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第16章『星詠みの尖塔と天穹の星詠み祭』

極北の風が、絶壁の上に聳え立つ古塔——「星詠みの尖塔アストラル・スパイア」を撫でて吹き抜けていく。氷雪の白と夜空の濃紺が溶け合うこの領地は、セレスティア伯爵家が代々護り続けてきた領域だ。静寂と誇り、そして凛とした美しさが支配する土地。雪が降り積もる夜には、澄んだ風の合間に湖底の精霊が奏でるというかすかなハープの音が重なり、人々の心を静かに揺らす。


しかし、本日——7月第3週の週末だけは、その静寂が心地よい狂騒へと塗り替えられる。


セレスティア伯爵領が一年で最も活気付く奇祭、「天穹の星詠みセレスティアル・ナイト」の当日であった。


「さあさあ、退いた退いた! 『霜降り白牛』のお通りだぞッ!」


威勢の良い男たちの叫び声と、地響きのような蹄の音が絶壁沿いの特設コースに轟いた。 「昼の陣:氷原の白牛追い」の真っ最中である。 伯爵領の名産である、頑丈な毛並みと逞しい体躯を持った「霜降り白牛」の群れが、涼しい風を切り裂いて突進していく。それを追いかけ、あるいは見事な身こなしで誘導しようと奮闘するのは、領内から集まった血気盛んな若者たちだ。一番に牛をゴールへと誘導した者には、伯爵家から極上の銘酒と誉れ高き勲章が贈られるとあって、熱気は最高潮に達していた。


「あはは! 見て見て、エミーナ、ロゼッタ! あの男の人、牛の角を掴もうとして吹き飛ばされちゃったわ!」


コースを見下ろす特設の観覧台で、鈴を転がすような高らかな笑い声をあげたのは、伯爵家の令嬢シャルロッテであった。可憐な容姿に無邪気な瞳を輝かせ、扇を手に身を乗り出している。


「ひぃっ……! し、しゃるろっち様、危ないですぅ……! そんなに乗り出したら下に落ちちゃいますぅ!」


そう言って半べそをかきながらシャルロッテのドレスの裾をキュッと引っ張っているのは、侍女のエミーナだ。愛らしい顔立ちを不安そうに歪め、泣き出しそうな目で主人を見上げている。


「ふふ……シャルロッテ様。もしお落ちになられるのでしたら、どうかこのロゼッタを足蹴りにして衝撃を和らげてくださいませ……っ。喜んでシャルロッテ様の肉厚なクッションとなりましょう……!」


もう一人の侍女、黒髪の美少女ロゼッタは、頬を紅潮させながらうっとりと目を細めていた。


「ロゼッタ、相変わらず言い方が凄まじいことになってるわよ……。でも大丈夫、落ちたりしないわ。……あ、見て! あの若者がうまく先頭の白牛を誘導し始めたわよ!」


シャルロッテが指さす先では、巧みな手綱さばきで見事に牛群をコントロールした青年が、大歓声の中でゴールテープを駆け抜けるところだった。


「いやあ、素晴らしい! 実に熱い勝負だったねぇ!」


観覧台の最前列で、のんきに手を叩いて感心しているのは、シャルロッテの父であり伯爵家長男のフィリップだった。シャルロッテの父ちゃんとして親しまれる彼は、伯爵家の世継ぎとしては少々心もとない気弱さと緩さを持っているが、息子としては非常に従順で心優しい男だ。


「父上、感心している場合ではありませんよ。ほら、主催者として優勝者の表彰に向かう時間です。身だしなみを整えてください」


フィリップの隣で、すかさず冷静なツッコミを入れたのは、シャルロッテの兄であり伯爵家孫1号のガブリエルだった。一族の中では随一の常識人であり、常に苦労を背負い込む損な役割が多い。だが真面目で優秀なため、将来の跡取り候補として周囲の期待を一心に集めていた。


「おっと、そうだったねガブリエル。どれ、伯爵家代表としてバシッとキメてくるとしようか!」 「頼みますよ、本当に……。伯爵家の威厳がかかっているんですから」


肩をすくめるガブリエルの背後から、すっと無駄のない動作で姿を現したのは、家令のルイスだった。20代後半という若さながら、賢く誠実、そして眉目秀麗な男である。屋敷全体を取り仕切る男性使用人のトップとして、家計管理から高級ワインの管理、主人の給仕まで完璧にこなす切れ者だ。


「フィリップ様、ガブリエル様。表彰式用の特選銘酒と勲章の準備は整っております。流れるような進行をお約束いたしますので、どうぞご安心を」 「おお、ルイス! いつも助かるよ。君がいてくれると本当に安心だなあ」 「ふふ、ルイスが完璧すぎるせいで、父上がますます頼りなくなっていく気がするけれど……まあいいわ!」


シャルロッテがくすくすと笑うと、ガブリエルは深々とため息をついた。


「笑い事じゃないんだがな、シャルロッテ……」


白牛追いが大盛況のうちに終わり、陽が傾き始めると、祭りは次のフェーズへと移行する。 「夕の陣:星空と氷岩の豪快バーベキュー」の始まりだ。


絶壁の広い広場には、幾つもの巨大な焼き台と、氷塊を削り出して作られた特設のバーベキューカウンターが設置された。湖底の冷気で冷やし込み、旨味を極限まで凝縮させた「冷製仕込みの伯爵領特選肉」が網の上でじゅうじゅうと音を立て、芳醇な肉汁の香りを漂わせる。さらに、近隣のクリスタリア湖で引き揚げられた巨大な大ナマズや、光を浴びて銀色に輝く水銀魚の串焼きが豪快に並べられた。


「さあさあ、どんどん食べて乾杯してちょうだい! 今日は伯爵家の振る舞い酒よ! 遠慮なんてしたら承知しないわよッ!」


響き渡る圧巻の大声。声の主は、伯爵家の屋敷を取り仕切るメイド長、フィオレンツァだった。豊満な体躯を揺らし、剛腕と評される圧倒的な貫禄で場を仕切っている。女性使用人全体の統括者であり、雇用指導から鍵や備品の管理までを完璧にこなす彼女だが、こうした祭りの場でもその手腕は大いに発揮されていた。


「フィオレンツァさん、すごいですぅ……。あの大きな魚の串焼きを一度に十本もひっくり返してますぅ……」 「ええ、まさに鉄腕。あの力強いお腕で叩かれたら、どのような快感が走るのでしょう……くっ、想像しただけで身震いが……!」 「ロゼッタ、お願いだからその妄想を口に出すのはやめなさいってば」


シャルロッテは呆れつつも、運ばれてきた「氷結麦酒アイス・ビール」のジョッキを受け取った。巨大な氷塊カウンターでキンキンに冷やされたビールは、伯爵家からの全額振る舞いということもあり、領民たちが次々と乾杯の声をあげている。


「冷たくて、とっても美味しいわ! 肉の脂と最高の組み合わせね!」 「シャルロッテ様、お口元にタレがついております。あぁ……申し訳ありません、私が拭うなどという大役、恐れ多くて……っ」 「も、もう、エミーナは泣かないの! 拭いてくれるなら普通に拭いて頂戴な」


賑やかな宴の中心で、フィリップは領民たちと笑顔で酒を酌み交わしていた。


「いやあ、みんな楽しんでくれて嬉しいよ。我が伯爵領の肉と魚は世界一だからね!」 「フィリップ様、少々ペースが速すぎます。夜の陣では伯爵家代表としての挨拶と、花火の合図を出していただくのですから、潰れられては困ります」


ルイスが素早くフィリップの手からジョッキを回収し、代わりに冷えた水を手渡す。


「ルイス~、固いこと言わないでくれよ~」 「ダメです。父上、ルイスの言うことを聞きなさい。……まったく、どちらが主人でどちらが使用人だか分かりませんね」


ガブリエルが呆れ顔で肉を口に運ぶ。その横でフィオレンツァが「ガブリエル様、お肉のおかわりをお持ちしましたわ!」と山盛りの皿をドスンと置いた。


「フィオレンツァ、こんなには食べきれん……」 「何を仰いますか! 若いお方はしっかり召し上がって、伯爵家を支える体力をつけねばなりません!」 「ぐ……一理あるのがぐぬぬ……」


そんなやり取りに領民たちからもドッと笑いが起こる。「冷徹なる守護者」と恐れられる歴史を持ちながらも、こうして領民と温かい絆を結んでいるのは、歴代伯爵たちの公正な統統と、現当主たちの愛すべき人柄ゆえであった。


やがて、空は漆黒の夜へと溶け込んでいく。 極北の澄み渡る夜空には、今にも手に取れそうなほどに輝く満天の星々が広がり始めていた。


「いよいよですね……『夜の陣』が始まります」


ルイスの静かな言葉に、絶壁の広場に集まった人々が一斉に空を見上げた。


「夜の陣:星天と氷華の超巨大花火大会」。 この祭りのクライマックスであり、誰もが待ち望んでいた瞬間だ。


星詠みの尖塔の最上階、そして絶壁の各所に設置された巨大な打ち上げ筒。そこに、特別な魔法の粉末を混ぜ込んだ特製の大花火が装填されている。


フィリップが広場の中心に立ち、少し緊張した面持ちで掲げた手を静かに振り下ろした。


「天穹の星詠み祭、結びの花火を……打ち上げよ!」


ヒュゥゥゥゥゥ……ッ!


けたたましい音を立てて、一筋の光の矢が絶壁から極北の夜空へと駆け上がっていく。 そして、星々がひしめく天空のただ中で——


ドンッ……!!!!


天地を揺るがすような重低音とともに、夜空に超巨大な光の大輪の花が咲き誇った。


「「「「うわあああぁぁぁっ……!!!!」」」」


領民たちから一斉に歓声と吐息が漏れる。 魔法の粉末によって生み出された花火は、赤や金の眩い光を放った後、急速に青白く色を変えていった。夜空で大輪の花を咲かせたその光は、まるで無数の氷の結晶へと姿を変えたかのように、静かに、そしてきらめきながら舞い散っていく。


さらさらと夜空を舞う青白い氷華の光。 それは消え去る間際まで美しく輝き、絶壁の下に広がるクリスタリア湖の鏡のような水面に完璧に映し出された。


空に咲く氷華の大花火と、湖面に浮かぶ逆さ花火。 そして絶壁沿いに灯された無数の温かいともしびが重なり合い、そこには言葉を失うほどの幻想的な絶景が立ち現れていた。


「綺麗……なんて美しいの……」


シャルロッテはうっとりと空と湖を見つめ、呟いた。


「はいぃ……本当に、夢みたいに綺麗ですぅ……」 エミーナが瞳に大粒の涙を浮かべ、感動に震えている。


「ええ……。この美しい光景の一部となれるのなら、今すぐこの絶壁から飛び降りて湖の藻屑となっても悔いはありません……っ」 「ロゼッタ、いい雰囲気なんだから物騒なこと言わないの!」


シャルロッテがツッコミを入れると、隣に立っていたガブリエルが柔らかく微笑んだ。


「だが……本当に見事なものだな。今年も無事にこの景色を領民たちと見ることができて良かった」 「ええ、ガブリエル様。伯爵家の皆様とフィオレンツァさん、そして屋敷の全員で準備を重ねてきた甲斐がありました」


ルイスが誠実な笑みを浮かべて頷く。


「いやあ、やっぱり我が領地は最高だねぇ!」 酒気がすっかり抜けたフィリップが、誇らしげに胸を張った。


風が吹き抜け、絶壁の古塔を優しく包み込む。 その風の隙間から、どこか遠く、湖底の精霊が奏でるというかすかなハープの音が聞こえた気がした。


極北の澄み切った夜空の下、輝く星々と舞い散る氷の結晶に照らされて。 「冷徹なる守護者」が護り続ける誇り高き領地は、今夜も温かな笑顔と絶え間ない祝福に満たされていた。

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