第55章『ツンデレ公爵は恋に落ちる』その8
秋の澄み渡る大空の下、ル=ヴァル王国の王都は、歴史上もっとも華やかで盛大な祝福の熱気に包まれていた。
サン・ジュリアン修道院の大聖堂。かつて陰謀の炎に包まれ、破滅の危機に瀕したその場所は見事に再建され、いまや一面の白い百合の花と祝福の讃美歌で満たされている。
「お嬢様、ヴェールが少し傾いておりますわ」
ロゼッタが最後の最後まで完璧な仕上がりを追求するように手際よく微調整を施す。その隣では、エミーナが、感極まって涙をぼろぼろとこぼしていた。
「うぅ……ロゼッタぁ、お嬢様が……お嬢様が綺麗すぎて、もう息ができません……!」
「泣くのはまだ早いです、エミーナ。これからが本番なのですから」
そう言いながらも、ロゼッタの目元もかすかに潤んでいる。シャルロッテは淡い栗色の髪に飾られた銀のティアラを触りながら、二人に向かって愛おしそうに目を細めた。
「ふたりとも、本当にありがとう。今日という日をみんなで笑って迎えられて、私は世界一幸せよ」
重厚な大扉がゆっくりと開くと、パイプオルガンの荘厳な音色が聖堂内に響き渡った。
純白のバージンロードの先には、漆黒の礼服に身を包んだリド公爵が待っていた。胸元には、あの日シャルロッテが彼の傷口に縛り付けたドレスのレースを模した、銀糸のブローチが誇らしげに輝いている。
祖父セレスティア伯爵に導かれ、一歩一歩踏みしめるシャルロッテ。リドの前に立ち、その手を手渡された瞬間、ふたりの視線が静かに交差した。
かつて氷のように冷たかったリドの瞳には、いまや溢れんばかりの愛おしさと情熱が宿っている。
「……待ちわびたぞ、余の妻よ」
「はい、私の愛する公爵様」
司祭の前で誓いの言葉を交わし、リドがシャルロッテのヴェールをゆっくりと上げると、惜しみない拍手と祝福の花吹雪がふたりを包み込んだ。重なる唇から伝わる確かな温もりが、これが夢ではなく、自らの手で掴み取った現実なのだと教えてくれる。
挙式を終え、大聖堂のバルコニーから大勢の民衆へと手を振るふたり。その少し後ろでは、エミーナとロゼッタが晴れやかな笑顔で並んでいた。
「リド様」
「ん?」
「私、知っています。私たちがこれから歩む未来には、きっと小さな喧嘩や、新しく乗り越えるべき試練もあるかもしれません」
シャルロッテは風になびく淡い栗色の髪を押さえながら、リドの横顔を見上げた。リドは愛おしそうに彼女の肩を抱き寄せる。
「どんな試練であろうと、怯むことなどない。お前の予知夢と余の剣、そして固く結ばれた絆がある限り……余たちの未来は、いつだって希望に満ちている」
青空高く舞い上がる白い鳩たちを見送りながら、ふたりは深く微笑み合った。
◇
聖堂を埋め尽くした歓声の余韻が残る夕刻。祝福の賑わいから少し離れた修道院の静かな中庭で、シャルロッテは一人、夕日に染まる回廊にたたずんでいた。
風が淡い栗色の髪を優しく揺らす。手元で輝く誓いの指輪を見つめていると、後ろから力強い、けれど温かい足音が近づいてきた。
「このような場所で何をしている、余の妻よ」
漆黒の礼服のジャケットを脱ぎ、袖を少し捲くったリドが歩み寄ってくる。かつて近寄り難い覇気を纏っていた「黒狼公」の表情は、驚くほど穏やかだ。
「リド様……。あまりにも幸せで、なんだか少し夢の中にいるような気がして」
「夢、か」
リドは静かに胸のポケットから、一冊の古い小さな手帳を取り出した。あの日、激闘の末に奪還し、解呪された『如意の書』の羊皮紙の一部を装丁し直したものだ。
「かつてお前を苦しめた予知夢は、もう二度とお前を縛ることはない。……だが、もしまた不吉な夢を見た時は、真っ先に余に言うのだぞ」
「ふふ、どうしてですか? また高飛車に『足手ま徒だ』とおっしゃるのですか?」
「言わん」
リドは真顔で否定すると、シャルロッテの手を握り締め、その手の甲に深く愛おしいキスを落とした。
「お前が未来を見せ、余がその道を切り開く。……二人でなら、どんな運命だって書き換えられる。そうだろ?」
その真っ直ぐな瞳に、シャルロッテの胸が高鳴る。かつて冷徹と恐れられた男が見せる、ただ一人への絶対的な信頼と情熱。
「お二人とも〜! ここにいらしたのですか!」
中庭の入り口から、エミーナが髪を躍らせながら走ってきた。両手には、披露宴で配られた色とりどりの果実酒のグラスが握られている。
「エミーナ、走り回って着物を乱してはいけませんと、何度言えば分かりますの」
後ろから追いついたロゼッタが、呆れ顔で小言を吐く。けれど、その手にはしっかりとシャルロッテのための温かいハーブティーが乗ったトレイが握られていた。
「もうすぐ夜の晩餐会が始まりますわ、お嬢様。……いえ、公爵夫人様」
ロゼッタが少し照れくさそうに、けれど誇らしげに言い直すと、エミーナも「公爵夫人様!」と目を輝かせて乗っかった。
「公爵夫人、か。……悪くない響きだ」
リドが満足そうに頷き、シャルロッテは顔を真っ赤にしながら二人を小突いた。
「もう、二人ともからかわないで! 私はずっと、あなたのシャルロッテよ」
「……ああ、そうだとも」
リドはシャルロッテの腰を引き寄せ、二人の侍女が見守る前で、優しく彼女の額に口づけた。歓声を上げるエミーナと、満足そうに頷くロゼッタ。
眩い月光が辺りを照らし出し、幸せに満ちた夜の宴が、静かに始まろうとしていた。
◇
月明かりが美しく照らし出す王宮の夜会は、真夜中を過ぎてもなお、祝福の熱気と優雅な音楽に包まれていた。
賑やかな大広間を抜け出し、庭園の小道を進んだ先にある静寂な東屋。シャルロッテはリドの肩にそっと身を預け、流れる夜風を頬に感じていた。
「疲れたのではないか?」
リドが低い声で問いかけながら、自身の漆黒のマントを脱ぎ、シャルロッテの華奢な肩をやさしく包み込む。彼の体温がじんわりと伝わり、シャルロッテは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「いいえ。リド様とこうして夜空を見上げていると、疲れなんて吹き飛んでしまいます」
淡い栗色の髪を風になびかせ、彼女が愛おしそうに微笑むと、リドは彼女の細い指をすくい上げ、自分の手に包み込んだ。
「修道院で初めてお前と出会った日のことを、今でも思い出す」
「まあ……あの時の冷たかった黒狼公様のことですか?」
シャルロッテが悪戯っぽく小首をかしげると、リドはわずかに困ったように眉根を寄せ、それから深く穏やかな吐息をついた。
「あの時のお前の瞳は、恐怖に震えながらも、決して運命に屈しない強い光を宿していた。ただの身の程知らずな少女だと思ったはずが……気づけば余の心のすべてを奪っていたのだ」
照れもせずに真っ直ぐな言葉を投げてくる夫に、シャルロッテの頬がぽっと朱に染まる。
「私もです。……冷徹で恐ろしいお方だと思っていたのに、本当は誰よりも優しく、私を守ってくださった。リド様と出会えたからこそ、私は運命を変える勇気を持てたのです」
ふたりが互いを見つめ合い、自然と顔を近づけたその時——。
「お〜い! お嬢様! 公爵様! こんなところに隠れていらしたんですか!」
賑やかな声とともに、東屋の影からエミーナが姿を現した。手には豪勢に盛られた夜会の特製デザートのお皿を抱えている。
「エミーナ、また空気を読まずに飛び出して……」
後ろから現れたロゼッタが、呆れたように溜息をついた。しかし、その手にはしっかりとシャルロッテの寒さを案じた温かい飲み物が用意されている。
「だってロゼッタ、お祝いの極上タルトですよ! お嬢様と一緒に食べたかったんだもの!」
「もう、エミーナったら……ふふっ」
シャルロッテが思わず吹き出すと、リドも諦めたように口元を緩め、妻の肩を抱き寄せる力を少しだけ強めた。
「まあ良い。今夜は特別な夜だ。……二人も、シャルロッテの側で共に祝うといい」
「やったぁ! さすが公爵様!」
無邪気に喜ぶエミーナと、少し誇らしげに礼を執るロゼッタ。そして、かけがえのない大切な妻を愛おしそうに見つめるリド。
かつて悪夢の不吉な予感に怯えていた夜はもう来ない。目の前にあるのは、確かな絆で結ばれた愛する人々と、自分たちの手で手繰り寄せた、どこまでも続いていく輝かしい未来だけだった。
夜空に散りばめられた満天の星々が、四人の新しい旅立ちを静かに、そして温かく照らし続けてい




