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第22章『ヴィルヘルム・シャルドネとヴァルプルギス城』

薬草の強烈な青臭い香りが、ヴァルプルギス城の薄暗い一室に充満していた。

コン、コン、と重厚なすり鉢の中で擂り粉木すりこぎが刻む規則正しい音が、しんと静まり返った部屋に響いている。シャルロッテは真剣な眼差しで手元に集中していた。『アルヴの魔導書』が授けた古代の医術知識と「毒物学」の天賦の才により、彼女の手の中で怪しい薬草たちは完璧な比率で混ぜ合わされていく。

この顔半分を覆う不気味なアザは、実家であるフロストヴァイス城にて薬草を調合し、皮膚の表面に浮き出るように仕込んできたものであった。

「姫様、またそのような怪しげな塗料をお作りなのですか?」

呆れたような、けれど深い愛着の籠もった声が掛けられた。振り返ると、燦々と輝く黄金の髪をなびかせた美少女・エミーナが、銀のトレイに載せた温かい紅茶を運んできていた。

「もう、エミーナったら『怪しげ』だなんて失礼よ。これはシャルロッテ様が命を懸けて練り上げた、完璧な『装飾』なのですから」

エミーナの後ろから顔を出したのは、艶やかな黒髪を優雅にまとめた美少女・ロゼッタだ。ロゼッタは手に持った絹のタオルを整えながら、楠木でできたテーブルへ優しく置く。

エミーナとロゼッタ。シャルロッテの実家であるフロストヴァイス城——クリスタリア湖に浮かぶ宮殿のような壮麗な居館でともに育った二人は、シャルロッテにとって単なる侍女ではなく、命を預け合える大切な親友であった。

「ふふ、二人ともありがとう。でも、これが失敗したら私たちの計画は初日から破綻してしまうわ」

シャルロッテは完成した紫色の膏薬こうやくを細い筆に取り、鏡に向かった。そして、自身の白い頬から首元にかけて、じわりと滲むような不気味なアザを描き出していく。

「……よし。これで、誰が見ても『病弱で呪われた不吉な花嫁』に見えるはずよ」

「……何度見ても見事な出来栄えですけれど、痛々しくて心が痛みますわ」 エミーナが黄金の髪を揺らし、胸元で手をギュッと握りしめる。

「ええ。ですが、この政略結婚はあまりにも危険すぎます」 ロゼッタは黒髪をすっと払い、鋭い眼差しで続けた。 「新郎となるヴィルヘルム親王殿下は『冷血な獅子』と恐れられるお方。おまけに太后様からは『親王を監視し、その秘密を探れ』という恐ろしい脅迫まで受けているのですから……」

そう、この婚姻の裏には太后からの凄惨な圧力が存在していた。 太后の狙いはヴィルヘルムの失脚。しかしシャルロッテにも考えがあった。新郎であるヴィルヘルム親王にとっても、王宮にとっても、双方手放しで喜べないような不気味な状況にして様子を伺ってみる作戦にしたのだ。そして何より、噂の真偽を確かめるための「時間稼ぎ」が必要だった。

「大丈夫よ、エミーナ、ロゼッタ。私には『アルヴの魔導書』の知識があるわ。毒も薬も、私の意志一つ。……二人も、巻き込んでしまってごめんなさいね」

「何を仰いますか!」 エミーナが身を乗り出した。 「私とロゼッタは、どこまでもお供すると誓いました。実家の華やかなフロストヴァイス城から、この武骨な要塞ヴァルプルギス城へ来ても、その気持ちは変わりません!」

「ええ、シャルロッテ様。私たちが影となり、殿下の手先や太后の密偵からお守りいたします」 ロゼッタも強く頷いた。

三人が固い絆で結ばれたその夜、ついに厳かな結婚式が執り行われた。



結婚式は厳かに行われ、夜の帳が下りた頃であった。 嫁ぎ先であるヴァルプルギス城の重厚な鉄門は固く閉ざされ、初夜を迎えた寝所には凍てつくような静寂が満ちていた。

部屋の隅で控えるエミーナとロゼッタの緊張が伝わってくる。シャルロッテはベッドの端に腰掛け、不気味なアザを浮かべた顔で静かにその時を待っていた。

バタン、と重厚な扉が開く。

影の中から姿を現した男——ヴィルヘルム・シャルドネ。 「冷血な獅子」と恐れられ、宮廷の権力闘争の中心に立つ孤高の英傑だ。その背丈、纏う圧倒的な威圧感。そして何より、剣の如く鋭い蒼い瞳がシャルロッテを射抜いた。

「下がれ」

ヴィルヘルムが短く命じる。 エミーナとロゼッタは一瞬躊躇し、シャルロッテに視線の合図を送った。シャルロッテが微かに頷くと、二人は不穏な気配を察しながらも、深々と一礼して部屋を後にした。扉が閉まり、室内には二人きりの沈黙が流れる。

次の瞬間、風が切れる音と共に、冷たい鋼の刃がシャルロッテの喉元に突きつけられた。

「我が命を狙う暗殺者か、それとも太后の犬か」

低い、氷のような声。ヴィルヘルムの蒼い瞳には一切の容赦がない。

喉元に突きつけられた冷たい鋼の刃に対し、シャルロッテは怯むことなくその目を真っ直ぐに見つめ返した。刃の冷たさよりも、彼から漂う「ある匂い」に確信を得たからだ。

「私はただの娘であり医者です。そして、殿下の身体を内側から蝕むその『毒』を解せると言える、ただ一人の人間です」

ヴィルヘルムの眉がぴくりと動いた。刃が一ミリもぶれないまま、瞳の奥に不審と驚愕の色が走る。

「……何だと?」

「そのお顔の血色、かすかな呼気の乱れ、そして僅かに漂う腐肉の匂い……。殿下、あなたは長年、微量の『紫腐毒』を盛られ続けていますね? 冷血な獅子と恐れられる強靭な肉体も、あと一年と持ちません」

シャルロッテは自らの頬のアザを指でぬぐってみせた。塗料が落ち、透き通るような美しい白肌があらわになる。

「このアザは偽りです。太后の目を欺き、殿下の本当の敵を見極めるための時間稼ぎ。私は太后の手先としてここに送られましたが、従うつもりはありません。私は私の医者としての誇りをかけて、あなたを治療したいのです」

ヴィルヘルムはゆっくりと剣を収めた。だが、警戒を解いたわけではない。

「……奇妙な花嫁だ。余に利益を語り、毒を見抜くか」

「私は生き残りたいだけです。そして、病に苦しむ人を放っておけない……ただそれだけです」

ヴィルヘルムは一瞬、複雑な表情を浮かべた後、冷ややかな笑みを漏らした。

「面白い。ならば証明してみせろ。ただし——一言でも裏切りを見せれば、その首を撥ねる」

冷酷な鎧の下に致命的な秘密を抱えるヴィルヘルムと、自らの宿命と戦うシャルロッテ。二人の危うい関係は、秘薬と毒薬、そして王国を揺るがす巨大な陰謀の渦中で少しずつ形を変えていくこととなる。



翌朝、ヴィルヘルムが執務に向かうと、待機していたエミーナとロゼッタが弾けたように部屋へ飛び込んできた。

「シャルロッテ様! ご無事ですか!?」 黄金の髪を乱しながら、エミーナがシャルロッテの手を握りしめる。

「刃を向けられた音が聞こえて、私、生きた心地がしませんでしたわ……!」 ロゼッタも胸を押さえ、深く息を吐き出した。

「大丈夫よ、二人とも。ヴィルヘルム殿下は噂通りの厳しい方だけれど、理性の通じるお方だわ。……それに、私の見立て通りだった」

シャルロッテは二人を近くに寄せ、声を潜めた。

「殿下は毒に侵されているわ。宮廷の誰かが、長年にわたって少しずつ盛っているの。私は殿下の毒を解く試みに着手する。二人の協力が必要よ」

エミーナは力強く頷いた。 「任せてください! 私、このヴァルプルギス城の厨房や侍女たちの動きをくまなく監視します! 誰が殿下の食事に近づいているか、絶対に突き止めてみせますわ!」

ロゼッタも妖艶な微笑みを浮かべ、黒髪を揺らした。 「私は城外の薬問屋との連絡役を引き受けます。シャルロッテ様が必要とする珍しい薬草を、太后の目を盗んで調達して参りますわ」

「ありがとう、エミーナ、ロゼッタ。頼りにしているわ」

こうして、三人の少女たちによる決死の裏工作が始まった。

エミーナはその持ち前の愛嬌と鋭い観察眼で、要塞・ヴァルプルギス城の兵士や使用人たちから自然に情報を引き出した。「親王殿下はどのようなお茶がお好きなの?」「厨房に入る新しい使用人は誰?」といった世間話から、不審な人物のリストを炙り出していく。

ロゼッタは持ち前の聡明さと行動力で、無骨な要塞の警備の隙を突いて街の薬屋と接触した。時には太后の密偵の目を欺くため、変装をして暗市にまで足を運び、解毒に必要な希少な原料を手に入れてきた。

そしてシャルロッテは、夜な夜な自室で『アルヴの魔導書』の知識を駆使し、解毒薬の調合を続けた。

ヴィルヘルムは夜になると必ずシャルロッテの部屋を訪れた。最初は監視のためであったが、次第に二人の会話は増えていった。

「今夜の薬は少々苦いですわ、殿下」

「……お前の作る薬は、いつも苛烈だな」

顔を顰めながらも薬を飲み干すヴィルヘルム。その顔色は、日を追うごとに確実に良くなっていた。

「なぜ、余を助ける? 太后に従えば、クリスタリア湖のフロストヴァイス城の安全は保障されたはずだ」

ふと、ヴィルヘルムが尋ねた。

シャルロッテは薬草を擂る手を止め、温かい眼差しを彼に向けた。

「フロストヴァイス城は宮殿のように壮麗ですが、あそこには政治の不吉な影がありました。私は人の命を奪うための道具にはなりたくないのです。それに……殿下は冷血などではない。暗闇の中で一人、国を守るために戦っておられる。その背中を、私は放っておけません」

ヴィルヘルムは息を飲んだ。彼の蒼い瞳に、初めて微かな揺らぎが生まれた。

命を懸けた攻防のなかで、いつしか互いの存在は、決して代わりのきかない「光」へと変わっていくのだった。



しかし、運命の歯車は急展開を迎える。

太后の息がかかった宮廷医師が、ヴィルヘルムの体調快復を不審に思い、シャルロッテの部屋へ突如としてガサ入れに入ったのだ。

「シャルロッテ様! 大変です、太后様の親衛隊がこちらへ向かっております!」 エミーナが息を切らせて部屋へ駆け込んできた。

「調合中の薬草や魔導書を見られたらアウトですわ! シャルロッテ様、早く避難を!」 ロゼッタが即座に隠し扉を開ける。

「だめよ、二人が残ったら疑われるわ!」

「いいえ、シャルロッテ様! 私たちが時間を稼ぎます!」 エミーナが力強く言い放つ。 「私とロゼッタで、部屋の薬草をただの『美容用の化粧水』だと言い張ってみせます! 金髪と黒髪の侍女コンビをナメないでください!」

「シャルロッテ様は殿下の元へ! 殿下をお守りできるのは、あなたしかいません!」 ロゼッタがシャルロッテの背中を強く押した。

ふたりの親友の強い絆と覚悟を受け取り、シャルロッテは意を決して隠し通路へと飛び込んだ。

直後、部屋に踏み込んできた親衛隊に対し、エミーナとロゼッタは堂々と立ちはだかった。

「何の真似ですの! ここはシャルロッテ様の神聖な寝所ですわよ!」 エミーナが怒鳴りつける。

「無礼者には、フロストヴァイスの居館仕込みのおもてなしをお見舞いして差し上げましょうか?」 ロゼッタが袖の中に仕込んだ護身用の毒針をチラつかせ、相手を威圧する。

二人の命懸けの足止めのおかげで、シャルロッテは執務室にいるヴィルヘルムの元へと辿り着くことができた。

「ヴィルヘルム殿下!」

「シャルロッテ!? どうした」

「太后の追手が動き出しました! 殿下に盛られていた毒の全容も、黒幕が太后の側近である宮医だという証拠も、全てここにあります!」

シャルロッテが差し出した書類と解毒薬の完成品を受け取り、ヴィルヘルムは深く頷いた。彼の瞳に、かつてない激しい炎が宿る。

「……よくやってくれた、シャルロッテ。余の命を救い、光を与えてくれたのはお前だ」

ヴィルヘルムはシャルロッテの腰を引き寄せ、その額に優しく口づけをした。

「もうお前を暗闇には置かない。余の妻として、この国を共に照らしてくれ」

「はい……! 殿下!」

ヴィルヘルムは即座に親衛隊を動かし、太后派の陰謀を一網打尽にした。部屋で突っぱねていたエミーナとロゼッタも間一髪のところで救出され、怪我ひとつなくシャルロッテの元へ戻ることができた。

陰謀が潰え、晴れやかな空が広がるヴァルプルギス城。

武骨な要塞の庭園にも柔らかい陽光が差し込み、シャルロッテ、エミーナ、ロゼッタの三人はテーブルを囲み、穏やかなティータイムを楽しんでいた。

「ふう、一時はどうなるかと思いましたけれど、一件落着ですね!」 エミーナが満足そうにスコーンを頬張る。

「ええ。シャルロッテ様がこの城の真の女主人として認められ、私たちも誇らしいですわ」 ロゼッタが優雅に紅茶を口に運ぶ。

「二人とも、本当にありがとう。二人のおかげで、私は大切な人とお城を守ることができたわ」

シャルロッテが微笑むと、庭園の奥から重厚な足音が近づいてきた。 ヴィルヘルムが、以前の氷のような冷たさを微塵も感じさせない温かな眼差しで、シャルロッテを見つめている。

「シャルロッテ、少し付き合ってくれないか。お前に見せたい花がある」

「ええ、喜んで……殿下」

立ち上がるシャルロッテの後ろ姿を、エミーナとロゼッタは顔を見合わせて嬉しそうに見送った。

秘薬と毒薬の過酷な運命を乗り越え、彼女たちが掴み取った絆と光は、これからも決して絶えることなく輝き続けるのだった。

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