↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

25/75

第25章『ヴァルプルギス城への帰還』

血煙と悲鳴に包まれた聖宮をあとにし、ヴァルプルギス城へと向かう漆黒の馬車の中。ガタごとに激しく揺れる暗闇の車内には、重々しい静寂と、微かに甘く鉄臭い血の匂いが充満していた。

「……見せるのだ、ヴィルヘルム」

シャルロッテは一瞬の躊躇いもなく、ヴィルヘルムの着ている漆黒の外套へと手をかけた。聖宮の狂乱の中、刺客のヴァルターを一閃して斬り伏せた際、彼が死に際に放った極小の暗器の破片が、ヴィルヘルムの左腕を深々とかすめていたのを彼女は見逃していなかったのだ。

「ただの擦り傷だ。気にするようなことではない」

「黙って見せてください!」

普段は滅多に感情を露わにせず、声を荒らげることなどないシャルロッテの毅然とした一言に、さしもの「冷血な獅子」と恐れられる男も、圧されるように固く口をつぐんだ。シャルロッテが救急用のハサミで上着の袖を躊躇なく切り裂くと、そこには赤黒く皮膚が腫れ上がり、不気味に脈打つ傷口が露わになった。太后の手先が暗殺時に好んで用いる、神経を即座に麻痺させ腐敗させる凶悪な腐肉毒だ。

「やはり……。あの男、最後の最後まで毒を忍ばせていたのですね」

シャルロッテは素早く革製の小袋を開き、銀の小刀を取り出すと、迷うことなく自らの指先を傷つけた。滲み出た真紅の血を、ヴィルヘルムの赤黒い傷口の上に直接ポタリと垂らす。

「なっ……何をしているのだ、お前は!」

驚愕して体を惹こうとするヴィルヘルムの肩を華奢な手で強く押し祀り、シャルロッテは氷のように研ぎ澄まされた眼差しで傷口を見つめ続けた。彼女の血が触れた瞬間、傷口からジュウと音を立てて黒い毒血が泡となって排出され、やがて綺麗な赤色の新鮮な血液へと戻っていった。

「私の体には、幼い頃からの苛烈な環境により、あらゆる毒を無効化する『百毒不侵』の抗体が備わっています。この血は、いかなる劇薬よりも速効性のある万能の解毒剤なのです」

手際よく清潔な包帯を巻き終えたシャルロッテだったが、ふと顔を上げると、ヴィルヘルムの燃えるような蒼い瞳が、じっと至近距離で自分を見つめていることに気づいた。その視線に込められた濃厚な熱さに、彼女は思わず息をのむ。

「……シャルロッテ。お前は私を助けるために、躊躇いもなく自分の身を削るというのか」

「お言及が過ぎますわ、閣下。私はただ、あなたの主治医として当然の責務を果たしたまでに過ぎません……」

「ただの主治医だからではないはずだ」

ヴィルヘルムは怪我をしていない方の強い腕でシャルロッテの細い腰を引き寄せ、逃げ場を奪うようにして彼女を自分の膝の上へと抱き上げた。あまりにも密着した体温。揺れる馬車の振動を通じて、彼の力強い鼓動がシャルロッテの背中にダイレクトに伝わってくる。

「私はもう、お前をただの『妻の形をした利害の一致による同盟者』として見ることができなくなった。お前が敵の前で毒杯を煽ろうとした瞬間、私の胸が引きちぎれるような激しい怒りと恐怖を覚えたのだ。……この渦巻く感情も、毒のせいだと言うつもりか?」

「……ヴィルヘルム様……」

男の低い熱を帯びた声が耳元をくすぐり、シャルロッテの胸は大きく高鳴った。いつも冷酷で氷のようだった男が、自分に対して隠すことなく剥き出しの執着と情愛を見せている。彼女はそっと彼の熱い胸に手を当てた。

「……私の心にも、どうやら容易には解けない毒が回り始めてしまったようですわ」

二人の唇が静かに重ならんとしたその時、馬車の外から急制動の音とともに、鋭い伝令の口笛が響き渡った。ヴァルプルギス城が誇る影の諜報員からの緊急報告だった。

「公爵閣下! 太后様が王都の禁衛軍を全軍動かしました! ヴァルター枢機卿殺害の罪を親王家に着せ、領地全域の経済封鎖を開始すると宣言! さらに、公爵夫人の生家であるセレスティア伯爵を捕らえ、人質とした模様です!」

太后のなりふり構わぬ猛烈な逆襲。王国の危うい均衡はついに完全に崩れ去り、全面戦争の火蓋が切られようとしていた。

シャルロッテはヴィルヘルムの胸からゆっくりと体を離すと、自らの顔の右頬に刻まれた幼少期からのアザに触れた。自らの血の抗体が高まった影響か、そのアザは以前より明らかに薄くなり、その下から透き通るような白磁の美肌が覗き始めていた。

「セレスティア伯爵は、私をゴミのように捨てた家……人質としての価値など元より存在しません。ですが、太后様がそこまでして私を炙り出したいとお望みなら、望み通りの恐怖を与えて差し上げましょう」

「シャルロッテ?」

「閣下、以前お話しした『毒呪』の根治に必要な伝説の薬草『月光草』の生息地……そこは太后直轄領の最深部、禁断の『竜の脊梁』です。太后の網を打ち破り、正面から乗り込みます」

シャルロッテの瞳に宿るのは、いかなる権力や脅迫にも屈しない圧倒的な気高さと絶対の自信。ヴィルヘルムは口元を不敵に歪めて笑い、彼女の細い腰を再び強く引き寄せた。

「良いだろう。お前が私の鋭い剣となり、私が毒を討つ固い盾となろう。……王国の覇権など、我が妻の笑顔ひとつに比べればあまりに安いものだ」

数日後、緊迫した空気に包まれたヴァルプルギス城の深奥、シャルロッテの部屋。

「シャルロッテ様! 無事で……本当にお無事でよかったです……!」

部屋の扉が開いた瞬間、溢れんばかりの涙を瞳に浮かべ、眩しいほどの金髪を揺らして駆け寄ってきたのは侍女のエミーナだった。彼女はその愛くるしい顔を歪ませ、シャルロッテの手をぎゅっと握りしめる。

「エミーナ、ロゼッタ。二人とも、無事だったのですね」

シャルロッテの言葉に寄り添うように、もう一人の侍女、艶やかな黒髪を整然とまとめた美少女・ロゼッタが静かに礼を執りながら前へ出た。ロゼッタの瞳にも安堵の色が濃く滲んでいる。

「はい、シャルロッテ様。ヴィルヘルム様の手配してくださった影の護衛により、セレスティア伯爵家の手の者が押しかけてくる前に、間一髪で城へ避難することができました」

エミーナとロゼッタの二人は、シャルロッテが不遇な扱いを受けていた伯爵家時代から、どんな時も彼女の味方であり続けた心強い親友でもある侍女たちだった。明るく愛嬌のある金髪美少女のエミーナと、冷静沈着で観察眼に長けた黒髪美少女のロゼッタ。タイプの異なる二人は常にシャルロッテを支え、同時に三人でいる時は立場を超えた深い友情で結ばれていた。

「シャルロッテ様、お顔のアザが……ずいぶんと薄くなっていらっしゃいますね」

ロゼッタが目敏く指摘すると、エミーナも「本当です! 以前にも増してお綺麗で……!」と目を輝かせた。

「ええ。体内の抗体が活性化した影響のようです。ですが、今は自分の姿を気にする余裕はありません。太后様はセレスティア伯爵家を人質に取り、親王家を追い詰めようとしています」

シャルロッテが厳しい表情を浮かべると、エミーナは憤慨したように小さな拳を握りしめた。

「セレスティア伯爵なんて、シャルロッテ様を酷く扱って追い出したくせに! 今さら人質だなんて身勝手すぎます! 私とロゼッタは、何があってもシャルロッテ様のお味方です。たとえ相手が太后様でも、絶対に負けません!」

「エミーナの言う通りです」とロゼッタも深く頷く。「私たちはシャルロッテ様のお供として、どのような戦いにも同行いたします。『竜の脊梁』への潜入計画の準備も、私とエミーナで既に進めておりますわ」

「ふふ、頼もしい二人ですね。ありがとう」

シャルロッテの顔に、この数日で初めて柔らかい笑みが浮かんだ。どんな絶望的な戦局にあろうとも、絶対の信頼を寄せるヴィルヘルムがおり、そして心を許せるエミーナとロゼッタが側にいる。

「さあ、太后様の企みを打ち砕き、決着をつけに行きましょう」

嵐の直前の静けさの中、絆を確固たるものとした者たちは、王国の運命を変える決戦の地へ向かって力強く一歩を踏み出すのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。