーテンを大きく開き、秋の澄み切った光を室内へと招き入れる。
「お嬢様、おはようございます。今朝のフロスト・ヴァイス城は一段と冷え込んでおります。温かいティーをご用意いたしましたわ」
ロゼッタはいつも通りの冷静で完璧な所作でカップを小机に置くと、少し首をかしげてシャルロッテを見つめた。
「ですが本当に……ずいぶんとうなされていたというか、うっとりされていたというか。夢の中でずいぶんとお忙しそうでしたね。『リド様』とお呼びになる声が、廊下まで聞こえておりましたよ」
「〜〜〜っっ!?」
シャルロッテは悲鳴を上げて再び布団に潜り込んだ。
「き、聞こえて……!? ロゼッタ、聞こえていたの!?」
「ええ、しっかりと。『高飛車な言い方は相変わらずですね』とおっしゃっていたところまでは」
「やだぁぁぁっ! 忘れて! 今すぐ忘れて二人とも!」
布団の中からジタバタと暴れるシャルロッテを見て、エミーナとロゼッタは顔を見合わせると、思わず吹き出した。
「ふふっ、お嬢様ったら可愛らしい! どんな夢だったんですか? ほらほら、教えてくださいよ!」
エミーナがベッドの脇に駆け寄り、好奇心いっぱいの目で布団を引っ張る。ロゼッタも呆れ顔を装いつつ、興味深そうに前髪をかき上げた。
「お嬢様がそこまでお顔を赤くされるなんて珍しいことですわね。噂の『リド様』とは、北方の冷徹な公爵様のことでしょうか? 夢の中でロマンスでも楽しまれたのですか?」
「ロゼッタまで! もう、からかわないで……っ!」
シャルロッテは意を決して布団から顔を出した。乱れた栗色の髪を指で整えながら、膨れっ面で二人を睨みつける。だが、その瞳にはどこか楽しげな色が宿っていた。
二人とこうして他愛のない冗談を交わす時間は、シャルロッテにとって何よりの宝物だ。夢の中でも、エミーナとロゼッタはいつでも自分を信じ、命がけで守ってくれる最高の侍女であり、友人だった。
(夢の中の二人も、すごく格好よくて素敵だったな……。ナイフを投げて敵を倒したり、冷静に隠し通路を見破ったりして……)
そこまで考えたシャルロッテは、ふと名案を思いついたように手をぽんと打った。
(そうよ! 私だけが夢の中で素敵な体験をして、胸をキュンキュンさせているなんてズルいじゃない! 二人にも、あの最高のドキドキとときめきを味わわせてあげなきゃ!)
シャルロッテの唇が、にやりと企みを含んだ微笑みを形作る。
「ねえ、二人とも。私ね、とっても素敵なことを思いついちゃったの」
「……お嬢様? その笑顔、なんだかすごく嫌な予感がするのですが」
ロゼッタが察しの良さを見せて一歩後ずさる。エミーナも「えっ、なになに!?」と目を輝かせつつも、シャルロッテの気迫に押されて身を引いた。
シャルロッテはベッドから軽やかに飛び降りると、シフォン地のナイトドレスの裾を翻して、壁際に置かれた重厚な黒檀の本棚へと向かった。
最上段の奥深く、固く閉ざされた厳重な鍵付きの箱。シャルロッテは首から下げていた小さな銀の鍵を取り出し、カチリと音を立てて開けた。中から取り出したのは、古びた革表紙に銀のルーン文字が眩い光を放つ一冊の魔導書——セレスティア伯爵家に代々伝わる秘宝『アルヴの魔導書』であった。
「お、お嬢様!? なぜそれを持ち出すのですか!?」
ロゼッタの冷静な顔が瞬時に引きつった。エミーナも金髪を逆立てるようにして叫ぶ。
「えええっ!? 『アルヴの魔導書』って、人の精神に干渉して最高の夢を見せるっていう、あの禁断の古文書じゃないですか!?」
「ふふふ、正解よ二人とも!」
シャルロッテは胸の前で重厚な魔導書を抱え、自信満々に胸を張った。淡い栗色の髪が朝日に照らされて黄金色に輝く。
「二人には日頃の感謝を込めて、私が見たような……ううん、それ以上にドラマチックで胸がキュンキュン弾けるような『最高の夢』をプレゼントしてあげるわ! 夢の中ならどんな危険な目に遭っても怪我もしないし、とびきり格好いい騎士様や貴公子と恋に落ち放題よ!」
「お、辞退します! 謹んで辞退させていただきますわお嬢様!」
ロゼッタが即座に両手をクロスさせて拒絶のポーズをとった。黒髪の前下がりボブが激しく揺れる。
「私どもは今の生活に何一つ不満はございません! 夢の中でまで怪しい男に迫られたり、大事件に巻き込まれたりするなど、御免被ります!」
「そうですよお嬢様〜!」
エミーナもブンブンと両手を振って同調した。
「私、現実のおいしいパンとハーブティーがあれば十分幸せです! 夢の中の王子様より、今夜の晩餐のローストビーフの方が大事です〜!」
口々に慌てて辞退を申し出る二人。しかし、シャルロッテは見逃さなかった。
ロゼッタの頬がほんのりと桃色に染まっているのを。 エミーナの瞳が、「とびきり格好いい騎士様」というワードに一瞬だけギラリと輝いたのを。
(ふふっ、口ではあんなことを言っているけれど……本当は二人とも、ちょっと気になっているんじゃない!)
「二人とも、素直じゃないんだから」
シャルロッテは魔導書のページをパラパラと手際よくめくった。古代ルーン文字が淡い青紫色の光を放ち始め、部屋の中に甘い神秘的な香りが漂い出す。
「大丈夫よ、ロゼッタ。あなたには……そうね! いつも冷静沈着なあなたを、強引な態度で翻弄してくるクーデレな近衛隊長様とのロマンスなんてどうかしら? 『私から目を逸らすな』なんて言われちゃったりして!」
「な……っ!? 誰がそんなベタな展開にときめくと言いましたか……っ!」
ロゼッタは顔を真っ赤にして口元を両手で覆った。だが、その瞳はどこか遠くを泳いでおり、明らかに脳内でシチュエーションを思い描いてしまっている。
「そしてエミーナには!」
シャルロッテはさらにページをめくり、悪戯っぽく微笑んだ。
「元気いっぱいのあなたを『おてんば姫』って呼んで可愛がってくれる、ちょっと意地悪でオレ様なお隣の国の王子様! 窮地の時に颯爽と馬で駆けつけて抱き上げてくれるのよ!」
「お、おてんば姫……っ!? 颯爽と抱っこ……!?」
エミーナは「はわわ……」と声を漏らし、両頬を包み込んでうっとりと目を細めた。
「いやいやダメですエミーナ、流されては危険ですわ!」
ロゼッタがハッと我に返り、エミーナの肩を揺さぶる。
「思い出してください、お嬢様の『アルヴの魔法』は加減というものを知りません! きっと夢の中でとんでもない事件や乱闘に巻き込まれる羽目になりますわ!」
「で、でもロゼッタ……『おてんば姫』ですよ? ちょっと意地悪な王子様ですよ……? 一回くらいなら見ても損はないような……」
「エミーナ! しっかりしなさい!」
ドタバタと揉め始める二人を見て、シャルロッテはクスリと笑った。
『アルヴの魔導書』が放つ温かな光が、ゆっくりと部屋全体を包み込んでいく。フロスト・ヴァイス城の窓の外では、クリスタリア湖の水面が朝日に照らされ、まるで祝福するように輝いていた。
「さあ、二人とも! 準備はいい?」
シャルロッテは愛らしい笑みを浮かべ、魔導書の最後の呪文を優しく口ずさんだ。
「私に最高の運命を見せてくれた素晴らしい夢の世界へ——二人を招待するわ!」
「「きゃあああああっ!?」」
部屋の中に一瞬だけ眩い光が満ち、甘い夢の風が吹き抜けた。
ふと光が収まると、そこにはベッドとソファーにそれぞれ倒れ込み、安らかな寝息を立て始めているエミーナとロゼッタの姿があった。二人とも、少し前までの狼狽が嘘のように、どこか満足げで幸せそうな微笑みを浮かべている。
エミーナは「王子様……そんなに強く抱きしめられたら……むにゃむにゃ」と寝言を呟き、ロゼッタも「まったく……強引な方ですね……」と頬を染めながら寝返りを打っていた。
シャルロッテは魔導書を静かに閉じると、大事に胸に抱きかかえた。
「ふふ、二人とも、どんな夢を見ているのかな? 目覚めたら、絶対に感想を聞かせてもらわなくちゃ」
自室の窓辺へ歩み寄り、冷たい澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
湖に浮かぶフロスト・ヴァイス城の上空には、雲一つないどこまでも広い秋の青空が広がっていた。
夢の中で紡がれた数々の愛おしい記憶。ツンデレなリド公爵との甘く切ないロマンスも、二人で乗り越えた破滅の運命も、全部シャルロッテの心の中に大切に仕舞われている。
(いつか……現実のどこかで、本当にあの人に会えたらいいな)
そんな予感を胸に抱きながら、シャルロッテは眠る侍女二人に優しくブランケットをかけてあげるのだった。




