第29章『揺れる白亜の墓標・焦土の風』
風が、引き裂かれた王国軍の軍旗を、あてどなく虚しく揺らしていた。
かつて峻険な崖の上にそびえ立ち、そのあまりの堅牢さから「不落」と謳われた名城、ヴァルプルギス城。だが、いまシャルロッテの瞳に映るその姿には、往時の栄華を偲ばせる影など微塵も残されていなかった。
「……嘘。そんな、まさか……」
喉の奥から絞り出された声は、吹き付ける夜風に容赦なく掻き消された。
クリスタリア湖。その清冽な青い水面に美しくその身を浮かべるフロスト ヴァイス城から、一刻も早く実情を確かめるべく馬を飛ばしてきたシャルロッテは、変わり果てた光景の前に立ち尽くすしかなかった。セレスティア伯爵家の令嬢という、普段であれば彼女を縛るはずの重い身分すら忘れ、ただの一人の怯える少女として、彼女はその場に氷のように釘付けになっていた。
「お嬢様……!」
背後から駆け寄ってきたのは、金髪の美少女侍女、エミーナだった。いつもは快活で、主であるシャルロッテを笑顔にすることばかり考えている彼女の声が、今は恐怖と悲痛に震えている。
「危のうございます、お嬢様。これ以上は……」
もう一人の侍女、黒髪の美少女であるロゼッタもまた、青ざめた顔でシャルロッテの傍らに寄り添った。三人は幼い頃から共に育ち、主従という垣根を越えて固い絆で結ばれた仲だった。いつもなら、エミーナの冗談にロゼッタが呆れ、それをシャルロッテが微笑みながら宥める、そんな温かな時間がそこには流れているはずだった。しかし今、二人の少女の瞳に宿っているのは、主を失うかもしれないという切迫した恐怖だけだった。
シャルロッテの視線は、眼前に広がる巨大な瓦礫の山へと注がれていた。
わずか数日間のうちに、この場所に何が起きたのか。それは、へし折られた城壁の無残な断面が何よりも雄弁に物語っていた。空を覆いつくすほどの猛烈な投石が、幾夜にもわたってこの城塞に降り注いだのだろう。誇り高き白亜の巨石はことごとく粉砕され、ただの歪な石の山へと変え果てていた。
さらに城門を襲ったのは、敵の執拗な一撃だった。巨大な丸太の頭に鉄を被せた破城槌が、激しい地響きを立てて門扉を叩き続けたに違いない。鉄錆と焦げた木片の匂いが、今も鼻腔を突く。城門を焼き尽くした炎は、そのまま城内へと燃え広がり、崩落した外壁の隙間からは、黒く焦げた大梁がまるで巨獣の骨組みのように、虚空へ向かって不気味に突き出していた。
「ヴィルヘルム……様……」
シャルロッテは、その名を胸の内で何度も、祈るように繰り返した。
親王ヴィルヘルム。彼はシャルロッテにとって、ただの王族ではなかった。それは、奇妙で、けれどあまりにも鮮烈な「夢」の中で出会った青年だった。
その夢の中で、シャルロッテは彼と出会い、言葉を交わし、やがて深く愛し合うようになっていた。夢の中の二人は互いの手をとり、神に誓いを立て、夫婦となった。目覚めればそれは幻に過ぎないはずのものだったが、彼の指先の温もりも、実直で優しい眼差しも、シャルロッテの魂に深く刻み込まれていた。そして何より、彼が治めるこの「ヴァルプルギス城」が実在することを知ったとき、彼女の中で夢は紛れもない現実の運命となったのだ。
彼が、この壊滅した城のどこかにいる。あるいは、もう――。
最悪の思考が頭をもたげるのを、シャルロッテは激しく首を振って拒絶した。
◇
三人は息を潜めながら、崩壊した城門の跡をくぐり、城内へと歩みを進めた。エミーナとロゼッタは、それぞれシャルロッテの左右に控え、いつでも彼女を守れるように神経を尖らせていた。
かつて、名高き騎士たちが整然と隊列を組み、王国の威信を誇示していた中庭。そこは今や、ぬかるんだ地獄の底のようだった。数日前まで華やかな祝宴が開かれ、美しい音楽と笑い声に満ちていたはずの空間には、ひっくり返って車輪を虚しく天に晒した馬車が転がっている。誇り高き騎士たちの武器であった槍は、無残にも半ばからへし折られ、泥の中に突き刺さっていた。
ここを襲った激しい雨のせいで、地面は深くぬかるみ、歩くたびに重い泥が彼女たちの靴を絡めとった。だが、それ以上に彼女たちの心を重くしたのは、そこに漂う「死」の気配だった。
勝者たちの略奪は、すでに完全に終わっているようだった。金目のものはすべて剥ぎ取られ、価値のないものだけが踏みにじられて散乱している。城内を支配しているのは、耳が痛くなるほどの絶対的な静寂だった。人間の息遣いは完全に途絶え、風の音だけが不気味に響いている。
大広間へと続く重厚な扉は、乱暴に蹴破られていた。
かつて壁面を彩っていたであろう、歴史ある高価なタペストリーはすべて剥ぎ取られ、無残に持ち去られていた。残された石壁には、激しい戦闘と炎の跡を示す煤だけが、黒々と不気味な模様を描いている。窓ガラスは一枚残らず叩き割られ、そこから容赦なく吹き付ける夜風が、誰もいないがらんとした廊下を通り抜ける際、まるですすり泣きか、あるいは不気味な口笛のような音を鳴らしていた。
「誰も……いないの? 一人も……?」
エミーナが、震える声で呟いた。普段の彼女なら、こんな不気味な場所からはすぐに逃げ出そうと言い出すはずだった。だが、絶望に目を見開いたまま進むシャルロッテの横顔を見て、必死に涙を堪えながら、その歩みに付き従っていた。
ロゼッタは静かに、けれど鋭い視線で周囲を警戒していた。彼女の黒髪が、風に煽られて揺れる。
「お嬢様、これ以上の探索は危険です。敵の残党、あるいは……」
「いやよ」
シャルロッテは、きっぱりと言った。その声には、セレスティア伯爵家の血を引く者としての毅然とした強さと、愛する者を求める狂おしいほどの執念が混ざり合っていた。
「上へ行くわ。ヴィルヘルム様の、親王府があった場所へ」
彼女の視線は、城の最上階へと向けられていた。そこは、親王ヴィルヘルムの居城であり、この地方の統治の拠点たる親王府が置かれていた場所だ。
見上げれば、城の最上階、まさに彼が最後まで踏みとどまり、侵略者に抵抗したであろうその場所からは、未だに細い煙が、天に向かってゆらゆらと立ち上っていた。まるで、彼の命の灯火がまだ完全に消え去っていないことを示すかのように。
しかし、その建物の象徴であった美しい尖塔は、無慈悲な一撃によって半ばから叩き折られていた。折れた尖塔の残骸は、崖下の深い谷底へと崩れ落ち、二度と戻らない繁栄の象徴として、暗闇の底に沈んでいた。
◇
夜が、本格的に訪れようとしていた。
太陽が完全に地平線の彼方へと沈むと、代わって東の空から冷ややかな月が昇ってきた。雲の切れ間から漏れ出す青白い月光は、ヴァルプルギス城の無残な輪郭を、あまりにも冷酷に、鮮明に照らし出した。
それは、美しくも恐ろしい光景だった。かつて白亜と讃えられた石壁は、月光を浴びてまるで巨大な白骨のように浮かび上がっている。
「あっ……」
エミーナが短い悲鳴を上げ、ロゼッタの袖を掴んだ。
人の気配が完全に途絶えたその廃墟に、新たな「住人」たちが集まり始めていた。生き残ったカラスたちだ。不吉な羽音をバタバタと立てながら、折れた梁や城壁の頂へと、一羽、また一羽と集まってくる。彼らは死の臭いを嗅ぎつけたのだろうか。冷たい月を背に負いながら、黒い影となったカラスたちが、廃墟を見下ろして低く濁った声で鳴いた。
その光景を見たとき、シャルロッテは理解せざるを得なかった。
かつて栄誉の象徴であり、人々の誇りであったこの城は、もう二度と蘇ることはないのだと。ここはもう、人が住む場所ではない。ただ、長い時間をかけて自然の侵食を待つだけの、巨大な石の墓標へと姿を変えてしまったのだ。
「ヴィルヘルム様……どうして……」
最上階へと続く階段は、途中で無残に崩落しており、物理的にそれ以上進むことは不可能だった。細い煙が立ち上るあの場所へ行く術は、もう残されていなかった。
夢の中の彼は、いつも優しく微笑んでいた。
『シャルロッテ、いつか君を僕の城に招待しよう。クリスタリア湖の美しさにも負けない、誇り高き白亜の城だ』
あの約束は、すべてこの瓦礫の下に埋もれてしまったのだろうか。彼との絆は、ただの少女の儚い白昼夢に過ぎなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。この胸を焦がすような喪失感と痛みこそが、彼が確かにここに存在し、自分を愛してくれていた証拠に他ならなかった。
だが、現実はあまりにも残酷だった。手に入れたはずの運命は、触れる前に指の隙間からこぼれ落ち、残されたのは冷たい石の山だけだった。
シャルロッテの膝から、すうっと力が抜けていく。
「お嬢様!」
エミーナが叫び、倒れ込もうとするシャルロッテの身体を正面から抱きとめた。
「しっかりしてください、お嬢様! お嬢様までいなくなってしまったら、私たちは……!」
ロゼッタもまた、シャルロッテの背中を支えるようにして抱きしめた。ロゼッタの頬を、静かに涙が伝い落ちていく。
「お嬢様、お気持ちは痛いほど分かります。ですが、今は、今だけは退かねばなりません」
◇
ロゼッタの言葉は、単なる慰めではなかった。彼女の研ぎ澄まされた感覚は、風に乗って運ばれてくる別の不穏な音を捉えていた。
地響き。遥か遠くから響く、無数の馬の蹄の音。そして、金属が擦れ合う不快な音。
「ヴェゼル帝国の軍勢です」
ロゼッタが、鋭い声で告げた。
「彼らの主力部隊は、まだ目と鼻の先で我が王国軍と対峙しています。戦況は極めて流動的……いいえ、この城が落とされた以上、王国軍は敗色濃厚です。敵の斥候や、あるいは戦果を求めて進軍してくる本隊が、いつこの場所に現れてもおかしくありません」
ヴェゼル帝国。その圧倒的な軍事力をもって、この平和な王国を蹂躙した侵略者たち。ヴァルプルギス城をこのような無残な姿に変えた張本人。
「このままここにいては、非常に危険です。お嬢様が捕らえられでもしたら、それこそすべてが終わりです」
ロゼッタの指摘は、冷徹なまでに正確だった。セレスティア伯爵家の令嬢という立場は、敵にとっても格好の政治的カードになり得る。ここに留まり続けることは、自ら破滅の罠に飛び込むようなものだった。
しかし、シャルロッテの耳に、その正論は届かなかった。
「嫌……私は、ここを離れない。ヴィルヘルム様が、まだあの煙の下にいらっしゃるかもしれないのに……私だけ逃げるなんて、そんなことできない!」
「お嬢様!!」
エミーナが、これまでにないほどの大声で叫んだ。彼女の丸い瞳からは、大粒の涙が溢れ、シャルロッテの豪華なドレスの袖を濡らしていた。
「お願いです、お嬢様! 私たちのために、生きてください! もしヴィルヘルム様が生きていらっしゃったら、お嬢様が敵に捕まったと知ったら、どれほど悲しまれるか考えてみてください! 私だって、ロゼッタだって、お嬢様を失ったら生きていけません!」
エミーナは、シャルロッテの身体を強く抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。
「一緒に帰りましょう……私たちの、あの美しいフロスト ヴァイス城へ。そこで、力を蓄えて、もう一度考えましょう? お願いですから……!」
金髪の侍女の、偽りのない、魂からの叫びだった。
シャルロッテは、エミーナの涙の温もりを感じ、ハッと我に返った。自分がどれほど無茶なことを言っていたか、そして、自分を命がけで慕ってくれる二人の少女を、どれほどの危険に晒していたかに気付いたのだ。
ロゼッタもまた、シャルロッテの手を強く握りしめた。その手は冷たかったが、確かな意志の強さが宿っていた。
「お嬢様。生き延びることこそが、最大の反撃です。ヴィルヘルム様の意志を継ぐためにも、今は引くのです」
シャルロッテは、折れた尖塔の向こう、細く立ち上る煙を最後にもう一度だけ見つめた。
胸が引き裂かれるような想いだった。叫び出しそうなほどの痛みが、彼女の心を支配していた。だが、彼女はセレスティア伯爵家の令嬢であり、何より、エミーナとロゼッタの主人なのだ。
「……分かったわ」
シャルロッテは、血が滲むほどに唇を噛み締めながら、小さく頷いた。
「帰りましょう。私たちの、城へ」
◇
完全に落胆し、心も身体もボロボロになって泣き崩れるシャルロッテ。そんな主の姿を見て、二人の侍女もまた、堪えていた涙を堰を切ったように流した。
三人は互いに身を寄せ合い、共に泣きながら、崩れゆく廃墟を後にした。エミーナがシャルロッテの左腕を支え、ロゼッタが右腕を支える。少女たちの涙は泥を濡らし、夜風に吹かれて冷たく乾いていった。
ヴァルプルギス城の入り口で待たせていた馬に乗り、彼女たちは闇夜の中を駆け抜けた。背後では、冷酷な月光に照らされた石の墓標が、徐々に小さくなっていく。
目指すのは、彼女たちの居城であるフロスト ヴァイス城だ。
クリスタリア湖の深い水底に根を張るかのように佇むその城は、外界の戦火から辛うじて隔絶された、彼女たちの唯一の安息の地だった。湖面は夜の闇を映してどこまでも深く、静まり返っている。その静寂は、ヴァルプルギス城の「死の静寂」とは異なり、すべてを包み込み、隠蔽するような、冷たくも優しい静寂だった。
城へ帰り着いたシャルロッテは、疲れ果てた身体のまま、自身の寝室のベッドへと倒れ込んだ。エミーナが手早く着替えを手伝い、ロゼッタが温かい寝酒を用意したが、シャルロッテはそれを口にすることなく、深い眠りの淵へと落ちていった。
それは、現実の苦痛から逃れるための、逃避の眠りだった。
――暗闇の中、シャルロッテは再び、あの懐かしい場所に立っていた。
美しい光に満ちた回廊。その向こうから、聞き覚えのある足音が近づいてくる。
現れたのは、あの優しい眼差しを湛えた青年、親王ヴィルヘルムだった。彼はいつもと変わらぬ、汚れなき白亜の礼服を身にまとっている。
『シャルロッテ』
彼は微笑み、彼女へと手を伸ばした。その手は温かく、現実の瓦礫の冷たさなど嘘のようだった。
『待たせてごめんね。でも、僕はここにいるよ。いつでも、君のすぐ傍に』
シャルロッテは彼の胸に飛び込み、激しく泣いた。夢の中であれば、どれだけ泣いても誰も咎めない。彼は彼女の髪を優しく撫で、その涙を拭ってくれる。
しかし、ふと見上げた彼の背後、窓の向こうの景色に、シャルロッテは息を呑んだ。
そこにあるのは、美しい白亜の城ではなかった。
窓の外に広がっていたのは、どこまでも深く、昏い、クリスタリア湖の水底の光景だった。青緑色の冷たい水が揺れ、光の届かない深淵が、彼らの足元まで迫っている。
ヴィルヘルムの身体が、すうっと透き通っていく。彼の微笑みは優しく、けれどどこか、永遠の別れを告げるかのような哀切に満ちていた。
『約束だよ、シャルロッテ。生きるんだ。たとえ僕の城が崩れ、世界が闇に包まれても……君が生きている限り、僕たちの夢は終わらない』
「待って! ヴィルヘルム様、行かないで! 私を置いていかないで!」
シャルロッテは叫び、彼の手を掴もうとした。だが、彼女の指先は虚しく空を切り、彼の姿はクリスタリア湖の昏き水底へと、静かに溶けるように消えていった。
「ヴィルヘルム様――!」
暗闇の中で目覚めたとき、シャルロッテの頬は、冷たい涙で濡れていた。
窓の外からは、クリスタリア湖のさざ波の音が、絶え間なく聞こえてくる。それはまるで、遠い戦場で倒れた者たちの鎮魂歌のようでもあり、これから始まる過酷な運命への、静かな序曲のようでもあった。
シャルロッテは、濡れた枕を抱きしめ、迫りくる夜明けの光をじっと見つめた。彼女の瞳からは、絶望の涙だけがとめどもなく溢れ落ちていた。




