第21章『魔導書と王宮からの使者』
シャルロッテの私室に差し込む朝の光は、いつもと変わらず穏やかで、クリスタリア湖の澄み渡る水面をきらきらと反射させていた。
しかし、卓上に置かれた一冊の古書が放つ存在感だけは、その平穏な空気とは明らかな異彩を放っている。
「……医学書、なのね。これは」
シャルロッテは、昨夜「輝晶の森」の奥深くで老婆から手渡された漆黒の装丁の本をそっと開いた。
羊皮紙のページにびっしりと書き込まれているのは、幾何学模様と細かな線が複雑に絡み合った、常人には解読不能な謎の古代文字であった。
手にした瞬間は、世界を滅ぼすような禍々しい魔力の奔流を感じたはずだった。しかし、前世の記憶と結びついた知識、そして受け取った魔力そのものが頭の中で自動的に翻訳を開始すると、そこに記されている内容の真実が浮き彫りになっていく。
(毒の効能、各種薬草の組み合わせ方、難病を治癒するための外科技術や解毒の処方……。魔導書というよりは、あまりにも時代を先取りしすぎた『極秘の医学・薬学書』だわ……)
前世で過酷な裏切りと死を経験したシャルロッテにとって、それは「命を奪う毒」にもなれば「命を救う神薬」にもなる、究極の知識の結晶であった。
「……シャルロッテ様、失礼いたします。朝のお着替えを――」
軽やかな足音とともに、エミーナとロゼッタが部屋に入ってきた。 金髪を揺らすエミーナが、卓上の怪しげな本を目に留め、ピタリと足を止める。黒髪のロゼッタも、その本から漂う尋常ではない雰囲気に細い眉をひそめた。
「まあ……シャルロッテ様、その禍々しくも古風な本は一体……? 昨夜、森から持ち帰られたものですか?」 エミーナが恐る恐る尋ねる。
「ええ。実はね……」
シャルロッテは二人を近くに呼び寄せると、包み隠さず本を開いて見せた。
「これは一見すると怪しい呪術書のようだけれど、実は高度な医学書なの。常人には読めない文字で書かれているけれど……私にはなぜか読み解くことができるのよ。あらゆる病の治し方や、薬草の抽出法、果ては即効性のある毒や解毒剤の調合まで書かれているわ」
二人は息を呑み、ページに描かれた不気味な図解や見たこともない複雑な記号を見つめた。
しかし、純粋無垢で、何よりシャルロッテを心から信敬している二人の反応は、シャルロッテの予想とは少し異なる方向へと向かった。
エミーナはハッと息を呑むと、まるで大きな真実を理解したかのように、青い瞳を輝かせた。
「……分かりました、シャルロッテ様!」 「え?」
「シャルロッテ様は、神のお告げを受けられたのですね! この世のあらゆる病苦から人々を救うため……あるいは、セレスティア伯爵家を狙う悪党どもの毒殺企みを看破するために、天からこの聖なる知識を授かられたのです!」
エミーナは拳をギュッと握りしめ、うんうんと一人で大きく頷いている。
ロゼッタもまた、いつも以上に凛とした、しかしどこか悟りを開いたような静かな表情で深々と頭を下げた。
「心得ました、シャルロッテ様。これほど恐ろしい知識が世に知れ渡れば、王宮や教会が黙ってはおりません。お嬢様がこの『秘密の力』を秘め、裏から世を導くおつもりであること……私ども二人、命に代えてもお守りいたします」
「え、あ、いや……そこまで大袈裟な話では……」
シャルロッテが戸惑う間もなく、二人は固い握手を交わし、「シャルロッテ様の秘密の薬師計画」をサポートする覚悟を完璧に固めてしまっていた。
二人の真っ直ぐで無垢な忠誠心に、シャルロッテは苦笑するしかなかった。だが、前世の孤独な断頭台を思えば、どんな秘密であっても疑わずに受け入れてくれる二人の存在は、何よりも心強く、温かかった。
◇
まさにその時であった。
重厚なフロストヴァイス城の敷地内に、甲高い馬のいななきと、いくつもの鉄輪が石畳を打ち鳴らす騒々しい音が響き渡った。
湖を渡る一本跳ね橋を越えて城門をくぐり抜けてきたのは、セレスティア家の紋章ではない、豪華絢爛な金箔と鷲の意匠が施された大きな馬車であった。
「――王宮からの使者……?」
窓から外を見下ろしたロゼッタが、表情を硬くする。
馬車の扉が開き、刺繍の施された礼服を纏った王宮の使節と、それを取り囲む厳めしい近衛騎士たちが降り立つのが見えた。
「なぜ、このような突然に王宮から使者が……?」
エミーナが不安そうにシャルロッテの顔を見上げる。 シャルロッテの胸の中にも、ざらりとした胸騒ぎが広がった。
「下に行ってみましょう」
シャルロッテは魔導書をデスクの引き出しに鍵をかけて仕舞うと、身なりを整え、二人の侍女を引き連れて大広間へと向かった。
大広間には、セレスティア伯爵家の当主であり、シャルロッテの祖父であるフリードリヒ・フォン・セレスティア伯爵が、重々しい面持ちで王宮の使者と対峙していた。
白髪を綺麗に整えたフリードリヒは、元軍人らしい厳格な佇まいを持つ人物だが、今はその眉間に深い刻み皺を寄せている。
「セレスティア伯爵。王太后殿下からの特旨である。慎んで受けるがよい」
使者である男が高らかに声を張り上げ、金糸で刺繍された羊皮紙の書状をうやむやに掲げた。
広間に立ち集まった使用人たちが一斉に膝をつく。シャルロッテもまた、祖父の脇で静かにドレスの裾を引いて礼をとった。
「……王太后殿下よりの宣下、謹んで拝聴いたします」
フリードリヒの声は重く、どこか抑圧された感情が含まれていた。
使者は羊皮紙を広げ、朗々と読み上げ始めた。
『セレスティア伯爵家が令嬢、シャルロッテ・フォン・セレスティア。その気品と美徳を称え、王家の繁栄と血脈の安寧のため、親王殿下との婚姻を言い渡す。これは王太后殿下の御名において、決定された絶対の婚姻宣下である――』
広間が一瞬で静まり返った。
(……婚姻、宣下……!?)
シャルロッテは思わず顔を上げそうになるのを必死で耐えた。
王太后殿下からの直接の指名による婚姻宣下。 それは単なるお見合いや打診ではない。断れば即座に「不敬罪」あるいは「王家への反逆」とみなされる、事実上の強制命令であった。
使者が去り、大広間の重苦しい沈黙の中、祖父フリードリヒは深く、重い溜息をついた。
「……シャルロッテ、執務室へ来なさい」
「はい、おじい様」
◇
執務室の扉が閉まると、フリードリヒは重々しい革の椅子に深く身体を預け、手で顔を覆った。
「申し訳ない……シャルロッテ。お前をこのような政治の渦に巻き込むことになってしまった」
「おじい様……先月、急におじい様が私に『花婿選びを始めよう』とおっしゃったのは……これと関係があったのですか?」
シャルロッテの問いに、フリードリヒは弱々しく頷いた。
「そうだ……。王宮内での王太后殿下の動きが怪しいという噂を聞きつけ、なんとかそれまでにどこか地方の適当な貴族へお前の婚約を決めてしまおうと動いていたのだ。だが……一歩遅かった」
フリードリヒは窓の外、広大なクリスタリア湖を見つめながら語り始めた。
「知っての通り、現王太后殿下――アリアーヌ様は、私の生き別れの妹だ」
「……はい」
セレスティア伯爵家がこのクリスタリア湖の要衝に固固たる地位を築いている大きな理由の一つが、この血縁関係であった。現国王の母であり、実権を握る王太后殿下と、セレスティア伯爵家の当主フリードリヒは、実の兄妹なのである。
「妹は昔から権力への執着が人一倍強かった。先代の国王が亡くなり、現国王が即位してからは、王宮の奥で実権を握り続けている。……そして今、王宮では激しい後継者争いの嵐が吹き荒れているのだ」
「後継者争い……」
「現王太子殿下は病弱で、いつ倒れてもおかしくないと言われている。そこで浮上してきたのが、王太子の異母弟――親王殿下だ」
シャルロッテの脳裏に、使者が読み上げた名が思い浮かぶ。
親王殿下。現国王の側室の子であり、王太子の腹違いの弟。 噂では、容姿端麗ではあるものの、冷酷無慈悲で政治的な野心の塊のような人物だと言われていた。
「王太后殿下は、ご自身の血を引く親王殿下を次の国王に据え、さらにその足盤を固めるために、実家であるセレスティア伯爵家の権力と財力を欲したのだ。お前を親王の正妃とすることで、我が家を完全に王太后派の駒として組み込むつもりなのだよ」
フリードリヒは悔しそうに机を叩いた。
「王太后からの直接の婚姻宣下となれば、伯爵家の力をもってしても拒否は不可能だ。断れば、セレスティア家は一夜にして叛逆者の烙印を押され、改易……あるいは処刑となるだろう」
「……おじい様」
シャルロッテは静かに自分の胸に手を当てた。
前世の記憶が胸を突く。 権力闘争、政略結婚、そして王宮の泥沼のような陰謀。 前世の自分が死に至ったのも、まさにこうした貴族や王族たちの醜い権力争いの巻き添えになったからであった。
(また……また同じような歴史を繰り返すというの? 政治の道具として扱われ、最後には捨てられるような運命を……?)
冷たい怒りが、シャルロッテの心底からフツフツと湧き上がってきた。
だが、今のシャルロッテは前世の無力な少女ではない。 セレスティア伯爵家という強い後ろ楯があり、何より彼女の手には、昨夜手に入れた「あの医学書」――万物の生殺与奪を握る古代の知識があるのだ。
「シャルロッテ、すまない。私がもっとうまく立ち回っていれば……」
頭を痛める祖父に向かって、シャルロッテは優しく、しかし確固たる意志を込めた微笑みを向けた。
「おじい様、自分を責めないでください。王命を拒むことができないのであれば……私は王宮へ参ります」
「シャルロッテ!?」
「逃げることはできません。けれど、ただ大人しく従うつもりもありませんわ」
シャルロッテの瞳には、かつて断頭台で誓った燃えるような強い光が宿っていた。
「セレスティア伯爵家の名も、私の人生も、誰の思い通りにもさせません。親王殿下がどのようなお方であろうと……私を安易な道具だと思わないことですわ」
◇
執務室を出たシャルロッテを、エミーナとロゼッタが待ち構えていた。 二人は部屋の中での会話を察していたようで、その顔には強い決意が滲み出ていた。
「シャルロッテ様……王宮へ行かれるのですか?」 エミーナが尋ねる。
「ええ。王太后殿下の命からは逃れられないわ。近いうちに、王都へと上ることになるでしょうね」
ロゼッタは深く一礼すると、鋭い眼光でシャルロッテを見つめた。
「私どもも当然、お供いたします。王宮という毒虫の巣窟へ、シャルロッテ様をお一人で行かせるわけにはまいりません」
「ええ! 私もロゼッタも、シャルロッテ様のお供なら地獄の果てまでついていきます! それに……」
エミーナは声を潜め、シャルロッテの耳元で囁いた。
「私達には、あの『魔導書』の知識がありますものね! 万が一、王宮の奴らがシャルロッテ様に良からぬ企みを抱いたら……あの本に書いてあった『お腹が激しく痛くなって三日三晩苦しむ薬』でも何でも盛って差し上げます!」
「エミーナ、滅多なことを言うものではありません」 ロゼッタが嗜めるが、その口元もかすかに不敵な笑みを浮かべていた。 「ですが……シャルロッテ様の身に危険が及べば、手段を選ぶつもりはありません」
信頼できる二人の侍女の頼もしさに、シャルロッテはクスリと笑った。
「二人とも、心強いわ。ありがとう」
シャルロッテは自室に戻り、デスクの引き出しから再びあの漆黒の魔導書を取り出した。
古代文字で書かれたページを指でなぞる。 病を治す光の技術と、命を奪う影の知識。
(親王殿下……そして王太后殿下。私をただの平穏に育った無知な令嬢だと思ったら、大間違いですわ)
前世の未練と復讐の誓いは、もう過去の怨念ではない。 今、この世界で愛する家族と仲間を守り、己の運命を切り開くための「強さ」へと変わっていた。
クリスタリア湖の冷たい風が窓を吹き抜け、シャルロッテの淡い栗毛をなびかせる。 フロストヴァイス城の静寂な日々は終わりを告げ、シャルロッテ・フォン・セレスティアの新たなる闘いの幕が、今まさに切って落とされようとしていた。




