第30章『la personne de glace sous la lune(ラ・ペルソンヌ・ドゥ・グラス・ス・ラ・リュンヌ)』
「la personne de glace sous la lune(ラ・ペルソンヌ・ドゥ・グラス・ス・ラ・リュンヌ)……か」
羊皮紙の古びた表紙に記された、流麗なカリグラフィーを指先でなぞり、シャルロッテは静かに息を吐いた。
クリスタリア湖に浮かぶ城――フロストヴァイス城の書庫整理で見つけた、一冊の書物。それは歴史に関係ある記録か、あるいは、ただの詩人が紡いだ吟遊詩の類かもしれない。
「シャルロッテ様、またそんな埃っぽい書物を読破なさっているのですか?」
呆れたように、けれど愛らしく首をすくめたのは、輝く金髪を揺らす侍女のエミーナだった。
「そうですよ。お茶が冷めてしまいますわ」
エミーナの隣で、艶やかな黒髪を几帳面に切り揃えた侍女のロゼッタが、銀のトレイを手に微笑む。幼少期から姉妹のように育った気心の知れた二人の侍女は、シャルロッテにとって何より心を許せる存在だった。
「ふふ、ごめんなさい。でも、少し気になる記述があってね」
シャルロッテが苦笑しながら古書を閉じようとしたその時、折られたページの端から一枚の羊皮紙の肖像画が零れ落ちた。
セピア色に霞む絵の中で、満開の藤の花びらが降り注ぐ回廊に佇む一人の貴婦人。漆黒の髪を結い上げ、濃淡の紫を基調とした絢爛なドレスとマントを纏っている。その瞳は、百年の時を超えて三人の心を射抜くほどに強く、深く、そしてどこか哀愁を帯びていた。
「まぁ……なんてお綺麗な方」
エミーナが息を呑み、ロゼッタもまた肖像画を覗き込んで瞳を丸くする。
「これが……月姫。紫苑のヴィオレット」
噂には聞いたことがあった。宮廷の影で気高く咲き誇り、ある満月の夜に忽然と姿を消した伝説の貴婦人。彼女が消えた夜、城の開かずの部屋には濃密な藤の香りと、血のように赤く染まった一枚の絹の飾り布だけが残されていたという。
突風が吹き抜け、石造りの部屋のろうそくの火が大きく揺れた。
次の瞬間、三人の鼻腔を強烈な藤の香りが満たした。締め切ったはずの書庫に、カサリ、カサリと重厚なベルベットの衣擦れの音が響く。
「……誰?」
「シャルロッテ様、お下がりに!」
エミーナとロゼッタが咄嗟にシャルロッテを庇うように立ち塞がる。だが、切り裂かれた空間は瞬く間鮮やかな「紫」へと染まっていった。
目の前に立っていたのは、肖像画から抜け出してきたかのような女だった。幾重にも重ねられた紫のドレスから覗く白い首筋、立ち上る高貴で妖艶な気品。女は淡い花色の唇をわずかにほころばせると、怯える侍女たちを優雅に通り抜け、シャルロッテの頬に冷たい手指を添えた。
「ようこそ、シャルロッテ様。そして愛らしき小さなお供たち」
「な……あなたは、一体……」
「私はヴィオレット。あなたがその禁書を開くのを、百年の間……ずっと月の回廊で待っておりました」
ヴィオレットが妖しく微笑むと同時に、三人の足元の石畳が暗黒の闇へと崩れ去っていく。エミーナとロゼッタの短い悲鳴が響き、古い紙の匂いは完全に消え去った。
代わりに聞こえてきたのは、深い森の響き――風の音色、精霊たちの笑い声、そして月夜の明かりが照らす静寂であった。
暗黒の割れ目を抜け、シャルロッテたちが足を踏み入れたのは、紫の夜空に満月が浮かぶ異様な城塞都市だった。
見渡す限りの大理石の街並み。至る所に満開の薔薇が咲き乱れ、甘く重苦しい香りが立ち込めている。遠くからは
チェンバロと弦楽の旋律、 豪華な仮面をつけた貴族たちの高笑いが風に乗って運ばれていた。
「ここはいったい……どこなのですか……?」
エミーナは怯えたようにシャルロッテの袖を強く握りしめ、金髪を細かく揺らした。ロゼッタもまた、青ざめた顔で黒髪をかき上げながらも、冷静さを保とうと警戒の視線を周囲に走らせる。
「シャルロッテ様、お怪我はありませんか? あの女……いえ、月姫ヴィオレットはどこへ……」
「ええ、無事よ。二人とも、離れないで」
シャルロッテは二人を庇うように一歩前へ出た。
二人が心配する通り、先ほどまで目の前にいたヴィオレットの姿は霧のように消えていた。ただ、冷たい石畳の上には、血のように赤い一枚の絹の飾り布だけが落ちている。古書に記されていた「月姫失踪の夜」に残されていたという、あの遺品と同じものだ。
「……誘われているのね」
シャルロッテがその布を拾い上げると、不意に街頭の松明が次々と紅蓮の炎を上げ、一本の道を照らし出した。
その先には、丘の上にそびえ立つ白亜の宮殿――神々しくも妖しい建物が燦然と輝いていた。
「行くしかないみたいね。事の真相と、私たちがここへ呼ばれた理由を知るために」
エミーナはゴクリと唾を飲み込みながらも、意を決したように頷いた。
「はい……! シャルロッテ様がお行きになるなら、どこへでもお供します」
「ええ。何があろうと、お守りいたしますわ」
ロゼッタも力強く微笑み、シャルロッテの左右を固める。
どこからともなく、再びあの妖艶な声が響いた。
「勇気があって頼もしいわ。あの丘の宮殿にはルシエラが居るの。よく覚えておいてね。ここはクリスタルヘイム。かつて聖都と呼ばれた都よ。あなた達はここを目指して、ルシエラを倒すの。それがあなた達に与えられた使命よ」
「聖都クリスタルヘイム? ルシエラ?」
「倒す?」
「使命……?」
三人は動揺のあまりお互いを見ることもできず、ただ、あの丘に高くそびえ立ついくつもの尖塔を凝視していた。
「それぞれに必要な物を授けるわ」
気が付けば、シャルロッテの手には豪華な宝石で装飾され、青白く光る剣が握られていた。
「その剣は神剣『空斬刺鏡』。あなたを守るわ」
エミーナの手には、緑と白の清廉な光を放つ杖が渡される。
「聖なる杖『破邪顕正』。邪悪なものを打ち破り、正義を明らかにする杖よ。聖なる光で地獄の闇を薙ぎ払ってくれるわ」 ――ボワッ……!
突然、虚空に現れた槍の穂先から、凄まじい炎が噴き出した。三人が驚きに目を見張る中、その槍は吸い込まれるようにロゼッタの手へと収まる。槍はなおも妖しくメラメラと燃え盛り、辺りを赤々と照らし出していた。
「これはね、獄炎魔槍『煉獄の咆哮』よ。よく燃えるし、よく吠えるから気をつけ
てね。その槍はルシエラから奪ったものなの。彼女が欲しがるかもしれないけれど、絶対に渡しては駄目よ。さらに手強くなって、手に負えなくなるわ」
ロゼッタは、自身の手に馴染む燃え盛る槍を見つめながら、困惑の表情を浮かべている。
「これで全部よ。がんばってね。あなたがここにやってくるのを、私はいつでも見守っているわ。では――」
ヴィオレットは重大な使命を一方的に押し付けながらも、最後に悪戯っぽくウインクをして、今度こそ姿を消した。
それとほぼ同時に、シャルロッテたちの視界は再び深い暗闇へと包まれていくのだった。




