第19章『湖で船遊びと人魚探し』
透き通る青をたたえるクリスタリア湖の水平線に、白い巨躯を誇るフロスト・ヴァイス城が聳え立っていた。湖面に映るその影は、まるで水底にもう一つの城塞都市が存在するかのように、微かな波紋に揺られている。セレスティア伯爵家の本拠地たるこの白亜の城は、真夏の太陽を浴びて神聖なまでに輝いていた。
八月最初の第一週。夏の陽射しは強烈だが、湖面を渡ってくる風にはどこか涼やかさが混じっている。
「最高のお船遊び日和になりましたね、シャルロッテ様!」
甲高い歓声とともに、デッキの上でクルリと一回転したのは、金髪を日差しに煌めかせた少女――エミーナだった。彼女の身に纏う侍女服は、湖上の風になびいて軽やかな音を立てている。
「もう、エミーナ。はしゃぎすぎて湖に落ちないでよ。今日はお給仕じゃなくて、一緒に楽しむために船を出してもらったんだから」
そう言って苦笑したのは、淡い栗毛をゆるやかに編み込み、可憐な夏のドレスに身を包んだ少女、シャルロッテだ。セレスティア伯爵家の孫2号にして、フロスト・ヴァイスの愛しき令嬢。その瞳は湖面よりもなお深く、愛らしさと気品を宿している。
「シャルロッテ様の仰る通りですよ、エミーナ。いくら湖が静かでも、足をすくわれたら一たまりもありません」
落ち着いた声でそう諫めたのは、漆黒の髪を綺麗にまとめた美少女、ロゼッタだった。彼女は手際よく小型遊覧船のサンシェード(日よけ)を調整し、特製の冷えたハーブティーと焼き菓子をテーブルの上に並べていく。
主従という関係ではあるものの、幼い頃から共に育ってきた三人の中に、堅苦しい壁はない。
「ロゼッタったら固いんだから! ほら見て、あの城の影! ここから見上げると、本当に空に浮かんでるみたいじゃない?」
エミーナに促され、シャルロッテも船の縁に寄りかかって城を見上げた。クリスタリア湖の中央に位置するフロスト・ヴァイス城は、湖水と水草、そして湖底の特殊な鉱石の影響で、青く輝く水面にぽつりと浮かぶ氷の結晶のように見える。
「本当ね……お城の中にいる時はあまり意識しないけれど、こうして船から眺めると、私たちの家って本当に不思議な場所にあるのね」
「わたくしたちが、特別な場所に守られている証拠ですね」
ロゼッタが丁寧に淹れたハーブティーを三つ、テーブルに並べる。ミントとレモンの香りが清涼感を伴って広がった。
「さあ、シャルロッテ様。日焼けされないうちに、こちらの日陰でお茶にいたしましょう。エミーナも、手伝いなさい」
「はーい! ロゼッタの淹れるハーブティー、大好きなのよね」
三人は小さな船の特等席で腰を下ろし、グラスを傾けた。氷がカランと涼しげな音を立てる。ハーブティーの爽やかな酸味が、暑さを一瞬で吹き飛ばしてくれた。
「それにしても、今日は本当に静か……」
シャルロッテが呟く。湖上には自分たちの乗る小さな木造船のほかには、遠くに漁師の船がひとつの影を落としているくらいだった。
「主様(伯爵)も、本日は領地のお仕事でお忙しいとお聞きしましたし、たまにはこうして、女の子だけで羽を伸ばすのも贅沢で良いですね」
「そうなの! シャルロッテ様、見て! あの島の近く、水草がすごく綺麗に透けて見えますよ!」
エミーナが船の端を指差した。クリスタリア湖は、その名の通り水晶のごとき透明度を誇る。水深が浅い浅瀬に差し掛かると、まるで船が空中に浮いているかのように、水底の砂地や揺れる緑の水草が鮮明に見えた。
「本当だわ……! 水が透き通っていて、お魚の群れまで見えるわね」
シャルロッテは身を乗り出し、水面を覗き込んだ。淡い栗毛が肩から零れ落ち、陽光を浴びて黄金色に透ける。その美しい横顔に、侍女である二人は思わず見とれてしまった。
「シャルロッテ様……本当に、絵画のようにお美しいです」
「え? ロゼッタ、急にどうしたの?」
突然の称賛に、シャルロッテは少し頬を染めて振り向いた。
「ロゼッタの言う通りです! シャルロッテ様は、このクリスタリア湖に舞い降りた妖精さんみたいですよ! ね、ロゼッタ!」
「ええ。この美しさをキャンバスに残せないのが口惜しいくらいです」
「もう、二人ともからかわないでったら。二人だって、こんなに可愛いのに」
シャルロッテはそう言って、照れ隠しにロゼッタが用意したクッキーを口に運んだ。バターの豊かな香りとサクサクとした食感が広がる。
「エミーナの明るい金髪も、ロゼッタの艶やかな黒髪も、私にはすごく眩しいわ。二人と一緒にこうして過ごせるのが、私にとって一番の贅沢なんだから」
シャルロッテの率直で温かい言葉に、今度はエミーナとロゼッタが照れる番だった。エミーナは嬉しそうに八重歯を覗かせて笑い、ロゼッタは少しだけ視線を泳がせながら、嬉しさを隠すように咳払いをした。
船はゆったりと波に揺られ、クリスタリア湖の静寂の中を進んでいく。
「ねえ、あっちの小さな入江に行ってみない? あそこなら、大きな木の木陰になっていて、もっと涼しいと思うの」
シャルロッテの提案に、二人は大きく頷いた。
「了解いたしました、船長様!」
エミーナが冗談めかして敬礼してみせ、ロゼッタが静かに舵を握り直す。
フロスト・ヴァイス城の影を少しずつ離れ、青く澄んだ湖を渡る風を感じながら、三人の特別な夏のひとときは、穏やかに、そして贅沢に流れていくのだった。
◇
クリスタリア湖の青は、陽光の角度によってその装いを変える。正午を過ぎた陽射しが垂直近くから降り注ぐと、水面はまるで砕いたサファイアとダイヤモンドを撒き散らしたかのように眩い輝きを放っていた。
「……ねえ、ふたりとも」
涼しい木陰をつくる入江に船を滑り込ませたところで、シャルロッテが不意に小さく声を上げた。淡い栗毛の穂先が、湖面から吹き上がる微風にしなやかに揺れている。
「どうされました、シャルロッテ様? 冷たいお飲み物の代わりでもお持ちしましょうか」
黒髪を几帳面にまとめた侍女、ロゼッタが、膝の上の刺繍布を整えながら静かに顔を上げた。
「ううん、お茶はとても美味しいわ、ロゼッタ。そうじゃなくてね……ずっと昔から、このクリスタリア湖に伝わる『古いお伽話』のことを思い出していたの」
シャルロッテは船の舷縁に白く細い手をかけ、深く澄んだ水底を見つめた。その瞳には、少女特有の無邪気な好奇心と、少しばかりの悪戯心が宿っている。
「古くからの言い伝え……とおっしゃいますと、夜中に湖底から響く鐘の音でしょうか? それとも、セレスティア伯爵家の始祖様が龍と交わしたという契約のお話でしょうか」
エミーナが金髪をなびかせ、船の揺れに合わせて身を乗り出してきた。
「ううん、もっと可愛くて、ロマンチックなお話。……このクリスタリア湖の深い深い底には、人間の目を逃れて暮らしている『水底の歌姫』――つまり、人魚がいるっていう伝説」
シャルロッテはくるりと振り向き、ふたりの侍女を交互に見つめた。
「ねえ、エミーナ、ロゼッタ。今日はお天気も最高だし、風も穏やかでしょう? 私たちで、その人魚を探してみない?」
突然の提案に、ふたりの侍女は対照的な反応を見せた。
「人魚ですか!? すごいです、シャルロッテ様! 私、子供の頃におばあちゃんから聞いたことがあります! 水晶のように綺麗な尾ひれを持っていて、歌声で船乗りを惑わすっていう……! 本当にいたら、絶対に可愛いですよね!」
エミーナは瞳をキラキラと輝かせ、両手をポンと叩いて喜んだ。彼女の脳内ではすでに、人魚と一緒にお茶会を楽しむ光景が広がっているらしい。
一方、ロゼッタは小さく息を吐き出し、眉をひそめた。
「シャルロッテ様……お戯れが過ぎます。人魚伝説など、大昔の漁師たちが酒の肴に捏ね上げた噂話に過ぎませんわ。それに、いくら透明度が高いクリスタリア湖とはいえ、水深の深い中央部に足を踏み入れるのは大変危険です」
「分かってるわ、ロゼッタ。本当に人魚を捕まえようだなんて思っていないもの。ただ……もし本当にこの美しい水の下にそんな生き物が隠れていたら素敵だと思わない? 探す『振り』をするだけでも、いつもの船遊びがずっと特別な冒険になるじゃない」
シャルロッテは可憐な唇を少しだけ尖らせ、上目遣いにロゼッタを見つめた。伯爵家の孫2号にして、フロスト・ヴァイス城の愛しき令嬢に見つめられては、いくら冷静沈着なロゼッタとて首を縦に振らざるを得ない。
「……はぁ。シャルロッテ様がそうおっしゃるなら、付き合いいたしましょう。ただし、安全な浅瀬と入江の周辺に限りますからね」
「やったぁ! さすがロゼッタ、話がわかるわ!」
シャルロッテは嬉しそうに微笑み、エミーナと顔を見合わせて小さくハイタッチを交わした。
人魚探索(あるいは、その口実にした探検)の準備は、至って真剣に行われた。
「人魚を探すには、まず敵(?)の好物を知る必要があります!」
エミーナが船のストレージボックスから取り出したのは、ロゼッタ特製の焼き菓子と、冷えた甘い果物だった。
「エミーナ、人魚がクッキーや葡萄を食べるとでも思っているのですか?」
「えーっ、だってロゼッタのクッキーだよ? 人間だって人魚だって、美味しいものは絶対に好きなはずだもん! 匂いに釣られて、ひょっこり顔を出すかもしれないじゃない」
「一理あるかもしれないわね」とシャルロッテはくすくすと笑った。「でも、人魚はキラキラ光るものが好きだって本で読んだことがあるわ。ほら、私のこの髪飾りはどうかしら?」
シャルロッテが淡い栗毛から外したのは、銀の細工に小さなサファイアが埋め込まれた髪留めだった。太陽の光を反射して、船の上に青い光の粒を撒き散らす。
「それなら、きっと興味を持って近づいてくるわ。船の端から、水の中に沈めてみましょう」
「シャルロッテ様、手を滑らせて湖に落とされないよう、くれぐれもご注意くださいね」
ロゼッタは心配そうに見守りながらも、船の操舵棒を握り直し、ゆっくりと船を滑らせた。
船は入江を抜け、陽光が燦々と降り注ぐ浅瀬へと向かう。クリスタリア湖の浅瀬は、底の白い砂地と青緑色の水草が透けて見え、まるでガラスの器の中にいるような錯覚を覚えさせる。
シャルロッテは船の縁に胸を預け、サファイアの髪飾りを固い糸で結んで水面へと垂らした。
ユラユラと揺れる青い光。
「……出てこないわね」
しばらく静寂が続いた。聞こえるのは、船体に当たるかすかな水音と、遠くで鳴く水鳥の声だけだ。
「シャルロッテ様、もっと奥の……あの岩場の影はどうでしょう? 太陽の光が届きにくくて、隠れ家にはぴったりです!」
エミーナが指差したのは、湖面に突き出た巨大な奇岩の周囲だった。苔が生い茂り、水面下には複雑な洞窟のような隙間が見え隠れしている。
「あそこね! ロゼッタ、少しだけ近づいてもらえる?」
「承知いたしました。ですが、岩礁に船底を擦らないよう、慎重に進めますね」
船が静かに岩場へと近づくにつれ、周囲の水の色がエメラルドグリーンから、深い瑠璃色へと変わっていった。水深が急激に深くなっているのだ。影になった水面は、まるで異界への入り口のように怪しげな美しさを湛えている。
シャルロッテは息をのんで、暗い水底を見つめた。
「……ねえ、ふたりとも。なんだかあそこ、光っていないかしら?」
シャルロッテが指差したのは、岩の裂け目、水深数メートルの暗がりだった。
「えっ? どこですか?」
エミーナが身を乗り出す。ロゼッタも眉を寄せ、鋭い視線を水中に注いだ。
確かに、揺らめく水草の隙間で、何かがボヤリと青白く光っている。それは太陽の反射ではなく、自ら発光しているかのような、神秘的な揺らめきだった。
「ほら! やっぱり人魚よ! 人魚の鱗が光っているんだわ!」
エミーナが大声を上げた。
「エミーナ、静かに! 驚かせて逃げられたら大変でしょう?」
シャルロッテは胸を躍らせながら、じっとその光を見つめた。光はゆっくりと揺れ、まるで船の方へ引き寄せられるように、少しずつ、少しずつ浮上してくる。
「っ……本当に、何かいますわ」
いつも冷静なロゼッタの手に、力が入った。万が一の危険に備え、彼女は静かにシャルロッテの背後に立ち、その肩を抱き寄せるように守る姿勢をとる。
水面へと近づいてくる青白い影。
グラデーションのように澄んだ水を通して、その「正体」が徐々に姿を現した。
尾ひれがあるのだろうか。美しく長い髪があるのだろうか。シャルロッテの心臓が、早鐘のように高鳴る。
そして――パシャリ、と静かな音を立てて、水面にその姿が浮かび上がった。
「……あら?」
シャルロッテは拍子抜けしたような声を上げた。
「……えっ?」
エミーナは目を丸くして固まった。
水面に顔を出したのは、人魚ではなく――
体長三十センチほどの、まんまるとした姿をした、見たこともない「魚」だった。
その魚は、全身が水晶のように透き通った青い鱗で覆われており、体内から淡い蛍光の光を放っている。そして何より特徴的だったのは、まるでドレスの裾のように長くしなやかに伸びた、美しすぎる大きなヒレだった。ヒレが水中で揺れるたび、光の尾を引くようにキラキラと輝く。
「……人魚、ではないですね」
ロゼッタがホッと安堵の息を吐き出した。
「でも……すごく綺麗! なによこのお魚、こんなの見たことないわ!」
エミーナが興奮気味に叫ぶ。
透き通る青い魚は、シャルロッテが垂らしていたサファイアの髪飾りに興味を示したようで、つんつんと口先で突っついた。サファイアの輝きと、魚の発光が重なり合い、水面に幻想的な光の紋様を描き出す。
「まあ……なんて美しいうろこなんでしょう。まるで、氷の結晶でできているみたい」
シャルロッテは感嘆の声を漏らした。
「シャルロッテ様、それはおそらく『クリスタル・ベタ』と呼ばれる、この湖の最深部にしか生息しない絶滅寸前の希少種ですわ」
ロゼッタが記憶を手繰り寄せるように言った。
「大昔の文献に載っていました。めったに浅瀬には上がってこないはずですが……太陽の陽射しと、シャルロッテ様のサファイアの光に惹かれて上がってきたのかもしれません」
「クリスタル・ベタ……。人魚ではなかったけれど、まるで人魚の使いみたいね」
シャルロッテが優しく微笑むと、青い魚はまるで言葉が理解できたかのように、大きなヒレを優雅に翻した。そして、シャルロッテの指先に一瞬だけ触れると、満足したようにくるりと向きを変え、深い深い水底へと帰っていった。
青い光の余韻が、水面にゆらゆらと残る。
「……行っちゃいましたね」
エミーナが少し名残惜しそうに呟いた。
「ええ。でも、素敵なお友達に会えたわ」
シャルロッテは引き揚げたサファイアの髪飾りを愛おしそうに見つめ、それから二人の侍女に向かって満面の笑みを向けた。
「人魚は見つからなかったけれど……今日の探検は大成功ね!」
「はい! すごくドキドキしました!」
エミーナが元気に弾けるような笑顔で答える。
「……フフ、シャルロッテ様がご満足されたなら、何よりです。ですが、冒険はこれで終わりにいたしましょう。そろそろ陽が傾き始めております」
ロゼッタが指差した先、遠くに聳えるフロスト・ヴァイス城の白亜の壁が、夕刻の気配を孕んだオレンジ色に染まり始めていた。
「そうね。お城へ帰りましょう。今日の『人魚探し』の秘密は、私たち三人だけの宝物よ」
シャルロッテの言葉に、エミーナとロゼッタは深く深く頷いた。
静かな波音を立てながら、小型船はゆっくりと城へと戻っていく。
湖面を渡る涼やかな風が、三人の少女たちの笑い声をどこまでも遠くへ運んでいった。クリスタリア湖の水底には、もしかすると本当に人魚が眠っているのかもしれない――そんな夢のような予感を、小さな青い光の記憶とともに、胸に深く刻み込みながら。




