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第37章『ヴェルデンハーフェン解放戦』その2

ヘリング――正式名称ヴェルデンハーフェン。 北海の荒々しい塩煙と、大河ローゼンバッハからの運河運河が美しい港街は、かつて活気あふれる汽笛と薫製ニシンの香ばしい煙に満ちていた。 しかし、丘の上からセレスティア軍が見下ろすその街は、魔導帝国の手によって漆黒の要塞へと変貌を遂げていた。


交易を支えていた無数の風車は首を折られたように停止し、港に並ぶ船渠ドックには帝国軍の黒い軍船が不気味に佇んでいる。街を取り囲む網の目の如き運河と、ローゼンバッハ大河を跨ぐ巨石の橋「ローゼン橋」の袂には、鉄条網と黒鉄の防壁で強固に固められた陣地が築かれていた。


「橋梁部および外郭陣地に、多数の魔導反応が」 エミーナが『破邪顕正』の聖杖を胸元で静かにかざした。緑と白の光柱が彼女の周囲でかすかに明滅し、遠方の邪気を察知して小さく震えている。 「通常のゾンビ兵だけではありません。大河の水流を利用した水棲型の不死者ハイドロ・ゾンビや、防衛陣地の投石台が配置されています。強行渡河を試みれば、壊滅的な打撃を受けるでしょう」


「水棲のゾンビねぇ……冷たい川底から足首を引っ張られるなんて御免だわ」 ロゼッタが不敵な笑みを浮かべ、肩に担いだ獄炎魔槍『煉獄の咆哮』を軽く打ち鳴らした。槍身から漏れ出た不気味な赤炎が、潮風に混ざる湿気を一瞬で蒸発させる。 「大河を渡る橋が一つしかないなら、その橋を正面からぶち破るまでよ」


「いいえ、ロゼッタ。焦る必要はありません」 静かに前へと歩み出たのは、シャルロッテであった。 彼女の腰元にある神剣『空斬刺鏡』は、鞘に収まりながらも澄み切った青白い光線芒を放ち、彼女の白銀の甲冑を凛々しく照らし出している。


「ヘリングの市民たちは、街の内側で抑圧されています。私たちが外側から派手に仕掛け、敵の注意を引きつけている隙に、精鋭部隊を裏から水路経由で潜入させる……ストロムホルムでの経験をここで活かすのです」


シャルロッテの視線は、大河ローゼンバッハの支流――網の目のように市街地へと注ぎ込む古代の水運網に向けられていた。


「エミーナは水路からの潜入部隊を率いて、市街地の市民たちを解放・誘導してください。私とロゼッタで正面のローゼン橋を強襲し、敵の防衛線を粉砕します」


「承知いたしました、シャルロッテ様。『破邪顕正』の導きをもって、水路の穢れを祓い、無事に市民のもとへ辿り着いてみせます」 「ハハッ! 正面から派手に大暴れしていいなんて、最高の役割分担じゃない! 街ごと焼き尽くさないように加減はしてあげるわ!」


「全軍、突撃準備! ヘリングの解放へ向けて――行動開始!」


「「オォォォォォッ!!」」


暗雲漂うヘリングの空に、セレスティア伯爵軍の激しい勝鬨が轟いた。




ドォォォォンッ!


大河ローゼンバッハの対岸から、帝国の投石台が一斉に無数の岩を空へ放った。 落下した岩石の衝撃が土煙と水柱を爆発的に巻き上げ、進撃するセレスティア軍の前線部隊を揺さぶる。


「突進! 怯むな! シャルロッテ様に続け!」


ローゼン橋の袂へ向かって疾走するセレスティア兵たち。彼らの掲げる剣や槍には、もちろん朱色の帯『破邪魔滅』が固く結ばれている。


橋の反対側から雪崩れ込んで来たのは、川底の湿気と不浄な術式で巨大化した水棲ゾンビの群れであった。青黒く変色した肉体と、水かきのある不気味な爪を持った死者たちが、地鳴りのような怨嗟の声を上げて押し寄せてくる。


「そこをどきなさい、水浸しの腐肉ども!」


最前線を駆け抜けたのは、ロゼッタであった。 彼女は跳躍すると同時に、空中で『煉獄の咆哮』を大きく旋回させた。


「『煉獄の咆哮』――地獄陣炎舞っ!」


槍先から放たれた極大の紅蓮の炎が、湿ったローゼン橋の石畳を舐めるように駆け抜けた。 水棲ゾンビたちの湿った肉体が一瞬で蒸発し、凄まじい水蒸気の爆発が橋全体を包み込む。水流の加護すら薙ぎ払う圧倒的な熱量に、敵の第一波は影も形もなく消失した。


だが、敵もさるもの。橋の中央陣地から、漆黒の重甲冑を身に纏った帝国軍の魔導将校が現れ、冷酷に杖を振り下ろした。


「水霊の呪詛よ、死者どもに強靭なる鎧を与えよ! セレスティアの小娘どもを川の藻屑と化せ!」


大河ローゼンバッハの水流が狂ったように跳ね上がり、水棲ゾンビたちの表面に頑丈な水の氷甲冑を形成していく。ロゼッタの炎が遮られ、敵の防衛線が再び押し戻され始めた。


「私の炎を弾くなんて、いい気になるんじゃないわよ……!」 ロゼッタが舌打ちし、再び槍を構え直そうとしたその時――


彼女の脇を、一筋の鮮やかな青い疾風が突き抜けた。


「ロゼッタ、下がっていなさい」


シャルロッテであった。 彼女は一歩一歩、踏みしめるようにローゼン橋の中央へと歩みを進める。 腰元から引き抜かれた神剣『空斬刺鏡』。その刀身が露出した瞬間、周囲の空間からあらゆる雑音が消え去った。


「水霊の呪詛、氷の鎧……それらすべて、神剣の前には等しく無価値です」


シャルロッテの身のこなしは、あまりにも静かで、あまりにも美しかった。 敵の魔導将校が恐怖に顔を歪め、極大の氷塊呪術を放つ。しかし、シャルロッテは神剣『空斬刺鏡』をただ水平に、一筋薙ぎ払っただけであった。


シャキィィィン――!!


一閃。 空間を歪める青白い光の断層が走り、放たれた氷塊呪術も、水棲ゾンビの群れも、そして強固に築かれていた橋上の黒鉄陣地すらも、一瞬にして縦真っ二つに両断された。


切り裂かれた空間の隙間から溢れ出す聖光。 呪術を無効化された魔導将校は絶叫を上げるヒマもなく光の粒子となって雲散霧消し、ローゼン橋の敵防衛線は一撃のもとに完全粉砕されたのである。


「橋上の制圧、完了! 全軍、市街地へ突入せよ!」


シャルロッテの凛とした声が響き渡り、セレスティア軍の本隊が怒濤の勢いでヘリングの街へと雪崩れ込んでいった。




一方、大河の支流から小型の平底船で市街地内堀へと潜入を果たしていたエミーナの部隊は、人目に付かない船倉や水倉庫の地下へと足を進めていた。


薄暗い地下の塩倉庫には、帝国軍によって押し込められ、過酷な労働を強制されていた無数のヘリング市民たちが身を縮めていた。彼らの服は破れ、ニシンの塩漬け作業で手足は擦り切れ、瞳からは生きる希望が失われかけていた。


「皆さん、静かに……! セレスティア軍です、助けに来ました!」


エミーナが優しく声をかけながら、前へと歩み出た。 彼女が掲げる聖なる杖『破邪顕正』から、温かな緑と白の光が溢れ出し、薄暗く不衛生な地下倉庫全体を優しく包み込んでいく。


光に触れた市民たちの傷が瞬く間に癒え、冷え切っていた体に活力が戻っていく。


「あ、温かい……。体が、軽い……?」 「セレスティア……伯爵家の紋章!? 本当に助けに来てくれたのか!?」


囚われていた漁師や加工職人の男たちが、信じられないといった様子で立ち上がった。


「ええ。シャルロッテ様とロゼッタ様が、今まさに正面のローゼン橋を突破し、敵の本陣を崩しています」 エミーナは『破邪魔滅』の帯が巻かれた数多くの太刀や斧を、手際よく市民たちへ手渡していった。


「この街は、ヘリング(ニシン)と呼ばれる皆さんの愛すべき故郷です。死者どもに奪われた汽笛の音と、温かな薫製の煙を取り戻すために……私たちに力を貸してください!」


エミーナの気品ある決意に満ちた言葉に、極北の荒波と大河の恵みの中で生きてきたヘリングの男たちの胸底で、固く眠っていた海の男の誇りが力強く目を覚ました。


「そうだ……! 俺たちはヘリングの男だ! 死人どもにコキ使われて黙って死ぬなんてゴメンだ!」 「もりを持て! 網を持て! セレスティアの加護があれば、あの腐れ肉どもなんか怖くねぇ!」 「俺たちの街を、俺たちの港を取り戻すぞ――っ!!」


解き放たれた数百人の市民志願兵たちが、漁具や『破邪魔滅』の武器を手に、一斉に地上へと突撃を開始した。 彼らは熟知した街の水路と細い路地を縦横無尽に駆け巡り、背後から油断していた帝国軍の残兵たちを次々と叩きのめしていった。


内側からの大反乱と、正面からのセレスティア軍本隊の猛攻。 二重の挟み撃ちを受けた帝国軍の防衛網は、脆くも内側からガラガラと崩壊し始めていった。




決戦の舞台は、ヘリング港の巨大な中央ドックへと移っていた。


市街地を追われた敵の残党と、ヘリングを統括していた帝国将軍・提督バルバロッサが、大型軍船の甲板上で最後の抵抗を試みていた。


「おのれぇ……! 虫ケラどもの分せいで、このヘリングを奪い返そうなどと……!」 バルバロッサは不気味に蠢く黒いいかりの形をした魔導具を打ち振り、港の海面から巨大な死霊海獣ゾンビ・クラーケンの触手を何本も呼び寄せた。


触手がバシャンッと音を立てて波を打ち、ドックの木造建築を粉砕する。 突撃しようとしたセレスティア兵たちが足をすくわれる中、シャルロッテ、エミーナ、ロゼッタの三人がドックの最先端へと躍り出た。


「しぶとい奴ね! 私の『煉獄の咆哮』で、船ごと海の露にしてあげるわ!」 ロゼッタが魔槍を構え、槍身の炎を極限まで引き上げる。


「待ちなさい、ロゼッタ。港の大型船やドックを破壊しては、市民たちの今後の生活に支障が出ます」 エミーナが『破邪顕正』の杖を高く掲げた。 「邪悪な術式だけを狙い撃ちにして、無力化します!」


『破邪顕正』から放たれた極光の矢が、夜空を描いてバルバロッサの持つ黒い錨の魔導具に直撃した。 パリンッと甲高い音を立てて魔導具が砕け散り、制御を失った死霊海獣の触手たちが悲鳴を上げて海中へと崩れ落ちていく。


「な、なんだと……!? 我が術式が……!?」


動揺するバルバロッサの目の前に、青白い神光を纏ったシャルロッテが風のように舞い降りた。 甲板の上、神剣『空斬刺鏡』が描く一閃の軌跡。


「ヘリングの海に、これ以上の不浄は不要です」


神剣の青い光芒がバルバロッサの巨躯を一瞬で切り裂いた。 不浄な呪いを断ち切られたゾンビ提督は、絶叫とともに光の粒となって海へと消え去った。


将を失った帝国の残兵たちは完全に意気消沈し、次々と降伏。こうして、ヴェルデンハーフェン――ヘリングの街の奪還戦は、セレスティア伯爵軍と市民たちの完全なる勝利によって幕を閉じたのである。



激闘が明けた翌朝。


沈んでいた暗雲はきれいに去り、爽やかな北海の朝陽が大河ローゼンバッハの雄大な水面をきらきらと金色に照らし出していた。


港のドックでは、止まっていた風車がギギギと心地よい音を立てて再び回り始め、市街地のあちこちの加工場から、香ばしいニシンの薫製の煙が空へと上り始めていた。


「ポォォォォォ―――ッ!!」


港に停泊していた大型漁船から、街の解放を祝う力強い汽笛の音が鳴り響く。 街の通りは、涙を流して抱き合う家族や、セレスティアの兵士たちと手を取り合って乾杯を交わす市民たちの熱気で満ちあふれていた。


港を見下ろす丘の上。 シャルロッテ、エミーナ、ロゼッタの三人は、風に髪をなびかせながら、蘇ったヘリングの美しき港風景を静かに見つめていた。


「素敵な街ですね……。汽笛の音と、この香ばしい薫製の香り。本当に人々から愛されているのが分かります」 エミーナが『破邪顕正』の杖をそっと胸に抱き、穏やかに微笑んだ。


「ふん、まあまあね。でも、これで美味しいニシン料理がいつでも食べられるようになったのは悪くないわ!」 ロゼッタが『煉獄の咆哮』を肩に担ぎ、好戦的に笑う。


シャルロッテは腰元の神剣『空斬刺鏡』の柄にそっと手を触れ、遠く西へと続く大河ローゼンバッハの流れを見つめた。


「ストロムホルム、そしてヘリング……。二つの要衝を取り戻したことで、我がセレスティア軍の反撃の足がかりは完全に固まりました」


彼女の瞳には、まだ見ぬ次の戦場への強い意志と、確かな希望が宿っていた。


「ですが、魔導帝国の本隊はさらに南――大陸の中央部で暗雲を育ませています。セレスティアの誇りと『六棘の霜華』の旗の下、私たちは進み続けなければなりません。すべての街に、平和な朝を取り戻すその日まで」


「「はい、シャルロッテ様!」」


二人の副官が強く頷く。 北海の潮風とローゼンバッハの清流が交わるヘリングの空に、高らかに掲げられた『六棘の霜華』の旗印が、どこまでも誇らしく、鮮やかにたなびいていた。

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