第1章 断頭台の露と消えた雫は、湖の城に落っこちた
石畳の広場を埋め尽くす群衆のざわめきが、まるで黒い波のように寄せては返していた。
冷たい初冬の風が容赦なく吹き付け、処刑台の上に佇むシャルロッテ・フォン・ローゼンバーグのドレスを激しく揺らす。かつては豪奢を極めた最高級の絹織物も、今や泥と煤に汚れ、無惨に引き裂かれていた。
「くっ……」
侯爵令嬢として、いかなる時も気高く、誇り高く生きてきた。その細い両手首に嵌められた無骨な鉄の手錠が、肉へと重く食い込み、鈍い痛みを訴えかける。だが、シャルロッテは決して膝を折らなかった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、正面を睨み据える。
「魔女シャルロッテ・フォン・ローゼンバーグ。貴女の罪状は、邪悪な呪術を以てオーロラリス大公家を惑わし、国家転覆を謀った大逆罪である」
大気を震わせるほどに冷徹な宣告を下したのは、他ならぬ男――ジュリアン・ヴェスペリアだった。
オーロラリス大公家の嫡子であり、かつてはシャルロッテの婚約者だった男。その端正な顔立ちには、かつて向けられたことのないような嫌悪と冷酷さが宿っている。
そして、彼のすぐ隣には、純白のドレスを身に纏った小柄な少女が寄り添っていた。
セレスティーヌ・アストレア。
守ってあげたくなるような儚げな涙を瞳に浮かべ、悲劇のヒロインを完璧に演じている。しかし、その本性は全く異なる。領地も持たない貧乏貴族の娘でありながら、いつの間にかジュリアンの心に入り込み、婚約者であるシャルロッテを邪魔者として排除するために「魔女」の濡れ衣を着せた張本人。全ての糸を引いた真の悪女は、あの女だった。
「何か言い残すことはあるか、悪逆非道な魔女よ」
ジュリアンは冷ややかな瞳で、かつての婚約者を見下ろした。
その横で、群衆やジュリアンからは決して見えない角度のまま、セレスティーヌの唇が小さく歪む。勝ち誇ったような、底意地の悪い、醜悪な笑み。
(――よくも、よくも私をここまでコケにしてくれたものね)
泥をすするような屈辱の極み。しかし、シャルロッテの黄金の瞳は、絶望に曇るどころか、一層の輝きを放っていた。死への恐怖に震えるどころか、凍てつくような殺意の炎がその奥底で静かに、しかし爆発的な熱量を持って燃え盛っている。
「言い残すこと、ですか」
シャルロッテは、かすれた声で小さく笑った。
割れた唇から滲む血が、白磁の肌に鮮烈な赤を引く。その微笑みはあまりにも美しく、そして残酷な弧を描いていた。処刑台の下で見守る観衆が、そのただならぬ気迫に一瞬だけ静まり返る。
「よく聞きなさい、ジュリアン。そして、そこにいる泥棒猫セレスティーヌ」
声を張り上げたわけではない。しかし、その言葉は呪詛のように冷たく、広場全体へと染み渡っていった。
「あなたたちが今踏みにじったこの命、ただで死ぬとは思わないことね。たとえ魂が砕け散ろうとも、私は必ず蘇る。来世でも、その次の世でも、あなたたちの前に這い上がってきて――絶望のどん底まで引きずり下ろしてあげるわ」
「狂女め、処刑を執行しろ!」
シャルロッテの凄まじい執念に気圧されたのか、大公家の息子は怯えたように、引きつった声で叫んだ。
次の瞬間、重い金属音が冬の空を切り裂く。
冷酷な鉄の刃が固定を解かれ、重力に従ってまっすぐ、彼女の首筋を目指して落下した。
(見ていなさい、ジュリアン。セレスティーヌ。あなたたちのその愚かな顔に、必ず、最高の絶望を刻み込んでやるわ……!)
刃が落ちる刹那、鼻腔を突いたのは凍りつくような鉄の匂い。そして、大衆の地響きのような歓声。
溢れ出る憎悪と、狂おしいほどの復讐心。それが極限に達した瞬間、シャルロッテの視界は引き裂かれるようにして、真っ白な光の中に染まり、消え去った。
◇
「……あ、あの、お嬢様? お召し替えのお時間ですが……」
耳元で、おずおずとした、酷く遠慮がちな声が響いた。
(――え?)
シャルロッテは、微かな違和感とともに意識を浮上させた。
断頭台の冷たい感触も、首筋を襲うはずの衝撃もない。あるのは、妙に心地よい柔らかさと、上品な花の香り。
ゆっくりと目を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れぬ光景だった。
「ここは……?」
頭上に広がっていたのは、最高級のシルクで作られた、見事な天蓋付きのベッドだった。それも、ローゼンバーグ侯爵家で使っていたものとは意匠が全く違う。
「お嬢様、やはりまだお加減が優れませんか? お顔が真っ青でございます」
すぐ傍らに立っていたのは、見覚えのない少女だった。仕立ての良い侍女服を着て、心配そうにこちらを覗き込んでいる。栗色の髪をサイドで結んだ、なかなかの美少女だ。
「……あなた、誰?」
シャルロッテが掠れた声で問うと、侍女は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、大慌てで両手を振った。
「な、何を仰っているのですか、シャルロッテお嬢様! 私ですよ、エミーナです! まさか、本当に熱でもおありですか!? すぐにロゼッタを呼んで、お医者様を――」
「待ちなさい」
シャルロッテは、混乱する頭を片手で押さえながらベッドから身を起こした。
その時、視界に入った自分の「手」を見て、息が止まった。
(何、これ……?)
手錠の痕などどこにもない。それどころか、かつての自分の手よりも一回り小さく、指先が少し丸みを帯びている。
肌の質感も、自分のものとは明らかに違っていた。
「鏡。鏡を寄こしなさい。今すぐに」
「は、はいっ!」
エミーナと呼ばれた侍女は、主人のただならぬ剣幕に怯えながらも、ドレッサーから手鏡を取って恭しく差し出した。
シャルロッテはひったくるようにしてそれを受け取り、鏡面を覗き込む。
そこに映っていたのは――。
「……誰、これ」
鏡の中の少女は、およそシャルロッテ・フォン・ローゼンバーグではなかった。
かつての彼女は、誰もが振り返るような冷艶な銀髪と、鋭くも美しい紫紺の瞳を持つ、気高い美貌の悪役令嬢だった。
しかし、今鏡の中にいるのは、ふんわりとした温かみのある栗色の髪に、まるで小動物のような愛らしい褐色の瞳をした少女だ。造形自体はかなりハイレベルで、将来が恐しいほどの美少女ではあるが、系統がまるで違う。何より、幼い。全体的にぽやんとした、おっとりした印象を受ける顔立ちだった。
「シャルロッテお嬢様……そんな、ご自身の顔をお忘れになるなんて、やはり悪い夢でもご覧に?」
エミーナが涙目で訴えかけてくる。彼女は少しのことで潤んでしまう「泣き虫」な美少女のようだ。
しかしシャルロッテの目は、エミーナの心配そうな表情の裏にある、妙に熱っぽい視線を見逃さなかった。
(……気のせいかしら。この子、私を見る目が妙にトロンとしていない?)
「お嬢様、もしお体が火照っていらっしゃるのでしたら……私、エミーナ、お嬢様の『夜伽』のお相手を命じられましたらいつでも応じるつもりでおりますので、何なりとお申し付けくださいっ!」
「よ、よと……!?」
唐突に頬を赤らめてとんでもない提案をしてきたエミーナに、シャルロッテの思考が一瞬フリーズする。
「お嬢様ー! ロゼッタもお連れしました! あら、お着替えがまだですの?」
部屋の扉が勢いよく開くと、エミーナと同じ侍女服を着た別の少女が飛び込んできた。
こちらはきりっとした黒髪の美少女だ。彼女がもう一人の侍女、ロゼッタだろう。
「ロゼッタ、大変なの! お嬢様がご自身のことも、帝国のこともお忘れになっていて……!」
「まあ! それは重症ですわね。……ですがお嬢様、お体がそんなに優れないのでしたら、いっそ私に『夜伽』を命じて、そのお体をお慰めさせてはいかがでしょうか? 私はドMですので、お嬢様にどんなに冷たく扱われようとも、激しくお仕置きされようとも、いつでも喜んでお応えする準備がございます!」
「あなたまで何を言っているのよ!!」
シャルロッテは思わずベッドの枕をロゼッタに投げつけた。ロゼッタはそれを避けるどころか、「はうっ、お嬢様からの直撃……!」と恍惚とした表情を浮かべている。
(なんなのこの侍女たち……。顔はとびきり可愛いのに、二人とも頭のネジが数本ぶっ飛んでるわ……!)
もちろん、前世で高潔に生きてきたシャルロッテにそんな気は一切ない。
だが、侍女たちの強烈なキャラクターのおかげで、深刻になりかけていた頭が少しだけ冴えてきたのも事実だった。
鏡を凝視しながら、脳内で必死に情報を整理する。しかし、導き出される現実は、やはりあまりにも残酷で、あまりにも不条理なものだった。
シャルロッテが処刑された世界も、あの忌々しい国も、復讐を誓った人物たちも――この世界には、何一つとして存在していないようだった。
つまり。
異世界で断頭台にかけられた悪役令嬢は、執念で転生を果たした結果、「さらに違う別の異世界」へとすっ飛ばされてしまったのだ。
「……は?」
思わず、侯爵令嬢らしからぬ、完全に素の声が出た。
呆然としたまま、シャルロッテは心の中で激しく突っ込む。
(ちょっと待ちなさいよ。私の、あの命がけの、魂を削るような渾身の呪詛は何だったの? 来世で必ず絶望のどん底に叩き落としてやるって、あんなに格好良く言い放って死んだのに!!)
標的のいない世界で、一人だけ可愛らしい少女になって蘇ってしまった。
(復讐、どうするのよこれーーーーーーっ!?!?)
底知れぬ頭痛を覚えながら、元悪役令嬢シャルロッテの、あまりにも斜め上すぎる第二の人生が幕を開けたのだった。
◇
「お嬢様、少し落ち着かれましたか? 記憶の混濁を確かめるためにも、この家の家族構成についておさらいいたしますね」
枕を食らってなお嬉しそうなロゼッタが、何食わぬ顔で説明を始めた。シャルロッテは、変態的な侍女たちから距離を置きつつ、渋々と頷いた。
「ええ、頼むわ。ここは、どこの誰の城なの?」
「ここは、クリスタリア湖のなかに浮かぶ、美しき『フロスト ヴァイス城』。そしてお嬢様は、この城の主であるセレスティア伯爵家の令嬢、シャルロッテ・セレスティアお嬢様でございます」
(フロスト ヴァイス城。湖に浮かぶ城……環境としては悪くないわね。悪役令嬢が隠居するには上等すぎるくらいだわ)
「お嬢様は、この伯爵家の『孫2号』にあたられます。一族の皆様は、皆様とても……その、個性的な方ばかりで……」
エミーナが涙を拭いながら言葉を続ける。そして、侍女たちの口から語られた「セレスティア伯爵家」の実態は、シャルロッテがそれまで生きてきた貴族の常識を、根本から叩き壊すものだった。
「まず、家長であらせられる、おじい様のフリードリヒ様。セレスティア伯爵その人でございますが……白髪の立派なチョビ髭をお持ちで、頭頂部は半ハゲであらせられます」
「そこまでは普通の老貴族ね」
「いえ、あのお方は毎朝、上半身裸になられて、バルコニーで独自の『健康体操』を全力で行うのが日課でございます。今朝も湖からの寒風の中、元気に腰を回しておられました」
「……は?」
貴族の長が、上半身裸で体操。前世の格式高いローゼンバーグ侯爵家では、万が一にもあり得ない奇行である。
「そして、おばあ様のヴィクトリア様。伯爵夫人であらせられます。お優しく、大変穏やかで、夫であるフリードリヒ様や、お子様、そしてお嬢様方にも常に従順な、絵に描いたような淑女でございますが……」
「それは素晴らしいわ。お手本にしたいものね」
「はい。ただ、フリードリヒ様が上半身裸で体操されている横で、にこやかに微笑みながら『今日も良いキレですね、あなた』とお茶を淹れていらっしゃるので、ある意味一番肝が据わっておられます」
「……そ、そう」
「続きまして、お父様のフィリップ様。伯爵家の長男で、次期跡取りであらせられます。……ただ、大変申し訳ありませんが、世継ぎにしては少々、その、頼りないというか、心細い一面がございまして……。ですが、息子としては大変従順で、ヴィクトリア様の言うことなら何でも聞く良い息子さんでございます」
「なるほど、お飾りの跡取りというわけね。貴族家にはよくある話だわ」
「お母様のアデライーデ様は、フィリップ様の奥様で長男嫁にあたられます。おばあ様と同じく、穏やかで従順な素晴らしい方なのですが……如何せん、もの凄い『天然』でいらっしゃいまして。先日も『あら、お砂糖と塩を間違えてしまいましたわ』と、お茶会で全員に塩水を振る舞われました。もちろん、悪気は一切ございません」
シャルロッテは、こめかみを指で押さえた。
前世で経験したドロドロとした権力闘争や、陰湿な嫌がらせとは、全くベクトルの違う「恐怖」がこの家には満ちている。
「さらに、伯爵娘であらせられるクララ様。お父様のフィリップ様の妹君にあたられます。一度は別の貴族家に嫁がれたのですが、色々とございまして……現在は、息子さんを連れて堂々と『出戻り』されております」
「出戻り……。世間体が悪そうね」
「本人は全く気にしていらっしゃいません。そして、そのクララ様の息子さん、つまりお嬢様の従兄弟にあたるのが、オリバー様です」
「オリバー。どんな子なの?」
ロゼッタが、心底哀れみの混じった表情で声を潜めた。
「一言で申し上げますと、『変態筋肉マニア少年』でございます。まだ年若くあらせられるのに、日夜『筋肉こそ至高!』と叫びながら城内で過酷な筋トレに励んでおられます。お嬢様の部屋の前に、プロテインの粉をぶちまけたのも彼です」
「…………」
シャルロッテは完全に言葉を失った。
前世の婚約者ジュリアンは冷酷な裏切り者だったが、少なくとも外面は完璧な美太子だった。恋敵のセレスティーヌも、反吐が出るほど腹黒かったが、淑女としての演技力は一流だった。
それに比べて、この新しい家族たちは何なのだ。
「あ、あの……でも、ご安心くださいお嬢様!」
エミーナが慌ててフォローを入れる。
「お兄様のガブリエル様がいらっしゃいます! 伯爵家の『孫1号』であらせられます! ガブリエル様は、このセレスティア伯爵家の中で、唯一無二と言っていいほどの『超・常識人』でございます! 毎日、家族全員の奇行に対して、的確な『ツッコミ』を入れる係を担当されております!」
「ツッコミ係……? 貴族の嫡男が、そんな役職を?」
「はい。ガブリエル様がいなければ、このフロスト ヴァイス城は3日と持たずに崩壊していると言われております。ただ、あまりに真面目で、一族に対して従順なため、次期跡取り候補として、毎日胃を痛めながら頑張っていらっしゃいますわ」
(なんてかわいそうな男かしら……)
会ったこともない義理の兄に対して、シャルロッテは心からの同情を禁じ得なかった。
同時に、理解した。
この「セレスティア伯爵家」という環境は、ドロドロとした陰謀や、悪役令嬢としての断罪劇とは、地球と月の距離ほどにかけ離れた、平和で、お気楽で、少しばかり頭のネジが飛んだ空間なのだということを。
「――ふふ、ふふふふ……」
「お、お嬢様!? 急に不敵な笑みを浮かべてどうされたのですか!」
シャルロッテは、ベッドの上で両手で顔を覆い、狂おしそうに、しかしどこか楽しげに笑い声を漏らした。
前世の記憶と、悪役令嬢としてのプライドが、このあまりにも緊張感のない現実に激しく揺さぶられている。
(いいわ。面白いじゃない。ジュリアンもセレスティーヌもいない、復讐する相手すら存在しない世界。おまけに、家族も侍女も全員どこかおかしい。……でも、私はシャルロッテ・フォン・ローゼンバーグよ。どんな環境であれ、舐められたまま生きるつもりはないわ)
彼女はガバッと掛け布団を跳ね除け、ベッドの上に立ち上がった。
栗色の髪がふわリと舞い、褐色の愛らしい瞳に、かつての魔女としての鋭い光が宿る。
「エミーナ、ロゼッタ! すぐに着替えの準備をなさい! このセレスティア伯爵家の『孫2号』として、まずはその狂った家族たちに挨拶へ行ってあげるわ!」
「は、はいっ! ただいまお仕度を!」
二人の怪しい侍女たちが、どこか期待に満ちた熱い視線を送りながらも慌ただしく動き出す中、シャルロッテは窓の外に広がる、美しいクリスタリア湖の絶景を睨みつけた。
(待っていなさい、この世界の住人たち。私の復讐の炎は、行き場を失って今、最大級のエネルギーに変わっているのよ。この世界を、私の美学で完璧に支配してあげるわ――!)
こうして、行き場をなくした最強の復讐心と悪役令嬢のプライドを持った少女の、新世界でのドタバタな日常が、今度こそ本当に幕を開けたのであった。
(――で、でも、やっぱり本音を言えば、復讐どうしたらいいのよこれーーーー!!)
心の奥底の叫びだけは、誰にも聞こえない湖の底へと消えていった。




