第28章『水鏡の目覚め、薔薇色の残影』
意識の深淵から浮かび上がるとき、最初に鼻腔をくすぐったのは、気高い薔薇の香油の匂いだった。
それはいつも、彼女の愛する人が好んで寝所に焚かせていたものだった。温かく、ほんのりと甘く、どこか気品ある大地の重みを残した香り。肌に触れるシーツの贅沢な重みと、絹の滑らかな感触が、夢の終わりの名残惜しさを引きずっている。
「……ヴィル、ヘルム……さま……」
シャルロッテはその名を、祈るように唇の間から零した。
その響きは、彼女の胸の奥を激しく焦がした。つい数瞬前まで、彼女は確かに彼の腕の中にいたはずだった。
厳かな大聖堂。ステンドグラスから差し込む七色の光。金糸と銀糸で埋め尽くされた豪奢な礼拝堂の祭壇前で、彼はシャルロッテの手を取り、その薬指に重厚な誓いの指輪を嵌めてくれた。彼は王国の親王であり、次代を担うべき気高き英雄。そして彼女は、万雷の拍手と祝福の賛歌の中で、彼の優美な妃として寄り添っていた。
彼の低い、けれど鼓膜を優しく震わせる声が、今も耳の奥でリフレインしている。
『生涯、君だけを愛そう、シャルロッテ』
その確かな体温。大ぶりで、剣を握るために少し硬くなった彼の掌の愛おしい感触が、まだ右手の皮膚にまざまざと残っているような気がした。
「シャルロッテ様! シャルロッテ様!! 朝ですよ!」
しかし、その至福の余韻を切り裂くように、聞き慣れた、けれど今のシャルロッテにとってはひどく場違いな、高く弾んだ声が鼓膜を叩いた。
引きずり込まれるように、まぶたが強制的に押し上げられる。
視界に飛び込んできたのは、眩いばかりの朝の光だった。そして、それ以上にシャルロッテの視線を釘付けにしたのは、頭上に広がる景色だった。
「……え……?」
そこにあったのは、大聖堂の天高くそびえる美しい穹窿でもなければ、ヴァルプルギスの金碧輝かしい天井画でもなかった。
見慣れた、あまりにも見慣れた、淡いサファイアブルーの生地で仕立てられた天蓋。その縁には、少女らしい繊細なレースが丁寧に施されている。四隅を支える白木のマホガニー柱には、見覚えのある植物の意匠が彫り込まれていた。
シャルロッテは弾かれたように上半身を起こした。
心臓が早鐘を打っている。寝間着の袖を引くと、滑らかな白い肌が露出した。だが、そこにあるはずの、重厚な白金の婚約指輪も、親王妃としての気品ある衣服もどこにもない。身にまとっているのは、上質ではあるが、独身の令嬢が好むような、清楚で飾りの少ない木綿のネグリジェだった。
「まぁ、シャルロッテ様、珍しく酷くうなされていらっしゃいましたね? もしや、また美味しいお菓子の夢でもご覧になって、食べ損ねてしまわれたのですか?」
クスクスと鈴を転がすように笑いながら、豪奢なカーテンを大きく引き開けたのは、一人の少女だった。
朝日に照らされてきらきらと輝くのは、眩いばかりの純金の髪。陽光をそのまま紡いだようなその美髪を、機能的なお仕着せ(メイド服)の上で揺らしている。大きな青い瞳をいたずらっぽく細め、親しげな笑みを浮かべているその姿は、間違いなくエミーナだった。
シャルロッテは息を呑んだ。
エミーナ。彼女の幼馴染であり、もっとも信頼を寄せる第一の侍女。
だが、おかしい。エミーナは、シャルロッテがヴァルプルギス城へ輿入れする際、共に赴き、立派な上級女官としてシャルロッテを支えてくれていたはずだ。そのときのエミーナは、もっと落ち着いた、洗練された大人の佇まいを身に着けていた。
しかし、目の前にいるエミーナは、どう見てもまだあどけなさを残した、十七歳の頃の姿そのものだった。
「エ、エミーナ……? どうして、あなたがここに……? ヴァルプルギス城はどうしたの……?」
「はい? ヴァルプルギス城、ですか? お寝ぼけがいつもより激しいようですね、お嬢様。ここはヴァルプルギス城ではなく、私たちがいつも暮らすお城ですよ」
エミーナは小首を傾げ、困ったような、けれど愛くるしい笑顔を浮かべた。
シャルロッテは混乱する頭を抱え、ベッドから這い出るようにして窓辺へと駆け寄った。素足に触れる絨毯の感触が、夢ではない現実の冷たさを伝えてくる。
窓枠に手をかけ、身を乗り出すようにして外の景色を見下ろした。
――そこには、息を呑むような絶景が広がっていた。
視界のすべてを、圧倒的な透明度を誇る紺碧の水面が満たしている。
陽光を浴びて、無数のダイヤモンドを撒き散らしたかのように、きらきらと眩しく明滅する広大な湖。その水面はまるで巨大な鏡のように、抜けるような青空と、遠くに連なる白雪を戴いた山々を映し出している。
これほどまでに美しく、そして静謐な湖を、シャルロッテは世界に一つしか知らない。
「クリスタリア湖……」
言葉が、震える唇から漏れ出た。
世界で最も美しいと称される、神秘の巨湖。そして、その湖のまさに中心に浮かぶ、孤高の古城。
白亜の石材で築かれ、尖塔が天を突くようにそびえるその城の名は、フロストヴァイス城。
北方の名門にして、王国でも屈指の歴史を誇る『セレスティア伯爵家』の居城であった。
「そんな……嘘でしょう……?」
シャルロッテは、自分の淡い栗毛の髪を両手で掴んだ。
窓ガラスに映る自分の顔を凝視する。
そこにあるのは、王都の社交界で「氷雪の薔薇」などと洗練された呼び名を立てられる前の、まだどこか少女の丸みを残した、十七歳の自分の姿だった。きめ細やかな白い肌、大きな栗色の瞳。美少女と呼ぶには些か幼く、けれど確かな気品を宿した、紛れもない「セレスティア伯爵家の孫2号」としての、かつてのシャルロッテ・セレスティアだった。
◇
「シャルロッテ様、おはようございます。今朝も素晴らしい秋晴れでございますね」
開け放たれた重厚な木扉から、もう一人の少女が静かに入室してきた。
両手に、なみなみと清らかな水を湛えた銀の洗面器を、零さないよう慎重に持ち込んでいる。
艶やかな漆黒の髪をきっちりとまとめ、切れ上がった涼しげな目元に、理知的な光を宿した美少女。エミーナとは対照的な、静水のような佇まいを持つ彼女の名はロゼッタ。エミーナと同じく、シャルロッテに仕える双璧の侍女だった。
ロゼッタは洗面台に器を置くと、丁寧に一礼し、いつものようにシャルロッテの顔色を窺った。
だが、主人の様子が明らかに常軌を逸していることに、彼女の鋭い観察眼がすぐに気が付いた。
「……シャルロッテ様? 顔色が酷く真っ青でございます。冷や汗も……。もしや、お体に障るような悪夢でも?」
「ロゼッタ……! あなたまで、どうして……!」
シャルロッテは、詰め寄るようにロゼッタの細い肩を掴んだ。
ロゼッタは一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐにいつもの冷静さを取り戻し、主人の冷え切った手を優しく包み込んだ。
「どうして、とはお奇妙なことを。私はロゼッタ、お嬢様の忠実な侍女でございます。昨日も、その前も、ずっとこのフロストヴァイス城で、お嬢様のお側でお仕えしておりますが……」
「違うの、そうじゃないわ!」
シャルロッテは叫んだ。胸の奥から湧き上がる焦燥感と恐怖が、彼女の声を震わせる。
「私たちは確かにヴァルプルギス城にいたはずよ! 私は、あの人と……ヴィルヘルム様と結婚したの! 大聖堂で挙式を執り行って、私は彼の妻に……親王妃になったはずなのよ!」
その言葉が室内に響き渡った瞬間、エミーナとロゼッタの動きがピタリと止まった。
二人は顔を見合わせ、それから同時に、小首を傾げた。
「ヴィルヘルム様。ですか? どなたです?」
ロゼッタが、心底不思議そうに、その美しい眉をひそめて問い返した。
その声音には、何一つの嘘も、からかいの意図も含まれていなかった。ただ純粋に、記憶の引き出しに存在しない名前を耳にしたときの、困惑だけが滲んでいた。
「な……ッ!?」
シャルロッテは息を詰まらせた。
「冗談をやめて、ロゼッタ! エミーナも、私をからかっているの!? ヴィルヘルム様よ! 我が王国の第二王位継承権を持つ、あの気高き親王殿下! 私の、私の旦那様よ!」
エミーナは、目を丸くしてパチパチと瞬きを繰り返した。
「お、お嬢様……? 王国の親王殿下といえば、現在は独身で、王都の遥か遠くで軍を率いていらっしゃるという、あのお堅い方々のことでしょうか? ですが、我がセレスティア伯爵家は、長年この北方の地を治める身。王都の王族方とは、久しく公的な交流すらございませんよ?」
「そんなはずはないわ! だって、私は彼と出会って、恋に落ちて、数多の困難を乗り越えて、ようやく結ばれたのよ!? あの優しく力強い抱擁も、私を呼ぶ声も、すべて本物だったわ! 夢なんかじゃない!」
シャルロッテは必死に訴えかけた。
頭の中に残る記憶は、あまりにも鮮明だった。
彼と初めて出会ったきらめき。彼が窮地に陥ったとき、『アルヴの魔導書』の知恵をもって救い出したこと。二人で見た王都の夜景。そして、彼が不器用ながらも真摯に伝えてくれた、愛の告白。
それらすべてが、ただの「寝覚めの夢」として片付けられていいはずがなかった。
「エミーナ、ロゼッタ……お願いだから、本当のことを言って。今は何年の、何月何日なの?」
主人の尋常ではない真剣さに、ロゼッタは表情を正し、淀みなく答えた。
「大陸暦八百四十二年、八月の第四週、木曜日の朝でございます」
「……八百、四十二年……?」
シャルロッテはその場にへたり込みそうになった。
彼女の記憶が正しければ、ヴィルヘルムと大聖堂で結婚式を挙げたのは、大陸暦八百四十二年の8月第三週だったはずだ。
つまり、ここは――今いるこの世界は、彼女がヴィルヘルムと過ごした歳月を、きれいさっぱり遡った一週間後と言う事になる。
「旦那様、ですか……??」
エミーナとロゼッタが、今度は二人同時に、怪訝そうな、けれどどこか心配そうな声を漏らした。
二人の若き美少女侍女は、シャルロッテを安心させるようにベッドの傍らに膝を突き、その顔を覗き込んできた。
「お嬢様、やはり酷いお熱でもあるのではございませんか? まだ十七歳のお嬢様に『旦那様』など、それこそ夢の中のお話に違いありませんわ。それとも、よほど素敵な騎士様と結ばれる夢でもご覧になって、現実に戻るのが寂しくなってしまわれたのですか?」
エミーナが、シャルロッテの額に優しく手を当てながら言った。
「エミーナの言う通りです。シャルロッテ様、心を落ち着けてください。ここはクリスタリア湖に浮かぶ、不落のフロストヴァイス城。お嬢様は、セレスティア伯爵閣下の最愛の孫娘であり、この地を統べる高貴な令嬢でございます。どこへも行かれてなどおりません」
ロゼッタもまた、静かな、けれど確かな現実を突きつけるように、そう告げた。
◇
どうやら、すべては現実だった。
いや、正確に言うならば、彼女が「親王妃として過ごした幸福な記憶」の側が、この世界にとっては「存在しない未来の幻」だったのだ。
シャルロッテは、エミーナに促されるまま、操り人形のように大人しく洗面台の前に立った。
ロゼッタが差し出す、冷たく清らかな水で顔を洗う。肌を刺す北方の水の冷たさが、彼女の脳細胞を容赦なく覚醒させていく。
鏡の中の自分は、やはりどこからどう見ても、十七歳の令嬢だった。
「……戻って、しまったのね」
シャルロッテは低く呟き、深く、深い落胆の息を吐き出した。
胸を締め付けるのは、圧倒的な喪失感だった。
あの優しかった夫はいない。彼と共に築き上げた絆も、ヴァルプルギス城での輝かしい日々も、すべてはまだこの世界には存在していない。
自分は、ただの「セレスティア伯爵家の孫2号」へと巻き戻されてしまったのだ。ちなみに「孫2号」とは、厳格で偏屈な祖父であるセレスティア伯爵が、優秀な兄(孫1号)と対比して、気楽な放蕩娘として扱う際の、自嘲混じりの家庭内での通り名だった。
「シャルロッテ様、今朝のお着替えはどうなさいますか? 湖畔からの風が少々冷え込んできておりますので、薄手のウールのドレスがよろしいかと」
ロゼッタがクローゼットを開けながら尋ねる。
シャルロッテは窓の外のクリスタリア湖をもう一度見つめた。
広大で、どこまでも青く、人を寄せ付けないほどに冷徹な湖。その中央に孤立するフロストヴァイス城での生活は、安全ではあるが、一種の美しい檻のようでもあった。かつての彼女は、この退屈な城で、ただ本を読み、侍女たちとお喋りをし、いつか見ぬ誰かのもとへ嫁ぐ日を漠然と待っていた。
――だが、今の私は、あの頃の私ではない。
シャルロッテの瞳に、落胆の奥から、小さな、けれど消えない知性の光が宿った。
彼女の頭の中には、これから三年間に王国で起こるあらゆる政変、天災、そして何よりも、ヴィルヘルム親王殿下が直面するであろう「数々の危機」の記憶が、完璧な形で保存されている。
(ヴィルヘルム様……あなたは今、どこで何をしているの?)
記憶を辿れば、現在の彼は、王国の東部国境地帯で、多発する反乱の鎮圧のために、過酷な軍務に就いているはずだった。王位継承権を持ちながらも、宮廷の陰謀によって中央から遠ざけられ、孤独に戦い続けていた苦難の時期。
シャルロッテはギュッと拳を握りしめた。
もし、この記憶が本物で、自分が本当に過去に戻ってきたのだとしたら。
この「セレスティア伯爵家の孫2号」という、一見すると政治的に無力で、誰からも警戒されていない立場こそが、最強の武器になるのではないか。
「ねえ、エミーナ、ロゼッタ」
シャルロッテは振り返り、二人の美少女侍女を真っ直ぐに見つめた。
その眼差しは、先ほどまでの錯乱した様子とは打って変わり、冷徹なまでの決意に満ちていた。二人は主人の急激な変化に、驚きを隠せずに身を硬くする。
「はい、何でございますか、お嬢様?」
「おじい様……セレスティア伯爵閣下は、今朝はどちらにいらっしゃる?」
ロゼッタが僅かに目を細め、答えた。
「閣下なら、いつものように三階の執務室で、北方の税収報告書をご覧になっておられますが……。普段はお目覚めの挨拶以外、近寄るのを嫌がられることは、お嬢様が一番よくご存知のはずでは?」
「ええ、知っているわ。でも、おじい様に少し『未来の投資』について、お話をしなければならなくなったの」
シャルロッテは、不敵とも言える美しい微笑を唇に浮かべた。
淡い栗毛の髪をかき上げ、鏡の前で背筋を伸ばす。
「エミーナ、一番知的に見えるドレスを用意して。ロゼッタ、おじい様の好きな苦いお茶を淹れる準備を。私たちはこれから、この退屈なフロストヴァイス城を出て、王都へ行く算段を立てるわよ」
「え、ええっ!? 王都ですか!?」
エミーナが素っ頓狂な声を上げる。
「シャルロッテ様……本気でございますか?」
ロゼッタの目が、主人の真意を探るように鋭くなった。
「本気よ。私の愛する旦那様が、今も遠い戦場で、孤独に戦っていらっしゃるの。三年後の平和をただ待つなんて、セレスティア家の女がすることじゃないわ。私から、彼を迎えに行ってあげるのよ」
クリスタリア湖の青い水面は、ただ静かに、覚醒した一人の令嬢の姿を映し出していた。
失われた戴冠の記憶を胸に、シャルロッテ・フォン・セレスティアの、新しい「未来の書き換え」が、今この静かな朝から始まろうとしていた。
◇
セレスティア伯爵家の当主、フリードリヒ・フォン・セレスティアは、お世辞にも優しい祖父とは言えなかった。
白髪を厳格に整え、深い皺が刻まれた顔には、常に北方の厳しい冬を思わせる冷徹さが張り付いている。彼は一族の繁栄と、このクリスタリア湖周辺の領地の安泰だけを考えて生きる、典型的な古参の貴族だった。
「……何の用だ、シャルロッテ。朝の挨拶なら、すでに受け取っているはずだが」
重厚なマホガニーの机から目を離さず、羽ペンを走らせながら、フリードリヒは冷淡に言い放った。
部屋の入り口には、緊張した面持ちのエミーナと、冷然と控えるロゼッタ、そして、気品あるモスグリーンのドレスをまとったシャルロッテが立っていた。
「おじい様、お忙しいところ恐れ入ります。本日は、我がセレスティア伯爵家の未来に関わる、極めて重要な『情報』をお持ちいたしました」
シャルロッテの声には、一点の怯えもなかった。
かつての彼女であれば、この祖父の前に出れば、萎縮して言葉を詰まらせていたはずだ。しかし、今の彼女は「王国親王妃」としての教育を受け、最高峰の社交界を生き抜いた精神を持っている。その立ち振る舞い、声のトーン、視線の据え方は、一朝一夕で身につくものではなかった。
アルベルトは僅かに羽ペンを止め、初めて顔を上げた。
その鋭い鷹のような目が、孫娘を品定めするように細められる。
「……情報だと? お前のような、城の図書館に引きこもって恋物語ばかり読んでいる娘が、この私にどのような情報をもたらすというのだ。ふん、どうせまた王都で流行りのドレスや、退屈な夜会の噂話だろう」
「いいえ。東部国境地帯における、反乱軍の『真の動向』についてです」
その言葉が放たれた瞬間、室内の空気が一変した。
フリードリヒの目が険しさを増し、部屋の隅に控えていた伯爵付きの老騎士が、思わず剣の柄に手をかけた。
「……何と言った、シャルロッテ」
「現在、王都の軍務省は、東部の反乱を『行き場を失った匪賊の小競り合い』と侮っています。ですが、それは大きな過ちです。彼らの背後には、隣国であるヴェゼル帝国の影があります。あと三ヶ月もすれば、反乱軍は組織的な軍事行動をして、国境の要塞を一つ陥落させるでしょう」
シャルロッテは淡々と、しかし確信に満ちた口調で語った。
これは、彼女の記憶の中の「歴史」だった。当時、この見通しの甘さのせいで王国軍は大損害を被り、その尻拭いをさせられる形で、ヴィルヘルム親王が過酷な最前線へと投入されたのだ。
「馬鹿な……。そのような国家機密を、お前がどこで手に入れた」
「どこで、は重要ではありません。おじい様、今すぐ我がセレスティア家の隠密を東部に派遣し、私の言う武器の密輸ルートを調査させてください。もし、それが事実だと証明されたなら……我が家は、王国軍務省に対して、計り知れない貸しを作ることができます」
フリードリヒは完全にペンを置き、組み替えた両手の上に顎を乗せた。
彼の目は、目の前にいるのが本当に自分の「孫2号」なのか、激しい疑念を抱いていた。だが、同時に、彼女の指摘した「ヴェゼル帝国の介入」という仮説は、北方を治める彼にとっても、非常に筋の通った、背筋の凍るような現実味を帯びていた。
「……なぜ、そこまでして我が家に功績を立てさせようとする。お前の狙いは何だ、シャルロッテ」
シャルロッテは、完璧なお辞儀をして、顔を上げた。
その栗色の瞳に、一条の烈火のような意思をみなぎらせて。
「条件は一つだけです、おじい様。この情報が正しいと証明された暁には、私を……『セレスティア伯爵家特使』として、東部戦線の総司令部へ派遣してください」
「戦場へだと!? 正気か!」
「大真面目です。そこには、我が家が未来永劫の繁栄を手に入れるための、最大の『至宝』が眠っています。……私は、それを手に入れに行かなければならないのです」
彼女の言う「至宝」とは、他でもない。
今、孤独な戦場で泥にまみれ、世界を呪いかけている、彼女の愛するヴィルヘルム親王その人であった。
◇
執務室を出たシャルロッテの足取りは、驚くほど軽やかだった。
背後からは、まだ混乱から立ち直れないエミーナの、慌ただしい足音がついてくる。
「お、お嬢様! 一体どうしてしまったのですか!? 反乱軍だなんて、ヴェゼル帝国だなんて……そんな恐ろしいお話、私、聞いてるだけで心臓が止まりそうでしたわ!」
「大丈夫よ、エミーナ。すべては私の計画通りに動くわ。あなたには、これから王都で一番流行るお化粧品や、東部の厳しい気候に耐えられる最高の上着を調べてもらわなくちゃいけないの。忙しくなるわよ?」
「へえっ!? お、上着ですか!? 私、お嬢様のためなら、どんな過酷な雪山でもお供いたしますけれど……!」
エミーナは目を白黒させながらも、その忠誠心と持ち前の明るさで、主人の突飛な決意を受け入れようとしていた。
一方、シャルロッテの斜め後ろを静かに歩くロゼッタは、一言も発していなかった。
その沈黙に気づき、シャルロッテは足を止めた。廊下の窓からは、相変わらず美しいクリスタリア湖が見える。
「ロゼッタ。あなたは、私のことを狂ってしまったと思う?」
ロゼッタは静かに主人の前に進み出た。
その黒髪が、湖からの微風に揺れる。彼女はシャルロッテの目をじっと見つめ、それから、深く洗練された一礼をした。
「いいえ、シャルロッテ様。今のあなた様のお姿は、まるで千の軍勢を率いる女王のようでございます。私には、あなた様が何をご覧になっているのかは分かりません。ですが……あなた様がその『ヴィルヘルム』というお方を、命に代えても必要とされていることだけは、痛いほど伝わりました」
「ロゼッタ……」
「私たち双璧の侍女は、どこまでもお嬢様の影でございます。お嬢様が戦場へ行かれるというのなら、私はその地を這う泥をすべて払い、お嬢様の歩む道を大理石に変えてみせましょう。……それが、セレスティア伯爵家の令嬢に仕える、私たちの誇りでございます」
ロゼッタの言葉に、エミーナも大きく頷いた。
「そうですわ! ロゼッタが道を整えるなら、私はお嬢様の周りをいつも薔薇の花びらでいっぱいにしてみせます! その、ヴィルヘルム様という旦那様(仮)が、どれほど素敵な方かは存じませんが、我がセレスティア家が誇る最高の美少女お嬢様をお迎えするのですもの、相応の覚悟をしていただかなくては!」
二人の侍女の言葉に、シャルロッテの胸の奥の冷え切っていた部分が、じんわりと温かい熱を取り戻していく。
未来を失ったのではない。
未来を、自分の手で「より完璧な形」で創り直すチャンスを得たのだ。
(待っていて、ヴィルヘルム)
シャルロッテは再び、窓の外の広大なクリスタリア湖を見据えた。
かつて、この不落の城で、ただ守られるだけだった少女はもういない。
知恵を携え、記憶を武器に、彼女は最愛の人のもとへと翔び立つ。
「行きましょう。私たちの、本当の物語を始めに」
水鏡の城に、今、新しい風が吹き抜けた。




