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第32章『ストロムホルム攻城戦』前編

北海を覆う重苦しい雲を切り裂き、沈みゆく血のような西日が静寂の海面を赤黒く染め上げていた。 静謐を湛えていたストロムホルムの海に、地平線の彼方から突如として現れた三隻の巨大な帆船。その影は群青の波を重々しく押し分け、刻一刻と迫りつつあった。

船首に高く掲げられているのは、セレスティア伯爵家の象徴たる『六棘の霜華』の旗印。 極寒の地で鍛え上げられた家紋が潮風に荒々しく翻り、船体が波を掻き分ける重厚な水音が、不気味なほど静まり返る極北の城砦都市へと打ち寄せていた。

波間に佇むストロムホルムの港を包み込んでいるのは、自然の猛威が作り出したような険しく切り立った断崖絶壁。そしてその岩山と一体化するようにそびえ立つ、巨岩の城壁である。 かつては交易の要衝として栄えたその都市は、今や魔導帝国の手に堕ち、生気を失った絶望の要塞へと変貌を遂げていた。

黒ずんだ壁面には、圧倒的な軍勢を目前にしても一切の動揺を見せない、異様なまでの沈黙が宿っている。 城壁の狭間に隙間なく立ち並ぶのは、生前の意思を奪われ、ただ殺戮の命令のみに従うゾンビ兵たち。錆びついた黒鉄の鎧が沈みゆく西日を鈍く照り返し、その眼光のない瞳が無数に海を見下ろしている。 さらに彼らの背後には、巨木と鋼鉄で組み上げられた幾重もの巨大投石機トレブシェットが、牙を剥く猛獣のように海上の帆船群を狙いを定めて見据えていた。

「全船、減速するな! 前進せよ! あの魔物の巣窟を打ち破るのだ!」

旗艦の甲板に、陣鼓の重厚な打撃音が猛烈に響き渡った。 ドスン、ドスンと腹に響く太鼓の音に呼応し、『六棘の霜華』の旗が一斉に強風を孕んで打ち震える。セレスティア伯爵家に集いし勇士たちの士気が、一気に頂点へと跳ね上がった。

次の瞬間、城砦の頂から激しい木撃音が轟いた。

「敵の投石器、放たれたぞ! 回避――!」

見上げるような高所から、一斉に巨大な岩塊が空を切り裂いて飛来する。 空気を焦がすような重低音とともに降ってくる死の雨。巨石は海面を爆発させるように打ち砕き、天を突くほどの巨大な水柱を巻き上げた。

「くっ……舵を握れ! 波に飲まれるな!」

凄まじい衝撃波が船体を激しく揺さぶる。激しい水煙の中、海と陸を繋ぐ空隙は一瞬にして、空から落下する膨大な水飛沫の轟音と、四散した潮と硝煙の匂いに満たされた。直撃を免れた船の船首が水柱を突き破り、そのまま港の狭い水域へと猛然と突入を開始する。

「怯むな! 突き進め! 我らの故郷を、あの死者どもの手に委ねるな!」

狭隘な湾内へと強行突入を図るセレスティアの帆船に対し、今度は断崖の頂と城壁の狭間から、無数の矢の雨が降り注いだ。 空を覆い尽くす黒い矢の影。弓弦の鳴る音が風を切り、船体の木板にバババッ!と猛烈な音を立てて突き刺さる。甲板の上では怒号と絶叫が交錯し、飛び交う矢を盾で防ぐ金属音が狂乱の奏鳴曲を奏でた。

もはや、ストロムホルムの海に清澄な碧青は残されていない。 沈みゆく西日の赤、燃え上がる船体の炎、そして流される血の焦燥によって、海原は地獄の絵の具で塗りつぶされていった。

「波打ち際へ取り付け! 船を寄せるのだ!」

波を突き崩し、浅瀬へと接岸を図るセレスティア伯爵家の兵士たち。 しかし、ゾンビ兵たちの防衛は苛烈を極めた。城壁の上から、沸騰した黒い油や、ドロリと燃える火炎鍋が次々と投げ落とされる。

「ぐわぁぁぁっ! 炎が、炎がぁっ!」 「火を消せ! 海へ飛び込め!」

油を浴びた船上は、瞬く間に燃えさかる炎と化し、惨劇の地獄絵図が繰り広げられた。体に火がついたまま叫び声を上げて海へ躍り出る兵士、盾を掲げながら炎の中を突進する兵士。 だが、セレスティアの軍勢の足が止まることは絶対になかった。死者への恐怖を塗りつぶすのは、一族の誇りと、この地に平穏を取り戻すという苛烈なまでの決意である。

大海原を背にした死闘の熱気は、潮風に乗ってどこまでも高く、遠くへと響き渡っていた。



見上げるほど高く、冷徹な陽光を照り返す巨岩の城壁。 頭上から途切れることなく降り注ぐ矢と石の嵐を潜り抜け、兵士たちは濡れた手で剣の柄を固く握り直した。目指すは、あの威風堂々たる城砦の頂。

その激戦の渦中、後陣に位置する船の甲板上に、一人の少女が佇んでいた。 シャルロッテ――セレスティア伯爵家の令嬢。そして今は戦禍のヒロインである。

彼女は船上に設置された大型投石台カタパルトの射出座席に、片膝をついて身を低く構えていた。可憐な容姿とは裏腹に、その瞳には凛とした鋭い闘志が宿っている。

「シャルロッテ様、準備完了いたしました!」 「いつでもいけます!」

配下の兵士たちが太い麻縄を固く締め上げ、張力を極限まで高める。シャルロッテは城壁の頂を静かに見据え、すっと細い息を吐いた。

「……今よ。放ちなさい!」

シャルロッテの鋭い合図とともに、投石台を繋ぎ止めていた太い縄が、一刀のもとに切断された。

ドゴォンッ!

重厚な解放音とともに、投石台のアームが跳ね上がる。それと同時に、シャルロッテの華奢な体が砲弾のごとき勢いで空高くとびあがった。 海と城壁を隔てる絶望的な高低差を、彼女は風を切る一筋の疾風となって飛び越えていく。

高度が頂点に達した瞬間、シャルロッテは背負っていた網を空中にて大きく広げた。特製の金線が編み込まれたその網は、城壁の突起と胸壁にガチリと噛み合わさる。 彼女は重力を感じさせない軽やかな身ごなしで、敵の目と鼻の先、城壁の真上へと降り立った。

「な、生きた人間が――!?」

驚愕に目を剥くゾンビ兵たち。死してなお残る防衛の本能が彼らを動かし、錆びた長槍が一斉にシャルロッテへと向けられる。 だが、彼女の動作はすでに始まっていた。

「退きなさい、哀れな死者たち!」

シャルロッテの青白き光を放つ神剣が閃光を描いた。 『空斬刺鏡』てある。一閃。二閃。三閃。 意志を持たぬ肉塊と化したゾンビ兵たちが、首や胴を切り飛ばされ、次々と城壁の下へと崩れ落ちていく。シャルロッテは瞬く間に足場を確保すると、先ほど引っかけた網の端を城壁の強固な石柱に括り付けた。

「網は固定したわ! 続け――っ!」

城壁の下で固まっていた血気盛んなセレスティアの兵士たちが、叫び声を上げてその網に取り付いた。 「シャルロッテ様に続け!」

「一気に登り切れ!」 手垢と血にまみれた網を、兵士たちがトカゲのように駆け登っていく。

その突撃に呼応するように、シャルロッテの側近である二人の美少女。エミーナとロゼッタも動いた。

「ロゼッタ、東側を頼むわ!」

「了解! エミーナ様こそ、西の投石機を叩いて!」

敏捷な二人は、岸壁の僅かな凹凸を取り憑くように登りつめると、城壁の上で手分けして左右へと駆け出した。 聖なる杖『破邪顕正はじゃけんしよう』を持ったエミーナは西へと走り、立ち塞がるゾンビ兵の膝裏を薙ぎ払い、城壁の防衛火力を担っていた投石機を次々と破壊していく。 一方、獄炎魔槍『煉獄の咆哮』を抱えたロゼッタは東側から迂回し、重装のゾンビ兵たちの群れをその圧倒的な火力で叩き潰しながら、城砦の内部へ繋がる通路の確保を目指した。



城壁の上は、まさに凄惨を極める乱戦の舞台となっていた。 シャルロッテが開拓した登攀路から、続々とセレスティアの兵士たちが城壁の頂へと雪崩れ込んでいく。

「押し込め! 敵の防衛線を切り崩せ!」

セレスティアの兵士たちが振るう刀剣や斧、長槍。そのすべての武器の柄には、白い布地に朱色の文字で記された特別な帯が固くくくりつけられていた。

『破邪魔滅』

それこそが、魔導帝国の不浄な術式に対抗するために施された、古代神聖魔法の符呪であった。

魔導帝国の手によって動かされるゾンビ兵たちは、通常の人間であれば即死するような致命傷を与えても、不気味な足音を立てて何度でも立ち上がってくる。しかし、セレスティアの兵士たちが打ち振るう『破邪魔滅』の帯を巻いた刃が肉を裂き、骨を断つたび、刀身から聖なる淡い燐光が弾けた。

「ガ、アアアアッ……!?」

『破邪魔滅』の威力を受けたゾンビ兵たちは、不浄な魔力を打ち消され、紫煙を吹き上げながら崩れ去っていく。二度と立ち上がることのないただの骸となって、冷たい石畳の上に転がった。

「効いているぞ! この帯の威光があれば、不浄の者など恐るるに足らん!」 「突き進め! 魔術師どもの呪縛を解き放つんだ!」

士気は高まり、城壁上の各所でセレスティア軍が敵の防衛陣形を押し込み始めた。 西日はいよいよ沈みかけ、群青の海と黒ずんだ城壁を、深い紫と金色が交錯する夕闇が包み込んでいく。

シャルロッテは剣の血を払い、城砦の中央にそびえ立つ一際高い主塔を見上げた。 そこには、このストロムホルムを死の街へと変え、死者たちを傀儡として操る魔導帝国の術師が潜んでいるはずであった。

「エミーナ! ロゼッタ! 城壁の制圧を急ぎなさい!」 シャルロッテの透き通った声が、戦闘の轟音を突き抜けて響く。 「本陣の入港を確保し、一気に本丸へ突入します!」

「「ハッ!」」

応じる二人の叫びとともに、セレスティアの旗印が城壁の最高点に掲げられた。 夕闇の風を受け、荒々しく、そして誇り高くたなびく『六棘の霜華』。 冷たく猛烈な北海の海風が吹き抜ける中、ストロムホルム奪還のための死闘は、いよいよ奪還戦の佳境へと向かって火蓋を切るのであった。


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