第4章『ガブリエルの花嫁選び』その2
翌朝、フロストヴァイス城の朝は、クリスタリア湖から吹きつける澄んだ風とともに明けた。
湖面は朝日に照らされて無数のダイヤモンドを撒き散らしたかのように眩しく輝いている。絶好のボート日和——そして、ガブリエルにとっては絶望の「2日目」の始まりであった。
「いいか、シャルロッテ。今日の湖上遊覧は、セレスティア伯爵家と各家との親睦を深めるための重要な外交行事だ。お前たちがボートの陰から冷やかし半分でついてくるのは絶対に許可しないからな」
朝食後のサロンで、ガブリエルはすでに胃を押さえながら、目の前に立つ妹に釘を刺していた。二十歳を前にして、彼の眉間のシワは日ごとに深くなっている。
「失礼ねぇ、兄ちゃん! 私はそんな無茶なことしないわよ。私とエミーナ、ロゼッタはあくまで『安全管理および給仕の補助』として、別のボートから温かく見守るだけだもの」 「それが冷やかしだって言ってるんだよ!」
即座に飛んでくるガブリエルのツッコミに、シャルロッテは「ちぇっ」と可愛らしく舌を出した。その横では、可憐な侍女エミーナが楽しそうに目を輝かせ、黒髪のロゼッタが手帳を広げてメモを取っている。
「ガブリエル様、ご安心ください。本日のボートの配置、および湖上での軽食の手配はすべて私が完璧に統括しております。シャルロッテ様が暴走された場合は、私が即座にお止めします」
完璧な礼儀作法で一礼したのは、家令のルイスだ。20代後半とは思えない落ち着きと誠実さを湛えた青年に、ガブリエルは縋るような視線を向けた。
「ルイス……! お前だけがこの屋敷の良心だ。頼むから、俺が湖に飛び込んで逃げ出したくならないように頼んでくれ……」 「お任せください。万が一ガブリエル様が落水された場合に備え、救命具と温かい毛布、それから着替え用の予備服もすべて手配済みでございます」 「落水する前提で準備するな! 縁起でもない!」
ガブリエルの絶叫がサロンに響き渡り、シャルロッテたちはクスクスと肩を揺らした。
午前十時。クリスタリア湖のプライベート桟橋には、優雅な意匠が施された小型の木造ボートが数隻、静かに揺れていた。
招待された5人の花嫁候補の令嬢たちは、それぞれ趣向を凝らした涼しげなドレスを身に纏い、湖畔の美しさに声を弾ませている。
「さあ、ガブリエル様。本日のボートの組み合わせですが……」 ルイスが手元のリストを開く。
ガブリエルは生唾を飲み込んだ。今日の「試練」は、ガブリエルが漕ぎ手を務めるボートに、令嬢たちが交代で同乗するという恐ろしいシステムになっていたのだ。
「一番手は、侯爵家のソフィア様です」
ピンクのペールトーンのドレスに身を包んだソフィアが、少し緊張した面持ちで歩み寄ってきた。 「ガブリエル様……よろしくお願いいたします。あの、私、ボートに乗るのは初めてでして……」 「あ、ええ! どうぞお手を、ソフィア様。足元にお気をつけください」
ガブリエルが手を差し伸べると、ソフィアは顔を真っ赤にしながらその手を取った。二人が乗ったボートは、静かに岸を離れていく。
「あらあら、とっても甘酸っぱい雰囲気ですわね!」 少し離れた安全な距離を保つ大型ボートから、双眼鏡を覗き込むシャルロッテが実況を開始した。彼女の隣には、美味しそうな焼き菓子のトレイを持ったエミーナと、冷えたジュースを準備するロゼッタが控えている。
「シャルロッテ様、双眼鏡の角度が鋭すぎます。ソフィア様が緊張で固まってしまわれますよ」 「ロゼッタ、固まってるのは兄ちゃんの方よ! 見て、櫂を漕ぐ腕の角度がロボットみたいにギコギコ言ってるわ!」 「本当ですね! ガブリエル様、いつもならあんなに滑らかにボートを操るのに、背筋がピンと伸びすぎて倒れそうです!」 エミーナがくすくす笑いながら身を乗り出す。
湖上のガブリエルは、まさに地獄の緊張感を味わっていた。 「ソフィア様、その……風が心地よいですね」 「え、ええ……! ガブリエル様の力強いお背中を見ていると、とても安心いたします……」 「(力強い背中!? ただ背筋を伸ばしてるだけなんだが!? 言葉のチョイスが高度すぎて返事に困る……!)」 心の中で激しくツッコミを入れつつ、ガブリエルは汗をかきながら必死に笑顔を保った。
しかし、平和な時間は長く続かない。
2人目の同乗者、公爵令嬢エレノアの番になると、状況は一変した。
「ガブリエル様! 櫂の引きが甘いですわ! もっと背筋を使って、水流をしっかりと捉えなさいな!」 「えっ!? あ、はいっ!?」 「ほら、もっと腰を入れて! 私が後ろからフォームを指導して差し上げますわ!」 「いやいやいや! エレノア様、揺れますから! ボートが倒れますから!!」
情熱的なエレノアは、なんとガブリエルの背後に回り込み、上から手を重ねて櫂を漕ごうとし始めたのだ。バランスを崩したボートがグラグラと大きく揺れる。
「あははは! 兄ちゃん、教官に指導される新人兵士みたいになってる!」 別ボートのシャルロッテは大爆笑だ。 「シャルロッテ様、笑い事ではありません。あの角度は危険です」 ロゼッタが眉をひそめた瞬間、ルイスが静かに船を寄せる指示を出した。
「失礼いたします、エレノア様、ガブリエル様。喉の渇きを潤すため、冷えた果実酒(※ガブリエル様にはノンアルコール)をお持ちいたしました」 ルイスの絶妙なタイミングでの割り込みにより、ボートの揺れは収まり、ガブリエルは危機を脱した。ガブリエルはルイスに向かって「命の恩人……!」と無言の感謝を捧げた。
しかし、試練は終わらない。
3人目の知的令嬢クラリスは、ボートの上で「クリスタリア湖の水深と水質がもたらす周辺農地への経済的波及効果」についての持論を熱弁し始め、ガブリエルは「はぁ……なるほど……」としか言えない置物と化した。
4人目の天然少女リリィは、「わあ、お魚さんですー!」と身を乗り出しすぎて今にも湖に転落しそうになり、ガブリエルは生きた心地がしなかった。
そして最後の5人目——ミステリアスな子爵令嬢、アイリスである。
黒いレースの日傘を差したアイリスは、静かな湖の中央で、フッと妖しい笑みを浮かべた。
「ガブリエル様……知っていらっしゃいますか? このクリスタリア湖の底には、昔、恋人に裏切られた姫君が身を投げ、今でも満月の夜になると若い男性を水底へ引きずり込むという言い伝えがあるのです……」 「い、言い伝え……? いや、あの、アイリス様、今は真昼間ですし、そういうお話はちょっと……」 「ふふ……ほら、ガブリエル様のすぐ足元の水面……何か黒い影が、あなたをじっと見つめていませんこと……?」
「ひっ……!?」
ガブリエルが恐怖で顔を青ざめさせ、足元を覗き込んだその瞬間——!
バシャーン!!!!
ボートのすぐ脇の水面から、突如として巨大な「何か」が飛び放たれた。
「ぎゃああああああああっ!! 出たあああああ幽霊だあああ!!」
ガブリエルは情けない悲鳴を上げ、パニックのあまり跳び上がった。その拍子にボートは大きく傾き、豪快な音を立ててひっくり返ったのである。
「「「ガブリエル様ーーーーっ!?」」」
周囲から悲鳴が上がる。
「兄ちゃん!? 嘘でしょ、本当に落ちた!?」 シャルロッテも双眼鏡を放り投げて立ち上がった。
水面に浮かんできたのは、鼻に水が入って「ブハッ! ゲホッ、ゲホッ!」とむせ返る哀れな伯爵家跡取り候補の姿だった。そして、彼をパニックに陥れた「黒い影」の正体は——
「あら……大きなクリスタリアナマズですわね。跳ねただけみたいですわ」 アイリスは何事もなかったかのように日傘を差し直し、ひっくり返ったボートの底に軽やかになでしこ座りをしていた。
「ナ……ナマズ……!? 幽霊じゃなくてナマズ……!?」 頭から藻を被ったガブリエルが、涙目になりながら叫んだ。
その時、素早い動きで救助に入ったのはルイスだった。 「ガブリエル様! お掴まりください!」 ルイスは迷うことなく水中に手を差し伸べ、濡れ鼠になったガブリエルを引き上げた。間髪入れずに、エミーナとロゼッタが手際よく毛布と温かいハーブティーを差し出す。
「ガブリエル様! お怪我はありませんか!?」 「だ、大丈夫だ……ただ、心の傷が深い……」 ガブリエルは毛布にくるまりながら、ガタガタと震えていた。
シャルロッテは兄の元へ駆け寄ると、心配そうにしつつも、込み上げてくるおかしさを抑えきれずにクスクスと笑った。
「もう、兄ちゃんたら! ナマズに驚いて落水する伯爵家の跡取りなんて、前代未聞よ!」 「うるさい! アイリス様があんな思わせぶりな言い方をするからだろ! 俺は悪くない!」 「フフ、でもガブリエル様。ナマズを幽霊と勘違いして悲鳴を上げられたお姿……少し可愛らしかったですわ」 アイリスが扇子で口元を隠しながら微笑むと、他の令嬢たちも「本当ですわ、ギャップが素敵です」「お茶目な方なのですね」と、なぜか好意的な笑い声を上げた。
「……え?」 ガブリエルはぽかんと口を開けた。
「ガブリエル様、怪我の功名でございますね」 ルイスが完璧な手際でガブリエルの髪をタオルで拭きながら、耳元で静かに囁いた。 「令嬢方の緊張もほぐれ、ガブリエル様の『親しみやすいお人柄』が非常に高評価を得ているようです」
「そんな評価の上がり方、嬉しくないんだが……!?」 ガブリエルのツッコミが、晴れ渡るクリスタリア湖の空に虚しく響き渡った。
その日の夕方。フロストヴァイス城の暖炉がある応接間に、着替えを済ませたガブリエルと、シャルロッテ、そしてルイスたちが集まっていた。
温かい暖炉の火が室内を優しく照らしている。ガブリエルは温かいスープを飲みながら、ようやく生きた心地を取り戻していた。
「はぁ……命からがら戻ってきた気分だ……」 「お疲れ様、兄ちゃん。でも今日のハプニングで、令嬢たちとの距離はグッと縮まったんじゃない?」 シャルロッテがソファの上で足を揺らしながら言う。
「縮まったっていうか、笑いものになっただけだろ……。俺は真面目で完璧な跡取りを目指していたのに、これじゃ『ナマズに怯える情けない男』として噂が広まってしまう……」 「そんなことありませんよ、ガブリエル様」 ロゼッタが紅茶を注ぎながら言った。
「黒髪の私が言うのもなんですが、完璧すぎる男性よりも、少しスキのある男性の方が女性は親しみを感じやすいものです。現に、お部屋に戻られた令嬢方からは『ガブリエル様はとても誠実で、飾らない素晴らしいお方だ』とのお声が届いております」
「本当に! エミーナ調べでも、5人全員が『ガブリエル様ともっとお話ししたい』っておっしゃってましたよ!」 エミーナが嬉しそうに報告する。
ガブリエルはスープのカップを見つめながら、複雑な表情を浮かべた。 「そうか……。だが俺は、一族の期待に応えるために、もっとしっかりしなきゃいけないんだ。伯爵家の跡取りとして、完璧でなければ……」
彼の真面目すぎる言葉に、ルイスが静かに一歩前に出た。
「ガブリエル様」 ルイスの声は、いつも以上に低く、そして温かかった。
「当主となる者に必要なのは、隙のない完璧さだけではございません。他者の失敗を許容できる優しさ、そしてご自身の弱さを見せられる人間味こそが、使用人や領民、そして将来の伴侶からの深い信頼を生むのです。今日のガブリエル様のご失態(あえてそう呼ばせていただきますが)は、令嬢方の心を開く最高の鍵となりました」
ルイスはそう言って、胸に手を当てて深く一礼した。 「私はセレスティア伯爵家の家令として、どのようなガブリエル様であっても、生涯をかけてお支えする覚悟でございます。ですから……どうかご自身を追い詰めすぎないでください」
家令として、そして共に育ってきた兄貴分のような誠実なルイスの言葉に、ガブリエルの瞳が少し潤んだ。
「ルイス……。お前ってやつは、本当に……」 「ですがガブリエル様」 ルイスはスッと顔を上げると、メガネを光らせた。 「明日のお誕生会本番では、湖への落水はご遠慮くださいね。着替えの手配とクリーニングのスケジュールが圧迫されますので」
「感動的なスピーチからの落とし方が容赦ねえな!?」 ガブリエルの間髪入れぬツッコミに、部屋の中は再び温かい爆笑に包まれた。
「ふふっ、やっぱり兄ちゃんにはツッコミが一番似合ってるわ!」 シャルロッテは楽しそうに笑いながら、兄の肩をポンポンと叩いた。
「さあ、明日はついに20歳のお誕生会本番! 花嫁候補の吟味もクライマックスよ! 兄ちゃん、覚悟を決めて楽しんでね!」 「お前の『吟味』という言い方が一番気になるが……まあ、もう毒皿まで食う覚悟だよ」
ガブリエルは諦めたように笑い、スープを飲み干した。
窓の外では、クリスタリア湖が静かな月光を受けて青白く輝いている。 明日、二十歳の節目を迎える伯爵家の御曹司と、彼を取り巻く賑やかで愛おしい家族たち。
フロストヴァイス城の夜は、優しく、そしてどこまでも賑やかに更けていくのだった。




