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第2章『フロストヴァイス城の賑やかな夕刻』

クリスタリア湖の鏡のような水面に、白銀の黄昏が溶け込んでいく。湖上にそびえるフロスト・ヴァイス城は、夕闇の訪れとともに幻想的な青い陰影を纏い始めていた。

城の重厚な大食堂には、長く磨き上げられた長卓が鎮座している。その上にはすでに紫のラベンダーマークが刺繍されたテーブルクロスが美しく敷かれ、銀の燭台に灯された火が揺れていた。

夕飯の時刻。城の住人全員が一堂に会する、セレスティア伯爵家の夕食会が始まろうとしていた。

「おい、ルイス。今日の献立は何だ? 腹が減って減って仕方がなさすぎるぞ!」

豪快な声を上げて食堂に一番乗りしたのは、このセレスティア伯爵家の家長、フリードリヒであった。白髪混じりの頭頂部は寂しいものの、手入れされたチョビ髭を揺らし、衰えぬ血気と浅黒く引き締まった肌(毎朝の全裸に近い体操の賜物である)を覗かせている。

そのすぐ後ろから、静かな歩調で添うのは妻のヴィクトリアだ。 「まあまあ、あなた。そんなに大声をだしては、お腹がもっと空いてしまいますわよ」 穏やかな微笑みを絶やさず、夫の椅子を引く仕草を優しく見守る。まさに絵に描いたような従順で慈愛に満ちた伯爵夫人であった。

「父上、母上、お待たせいたしました」

長男のフィリップが、妻のアデライーデを伴って入室してくる。世継ぎとしてはどこか気弱で心細い面持ちだが、両親への礼儀と忠孝は欠かさない。

「あら、お義父様、今日のお召し物は素敵ですこと」

アデライーデが天然の微笑みを浮かべて朗らかに言った。

「ふん、相変わらず無駄に元気なじいさんね。ほら、オリバー、さっさと座りなさい」

出戻り娘のクララが、孫3号。息子のオリバーを伴ってやって来た。

「母上、触らないでください! 今、広背筋の緊張状態を維持している最中なのです! 朝の祖父上の裸体体操を見学し、私の大胸筋も新たな高みへと至りつつあるのですから!」

「黙りなさい、この変態筋トレ息子!」

クララの平手が容赦なくオリバーの大胸筋に衝撃を加えた。

「……ハァ」

そのやり取りを冷ややかな目で見つめながら着席したのは、孫1号のガブリエルだ。この混沌とした一族において、唯一まともな感覚を持つ苦労人。一族の奇行には頭を抱えつつも、真面目さゆえに跡取り候補としての義務は怠らないツッコミ担当である。

そして最後に入卓してきたのは、孫2号のシャルロッテだった。

(前世にて、愚かな婚約者に婚約破棄され、冤罪を着せられ、断罪の露と消えたこの私……)

転生するまで彼女の心の中では、メラメラと暗黒の復讐心が燃え盛っていた。前世での無念を晴らすべく、血の滲むような牙を研ぎ澄まして再転生を果たした……はずだった。

(なぜ私は別の異世界に転生したのよ!? 復讐すべき相手がこの世界に誰もいないじゃないのよ!!)

荒れ狂う内心を完璧な淑女の仮面で覆い隠し、シャルロッテはエレガントに椅子に腰かけた。その左右には、控える美少女侍女ふたりの姿がある。泣き虫で健気なエミーナと、どこか妖しい笑みを浮かべる黒髪のドM侍女、ロゼッタである。

「お嬢様、本日の夕食も楽しみですね」「お嬢様、どうかこのロゼッタを、冷たいお言葉でお叱りくださいませ……お給仕のミスをしてお仕置きされる準備はいつでも……」 「ふたりとも、黙って控えなさい」 シャルロッテは小さく溜息をついた。侍女までこの調子である。

全員が揃ったところで、家令のルイスがすっと前に出た。20代後半という若さながら、前家令の父から引き継いだ賢明さと誠実さを全身から漂わせ、深々と一礼する。

「皆様、今宵もセレスティア伯爵家の夕飯の刻となりました。本日の料理をご案内いたします。厨房『ヴァイオレット』より、アドリアナ料理長率いる紫のヴァイオレット組が、誠心誠意を込めて腕を振るいました」

ルイスが合図を送ると、大食堂の重厚な扉が開かれた。 胸元と三角巾に紫のラベンダーマークを誇らしげに掲げた、白の調理衣の料理人たちが整然と入場してくる。その先頭に立つのは、エースマークを胸に輝かせた料理長、アドリアナであった。

「伯爵閣下、ならびにご家族の皆様。本日の献立は、当『紫のヴァイオレット組』が愛と真心を捧げて作り上げた、フレンチとアジアン、そして極東の『和食』を融合させた至高のコースでございます」

アドリアナの凛とした声とともに、銀のドームカバーが一斉に外された。

ふわっと広がるのは、芳醇な出汁と醤油の香ばしい香り、そしてハーブとガーリックが奏でる官能的なアロマ。

「お楽しみください。前菜は『真鯛の昆布締めと季節野菜のジュレ、紫蘇の香りを添えて』。スープは『フレンチ仕立てのコンソメに香る、アジアンハーブとトムヤムのアクセント』。そしてメインディッシュは……『特選和牛のロースト、秘伝の照り焼き赤ワインソース』でございます」

「う、うまそうじゃあないか……!」 フリードリヒ伯爵のチョビ髭がピクピクと跳ねる。

「皆様、どうぞお召し上がりください」 ルイスの促しで、夕食会が華やかに開幕した。

「おお……この真鯛の旨味! 昆布の出汁がしっかりと染み込み、後味に爽やかな紫蘇が抜けていく……! アドリアナ、相変わらず見事な職人技じゃ!」 フリードリヒが身を乗り出して絶賛する。 「お義父様、本当に美味しいですわね。このジュレのプルプルとした食感、まるで朝のお義父様の鍛え上げられたお肌のようです」 「アデライーデ、だから舅の肌と料理を比較するなと言っているだろうが!」 ガブリエルが即座に突っ込む。

「まあまあ、ガブリエル。アデライーデさんも褒めているのですから」 父フィリップが宥めようとするが、その手はスープの匙を動かすのに夢中だった。 「それにしてもこのスープ……フレンチの繊細な旨味の中に、ピリッとしたアジアンな辛みと酸味が引き立っている。……私のような頼りない男でも、シャキッとするような味わいだ」 「貴方はそのままで素晴らしい夫ですよ、フィリップ」 母ヴィクトリアが優しく微笑み、夫の皿にパンを添える。

一方、テーブルの端では別の熱戦が繰り広げられていた。

「くっ……この肉のタンパク質、そして上質な脂質! 照り焼き赤ワインソースの糖分が、トレーニング後の私の筋肉細胞に直接染み渡っていく……! 効く、効くぞおお!」 オリバーが感涙を流しながら肉を喰らい、その場で上腕二頭筋を収縮させる。 「行儀が悪いわよ、オリバー! 食事中に筋肉を誇示するんじゃないわ!」 クララの雷が落ちるが、オリバーはどこ吹く風で肉を噛み締め続けている。

「……ハァ、全く落ち着かない一族ね」 シャルロッテは優雅にナイフとフォークを動かした。ローストビーフを一口口に運ぶ。

(……な、何これ……!? 柔らかい肉から溢れ出す濃厚な肉汁、甘辛い照り焼きと芳醇な赤ワインが見事に調和して……美味しい……! 前世の王宮で食べたどんな料理よりも、遥かに洗練されているわ……!)

内心の衝撃を隠し、シャルロッテは静かに微笑んだ。 (くっ、復讐の炎を燃やさねばならないのに、この城の料理は美味ちすぎる……じゃなくて、美味しすぎるのよ! これでは牙が毒気を抜かれて丸くなってしまうじゃないの!)

「お、お嬢様……! 美味しさのあまり、お嬢様が息をのんでいらっしゃいます……! 私、お嬢様が満足そうなお顔をされるだけで涙が……うっ、ううっ」 背後でエミーナがハンカチを濡らしている。 「フフ……お嬢様。もしお味が口に合わなければ、私めを『出来損ないの侍女め』と踏みつけてくださっても構いませんのよ……?」 ロゼッタが頬を赤らめて囁く。

「ふたりとも静かにしなさいと言ったでしょう! ルイス、このふたりに何か温かいお茶でも淹れてあげて」 「かしこまりました、シャルロッテ様」 ルイスは完璧な作法で一礼し、手際よくハーブティーを準備し始めた。実に誠実で隙のない執事ぶりである。

食事は進み、いよいよデザートの洋菓子全般を得意とするヴァイオレット組の本領発揮となった。

運ばれてきたのは『抹茶とミルフィーユのフュージョン、ラベンダー風味のアイスクリーム添え』。

「うむ! この甘みと苦みの絶妙なバランス! 紫のヴァイオレット組の愛と真心が、全身に染み渡るようじゃわい!」 フリードリヒが満足げに腹を叩く。 「あなた、明日の朝の健康体操も、これでバッチリ励めますわね」 「勿論じゃ、ヴィクトリア! 明日は上半身と言わず、さらに気合を入れて……」 「じいちゃん、それ以上は警察か公序良俗に引っかかるからやめてくれ」 ガブリエルが頭を抱えながら食い止めた。

賑やかで、どこかズレていて、けれど温かい夕食会。

シャルロッテは抹茶のミルフィーユを口に運び、フッと小さく微笑んだ。

(前世では裏切られ、冷たい処刑台の上で果てた私……。だけど、この別の異世界で出会った家族は、変態で、天然で、筋トレマニアで、常識人で……そして、誰もが私に温かい食卓を用意してくれる)

復讐を誓った元悪役令嬢の心に、クリスタリア湖の澄んだ水のような、穏やかな幸せが広がっていく。

「シャルロッテ、何を笑っているんだい?」 ガブリエルが尋ねてくる。

「別に何でもないわ、お兄様。ただ……今日の夕飯も、とても美味しいと思っただけよ」

シャルロッテがそう答えると、セレスティア伯爵家の食堂は、一層大きな笑顔と歓声に包まれたのだった。

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