第47章『フロスト ヴァイス城』
静寂を破ったのは、小鳥のさえずりでも、戦場の雄叫びでもなかった。 水面を優しく撫でる風が窓枠を揺らし、部屋の奥へと運び込む澄んだ水の匂い。そして、柔らかな陽光がまぶたを打つ温もりであった。
「……ん……」
シャルロッテ・セレスティアは、ゆっくりと目を開けた。 視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。漆黒の暗雲も、爆煙に包まれた聖都の残骸もそこにはない。白磁のような石材に、繊細な蔓草の銀彫刻が施された天蓋――間違いなかった。
ここは、クリスタリア湖の透明な水の上に悠然と浮かぶ、セレスティア伯爵家の居城『フロスト・ヴァイス城』。 北の秘境と謳われ、湖面から立ち昇る霧と氷結晶によって幻想的な姿を見せる、シャルロッテが生まれ育った家であった。
(私……私、城の自室にいるの……?)
シャルロッテは身体を起こした。身に着けているのは、戦場で纏っていた白銀の甲冑ではなく、肌触りの良い極上のシルクで仕立てられたネグリジェだ。 戦いの疲労も、過酷な冬を越えた身体の重みも存在しない。あるのは、休日の朝特有の、拍子抜けするほどのお気楽でだらけた空気だけだった。
「夢……だったの?」
シャルロッテは自問自答しながら、ベッドから足を下ろした。 ついさっきまで、自分は凄惨な戦場にいたはずだ。前世での悲惨な断頭台の記憶に苦しみ、神剣『空斬刺鏡』を握りしめ、漆黒の森で帝国軍のゲリラを打ち払い、三頭龍の谷で魔龍を絶空で斬り裂き、そして聖都クリスタルヘイムで女皇帝ルシエラに『新星爆発』を叩き込んだ。さらには、前世で自分を陥れた腹黒い『清楚ビッチ』セレスティーヌ・アストレアに一烈なパンチを叩き込んで溜飲を下げたばかりではなかったか。
あの息詰まるほどの臨場感、血の匂い、神剣の刃鳴り――それらがすべて、ただの長い夢だったというのだろうか。
「まさか……でも、あんなにリアルな夢があるかしら……」
シャルロッテは首を傾げながら、ドレッサー(化粧台)の鏡の前へと歩み寄った。 そして、鏡に映った自分の姿を見た瞬間、言葉を失った。
「え……?」
そこに映っていたのは、いつものセレスティア伯爵家のお気楽な美少女令嬢・シャルロッテだった。 だが、決定的な違いがひとつだけあった。
胸の下までしなやかに伸びていたはずの美しい淡い栗色の髪が――肩の上で綺麗に揃えられた「ショートボブ」になっていたのだ。
まるで、あの『ディラグッタ大陸』の異世界で戦っていた時のように。
「な、髪が……! 嘘でしょ、本当に切れてる!?」
驚いたシャルロッテは、慌てて部屋のベルを鳴らした。
「エミーナ! ロゼッタ! すぐに来てちょうだい!」
◇
バタン! と威勢よく扉が開いた。
「シャルロッテ様! いかがされましたか!?」 「何事よ、朝から大声出して!」
飛び込んできたのは、二人の侍女であり大切な親友でもあるエミーナとロゼッタだった。 エミーナは手トレーを持ったまま慌てふためいており、ロゼッタも侍女服の袖を捲りあげたまま駆け込んできている。
だが、二人を見たシャルロッテは、息をのんで目を見開いた。
「ふ、二人とも……髪が……!」
エミーナの淑やかな金髪のロングヘアも、ロゼッタの躍動感あふれる黒髪のポニーテールも消えていた。 二人とも、ディラグッタ大陸で戦っていた時と全く同じ、すっきりとしたショートヘアになっていたのだ。
「え? 髪……?」 エミーナは首をかしげ、自分の後頭部に手をやった。そして、指先が短くなった金髪の毛先だけに触れた瞬間、目を丸くした。
「あれ……? 私の髪……なんでこんなに短くなっているのですか……!?」
「はあ? 何言っちゃってんの……って、うわあああ!? 私の黒髪も短くなってんだけど!?」 ロゼッタも慌ててドレッサーの鏡に駆け寄り、自分の頭をくしゃくしゃと触りまくった。
「ちょっと待って、私昨日までちゃんと髪結んでたわよね!? 誰よ、私が寝てる間に散髪した奴は!?」
「落ち着きなさい、二人とも!」 シャルロッテは二人の肩を掴み、真剣な眼差しで見つめ返した。
「いい? 落ち着いて聞いてちょうだい。二人とも……何か変な『夢』を見なかったかしら?」
「夢……?」 エミーナとロゼッタは顔を見合わせた。
「私……変な夢というか、すごく長くてリアルな夢を見ました……。ヘリングで冬を越して、漆黒の森で極光を放って……聖都の三重の城壁を壊して……」
「……待ちなさいエミーナ。それ、私の見た夢と同じなんだけど」 ロゼッタが怪訝な顔で眉をひそめた。 「私も見たわよ! 侍女の私がなぜか獄炎魔槍『煉獄の咆哮』とかいうクソ格好いい槍を持ってさ、炎の竜巻で帝国のゲリラどもを丸焦げにした夢! 覚醒した火属性がどうたらこうたらって……!」
「二人とも……!」 シャルロッテの胸が高鳴った。
「やっぱり……! 私も同じ夢を見たわ! シャルロッテ・セレスティアとして、前世の宿敵ジュリアンとセレスティーヌに遭遇して……最後は大聖堂で女皇帝ルシエラに『新星爆発』を叩き込んだ夢!」
三人は顔を見合わせ、静まり返った。 部屋の中に、クリスタリア湖の静かな波音が響く。
「……え、ちょっと待って」 ロゼッタが指を折って数え始めた。
「三人が三人とも同じ夢を見て……目が覚めたら三人ともディラグッタ大陸の時と同じショートカットになってるってこと……?」
「は、はい……。偶然にしては、あまりにも出来過ぎています……」 エミーナが自分の短くなった金髪を弄りながら、ぽつりと言った。
数秒の沈黙の後――。
「「「あははははははははっ!!!」」」
三人は同時に破顔し、お腹を抱えて大爆笑し始めた。
◇
「なによそれ! 夢か幻想か知らないけど、記憶を共有してるなんて面白すぎるじゃない!」
ロゼッタがドレッサーの椅子にドカリと座り込み、黒髪を揺らしながらお腹をよじらせて笑った。
「本当に……! 私、夢の中で自分が『破邪顕正』なんていう物凄い名前の杖を持って、『不浄なる者よ、消え去りなさい!』なんて叫んでいたのを思い出したら、顔から火が出そうです……!」 エミーナが顔を真っ赤にして、金髪のボブを揺らしながら両手で頬を包み込んでいる。
「エミーナ、何を言ってるのよ!」 シャルロッテがテラスのテーブルへ移動し、優雅に脚を組みながら笑った。
「貴女の『極光障壁』は本当に頼もしかったわよ? 『この光は命を護るための光!』なーんて言っちゃって! 普段の淑やかなエミーナからは想像もつかない男前さだったわ!」
「シャルロッテ様ぁっ! お願いですから蒸し返さないでください……!」 エミーナがシーツに顔を埋めて身悶えする。
「でもさぁ!」 ロゼッタが身を乗り出してきた。 「一番面白かったのはシャルロッテでしょ! 普段はおしとやかな令嬢のフリをしてるのに、セレスティーヌを見た瞬間のあの顔!」
ロゼッタはシャルロッテの真似をして、眉間にしわを寄せ、低い声で囁いた。
「『あんの。清楚ビッチ。糞がぁ。』――ギャハハハハ! 最高だったわよ、あの吐き捨て方! 腹痛い!!」
「ちょ、ちょっとロゼッタ! あれは前世の記憶が混ざっていたからであって、私の本意では……っ!」 シャルロッテの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「いいえ、シャルロッテ様」 エミーナがシーツから顔を上げ、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。 「あの時のシャルロッテ様は、間違いなく本気でした。殺気で神剣がカタカタ鳴っていましたもの」
「もうっ! 二人して私をからかわないでちょうだい!」 シャルロッテは照れ隠しに、テーブルの上に置かれた焼きたてのスコーンを口に押し込んだ。
フロスト・ヴァイス城の朝は、いつも穏やかだ。 窓の外には、クリスタリア湖の美しい青と、城を取り囲む氷結晶の光条が広がっている。あの戦場の過酷さも、血と煙の臭いも、ここにはどこにもない。
「でも……」 ロゼッタが侍女らしく手際よくパンにジャムを塗りながら、ふっと柔らかい表情になった。
「楽しかったわね。あの夢か幻想か分からない世界もさ。侍女の私たちまで戦場に駆り出されて、みんなで助け合って強くなって……最後は最高にかっこよく決めたじゃない」
「ええ……」 エミーナも頷いた。 「短くなったこの髪触りを見ていると、なんだかあの過酷な旅が、本当に私たちが乗り越えてきた絆のように思えてきます」
シャルロッテは鏡に映る短くなった自分の淡い栗色の髪に触れた。 ロングヘアの時よりも首元が軽やかで、なんだか少しアクティブで自由になった気がする。
「そうね……」 シャルロッテは優しく微笑んだ。
「ただのお気楽な夢だったかもしれないけれど……私たちが最高に強い三人だったことは、間違いなさそうね!」
◇
日が高くなるにつれ、フロスト・ヴァイス城のテラスには爽やかな湖風が吹き抜けるようになった。 三人はお気楽な日常モードへと切り替わり、アフタヌーンティーの準備を整えて思い出話に花を咲かせていた。
「そういえばさ!」 ロゼッタが紅茶を飲みながら思い出したように声を上げた。
「ランスロットの奴、覚えてる? あの短パンに白タイツの『湖の騎士』!」
「ふふっ、もちろんですわ!」 エミーナがクスクスと笑う。 「毎回威勢よく突撃しては返り討ちに遭って、『ひえぇぇっ! またしても挟み撃ちか!』って逃げ帰ってくる姿、今思い出しても傑作でしたわね」
「そうそう!」 シャルロッテもティーカップを置いて乗っかった。 「でも彼、最後の三頭龍の谷の戦いでは、一応ランスロット軍の再編を果たして後方を守ってくれたのよね。役立たずだけど、どこか憎めない人だったわ」
「あと、南のビー・スー殿ね!」 ロゼッタが身振り手振りを交えて語る。 「あの熱帯の荒武者! 『ガハハハ! セレスティアの姫君!』って、大斧振り回して暴れてたじゃない。あの人が一番爽やかでいい奴だったわ。ジュリアンとかいう気取った大公に比べたら百倍マシ!」
「ジュリアン様……いえ、ジュリアン大公ですね」 エミーナが苦笑いを浮かべる。 「夢の中とはいえ、前世でシャルロッテ様を裏切った張本人でしたものね。シャルロッテ様がずーっと冷ややかな目で見下ろしていたのが印象的でした」
「当然よ」 シャルロッテはふんと鼻を鳴らした。 「最後までセレスティーヌの猫なで声に騙されて、『足元にはくれぐれもお気をつけあそばせ』って私が忠告してあげたのに、全然気づいてなかったんだから! 本当に男って見る目がないわ!」
「まあまあ、シャルロッテ様」 エミーナが楽しそうに紅茶を注ぎ足す。 「でも最後、大聖堂の裏でセレスティーヌにみぞおちパンチを叩き込んで気絶させたのは、スカッとしましたわ!」
「でしょ!?」 シャルロッテは得意気に胸を張った。 「前世の私怨はあれで完全清算よ! 『前世の私怨は……これで終わりよ』って言って背を向けた時の私、格好良かったでしょ?」
「はいはい、自画自賛乙!」 ロゼッタが笑いながらスコーンをシャルロッテの口に放り込む。
「んむぐっ……! ロゼッタったら!」
「でもさ、最後の『新星爆発』はマジで凄かったわよ」 ロゼッタの目が真剣なものに変わった。 「あの堕天使ルシエラが、光と重力の中で叫びながら消えていくのを見て、鳥肌が立ったもん。『あ、この子本気で世界救いにきてるわ』って思ったね」
「私もです……」 エミーナが深く頷く。 「あの時、ヴィオレッタ様の幻影が重なって……シャルロッテ様が宙界属性魔法を放った瞬間、本当に星が生まれたかと思いました」
二人からの絶賛に、シャルロッテは少し恥ずかしそうに淡い栗色の髪を耳にかけた。
「もう……二人とも褒めすぎよ。私一人じゃ、ルシエラの神雷も防げなかったし、前衛の隙も作れなかった。エミーナの光と、ロゼッタの炎があったからこそ、あの技が届いたのよ」
三人は見つめ合い、自然と笑みがこぼれた。
夢の中の記憶。けれど、そこで感じた熱さや、互いを信頼し合う絆は、間違いなく本物だった。
◇
午後になり、テラスでお茶会を楽しんでいた三人のもとへ、一人の若い青年が整った足取りで歩み寄ってきた。
黒のフロックコートを寸分の乱れもなく着こなし、手に書類バインダーを抱えた青年――セレスティア伯爵家の家令、ルイスであった。
ルイスは20代後半という若さでありながら、前家令であった父の跡を継ぎ、この広大なフロスト・ヴァイス城全体を取り仕切る男性使用人のトップである。賢く、誠実で、極めてまじめな彼は、屋敷の家計管理から男性使用人たちの指揮、城地下の醸造庫にある高級ワインの厳重な管理、そして主人の給仕に至るまで、すべての務めを完璧にこなす優秀な青年であった。
「失礼いたします、シャルロッテ様。午後のスケジュールのご確認と、今期のワインセラーの管理報告に参りました」
ルイスは凛とした立ち姿で深々と一礼した。しかし、顔を上げた瞬間――彼の澄んだ瞳が大きく見開かれた。
「……ッ!?」
いつもは沈着冷静なルイスが、珍しく言葉を失って固まっている。 視線の先にいるのは、淡い栗色のショートボブになったシャルロッテ。そして、同じく金髪と黒髪のショートヘアに変わった給仕中の侍女エミーナとロゼッタであった。
「し、シャルロッテ様……! それにエミーナ、ロゼッタ……その、お髪はいかがされたのですか……!?」
ルイスが驚きを隠せない様子で問い詰める。
「あ……えーっと、ルイス……」 シャルロッテはエミーナ、ロゼッタと顔を見合わせ、苦笑いした。
(まさか『夢の中でディラグッタ大陸の戦士だった時の記憶と同期して、目が覚めたら短くなってました』なんて、家計と屋敷の管理に厳しいルイスに言えるわけないわよね……)
シャルロッテはすっと立ち上がり、ドレスの裾を優雅につまんで一礼した。
「ふふ、驚かせてしまってごめんなさい。ちょっとした……気分転換よ!」
「イメチェン、でございますか……!?」
「そうそう!」 ロゼッタも悪戯っぽく笑いながら、短い黒髪を指で弾いた。 「どうルイス? 結構似合ってるでしょ? これから北の地も温かくなるし、侍女仕事をするにも短くて動きやすくて最高なのよ!」
「私もお二人とお揃いにさせていただきましたの、ルイスさん」 エミーナも短くなった金髪を撫でながら、上品に微笑む。
ルイスは一度深呼吸をし、バインダーを胸元で抱え直すと、いつもの真面目な表情を取り戻そうと咳払いをした。
「……ゴホン。突然のことでしたので驚いてしまいましたが……皆様、大変よくお似合いでございます。お怪我や不審者の侵入などによるものでないと分かり、安心いたしました」
ルイスは誠実な眼差しでシャルロッテを見つめ、恭しく頭を下げた。
「シャルロッテ様。髪型が変わられましても、その凛とした美しさと高貴さは少しも損なわれておりません。……むしろ、どこか勇猛な『英雄』のような凛々しさが漂っておられますな」
「英雄だなんて、大げさよルイス」 シャルロッテはくすくす笑った。
「それではシャルロッテ様、本日の夕食時には、新しいお髪型のお祝いも込めまして、当家の地下ワインセラーより最高級の年代物ヴィンテージワインをお出しするよう手配いたします」
「ありがとう、ルイス。頼みにしているわね」
家令としての務めを果たすべく、ルイスは再び深々と一礼すると、テキパキと男性使用人たちへ指示を出すために去っていった。
◇
ルイスが去った後、三人は再びテラスの柵に寄りかかり、広大なクリスタリア湖を見下ろした。
湖面には、春の柔らかな日差しが反射して、まるでダイヤモンドを撒き散らしたかのようにキラキラと輝いている。 北の秘境フロスト・ヴァイス城。ここでは戦いも、裏切りも、断頭台の恐怖もない。あるのは平和で、少し退屈で、けれど愛おしい日常だけだ。
「ねえ、シャルロッテ」 ロゼッタが湖風に短い黒髪をなびかせながら言った。
「もしまた……あんな大冒険の夢を見たら、どうする?」
「そうね……」 シャルロッテは空を見上げた。
「もしまたあんな夢を見たら……その時も二人と一緒に、暴れまくってやるわ! どんな強い敵が来ても、セレスティーヌみたいな腹黒女が来ても、私たちの絆でボコボコにしてやるんだから!」
「ふふっ、お品がありませんわ、シャルロッテ様」 エミーナが金髪を揺らしてクスクス笑う。 「でも……その時はまた、私が全力で二人を回復して差し上げますね」
「よし! じゃあ次はもっと凄いやつをぶちのめしに行こうぜ!」 ロゼッタが拳を突き出す。
シャルロッテとエミーナも、笑顔で自分の拳を重ね合わせた。
栗色、金髪、黒髪の三人の短い髪が、湖からの爽やかな風を受けて心地よく揺れる。 記憶を共有した不思議な夢の思い出は、彼女たちの胸の中で、一生消えない特別な宝物となった。
クリスタリア湖に浮かぶ白銀の城、フロスト・ヴァイス城。 そこには今日も、可愛く、強く、そしてちょっぴりお気楽な三人の少女たちの、賑やかで幸せな笑い声がどこまでも響き渡っていたのだった。




