第20章『輝晶の森と老婆』
クリスタリア湖の静寂は、まるで世界そのものが凍りついているかのような重厚さを漂わせている。
湖の中央、群青の波間に浮かぶ絶壁の上にそびえ立つのが、セレスティア伯爵家の居城「フロストヴァイス城」であった。 白亜の石材と青銀の屋根で彩られた城塞は、太陽の下では気高く輝き、月光を浴びれば冷酷なまでに美しい威容を誇る。
城の最上階近く、豪奢な装飾が施された天蓋付きのベッドで、淡い栗毛の少女――シャルロッテ・フォン・セレスティアはそっと目を覚ました。
「……また、あの夢……」
寝返りを打ち、細く白い指先で額をあやす。 ここ数日、夜毎見続けている夢。それは、怪しくもどこか不可解な懐かしさを帯びた不思議な光景だった。
「シャルロッテ様、おはようございます。お目覚めのお時間ですよ」 「本日は澄み渡るような快晴にございます、お嬢様」
軽快なノックの音とともに、重厚な扉が開く。滑り込んできたのは、二人の美しい侍女たちであった。
ひとりは陽光をそのまま溶かし込んだかのような艶やかな金髪を揺らす、快活な少女エミーナ。 もうひとりは、夜の湖面のように深く滑らかな黒髪をきっちりと結い上げた、冷静沈着な少女ロゼッタ。
セレスティア伯爵家の「孫2号」という、何とも微妙で気楽な立ち位置にあるシャルロッテに対し、この二人の侍女は幼少期からの無二の親友でもあった。主従の垣根を越えた固い絆で結ばれた三人は、普段から姉妹のように仲が良い。
「おはよう、エミーナ、ロゼッタ。……ふふ、今日も二人とも息がぴったりね」 「当然です! シャルロッテ様をお世話することにかけては、私とロゼッタの右に出る者はいませんから!」 「エミーナ、無駄口を叩く前に着替えの準備をしなさい。シャルロッテ様、本日の朝食はクリスタリア湖で採れた白身魚のムニエルと、焼きたてのヴァイスパンをご用意しております」
ロゼッタが手際よくカーテンを開け放つと、窓いっぱいに広がる壮大な風景が目に飛び込んできた。 澄み渡る青空、鏡のような湖面、そして――城の南側にどこまでも広がる濃密な針葉樹林。 輝晶の森である。
樹木に付着した霧氷が、降り注ぐ太陽の光を拡散し、まるで森全体が七色の宝石で装飾されているかのように眩しく煌めいている。
「本当に……綺麗な森ね」 シャルロッテは着替えの袖に腕を通しながら、呟くように窓の外を見つめた。
「ええ、アルヴ・ルミナは世界で一番美しい森ですもの! でも、シャルロッテ様、見とれるのは結構ですが、夜は絶対にお近づきにならないでくださいね? あそこは昼の美しさとは裏腹に、迷い込んだら戻れないと言われる幻想の森ですから」 エミーナが心配そうに眉をひそめながら、シャルロッテの淡い栗毛を丁寧にブラッシングする。
「……夜の森、ね」
シャルロッテは鏡に映る自分の顔を見つめた。 夢の中で、自分が歩いていたのはまさにあの森の奥だった。
夜、月明かりだけが頼りの暗闇の中、森の小道を優しく照らす光。 「星降る苔」と呼ばれる、夜間だけ青白く蛍光を発する特殊な植物。それに導かれるようにして進んだ先にある、古びた、けれど壮麗な洋館。 そして、その玄関口で怪しげな笑みを浮かべて待つ、ひとりの老婆。
(どうしてあんな夢を見るの? 私はセレスティア伯爵家で、何不自由なく、ただ平和に暮らしてきたはずなのに……)
朝食を終え、図書室で静かに過ごしている間も、その胸騒ぎは収まるどころか増す一方であった。
あまりにも平和で、満ち足りた日常。 争いもなく、誰かに命を脅かされることもない、穏やかな毎日。 しかし、その退屈とも言える平穏の裏側に、何か重大な「欠落」があるような違和感が、胸の奥底で渦巻いていた。
(……待って。私、本当に「シャルロッテ」として生まれて、そのまま生きてきただけなの……?)
ふと、本をめくる手が止まる。 頭痛が脳裏を刺した。激しい閃光のような記憶の断片が、意識の表面へと急速に浮上してくる。
――暗く冷たい石造りの牢獄。 ――鉄の匂いと、大衆の罵声。 ――愛していたはずの男、かつての婚約者の冷酷な蔑みの視線。 ――「お前の役目は終わりだ」という無慈悲な宣告。 ――そして、高く突き立てられたギロチンの刃。
――断頭台の下で、首を落とされる直前のあの一瞬。 激しい憎悪と、血の吐くような悔しさと、世界を呪う怨嗟の声。
『許さない……絶対に許さない……! たとえ生まれ変わろうとも、お前たちに地獄の苦しみを与えてやる……!』
「――ッ!?」
シャルロッテは息を呑み、胸を力任せに押さえた。 ポロポロと、冷や汗が頬を伝う。
(……思い……出した……。私、前世があったんだわ……。信じていた婚約者に裏切られて、冤罪を着せられて、断頭台で命を奪われた……。あの時、私は確かに復讐を誓った……!)
しかし、目を開ければ、そこは血匂う断頭台でも、復讐に燃える凄惨な戦場でもない。 陽光が差し込む平和な伯爵家の図書室であり、自分は愛される令嬢シャルロッテなのだ。
(どうして……? 私は復讐を誓って転生したはずなのに、ここは前世の国でもなければ、あの裏切り者たちがいる世界でもない……。全く別の世界。復讐する相手すら存在しない平和な世界に、どうして私は生まれてしまったの……?)
記憶が戻ったことで、胸の中の疑問はより一層深まった。 なぜ自分は復讐の誓いを抱いたまま、この世界に転生したのか。 そして、なぜ今になってあの夢を見るようになったのか。
「夢と同じ『輝晶の森』に行けば……何かヒントがあるのかもしれない」
シャルロッテは固く拳を握りしめた。 あの老婆。夢の中で怪しく微笑んでいた老婆こそが、この不条理な解の鍵を握っているに違いない。
◇
その夜。 月は満ち、クリスタリア湖の波間を青銀色に染め上げていた。
城全体が静寂に包まれ、見張りの兵士たちの足音が遠ざかるのを見計らい、シャルロッテは漆黒のローブを羽織って部屋を抜け出した。
エミーナとロゼッタを巻き込むわけにはいかない。これは自分自身の前世と、魂の因縁に関わる問題なのだから。
裏門の小さな鍵を開け、湖畔に繋がる隠し通路を通り抜ける。 冷たい夜風がシャルロッテの淡い栗毛を揺らした。
目の前には、夜の「輝晶の森」が広がっている。
昼間の七色の煌めきは姿を消し、代わりに森全体が深い藍色と銀の静寂に沈んでいた。 そして――樹木の下、暗闇の地面を這うようにして、青白く幻想的な光を放つ筋が見えた。
「星降る苔……」
まるで夜空の天の川がそのまま地上に落ちてきたかのように、「星降る苔」が微かな蛍光を放ち、森の奥へと続く小道をくっきりと浮かび上がらせている。
夢で見た光景と、まったく同じだ。
シャルロッテは息を呑み、一歩、また一歩と森の中へ踏み入った。
ざざ……ざざ……と、踏みしめる葉の音が静寂に響く。 冷気が肌を刺すが、不思議と恐怖はなかった。胸の中で燻る前世の記憶――あの断頭台の冷たさに比べれば、この森の冷気など温もりすら感じられるほどだった。
小道はくねくねと曲がり、樹齢何百年とも知れぬ巨木たちの間を抜けていく。 どれほど歩いただろうか。時の感覚すらあやふやになった頃、木々の切れ目が前方に見えてきた。
青白い苔の光が集中し、開けた空間を作り出している。 そこに――そびえ立っていた。
月光を浴びて佇む、古びた、しかし重厚な木造の洋館。 夢の中で幾度となく見た、あの館そのものであった。
「本当に……あったんだ……」
シャルロッテが言葉を漏らしたその時、ギィ……と甲高い音を立てて、洋館の重い木製の扉がひとりでに開いた。
敷居の向こう、闇の中からゆっくりと歩み出てくる影がある。 深緑のフード付きローブを纏い、曲がった木の杖をついた、ひとりの老婆であった。
深く刻まれた皺、落ち窪んだ目。しかしその瞳には、星のような鋭い光が宿っている。 老婆はシャルロッテを見つめると、不気味に、だがどこか愛おしそうに口元を歪めた。
「よく来たな、セレスティアの娘……いや、断頭台にて魂を燃やした哀しき咎人よ」
しわがれた声が、夜の静寂に響く。
「あなたが……あの夢の……。私を知っているのですか? 私はなぜ、復讐を誓いながら、こんな全く関係のない平和な世界に生まれ変わったのですか!?」
シャルロッテは叫んだ。内に秘めていた問いを、絞り出すようにぶつける。
「前世の裏切り者たちはいません! 復讐を果たすべき対象も、この世界には存在しない! なのに、なぜ私にあの凄惨な記憶を思い出させたのですか! 私は……私はどうすればいいのですか!」
老婆は杖を突き、静かに首を振った。
「ククク……お前が何故、転生を誓ったのか忘れてはおるまい。怨念とは魂の楔。肉体が滅びようとも、世界を跨ごうとも、消え去ることはないのだ」
老婆はゆっくりとシャルロッテへと歩み寄り、ローブの懐から一冊の古い本を取り出した。 その表紙は漆黒の革で装丁され、怪しい銀色の魔導陣が浮き彫りにされている。手にとらずとも、そこから溢れ出る絶大な魔力の波動が肌を刺した。
「お前が求めたのは復讐の力。されど、この世界にはお前の敵はおらぬ。ならば……その力をどう使うかは、お前次第だ」
老婆は漆黒の本を、シャルロッテの胸元へと差し出した。
「これをお前に譲ろう。お前の呪いはこれにて果たせよう」
「私の……呪い……?」
シャルロッテは吸い寄せられるように、その魔法の書を受け取った。 手に触れた瞬間、脳内に膨大な魔法の知識と、万物を屠るほどの強大な魔力の奔流が流れ込んでくる。
それは、ひとつの国すら容易に滅ぼしうる、まさに「呪い」と呼ぶにふさわしい絶対的な滅びの魔導書であった。
「……あ……あ……」
絶大すぎる力に眩暈を覚えるシャルロッテ。 老婆は満足そうに目を細め、ゆっくりと歩み去ろうと背を向けた。
「待ってください! あなたは一体誰なのです!? なぜ私にこんなものを――」
シャルロッテが呼びかけた瞬間。
フッと、周囲の空間が揺らぎ始めた。 視界の端から、濃厚な「白い霧」が爆発的に溢れ出してくる。
「な……!? 霧が……!?」
白霧は一瞬にしてあたり一面を包み込み、月光すら遮った。 老婆の姿も、洋館の影も、すべてが白い混沌の中に呑み込まれていく。
「老婆さん! 洋館の主よ!」
いくら叫んでも、返ってくるのは風の音だけだった。 やがて、すーっと潮が引くように白い霧が薄れ、視界がクリアになっていく。
シャルロッテは息を呑んだ。
そこに、洋館はなかった。 怪しい老婆の姿も、どこにも存在しなかった。
ただ、シャルロッテの目の前には――「星降る苔」を幹いっぱいに纏い、七色と青銀の光を輝かせながら威風堂々とそびえ立つ、一本のキラキラとした巨大な大木が生えているだけであった。
風が吹き抜け、大木の葉がサワサワと涼やかな音を立てる。 まるで最初から洋館など存在せず、すべては一夜の幻影であったかのように。
しかし、シャルロッテの手には、ずっしりとした重みの漆黒の魔導書が確かに握られていた。
「幻……だったの? それとも……あの樹そのものが……」
シャルロッテは胸元の魔導書を強く抱きしめた。
前世の記憶。断頭台の恐怖。復讐の誓い。 それらは消え去ったわけではない。 しかし、この圧倒的な滅びの書を手にした今、シャルロッテの心の中にあった迷いは、不思議と静まり返っていた。
(復讐する相手がこの世界にいなくても……いい。私はもう、前世の呪縛に囚われた囚人ではないのだから)
この強大な力を、セレスティア伯爵家を守るために使うのか、それとも別の道を選ぶのか。それは、これからの自分が決めればいい。
「帰りましょう……フロストヴァイス城へ」
シャルロッテは背を向け、星降る苔が照らす小道を、今度は確かな足取りで歩き始めた。
◇
「シャルロッテ様ぁぁぁ!! どこにいらっしゃったのですかー!?」
翌朝。 城の門をくぐったシャルロッテを待っていたのは、涙目になって駆け寄ってくる金髪の侍女、エミーナであった。
「エミーナ……ロゼッタまで……」 「お一人で夜のアルヴ・ルミナに入るなど、正気の沙汰ではありません! どれほど心配したかお分かりですか!?」 ロゼッタも普段の冷静さを欠き、珍しく声を荒げてシャルロッテの肩を掴んだ。
二人の表情には、怒りと、それ以上に深い安堵の色が浮かんでいる。
シャルロッテは二人を見つめ、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。 前世の裏切りと絶望の記憶を経て、今、目の前にいる二人の愛おしさが、胸いっぱいに広がる。
「ごめんなさい、ふたりとも。でも……もう大丈夫よ。心配かけさせて、本当にごめんなさい」
「もう、本当に無事でよかった……! 何か怪しいものに襲われたりしませんでしたか!?」 エミーナが抱きついてくる。ロゼッタも深く息を吐き、シャルロッテの無事を確認するように羽織っていたローブの汚れを払った。
「ええ、何もないわ。ただ……とても綺麗な大木を見てきただけ」
シャルロッテはローブの内に隠した漆黒の魔導書にそっと手を触れた。
過去の呪いは、いまや彼女を守る力へと昇華した。 クリスタリア湖に浮かぶ白亜の城で、シャルロッテ・フォン・セレスティアの本当の物語が、ここから始まろうとしていた。




