第42章『漆黒の森の激闘』
極北の地ヘリング(ヴェルデンハーフェン)にも、ようやく長い冬の終わりを告げる春の芽吹きが訪れようとしていた。 北海を覆っていた分厚い流氷は割れ、大河ローゼンバッハの氷解した水面が、柔らかな春の光を浴びてキラキラと輝いている。
だが、セレスティア伯爵軍の本陣に漂う空気は、春の訪れとは裏腹に重く沈み込んでいた。
原因は、冬の渦中に受けた女皇帝ルシエラ直属奇襲隊による凄まじい奇襲の傷跡であった。 ヴィオレッタの加勢と、シャルロッテが覚醒させた神剣の真理『絶空』、そしてエミーナとロゼッタが得た『光』と『火』の力によってどうにか奇襲隊を全滅させ、ルシエラを撃退したものの、受けた被害は小さくなかった。 街の防壁や施設は損壊し、何より無謀な突撃の末に逃げ帰っていた「湖の騎士」ランスロット軍は多くの将兵を失い、完全に崩壊状態に陥っていた。その再編と市民の救援、補給線の立て直しに追われ、セレスティア軍は雪解けとともに開始するはずだった進軍の準備を大幅に長引かせていたのである。
そんな折、緊迫した情勢を告げる不穏な報せが本陣へと舞い込んだ。
「シャルロッテ様! 大河ローゼンバッハの南側、広大な『漆黒の森』にて、大規模な戦闘が開始された模様です!」
エミーナが羊皮紙の報告書を抱え、切羽詰まった声で作戦室へ駆け込んできた。彼女の掲げる聖なる杖『破邪顕正』の先端から、南方の激しい戦火の気配を感じ取ったかのように、ちかちかと微かな警鐘の光が漏れ出ている。
「ローゼンバッハの南……漆黒の森ですって?」 ロゼッタが背中の獄炎魔槍『煉獄の咆哮』の柄に手をやり、眉をひそめた。
「ええ! 大陸西部を制したオーロラリス大公ジュリアン・ヴェスペリア率いる軍勢が西から、そして南から北上を続けていた熱帯の豪族ビー・スー率いるマーレン軍勢が南から、挟撃する形で帝国軍への総攻撃を開始いたしました!」
シャルロッテの胸が、ドクンと激しく跳ね上がった。 『ジュリアン・ヴェスペリア』――前世で自らを「魔女」と弾劾し、断頭台へと追いやった因縁の男。その名を聞くだけで、腰元の神剣『空斬刺鏡』が微かに刃鳴りを上げる。
「戦況はどうなっているのですか?」シャルロッテは静かに呼吸を整え、尋ねた。
「それが……非常によろしくありません」 エミーナは顔を曇らせ、報告を続けた。 「漆黒の森は、陽の光すら届かぬ鬱蒼とした魔の樹海です。地形を完全に熟知している帝国軍は、死者の兵や異形の魔獣を用いた変幻自在のゲリラ戦を展開しております。さらに、夜の闇に乗じた無制限の奇襲を幾度も繰り出しており……」
「なるほどね」とロゼッタが不機嫌そうに吐き捨てた。 「いくらジュリアンの精鋭や南の荒武者どもが強くても、見えない闇からエンドレスで襲われたら生身の人間は持たないわ。睡眠不足と精神的恐怖で、疲弊が限界に達してるってわけね」
「はい……報告によれば、オーロラリス、マーレン双方の兵士たちの疲弊はすでに顕著であり、このままでは挟撃陣形が崩壊し、個別に撃破されるのも時間の問題とのことです!」
◇
作戦室に重苦しい静寂が満ちた。
自軍の戦力は、冬の奇襲の痛手から完全に回復したとは言いがたい。今打って出れば、万全とは言えない状態での強行軍となる。 だが――シャルロッテは長机に置かれた大陸地図の「漆黒の森」をじっと見つめた。
(……ここで日和っている時間はない。私たちがヘリングで立ち止まっている間にも、南の地では血が流れている)
シャルロッテはゆっくりと立ち上がり、二人の親友――エミーナとロゼッタを順番に見つめた。
「行きましょう。これ以上時間をかけるわけにはいきません」
シャルロッテの凛とした声が、作戦室に静かに響きわたる。
「それに……今、漆黒の森で戦っている両軍を失ってしまえば、魔導帝国に対抗する全大陸の戦線は完全に崩壊します。そうなれば、私たちの戦いも……絶望的なものになってしまうわ」
その言葉には、一切の迷いも存在しなかった。 敵であるはずのジュリアン・ヴェスペリア。前世の私怨を超え、大局を見据えた正当な軍略としての判断。そして何より、これ以上の犠牲を出させないという固い意思。
エミーナとロゼッタは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐにその顔に晴れやかな、力強い笑みを浮かべた。
「はい、シャルロッテ様! どこまでもお供いたします!」 エミーナが『破邪顕正』を胸に抱き、力強く頷く。 「私の得た新たな光の力で、鬱蒼とした漆黒の森を照らし出し、疲弊した両軍の兵士たちを救ってみせます!」
「ふん、最初からそのつもりよ!」 ロゼッタが『煉獄の咆哮』を肩に担ぎ、凶暴で頼もしい笑みを深めた。 「コソコソ隠れる虫ケラどもなんて、私の火属性で森ごと丸焦げにしてやればいいんでしょ? 準備はとっくにできてるわ!」
「二人とも……ありがとう」
シャルロッテは神剣『空斬刺鏡』の柄を強く握りしめた。 かつてないほどの青白い澄み渡る光が鞘から溢れ出し、主の覚悟に応えるように鋭く脈動する。
「セレスティア軍、全軍出撃! 目的地は大河ローゼンバッハの南――『漆黒の森』! 帝国軍のゲリラを打ち破り、戦端に勝利をもたらします!」
「「「おう!!!」」」
雪解けの水が流れるヘリングの門を開き、シャルロッテ率いるセレスティア軍は、南の決戦場へと向かって疾風のごとく出陣したのだった。
◇
大河ローゼンバッハを渡り、南へ進んだ先に広がる「漆黒の森」。 そこは、見上げるほどの巨木が隙間なく立ち並び、正午であっても薄暗い異界の如き樹海であった。木々の間には怪しげな黒い霧が立ち込め、足元は底なしの泥濘と根が張り巡らされている。
森の深部では、凄惨な殺戮が繰り広げられていた。
「クソッ! どこから打ってくる!? 前方か、上か!?」 「陣形を崩すな! 篝火を絶やすな!」
オーロラリス大公軍の銀の甲冑を着た精鋭たちが、疲れ果てた眼光で樹上の闇を睨みつけていた。 彼らは数日間にわたり、いつ襲ってくるか分からない帝国のゲリラ部隊によって睡眠を奪われ、神経をすり減らされていた。足元からの不意の奇襲、樹上からの毒矢、そして夜の闇に乗じた殺戮。
一方、南から攻め入ったビー・スー率いるマーレン軍も窮地に陥っていた。 熱帯の猛者である彼らの騎兵や精霊術も、この見通しのきかない暗黒の樹海では威力を発揮できず、暗闇から無数に湧き出るゾンビ兵の波に押し潰されかけていたのだ。
「ハハハハ! 愚かな人間どもめ! 我が『漆黒の森』に入り込んだ時点で、お前たちの命運は尽きているのだ!」
樹上の闇から、高笑いが響く。 森の防衛を任された帝国のゲリラ部隊長――将軍ヴァルザックであった。彼は人間を死霊へと変える邪法を操り、森の樹木と一体化することで幾重もの罠を張り巡らせていた。
「夜を待つまでもない! 疲弊しきった虫ケラどもを、一気に噛み潰せ!」
ヴァルザックの命令とともに、樹上の闇、泥の底から、無数の黒騎士と異形の魔獣が一斉に飛び出した。 絶望的な奇襲。限界を迎えていたオーロラリスとマーレンの兵士たちが、ついに死を覚悟して刃を構えたその時――。
ドォォォォォンッ!!
漆黒の森の天空を突き破り、ひとすじの「神聖なる白銀の極光」が舞い降りた。
◇
「――そこまでです、帝国の不浄なる者たち!」
森全体を震わせる清冽な叫びとともに、暗黒の樹界に眩いばかりの光が満ち溢れた。
「な……なんだと!? 闇を裂くこの光は……!?」 ヴァルザックが驚愕して目を剥く。
降り注ぐ極光の中心にいたのは、エミーナであった。 彼女が掲げる『破邪顕正』の聖杖は、ヴィオレッタから授かった真なる「光属性」を極限まで爆発させていた。森を覆っていた黒い霧と不気味な暗雲が一瞬で吹き飛ばされ、漆黒の森に太陽のごとき光が眩いばかりに照射される。
「きゃぁぁぁっ! 光が……光が痛い!」 暗闇に潜んでいたゾンビ兵や影のゲリラ兵たちが、エミーナの放つ聖光に晒され、悲鳴を上げながら次々と蒸発していく。
「援軍……!? 北のセレスティア軍か!?」 崩れかけていたオーロラリス軍とマーレン軍の兵士たちが、歓声を上げた。
「へっ! コソコソ隠れてるネズミども! 炙り出してやるわよ!」
続いて躍り出たのはロゼッタだ。 彼女は『煉獄の咆哮』を大地に突き立てると、真の「火属性」の魔力を解き放った。
「火属性奥義――『神炎領域』!!」
ズドォォォォンッ! 爆ぜたのは、ただの炎ではない。味方の兵士や木々には一切燃え移らず、敵である帝国の不浄な存在のみを選択して灼熱で焼き尽くす、神聖なる白熱の業火。 泥の底や樹上の陰に隠れていたゲリラ兵たちが、一網打尽に白炎へと包まれ、叫び声を上げる隙もなく灰へと還元されていった。
「バ……バカな!? 我が誇る暗黒のゲリラ部隊が、一瞬で……!?」 ヴァルザックは全身を激しい恐怖に震わせ、樹上から転がり落ちた。
「光」が闇を払い、「火」が潜む敵を炙り出す。 死角を奪われたゲリラ部隊など、もはや恐怖の対象ではなかった。
◇
「これで……終わりです!」
静かに、しかし絶対的な死の気配を纏って進み出たのは、セレスティア軍の総大将――シャルロッテであった。
彼女の手にある神剣『空斬刺鏡』は、光すら吸い込む「透明なる無」の刃を形成していた。
「お、おのれぇぇ! セレスティアの小娘がぁぁッ!」 半狂乱となったヴァルザックは、残された全魔力を振り絞り、森の巨木や泥を融合させた巨大な不浄の怪物「魔導樹巨人」を錬成し、シャルロッテへと立ち塞がらせた。
「踏み潰せ! 全てを破壊しろ!!」
山のような巨躯を持つ樹巨人が、凄まじい質量とともにシャルロッテへと腕を振り下ろす。 だが、シャルロッテの澄んだ瞳には、その巨大な質量すら「存在しないもの」として映っていた。
(守るべきものがある。切り開くべき未来がある……!)
シャルロッテの踏み込みは、音もなく空間を跳び越えた。
「神剣真理――『絶空』!!」
横一閃。
放たれた刃の軌跡は、世界そのものを切り取る「無」の断層。 数千の巨木を練り上げた魔導樹巨人の巨躯も、その背後にいたヴァルザックも、さらには漆黒の森を支配していた「暗黒の法則」そのものが、『絶空』の刃によって一瞬にして断ち切られた。
「ガ……ハッ……!? な……んだ……この……次元の違う……斬撃は……」
ヴァルザックは自らの身体が上下に真っ二つに泣き分かれるのを見つめながら、絶叫とともに爆散した。 巨体であった魔導樹巨人もまた、崩落するように泥へと還っていく。
隊長を失い、潜む闇すらも失った帝国軍の残党は完全なパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ惑うが、力を取り戻したオーロラリス軍とマーレン軍によって悉く殲滅された。
こうして、両軍を窮地に追い詰めていた「漆黒の森の戦い」は、セレスティア軍の圧倒的な介入により、完全なる勝利をもって幕を閉じたのである。
◇
戦闘が終わり、木漏れ日が差し込むようになった漆黒の森。 さっきまでの地獄のような暗闇が嘘のように、温かな春の光が立ち込めていた。
「助かったぞ、セレスティアの姫君!」 南の豪族ビー・スーが、豪快に笑いながらシャルロッテのもとへ駆け寄ってきた。褐色に鍛え上げられた肌と、熱帯の民族衣装を纏った彼は、シャルロッテの腕前と判断力に心からの敬意を表して深く頭を下げた。
「あんたらが来てくれなきゃ、ワシらは暗闇のドブネズミどもに食い荒らされるところだった! マーレン軍勢を代表し、心から感謝する!」
「お怪我がなくて何よりです、ビー・スー殿」 シャルロッテは丁寧に一礼を返した。
そして――。
森の開けた場所から、銀の甲冑を纏った一団が静かに歩み寄ってきた。 その先頭に立つ男の姿を見た瞬間、シャルロッテの全身の血液が冷たく沸き立つ感覚があった。
金髪を整え、気品と威厳に満ちた佇まい。オーロラリス大公――『ジュリアン・ヴェスペリア』。 前世でシャルロッテを裏切り、魔女として断頭台へ送った張本人である。
だが、シャルロッテの視線を完全に凍りつかせたのは、ジュリアンの「隣」に寄り添うように歩いてくる一人の女の存在であった。
淡い桃色の髪をなびかせ、儚げで清楚な雰囲気を全身から漂わせる美少女。控えめな笑みを浮かべ、朱をさしたような唇と、守ってあげたくなるような可憐な瞳。 一見すれば可憐な貧乏貴族の令嬢――セレスティーヌ・アストレア。
(な……っ!?)
シャルロッテの記憶の奥底で、前世のもう一つの「最悪の激痛」が鮮烈に蘇った。
セレスティーヌ・アストレア。 前世において、裏でジュリアンを巧みに唆し、シャルロッテに「無実の魔女」としての罪を着せるよう裏で仕組んだ元凶。清楚な皮を被りながら、男の庇護欲を煽って裏から破滅へと追い込む――前世でのシャルロッテの「恋敵」にして、正真正銘の『清楚な腹黒女』であった。
「見事な鮮やかさだ、セレスティア伯爵令嬢。見知らぬ高潔な姫君の助力を得られたこと、オーロラリス家を代表して感謝申し上げる」 ジュリアンが恭しく胸に手を当てて一礼する。
その横で、セレスティーヌは両手を胸の前でキュッと握りしめ、上目遣いで可憐に首をかしげた。
「まあ……セレスティア様、本当に素晴らしいお強さですこと……! 私のような無力で貧しい身の上の女には、眩しすぎて直視できませんわ……。ジュリアン様、こんなに素敵なお方が味方だなんて、本当によかったですわね……?」
猫なで声でジュリアンの腕にさりげなく自分の細い腕を絡め、擦り寄るセレスティーヌ。 ジュリアンは目元を緩ませ、「ああ、セレスティーヌ。君が無事で何よりだった」と彼女の頭を優しく撫でている。
その一連の白々しい茶番を目の当たりにした瞬間――。
「……っ」
シャルロッテの血管が破烈せんばかりに収縮した。 腰元の神剣『空斬刺鏡』が、主の激甚たる怒りと憎悪に反応して、キチキチと鞘の中で狂気じみた悲鳴を上げる。
エミーナとロゼッタが「シャルロッテ……!?」と青ざめて息をのむ中、シャルロッテは完璧な貴族の笑みを張り付けたまま、歯の隙間から極小の声で呟いた。
「あんの。清楚ビッチ。糞がぁ。」
「シャ、シャルロッテ様ぁぁっ!?」 エミーナが必死にシャルロッテの裾を引っ張り、ロゼッタは「うわっ、シャルロッテから聞いたことないような汚い言葉が漏れてるわよ!?」と焦りまくっている。
だが、当のセレスティーヌはシャルロッテの視線に気づくと、ジュリアンの背中に隠れて見えない角度で、フッと口元を歪め、勝ち誇ったような冷たく下品な嘲笑をシャルロッテへと差し向けてきた。
(……間違いない。あの女、今世でもジュリアンを惑わし、清楚なフリをして腹の中で舌を出している……!)
シャルロッテは静かに深呼吸をし、殺意を奥底へと押し殺すと、氷のように冷ややかな微笑みを二人に向けた。
「お怪我がなくて何よりです、ジュリアン大公。そして……可憐なアストレア様も。帝国を討つという目的が同じであるならば、今は手を携えましょう」
「ああ、心強い。よろしく頼む、シャルロッテ殿」
前世の裏切り者ジュリアン、そして最悪の恋敵セレスティーヌ。 漆黒の森の闇は払われたが、シャルロッテの胸に燃え上がる復讐と執念の炎は、春の嵐よりも激しく燃え盛っていた。
集いし三つの勢力と、交錯する前世からの憎悪の糸。 セレスティア伯爵軍の新たなる戦いは、さらなる泥沼の激動へと突き進んでいくのであった。




