第53章『ツンデレ公爵は恋に落ちる』その6
朝靄が静かに立ち込める修道院の跡地。破滅の危機を脱した境内には、冷たくも心地よい朝の空気が満ちていた。
「お嬢様、ドレスが泥と煤だらけですわ。伯爵閣下に見つかったら、またお小言の嵐です」
ロゼッタが黒髪の前下がりボブを揺らしながら、シャルロッテの肩に羽織っていたマントの汚れを丁寧にはらい落とす。
「もう、ロゼッタったら固いんだから! これだけの偉業を成し遂げたんだもの、伯爵様だって怒るに怒れないわよ」
エミーナは金髪を勢いよく揺らしながら、得意げに鼻を鳴らした。二人の侍女のいつものやり取りに、シャルロッテの心はすっかり解きほぐされていく。
「ふたりとも、ありがとう。ふたりがいてくれたから、私はここまで来られたの」
感謝を伝えるシャルロッテの視線の先には、ひとり離れた場所で崩れた石柱に腰かけ、手首の包帯をじっと見つめるリドの姿があった。シャルロッテが引きちぎったドレスのレースで作った、急ごしらえの手当てだ。
シャルロッテは静かに歩み寄ると、彼の前にそっと佇んだ。
「公爵閣下……いえ、リド様。お怪我の具合はいかがですか?」
リドはゆっくりと顔を上げた。仮面を外した彼の素顔には、朝日を浴びて透き通るような美しさと、どこか柔らかな光が宿っていた。
「……大したことはない。お前の手当てが効いたようだ」
不器用に目を逸らしながら応える彼の手を、シャルロッテは優しく包み込んだ。
「予知夢は……もう見えません。私を苛んでいた恐ろしい闇の未来は、完全に消え去りました」
「そうか」
「ええ。これからは、自分たちの足で歩んでいく未来があるだけです」
リドは立ち上がると、シャルロッテの淡い栗色の髪にそっと触れ、そのまま愛おしそうに彼女の身体を抱き寄せた。
「お前が見せてくれた未来だ。ならば……これからの余の未来には、常にシャルロッテ、お前がいなければ困る」
「リド様……」
低く温かい声で囁かれた言葉に、シャルロッテの頬がぽっと赤く染まる。遠くで見守っていたエミーナが「きゃーっ!」と小さく歓声を上げ、ロゼッタが慌ててその口を手で塞ぐ気配が伝わってきた。
「身の程知らずで強情な女だが……生涯をかけて、守り抜くと誓おう」
「ふふ、高飛車な言い方は相変わらずですね。でも……喜んでお受けいたします」
ふたりの影が朝日に照らされ、ひとつに重なり合う。
数々の陰謀と不吉な予知夢に彩られた長い夜は、
終わりを迎えたようであった。
◇
朝の光がやわらかく包み込む修道院の境内。静寂を取り戻した森の小道から、急ぎ足で近づいてくる馬車の車輪音が響き渡った。
「お嬢様! 伯爵家の紋章が入った馬車ですわ!」
ロゼッタが素早く警戒を解き、黒髪をなびかせながら一歩前に出る。馬車の扉が勢いよく開き、駆け出してきたのは——青ざめた顔のセレスティア伯爵、シャルロッテの祖父であった。
「シャルロッテ! 無事だったか……! 王宮で騒動があったと聞き、居ても立ってもいられず探し回ったのだぞ!」
老人は孫の泥だらけのドレスと、その傍らに佇む「黒狼公」リド公爵の姿を見て息を呑んだ。威風堂々とした立ち姿の公爵が、深々と頭を下げる。
「伯爵、ご心配をおかけした。だが安心されるといい。令嬢は王国の危機を救った、誠に勇敢な淑女だ」
「公爵閣下……? 一体、何が……」
混乱する老人に対し、エミーナが金髪を揺らしながら胸を張った。
「説明すると長くなりますが、簡単に言えば、お嬢様と私たちが王宮と公爵様をピンチからお救いしたのです!」
「エミーナ、言い方というものがありますわ」
ロゼッタの呆れ顔に、シャルロッテとリドは思わず顔を見合わせて小さく笑みをこぼした。
数日後。
王宮の陰謀は完全に解明され、暗躍していたレオン公爵の一味は一掃された。王都恒京は平和を取り戻し、街中が明るい歓声に包まれる中、フロスト・ヴァイス城の庭園には穏やかなお茶会の時間が流れていた。
咲き誇る薔薇の花々に囲まれた東屋で、シャルロッテは温かい紅茶に口を寄せる。
「お嬢様、次はどのようなお召し物になさいますか? 公爵邸からの招待状が、今日も山のように届いておりますよ」
エミーナが楽しそうに手紙の束を掲げ、ロゼッタが手際よく焼き菓子を皿に盛り付ける。
「もう、ふたりとも……少し休ませて頂戴」
シャルロッテが苦笑したその時、風を切る音とともに庭園の入り口に一匹の漆黒の馬が姿を現した。馬から軽やかに飛び降りたのは、漆黒の外套を羽織ったリドであった。
「公爵様……! お知らせ無し訪問ですか!?」
慌てるエミーナを余所に、リドは一直線にシャルロッテの元へ歩み寄る。その瞳には、以前のような冷徹さは微塵もなく、深みのある優しい光だけが宿っていた。
「シャルロッテ。王宮での戦功に対する恩賞の儀が執り行われることになった。……余と一緒に来てくれるな?」
リドは胸元から、輝く小さな銀の指輪を取り出した。それは彼の一族に代々伝わる、生涯の伴侶にしか贈られない誓いの指輪だった。
「これは……」
「お前の見せてくれた未来の先に、余のすべての幸せがある。……受け取ってくれるか?」
淡い栗色の髪を風になびかせ、シャルロッテは満開の笑顔でうなずいた。
「はい、リド様。喜んで……どこまでも、あなたと共に歩んでいきます」
かつて彼女を苛んだ不吉な予知夢は、もう二度と現れることはない。
そのようにさえ思えるのであった。




