第40章『魔導帝国の奇襲』
寒風が吹き荒ぶヘリング(ヴェルデンハーフェン)の街は、銀世界の静寂に包まれていた。 北の港を洗う北海の波頭は凍りつき、南を流れる大河ローゼンバッハの水面も分厚い氷盤で覆われている。街のあちこちから上る煙突の煙だけが、この凍てつく極北の地で人々が力強く生きている証であった。
セレスティア伯爵軍の本陣では、冬越しのための整頓と春に向けた兵器の点検が着々と進められていた。
「シャルロッテ様、各陣舎への食料と燃料の追加配給、すべて完了いたしました。市民の志願兵たちも交代で警戒に当たっており、大きな問題はありません」 エミーナが『破邪顕正』の聖杖を携え、穏やかな表情で報告した。杖の先端から放たれる緑と白の光が、極寒の室内にささやかな温もりをもたらしている。
「ご苦労様、エミーナ」 シャルロッテは長机の地図から顔を上げ、静かに頷いた。彼女の腰元にある神剣『空斬刺鏡』は、鞘の中で静謐な青白い光を静かに湛えている。
「ふぁ……暇ねぇ。まあ、凍え死にそうな山に突っ込んで大敗したあっちのおっさんに比べたら、暖かい場所で美味いニシン食って休めるんだから、私たちの選択は大正解だったわね」 部屋の隅で、ロゼッタが不機嫌そうにあくびを噛み殺しながら言った。彼女の背中にある獄炎魔槍『煉獄の咆哮』は、極寒の空気を嫌うかのように、時折不気味な赤い火花をパチパチと弾けさせている。
彼女たちの判断――戦果を確実に維持し、激闘による兵の疲弊を癒やし、春の訪れとともに本格的な反撃に転じるという越冬策は、軍略として何一つ間違っていなかった。無謀な冬の行軍で壊滅的被害を受けた「湖の騎士」ランスロットの悲惨な失態を見れば、それが賢明な決断であったことは誰の目にも明らかであった。
しかし――彼女たちセレスティア軍には、致命的な「未熟さ」と「無知」が存在していた。
彼女たちは人間としての常識で盤面を弾いていた。冬の猛吹雪、飢え、凍傷、補給線の途絶。それらは生身の人間にとって絶対的な死の障壁である。 だが、彼女たちが戦っている相手――「魔導帝国」の戦力の本質を、本当の意味で理解していなかったのだ。
敵の主力を形成するのは、痛覚も持たず、凍傷にかかることもなく、息をすることすら必要としない「不死者」の軍勢。そして、それらを率いる絶対的な支配者たちであった。
吹雪が、突如として不自然な重苦しさを孕んで吹き荒れ始めたのは、その直後のことであった。
◇
ドォォォォンッ――!!
ヘリングの北門を突き破る、腹の底を揺さぶるような凄まじい爆発音が轟いた。
「な、なんだ!?」 長机を叩いてロゼッタが立ち上がる。
間髪入れず、半狂乱となった伝令兵が扉を蹴破るように飛び込んできた。
「報せ! 報せですシャルロッテ様! 北の港湾部および陸路の防壁が……一瞬で崩壊いたしました! 敵の奇襲です!」
「何ですって!?」 エミーナが目を見開く。「この猛吹雪の中を……!? 一体どこから敵の大軍が!?」
「わかりません! 吹雪の向こうから、何万という数の黒騎士と異形の不死者たちが、まるで地面から湧き出るように押し寄せてきています! それに――」 伝令兵は恐怖で歯をガチガチと鳴らした。
「それらを率いているのは……帝国の幹部などではない……! 『女皇帝ルシエラ』自ら率いる、皇帝直属の奇襲隊です!!」
「女皇帝……ルシエラ自らが!?」
シャルロッテの背筋に、氷水を浴びせられたかのような激痛が走った。腰元の神剣『空斬刺鏡』が、かつてないほどの激しい悲鳴のような神鳴りを上げ、凄まじい青白い光芒を室内に撒き散らす。
外へ飛び出した三人が目にしたのは、まさしく筆舌に尽くしがたい「地獄の光景」であった。
吹雪に紛れてヘリングへなだれ込んだ帝国軍は、寒さや雪など一切意に介さない不死者の狂戦士たちであった。 傷が癒えず、傷病兵としてヘリングの街で養生していたランスロット軍の生き残りたちは、不意を突かれて陣形を組む間もなく、次々と黒い刃の犠牲となっていった。
「う、ギャァァァァッ! 助けてくれ、助けて……!」 「冷たい……! 身体が動かない……ッ!」
かつて大言壮語を吐いたランスロットも、白タイツと短パン姿のまま悲鳴を上げて逃げ惑うが、押し寄せる黒騎士の群れに包囲され、絶望的な防衛戦を強いられていた。
「全軍、体制を立て直せ! 市民を後方へ避難させ、防衛線を構築するのです!」 シャルロッテの凛とした叫びが、叫喚に包まれた街に響き渡る。
「『破邪顕正』の御名において、不浄の波を押し返せ!」 エミーナが聖なる杖を大地に突立てると、巨大な緑と白の光の障壁が展開され、なだれ込んでくるゾンビ兵の波を一時的に押し止めた。
「クソがぁッ! 休みを邪魔すんじゃないわよ腐れ肉ども!」 ロゼッタが『煉獄の咆哮』を振り回し、迫り来る黒騎士たちを極彩色の炎で次々と焼き尽くしていく。
だが、敵の勢いは過去の戦闘の比ではなかった。 吹雪の空全体が漆黒の呪詛で染まり、絶望の影がヘリングの街全体を完全に包み込んでいた。セレスティア軍は完全な不意を突かれ、各所で分断され、圧倒的な不利の中での絶望的な防衛戦を強いられていたのである。
◇
ヘリングの中央広場。 炎上するニシン加工場と、崩れ落ちた風車の間で、セレスティア軍と市民の志願兵たちが死力を尽くして死守していた防衛線が、突如として「完全な静寂」によって引き裂かれた。
押し寄せていた何千という不死者たちが、ピタリと動きを止めたのだ。 死者たちが一斉に道を開け、跪く。
猛烈な吹雪が、その場所だけピタリと止んだ。 空に渦巻く黒い雲が割れ、そこから一筋の「漆黒の光」が地上へと降り注ぐ。
降臨したのは、この世のあらゆる美と恐怖を凝縮したような存在であった。
漆黒の羽を背に羽ばたかせ、背後に黒い後光を背負った美女。 彼女が纏うのは、夜の闇そのものを紡いで作られたかのような豪奢なドレス。その透き通るような白い肌と、血のように赤い唇、そしてすべてを虚無へと変える冷酷な紫の瞳。
魔導帝国の頂点にして、数多の国を滅ぼしてきた絶対なる支配者――女皇帝ルシエラ。
彼女がただそこに降臨しただけで、周囲の空間の空気が劇的に重くなり、立っていた兵士たちが次々と膝をつき、呼吸困難を起こして吐血した。圧倒的な「存在の格」の違い。
「……これが、セレスティアの小娘どもか」
ルシエラの声は、鈴の音のように美しく、そして氷のように冷たかった。その声が響くだけで、兵士たちの心に直接「絶望」の種が植え付けられていく。
「冬を理由に殻に閉じこもり、安眠をむさぼっていたか。愚かな……。死者には寒さも休息も要らぬというのに。我が一軍を滅ぼしたというから多少は期待したのだが、所詮は生身の虫ケラの浅知恵か」
シャルロッテは全身の肌が泡立つのを感じながらも、必死に踏みとどまり、神剣『空斬刺鏡』を構えた。 エミーナとロゼッタも、恐怖で膝が震えるのを力ずくで押さえ込み、シャルロッテの左右に並び立つ。
その時、エミーナの手にある『破邪顕正』の聖杖が、今まで聞いたこともないような激しい異音を立てて狂ったように明滅した。 緑と白の光が激しく明滅し、恐怖と拒絶の波動を放っている。
「……え……? 聖杖が……拒絶している……? 違う……これは……!」 エミーナが顔を蒼白にして叫んだ。
「シャルロッテ様! 気をつけてください! あの女……ただの人間でも、ただの魔術士でもありません! あれは……神に背き、地に落ちた絶対なる存在――『堕天使ルシファー』の化身です!!」
◇
「堕天使……ルシファー……!?」
ロゼッタが息をのむ。
神話の世界にのみ語られる、かつて神の側で慈愛と癒やしを司りながらも、天界を追われて堕落した絶対なる天使。その化身こそが、魔導帝国を統べる女皇帝ルシエラの真の姿であったのだ。
「ふふ……よく知っているな、聖杖の持ち主よ」 ルシエラは冷たい笑みを深め、優雅に細い指先を彼女たちに向けた。
「かつて天にありし我が名を知る者が、まだこの地上におったとはな。……ならば理解できよう? お前たちが掲げる正義も、秘宝の力も、この我が前には幼子の玩具に過ぎんということが」
ルシエラが、軽くその細い指を弾いた。
ただそれだけで。 ドォォォォンッ!!
目に見えぬ「絶望の衝撃波」が押し寄せ、シャルロッテたちの前にいたセレスティアの重装歩兵数十人が、悲鳴を上げる隙もなく吹雪の彼方へと吹き飛ばされた。頑丈な石造りの建造物が、まるで紙細工のように粉々に砕け散る。
「くっ……! 全員、下がりなさい!」 シャルロッテが叫び、先頭に躍り出た。 腰元から放たれる神剣『空斬刺鏡』の青白い神光を極限まで引き上げ、ルシエラから放たれた目に見えぬ圧力を真っ正面から受け止める。
シャキィィィン――!!
神剣の一閃が空気を切り裂き、ルシエラの威圧をどうにか相殺した。しかし、シャルロッテの腕には激しい痺れが走り、口元から一筋の血が伝った。
「ほう……我が威圧を斬り払ったか。なるほど、その神剣……『空斬刺鏡』か。少しは遊べそうだな」
ルシエラは嘲笑うと、背中の漆黒の羽を大きく広げた。 彼女の頭上に、数千もの黒い光の槍が錬成される。一光一光が、先ほどの重砲台を遥かに凌ぐ死の威力を秘めていた。
「さあ、見せてみよ。セレスティアの姫君よ。お前たちの抗いが、どこまで我が退屈を紛らわせてくれるかを」
「シャルロッテ様! 一人では無理です!」 エミーナが『破邪顕正』を突きだし、全身の魔力を絞り出して極光の多重障壁を展開する。
「ハハッ! 堕天使だろうが皇帝だろうが関係ないわ! 燃え尽きなさい! 『煉獄の咆哮』――極大爆炎破っ!」 ロゼッタが限界を超えた極彩色の炎を解き放ち、ルシエラへと肉薄する。
「無駄だと言っている」
ルシエラが羽を軽く一振るいしただけで、ロゼッタの放った極大の炎が一瞬で鎮火され、エミーナの多重障壁がガラスのように脆く粉砕された。 二人は凄まじい衝撃を受けて地表を転がり、血を吐いて倒れ込む。
「エミーナ! ロゼッタ!」
シャルロッテの叫びが、燃え上がるヘリングの空に虚しく響く。 自らの甘さ、敵の圧倒的な異質さへの無知。その代償はあまりにも大きく、あまりにも残酷であった。
降り注ぐ黒い光の雨と、黒い翼を広げて冷酷に見下ろす堕天使ルシファーの化身・ルシエラ。 絶望的な防衛戦の真っただ中、シャルロッテ、エミーナ、ロゼッタの三人は、今まさに人生最大の、そして生存をかけた絶対的な危機に直面していたのである。




