第3章『ガブリエルの花嫁選び』その1
クリスタリア湖の絶景を見下ろす断崖の上に、白亜と群青のコントラストも美しいフロストヴァイス城が聳え立っている。セレスティア伯爵家の本拠地であるこの城は、陽光を受ければ湖面からの照り返しで結晶のように煌めき、まさに幻想的な佇まいを見せていた。
しかし、その荘厳な外観とは裏腹に、城内は朝からどこか浮足立った熱気に包まれていた。
「いいか、皆。今週はセレスティア伯爵家にとって極めて重要な一週間となる。ガブリエル様の二十歳のお誕生日を祝う特別なお茶会……いや、実質的な『花嫁候補お披露目会』だ。一切の不備も許されないぞ」
回廊の隅で、凛とした声を響かせていたのは家令のルイスだ。二十代後半という若さでありながら、賢明で誠実、仕事に対しては一切の妥協を許さない真面目な青年である。彼は手元の羊革のメモ帳に目を落としながら、きびきびと男性使用人たちに指示を出していた。
「地下薪室からの高級ワインの運搬、銀食器の入念な磨き上げ、そしてお客様方の馬車をお迎えする庭園の整備。手落ちのないように」 「「はい、家令長!」」
整然と散っていく使用人たちの背中を見送り、ルイスが小さく吐息をついたその時、すぐ近くの柱の影から、ひょっこりと三つの可愛らしい頭が覗いた。
伯爵家の孫2号にして、本日の第一観客——シャルロッテである。 そしてその左右をしっかりと固めているのは、彼女の専属侍女であり、城内でも評判の美少女コンビ、エミーナとロゼッタだ。
「……シャルロッテ様。そのような物陰から覗き見られるのは、お屋敷の令嬢として少々格好がつきませんが」
ルイスは振り返りもせず、眼鏡のブリッジを指先でクイと押し上げながら冷静に指摘した。シャルロッテは「あちゃー」という顔をしながら、ドレスの裾を揺らして堂々と姿を現す。
「ふふ、さすがルイスね! 気配だけで分かっちゃうなんて。でも『覗き見』だなんて心外だわ。私はただ、最愛の兄上のお誕生日会を成功させるため、手伝い(兼、観察)に来ただけよ」 「シャルロッテ様、『兼』の後の本音が漏れております」 「あら、ロゼッタ、余計なツッコミはいらないわよ」
シャルロッテがくすくす笑うと、ロゼッタは黒髪を揺らして小さく肩をすくめた。もう一人の侍女、明るい笑顔が魅力的なエミーナが、楽しそうに目を輝かせる。
「でもシャルロッテ様のお気持ちも分かります! だって、ガブリエル様の花嫁候補として、名門貴族から選りすぐりの美少女令嬢が5人も招待されているのでしょう? どんな方々がいらっしゃるのか、気になって仕事になりません!」 「エミーナ、私たちはシャルロッテ様のお手伝いと給仕の補佐が本職ですからね。仕事はちゃんとしなさい」 「もう、ロゼッタは固いんだから〜。シャルロッテ様もそう思いますよね?」 「ええ、もちろん! 我がセレスティア伯爵家の将来を背負う兄上のお嫁さんよ? この私の目(とエミーナとロゼッタの目)でしっかり吟味してあげないと!」
腕を組んでフンスと鼻息を荒くするシャルロッテに、ルイスは呆れたような、けれどどこか温かい眼差しを向けた。
「シャルロッテ様、ガブリエル様は一族の跡取り候補として、今回のご招待も真面目にお受け入れになっています。くれぐれもご悪戯が過ぎて、ガブリエル様の胃を痛めさせないようにしてくださいね」 「失礼ね、私はいつだって真面目よ!」
そんな会話を交わしていると、回廊の奥から重々しい(しかしどこか哀愁を帯びた)足音が近づいてきた。
「ルイス……今日のスケジュールなんだが……って、シャルロッテ? なんでお前たちがそんなところに固まっているんだ」
現れたのは、本日の主役であり、セレスティア伯爵家孫1号——ガブリエルその人だった。 今年で二十歳を迎える彼は、整った容姿と真面目な雰囲気を纏った青年だが、その表情には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「あ、兄ちゃん! お誕生日お祝い週間、おめでとう!」 「まだ数日早いし、その言い方は妙に嫌な予感がするな……。おいシャルロッテ、お前まさか、変な企みをしてるんじゃないだろうな?」 「失礼ね! 妹として、兄ちゃんの運命のお相手探しを陰ながら全力でサポートしようという、温かい家族愛よ!」 「それを世間では『好奇心丸出しの野次馬』と言うんだよ!」
ガブリエルは即座にツッコミを入れた。セレスティア伯爵家という、どこか個性的で浮世離れした親族に囲まれて育った彼は、一族の中でダントツの「常識人」であり、同時に「不憫なツッコミ担当」としての地位を確立していた。
「はぁ……。祖父様(伯爵)から『二十歳の節目だ、そろそろ固めろ』と言われれば断れるわけがないだろう。俺はただ、跡取りとして一族の指示に従っているだけだというのに……」 「まあまあ、ガブリエル様。5人の令嬢方はいずれも素晴しい家柄の魅力的な方々だと伺っております。案外、一目惚れしてしまうような運命の出会いがあるかもしれませんよ」
ルイスがフォローを入れると、ガブリエルは深々とため息をついた。
「ルイス、お前のその誠実な言葉だけが今の俺の救いだよ……。シャルロッテ、お前は絶対に変な口出しをするなよ? 良いな?」 「はーい、おとなしく『観察』してまーす!」 「返事にまったく説得力がない……!」
頭を抱えるガブリエルを余所に、シャルロッテと二人の侍女は顔を見合わせてニヤリと笑い合った。セレスティア伯爵家を舞台にした、春の「花嫁候補吟味大会」の幕が開けたのである。
午後、フロストヴァイス城の大広間は、華やかな香水の香りと色とりどりのドレスで満たされていた。 クリスタリア湖を一望できる大窓からの光が照らし出すのは、厳選された5人の花嫁候補の令嬢たちだ。
シャルロッテは給仕のトレーを持ったエミーナとロゼッタを引き連れ、壁際から鋭い視線を送っていた。
「さあ、二人とも。第一ラウンドの始まりよ。まずはエントリーナンバー1番!」
シャルロッテが低声で囁くと、ロゼッタが小声で解説を添える。
「手前のピンクのドレスの方ですね。侯爵家の令嬢、ソフィア様です。可憐で淑やか、刺繍とハープが得意な大和撫子……いえ、伝統的な深窓の令嬢と評判です」
見れば、ソフィア令嬢は照れくさそうに頬を染めながら、ガブリエルにお祝いの言葉を述べていた。
「ガブリエル様……本日はお招きいただき、誠にありがとうございます。このような素晴らしいお城で、ガブリエル様のお誕生日をお祝いできますこと、胸が一杯でございます……」 「あ、いえ、こちらこそ遠路はるばるお越しいただき感謝します、ソフィア様。お口に合うか分かりませんが、当城自慢の紅茶をどうぞ」
「……うーん、兄ちゃん、ガチガチに緊張してるわね」 シャルロッテが呟くと、エミーナが「でも」と付け加える。 「ソフィア様、とっても守ってあげたくなるタイプですね! ガブリエル様みたいな真面目なお兄様にはぴったりかも……あ、でも見てください、シャルロッテ様! エントリーナンバー2番の方!」
次に登場したのは、情熱的な赤いドレスを纏った公爵令嬢、エレノアだった。彼女は歩くたびに凛としたオーラを振りまいている。
「ガブリエル様! 二十歳のお誕生日、心よりお祝い申し上げますわ! 私、ガブリエル様が剣術の大会で優勝された時の勇姿、今でも鮮明に覚えておりますの。セレスティア伯爵家を継ぐにふさわしい武勇とご知性、まさに私の理想の男性ですわ!」 「は、はは……過分なお言葉、恐縮です、エレノア様。剣術はたしなむ程度ですが……」 「まあ、ご謙遜を! 今度ぜひ、私に剣のご指南をしていただけませんこと?」
グイグイと距離を詰めるエレノアに対し、ガブリエルは圧倒されつつもジリジリと後ずさりしている。
「わあ……肉食系ですね。ガブリエル様、完全に押されています」 ロゼッタが冷静に分析する。
「ちょっと兄ちゃん! 引いてちゃダメじゃない! ちゃんと受け止めなさいよ!」 「シャルロッテ様、声が大きいです」 ロゼッタに咎められ、シャルロッテは慌てて口を押さえた。
続いて3人目は、知的で眼鏡の似合う伯爵令嬢クラリス。彼女はガブリエルと領地経営や歴史の話題で盛り上がろうとしているが、内容が高度すぎてガブリエルの表情が引きつっている。 4人目は、天真爛漫な男爵令嬢リリィ。可愛らしい笑顔で「わあ、お菓子がとっても美味しいです! ガブリエル様、あーんしてください!」と天然全開で攻め立て、ガブリエルを真っ赤にさせていた。
「そして最後、5人目は……」
最後の令嬢は、どこかミステリアスな雰囲気を纏った子爵令嬢、アイリスだった。彼女は静かにガブリエルに近づくと、扇子で口元を隠しながら、ふっと意味深な笑みを浮かべた。
「ガブリエル様……私、セレスティア家に伝わる『湖の幽霊伝説』について深く興味がございますの。今夜、月が出たら二人で秘密の図書室でお話ししませんこと……?」 「えっ!? ゆ、幽霊……? いや、それは……(俺、オバケ苦手なんだけどな……)」
ガブリエルの顔から一気に血の気が引いていくのを、シャルロッテは見逃さなかった。
「あははは! 兄ちゃん、アイリス様のミステリアスアタックに大ダメージを受けてるわ!」 「ガブリエル様、昔から怪談話がダメですものね……可哀想に」 エミーナがくすくす笑う。
その時、絶妙なタイミングでルイスが銀のトレイを手に進み出た。
「ガブリエル様、令嬢の皆様。当城特製のウエルカムティーと、シャルロッテ様が焼き菓子をご用意されております。どうぞテラスへ移動し、クリスタリア湖の絶景と共にお楽しみください」
洗練された動作、通る声、そして完璧な気配り。ルイスの介入によって、パニック寸前だったガブリエルは救われ、令嬢たちも「まあ、素晴らしい配慮ですわね」「流石は伯爵家の家令様」と嬉しそうにテラスへと移動していった。
ガブリエルはルイスの背中に向かって、涙目で「助かった……!」と口パクで感謝を伝えていた。
夕方、怒涛のお茶会第一部が終わり、大広間には静けさが戻っていた。 給仕の片付けを手伝っていたシャルロッテたちの元へ、疲れ果てた様子のガブリエルが足取り重く歩み寄ってくる。
「お疲れ様、兄ちゃん! 5人の美女に囲まれて、夢のような時間だったでしょう?」 「夢っていうか……胃が千切れるかと思ったよ……」
ガブリエルは近くの椅子に崩れ落ちるように腰掛けた。
「ソフィア様は緊張しすぎて息をしていないし、エレノア様には明日から毎朝手合せを申し込まれそうだし、クラリス様の経済学の質問には答えられないし、リリィ様にはあーんはさせられそうになるし、アイリス様には夜の城を探検しようって誘われるし……俺、何か悪いことしたか……?」 「くすっ、ガブリエル様、皆様それだけガブリエル様に魅力を感じていらっしゃるのですよ」 ロゼッタがフォローするが、ガブリエルは力なく首を振った。
「俺はただの真面目な跡取り候補だぞ……? 誰を選んでも、他の四つの家に角が立つんじゃないかと考えると、夜も眠れん……」 「兄ちゃん、考えすぎ! 伯爵家の跡取りなんだから、もっとドーンと構えて、『全員俺の魅力にひれ伏すがいい!』くらい言えばいいのよ!」 「俺がそんなキャラに見えるか!? 誰のせいでこんな苦労をしてると思ってるんだ……いや、祖父様のせいなんだが!」
ガブリエルの絶叫に近いツッコミが広間に響き渡る。 そこに、給仕の片付けを終えたルイスが静かに歩み寄ってきた。彼のトレイには、温かいハーブティーが乗っている。
「ガブリエル様、どうぞ。心を落ち着かせるカモミールとレモングラスのブレンドです」 「おお……ルイス……お前は本当に天使か何かか……?」
ガブリエルは涙ぐみながらカップを受け取り、一口飲んで長々と息を吐いた。
「ルイス、お前が俺の代わりに伯爵家を継いでくれればいいのに……」 「滅相もございません。私はセレスティア伯爵家に仕える家令。ガブリエル様が立派な当主となられるよう、全力でお支えするのが私の務めでございます」 「真面目か! いや、知ってたけど! お前のその誠実さの百分の一でも俺の度胸に分けてほしいよ……」
落ち込む兄の姿を見て、シャルロッテはニヤリと笑うと、兄の隣に腰掛けた。
「まあまあ、兄ちゃん。まだ4月第3週は始まったばかりよ? お誕生会本番は週末なんだから! 私たちも全力で『お手伝い』するからさ!」 「お前の『お手伝い』が一番恐ろしいんだよ……! おいエミーナ、ロゼッタ、お前たちからもシャルロッテを止めるように言ってくれ!」
振られた二人の侍女は、顔を見合わせた。
「申し訳ございません、ガブリエル様。私たちはシャルロッテ様の専属侍女ですので……」 「シャルロッテ様のご意向には、喜んでお供いたします!」 「お前たちまでグルかーい!」
頭を抱えるガブリエルの姿に、広間はどっと温かい笑いに包まれた。
「まあ、ガブリエル様」 ルイスが温かい眼差しでガブリエルを見つめる。 「令嬢方のご選定も大切ですが、まずはこの一週間、ガブリエル様ご自身が二十歳になられることを楽しんでいただくのが一番でございます。お困りのことがあれば、いつでも私にご命じください。家計の管理から、夜の幽霊退治まで、何なりと」
「幽霊退治まで入ってる!? ルイス、お前本気で言ってるな!?」
ガブリエルのツッコミが再び響き、シャルロッテと侍女二人はお腹を抱えて笑った。
窓の外では、夕暮れ時のクリスタリア湖が、茜色から紫紺のグラデーションへと美しく染まり始めていた。 波乱に満ちた、そして賑やかで愛おしい伯爵家の「お誕生会週間」は、まだ始まったばかりだ。
「よし! 明日は令嬢たちと湖でボートに乗る予定よ! 兄ちゃん、落水しないように気をつけてね!」 「なんで俺が落ちる前提なんだよ! シャルロッテ、絶対に変な仕掛けをするなよ!? 絶対だぞ!?」
兄の切実な叫びを背に、シャルロッテはエミーナとロゼッタを引き連れて、明日の「観察計画」を練るためにウキウキとした足取りで部屋を後にするのだった。




